「おはようございます」
いつもそう言って、彼女は村田雄一郎の部屋にやって来る。一か月に一度。村田、男のいる部屋に来る。彼女の名前は、酒田真理子という。ペンネーム、酒田真理恵という名前で、某誌にて漫画を描いている。漫画家、先生である。
「おはようございます。どうぞ。先生」
村田はいつもそう言って玄関に立つ彼女の足元にスリッパを置く、ファー素材、ジェラートピケのエコファールームシューズ。オンライン通販で買ったものである。購入の時期にもよるが大体五千円ほどする。
「いつもどうもありがとうございます。本日もよろしくお願いします」
酒田真理子は村田の差し出されたそれに、いつもそう言って足を通す。それから村田と二人で部屋に入る。酒田は、彼女はそれから正味二時間ほど。彼のいるその部屋で過ごす。彼女が連載している漫画の締め切り三時間前の事である。
幸いにして酒田真理子という人には漫画を描くという事に才能がある様だった。デビュー作である『バリ島にて』で女子中高生の注目を集め、その後に連載した『夜九時からは一人の時間』も好評を博した。そしてある年に『ロシアンティーボーイ』にて小学館漫画賞を受賞した。その際、選評委員のコメントでは、
「静謐な作風と、現代的な感覚、それらが絶妙なバランスで作品に反映されている」
などと評された。しかし本人的にはそういう感覚は全く無かったらしい。「ただ、描いただけです。ただ、自分が描きたいモノと、担当の方が書いて欲しいものとをすり合わせて。ああした方がいい、こうした方がいい、って沢山言われましたし、私も、そうなんだと思って描いただけです」という、そういう感じであったそうだ。
「あとはまあ、そうですね。時代も良かったんじゃないですかね」
あるインタビューの記事にて、彼女はその事を、小学館漫画賞受賞そう言い現わしていた。
「いや、勿論嬉しかったですよ。有難いです。両親にも知らせましたし、知り合いからも連絡が来たりしましたし、嬉しかったです。本当に。これで認められたというか、まあ、ご飯食べて行けるかなって思いましたし」
本人的にはそういう感覚であったそうだ。
ちなみに彼女の好きな漫画家は、日野日出志と松苗あけみ、好きな漫画は日野日出志の赤い蛇と松苗あけみの純情クレイジーフルーツ。
某誌のインタビュー記事では採用されなかったが、
「これが私にとっての漫画の殆ど全てじゃないかな」
と言っている。松苗あけみの方は良かったのだが、日野日出志というのが採用に至らなかった理由らしい。彼女、酒田真理恵という漫画家の漫画とはかけ離れていたからか、あるいは何か他に問題があったのか、その辺の真意は不明である。
そんな彼女が二千十六年からある事を始めた。それが月に一度、村田雄一郎の部屋に訪れるという事である。ルーティン、と言うには少し間隔が空きすぎかもしれない。月に一度、年間で二十四回。ルーティンと言うには心許ない回数だ。しかし、彼女は必ずそれを行う。絶対に忘れないで行う。村田雄一郎はその為に彼女に雇われた人間である。村田の生活費の殆ども、部屋の賃貸料金も、彼女はその為に払っている。複数人いる彼女のアシスタントにも進んでこの、儀式、適した言葉が見当たらないのでここでは仮にそれを儀式と呼ぶ。その儀式については開示していない。それだから勿論、彼女の事を知ってるその他大勢も、知らないその他大勢も、この儀式については知らない。
その部屋の間取りは2LDK。酒田真理子が漫画制作の作業場として使っている所から、三キロほど離れている。エレベーターのあるマンションの五階。しかし、よほどの事が無い限り彼女は階段を利用する。行きも帰りも、階段を上り下りする。
その部屋に村田は暮らしている。2LDKの間取りの中の1LDKの部分を使って暮らしている。部屋には6.6帖と5.1帖の洋間が備わっており、最初、酒田真理子は村田に6.6帖の部屋を使っていいと言った。しかし、それを村田は拒否した。絶対に嫌です。と言った。そして5.1帖の洋間を使って暮らしている。6.6帖の方が、真理子の為の部屋になった。その部屋に一か月に一度、彼女は訪れる。
その部屋には、四人掛けのL字型のソファがある。それから窓際にドラセナ・マッサンゲアナ、俗にいう幸福の木という観葉植物である。それの十号サイズの鉢が置いてある。勿論、酒田真理子が選んで買ったものである。タンスのゲンというサイトで見つけた、灰色の、シックな色味のカウチソファ。サービスだったのかキャンペーンだったのか知らないが、部屋に届いたそのソファにはオットマンもついていた。ドラセナ・マッサンゲアナはソファを探していてホームセンターに訪れた時に偶然発見して一目ぼれしたもの。鉢植えを五角形の藍色の陶器みたいな質感のものに交換して。それからソファ、Lの短い辺の続きにオールドチーク材のキャビネット、濃い茶色の、ベッドサイドに置くようなナイトテーブル然としたものが置かれている。壁にはセイコーの八角形の掛け時計と窓際のクーラーの設備以外、何の装飾も無い。手を加えていないクリーム色の敷物調。床はリフォーム済みの木目調。村田は普段その部屋を一切利用しないが、定期的に掃除はする。勿論、酒田真理子が部屋に訪れる時の為にである。窓の外、下には公園がある。欅や泰山木、百合木、唐楓など、高木ばかりが多く乱立している公園だ。また広めの公園で、遊具も多くあるためにそこで遊ぶ子供も多くいる。しかし村田のいる部屋はマンションの五階なので、ほとんどその公園で遊ぶ子供達の声も部屋には届かない。気にならない。その部屋に、酒田真理子は一か月に一度訪れる。必ず訪れる。雨が降ろうが、風が吹こうが、台風が来ようが、この地域では珍しい大雪、電車が遅延しまくる大雪だろうと、必ず訪れる。「ここに来ないと死ぬと思う」以前、酒田真理子は村田にそう言った事がある。その時の漫画の締め切りの三時間前。彼女は必ずその部屋に来る。
