昔から、電話というやつが苦手だ。
こっちの都合を考えずにいきなり鳴り始めるし、こっちの都合を考えずにいきなり電話をかけてくるやつは思慮が浅いし態度もそれ相応に横柄だ。
今もこうやって出たくもない電話に出ているのは、まだ新人に毛の生えたような私に仕事をくれるという事実を盾に、矢のような催促をしてきて憚らない編集者の番号が表示されていたからに他ならない。
「わかってますよ。連載を落とすつもりはありませんから」
私はきっぱりと言うが、編集者の反応は怪訝そうだ。
「お願いしますよ。編集会議で池尻さんを激推しした私の立場がかかってるんですから」
そんなの知るか、と内心で毒づきながら、ペンタブの画面に幾何学図形を描き続ける。
人は電話をするとき、なぜ意味のない落書きをするのだろう。手持ち無沙汰を慰めるためか、思考を整理するために無意識にやっているのか。「チコちゃんに叱られる」でやっていそうなテーマだな、と思いながら落書きをエスカレートさせる。CLIP STUDIO PAINT EXに表示されているネームの上にごちゃごちゃと描かれた図形はアンドゥかレイヤ削除で消せばいい。そう思いながらなかなか終わらない電話に痺れを切らし、私はドローツールでは飽き足らずメニュー操作を始めた。
それが間違いの元だったのだろうか。
いきなりカーソルがどこかに飛んだと思いきや、クリスタのウインドウが目の前から消えた。最初は何が起きたか判らなかった。
「ええっ」
電話中にも拘わらず素っ頓狂な声を発したのは、目の前のペンタブがブルースクリーンに化けたからだった。
「ちょ、やば」
「どうかしましたか?」
ただならぬ私の動揺を察した編集者が急に神妙な声になって訊いてくる。
「あ、いや、大丈夫です」
全然大丈夫ではないと思うが、早くこの電話を終わらせなければ、と平静を装った。
「とにかく、日付が変わるまでには脱稿できるよう作業してますので」
それまでは電話してこないでください、という言葉はなんとか呑み込む。電話を切った私は、再起動中のペンタブを眺めながら、保存していない作業がどのくらいあったか、思い出そうとする。時計を見ると、午後九時を指している。編集者に告げた刻限まではあと三時間。
私のメジャー初連載『ダイガ王』第四話は十ページまでのペン入れとトーン貼りが終わっている。前回保存したのは確かその後、コーヒーを淹れたときだったはずだ。最悪の場合、四ページ分の作業が丸々失われた。四ページのやり直しと残る二ページの作業をやって三時間。
絶対に無理だ。
震える手でスマホを繰り、なぜかやったのは「チコちゃんに叱られる 電話中の落書き」でググるという行為だった。こんなことやってる場合じゃないのに、と思いながら検索結果を見ると、どうやら電話中の落書きは、パン屋さんでパンを選ぶときにトングをカチカチやるのと同じ種類の行動らしい。何かを選ぶのに迷っている時や会話を処理する時に脳はストレスを受けている。思考を整理するために無意識に常同行動をとることによって脳のガス抜きを行っているそうだ。
いやそんなの調べてる場合じゃない。
気ばかり焦って次に何をやればいいのか、わからない。
OSが立ち上がったが、私はクリスタを起動したくなるのを必死に我慢した。虎太朗が口癖のように言っていたのを思い出したからだ。
「クラッシュした後は、とにかく何も触るな。そのままの状態でわかる奴に見せろ」
さてどうする。今の私に「わかる奴」の知り合いなんていない。いたのは三ヶ月前までだ。
スマホのアドレス帳をスクロールした。消すのも面倒で、そのままにしておいた虎太朗の番号。LINEはブロックしているが、電話なら通じる。最終通話日時は三ヶ月前になっている。
虎太朗の連絡先を表示したまま、逡巡する。気持ちの上から考えれば、こちらから電話をするなんてあり得ない。だけど連載は落としたくない。二つの都合がせめぎ合い、冷たい火花を散らした。一人目の私が言う。
「どんな理由があっても、今さらこっちから連絡を取るなんて、絶対に無理。あいつを頼るなんて、負けを認めるに等しい」
二人目の私が反論する。
「誰だって構わない。私の漫画家としてのキャリアはこの連載にかかってる。虎太朗なんて、上手く利用した、くらいに考えてやればいい」
二人の私がやり合っているうちに、無為に時間が過ぎていく。焦りは募る。
それからさらに数分が経ち、ついに私は虎太朗の番号をタップした。呼び出し音が鳴る。行動とは裏腹に、出るな、出るなと念じている自分がいる。
「もしもし?」
虎太朗の声は訝しげだった。まさか私から連絡を取ってくるなんて、思っていなかったのだろう。当然だ。私だってついさっきまでそんなこと想像だにしなかったのだから。
「あ、ごめん、ちょっと今困ってて。ペンタブがクラッシュしちゃって、急ぎで未保存のデータ復旧したいんだけど」
挨拶ぬきで、用件だけ告げる。不躾だが、今置かれている状況を考えたらそれしかないと思った。虎太朗は電話の向こうで束の間沈黙したが、私の意図を汲んだのか、普通に対応してくる。三ヶ月前と同じ喋り方、同じ声のトーン。
「未空ってクリスタ使ってるんだっけ」
「そう」
「うーん、何とかなると思うけど、リモートじゃ無理かも知れない。直接見た方が安全だと思う」
こいつ、ここに来るつもりか。どのツラ下げて? 同時に猜疑心が頭をもたげてくる。本当はリモートでもできる作業なのに、私の無知蒙昧をいいことに、現場で作業した方がいいとか嘘をついて、私の家に来る口実を作ってるんじゃないか。