酒田真理恵は多産な作家として知られている。作品数が多いのだ。そしてそのどれもこれも、作風が異なる。以前のものと微妙に違う、まああれと似てるかなという事もあれば、全く、大きく異なる事もある。それ故にファンを喜ばせることもあるし、悲しませることもある。それに関しては、ある雑誌のインタビュー記事にて採用された箇所がある。
「それはでも仕方ないです。毎回百パーセント、期待に応えるっていうのは無理だと思いますし」
「それに私は私の描きたいモノを描きたいですし。勿論、修正の指示を受けて直したりはしますけども、でもスタートはそういう気持ちで始めるわけですし」
ファンによっては映画化、ドラマ化、アニメ化したのちに彼女、酒田真理恵の作品だと知る人もいるらしい。
また、作品と作品の間隔が短いことでも知られている。一つの連載が終わると、その次の次の号で早くも読み切り短編が掲載されるみたいな事もよくある。翌月と翌々月に渡って短編が二つ続いて、それからまた連載が始まったりする事もある。それについても彼女はあるインタビューで回答している。
「いや、やりたいんです。やれるうちにやりたいじゃないですか。何時やらせてもらえなくなるかわからないですし、今はたぶん、賞取れたからじゃないですかね(笑)。それで載せてくれるっていうから描いていたいんです」
「描きたいものはまだあります。昔考えたのにまだ描けてない事もあるし、年月を経て変わった事で、描きたいって思う事もあるし」
彼女を語るうえで有名な話が一つある。初期の頃の作品、短編を集めた短編集。それはファンの要望が沢山来たために実現したというものである。酒田真理恵のファンが求めなかったら、彼女自身は特に出す気が無かった。「まあ、そういうものとして自分の中では処理していましたね」というものである。Wikipediaにも載っている。
「だって雑誌に載ってる時が一番面白くないですか。集めちゃうとどうなんですかね。いや、有難い事でしたけども。あれが無かったら私は生涯、短編集は出さなかったかもしれないですね。それとも担当さんとかがどっかのタイミングで言ってくれたりしたのかな(笑)」
そんな彼女なので、ある人はエキセントリックだと評したりするらしい。イカレてる。と思う人もいるらしい。
しかし実際の彼女は、
「今日もよろしくお願いします」
そう言って一か月に一度、村田の部屋に訪れる。締め切りの三時間前に彼女は部屋に来る。そしてそこの6.6帖のカウチソファで二時間寝る。
ただ寝る。
空調が整った6.6帖の部屋のソファの上で。二時間。本当に寝る。ただ寝る。寝るだけだ。
「これが無いと私は駄目なんです」
そう言って、村田に頭を下げて部屋の管理をお願いしている。二時間。一か月に二時間。それ以外の時は、作業場で漫画を描いたり、担当編集者にご飯に連れていかれたり、郵便物を出すついでに買い物に行ったり、取材と称して旅行に行ったりしている。国内だったり海外だったり幾らか差異はある。しかし、そんな事は結局、彼女にとっては些細な事である。
「これが無いと私は死ぬんで」
そういって一か月に一度、締め切りの三時間前、村田のいる部屋に訪れて、二時間。二時間だけ眠る。それが彼女にとっては重要だった。何よりも、他のどんな事よりも、重要な事だった。
村田が彼女から聞いた言葉で言い表すとしたら、それは、
「バカンス」
だった。
この行為を二千十六年から始めたのにも訳がある。宇多田ヒカルの二時間だけのバカンス (feat.椎名林檎)が世に出てきた時期なのだ。
村田はそれをオットマンに座って眺める。ソファについてきたオマケのオットマンで二時間。ソファで寝ている酒田真理子、漫画家酒田真理恵の姿を眺める。
二時間。二人のスマホは音が出ない様に設定してある。酒田真理子の寝息だけの聞こえる二時間。
そうすると酒田真理子はまた酒田真理恵になれる。彼女はそう言う。二時間経つと彼女は自然と目を覚ます。それから二人でロシアンティーを飲む。ジャム、ウォッカ、ブランデーの類は、村田が季節によって決める。それが終わると、
「今月もどうもありがとうございました」
と言って、酒田は作業場に帰っていく。そしてその後、彼女は出来ていた原稿データを担当者に送るのである。その原稿は、彼女の作品の読者を笑わせたり、感動させたり、次はどうなるんだろうと、その事しか考えさせなくさせたりする。
「私にとって画竜点睛みたいな事なんだと思うんです」
ある時、この行為を酒田真理子はそう言い現わしたことがある。
しかし、村田以外にその事を知ってる人間はいない。担当編集者も知らない。アシスタントもここまでの事は知らない。村田雄一郎しか知らない。村田もその事を他の誰にも言うつもりは無い。
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