だが私の知識では真偽の程はわからない。悔しいけど、技術的なことに関しては虎太朗の言いなりになるしかない。締切前の『ダイガ王』原稿データを人質に取られていては、如何ともし難い。
「……わかった。今から来られる?」
いいよ、と答えた虎太朗の声が、心なしか浮ついているように聞こえる。やっぱり電話しなきゃ良かった、と思う。
十五分ほどで、インターホンが鳴った。虎太朗の家はここから原チャリで十分ばかりのところにある。できれば早く引っ越したい、と思っていた矢先の今日である。
「何も触ってないよね?」
部屋に招き入れると虎太朗は第一声、そう言った。私は一瞬固まった。虎太朗に関する物はすべて処分した。一緒に行ったテーマパークで買ったお土産のぬいぐるみ、虎太朗の歯ブラシ、彼が風邪をひいた時に買って半分くらい残っていた風邪薬。それらを「触っていないよね?」と訊かれた気がして、返答に詰まった。
で、すぐにペンタブのことを言っているのだと気付き、私は慌てて取り繕った。
「うん、ブルースクリーンの後、再起動したそのまんま」
虎太朗は私に気付かれないようにだろう、目だけを動かして部屋の中を見回しながら、ペンタブを設置したデスクに歩み寄った。虎太朗関連の荷物を捨てたほかは、部屋の様子は私たちが付き合っていた頃とほとんど変わっていない。
慣れた様子でデスクについた虎太朗は、キーボードを叩き始めた。私の見たこともないアプリやツールを立ち上げ、目にも留まらない速さでコマンドを打ち込んでいく。
「これなら何とかなりそうだね」
私はほっと息をついた。感謝の念こそ生まれないが、こんな男でも役に立つときはあるものだと思った。私は虎太朗が画面に向かって作業しているその横顔を、斜め後ろから盗み見る。何も考えていなさそうな、実直そのもの、無害を絵に描いたような姿形。だがそれはまやかしだった。虎太朗はよりにもよって、私と同じ漫画家の女と浮気をしていた。作家の名前は知らない。知ってしまえば、狭い業界だ、何処でどう仕事に関わってくるか分からない。敢えて知らないままの方が良いと思った。虎太朗と別れて不便なことといえば、今日みたいにPCやネットにトラブルがあったときに見てくれる人がいないくらいで、それ以外に特に困ることはない。
「これで大丈夫?」
虎太朗がクリスタを立ち上げた。ブルースクリーンになる直前の作業が、その画面に復元されていた。ご丁寧にも編集者との電話の最中に落書きした幾何学模様までそのまま復旧されている。
「助かった、ありがとう」
私はデスクの横に置いてあった財布から、一万円札を抜き取って差し出した。
「受け取れないよ」
虎太朗は拒絶の仕草をするが、私は紙幣を押しつけた。
「受け取ってもらわないと困る。私とあなたはもう何の関係もないんだから、仕事としてやってもらうしかないでしょう」
そう強弁すると、虎太朗はおずおずとお金を受け取った。
虎太朗は帰っていった。見送って閉じたドアをぼうっと眺めながら、考えた。相手の女の素性を探らないという判断は、間違っているかもしれない。今後仕事で女作家と関わる度に、もしかしたらこいつが、という猜疑心に苛まれながら接することになるわけだ。その方が精神的にはきついのかも知れない。
ま、それがきついと思ったら、その時に相手を特定すればいいか、と考えながらデスクに戻った。
途端に編集者からの着信が鳴り始めた。
時計を見ると、まだ十時にもなっていない。締切まで電話しないでくれと言っておくべきだったか、と後悔しながら電話に出る。
「池尻さん、ちょっと問題が」
締切を過ぎてからにしてくれ、と言おうとしたが、編集者はすぐにメールを見てくれと言う。私は溜息をつきながら、メールを開いた。画像が添付されている。開いている最中に、編集者が言った。
「今日発売の『少年ディーン』です。相模カエラの『ムーブ!』なんですが」
目に飛び込んできたのは何処かで見たことのある漫画だった。相模カエラも『ムーブ!』も初めて聞く名だったが、確かにそれは私のよく知っている漫画だった。だって、私がネームを書いたんだもの。
「ちょっと、これどういうこと?」
「いや、こっちが訊きたいですよ」編集者の声は急に冷たくなった。「池尻さん、まさか」
私のネームはもちろん担当編集が目を通している。そいつとそっくりの漫画が商業誌に掲載されている。
盗作疑い。
疑いをかけられるのは、常に後に発表された方だ。いくら自分の方が先にアイデアを出していたと主張しても、アイデアに著作権はない。出版においては、媒体への発表が一秒でも早かった方がオリジナルであり、それ以降はすべてパクリ扱いである。
「池尻さん?」
編集者が呼びかけるのを無視して、ネットを検索する。相模カエラ。私と同時期にデビューした彼女の作品を調べた。どれも、何処かで読んだことのあるような話だった。誰も知るはずのないキャラ、ストーリー、コマ割り。担当編集にさえまだ見せてないネームもある。それがそのままそっくり、パクられている。私のペンタブの中にしかないはずの、それが。
「あいつ!」
間違いない。私以外に、私のペンタブを触った人間はあいつしかいないのだ。
私は編集者との電話を切ると、虎太朗に電話をかけた。
向こうの都合を考えずにいきなり電話をかけるという、私の最も忌み嫌う行動を私自身が繰り返していたという事実はこの際もう忘れていた。
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