第三篇 Good‐bye myself
Mに関して費やした言葉が間違っていたとは思わない。私はかなり正確に書いたと思う。
それでも、私はそれらの言葉をすべて否定しなくてはならない。それを超えるような「何か」へと辿り着くために。
書くことを探求になぞらえたって、何かを救うことにはならない。それは重々承知だ。くしくも、ミナガワの言った言葉がそれを裏付けている。私は「救いがたい」のだ。司法の判断はときに間違えるけれど、大体において合っている。
拘置所には有名人が多い。先だって、私がまだ子供だった頃に逮捕された連続幼女殺害犯に死刑判決が下った。奇しくも、Mという名だ。私は彼と関わりのある、別のMのことを思い出している。
別のM――真魚はとても頭が良いというのは先述したとおりだが、彼は世間を賑わせたMの事件に関しても、名推理を働かせた。
Mは「ヲタク」だと言われていて、ビデオが山と詰まれた彼の部屋の映像は、その象徴となっていた。しかし、まだ小学生だった真魚は、壁に張られたポスターに目をつけた。ある児童雑誌だ。
「あの事件の被害者の女の子には共通点があったんだぜ」
真魚はその事件から何年かを経て知り合った「ぼく」に向けて、なぞなぞを出した。ぼくはまるでわからなかった。被害者は適当に選ばれたのかと思っていた。
「ヒロインだよ。どこ女の子も、ある雑誌に載っている漫画のヒロインと同じ名前なんだ」
私はそれを確かめなかった。たぶん、真魚が言うんだから本当だろうと思ったきりだった。
後年、私が大学在学中に中学生による猟奇的殺人が起きた。私はたまたま、犯人の子供が愛した漫画を読んで、彼が陵辱した死体を想起させる絵を発見した。週刊誌の描写と寸分違わぬ絵だった。私はその頃真魚と会わなかったが、たぶん真魚なら発見しただろうと思った。
前述しなかったが、彼と最後に会った居酒屋での会話で、その話題は出た。
「ああ、もちろん、見つけたよ」と、真魚は当然という顔で答えた。私は自分の推理が当たったような気がして嬉しかった。
「じゃあ、やっぱりサブカルチャーの悪影響ってあるね」
「あるだろうな。でも、それが全部じゃない。究極的に言って、全部が原因なんだから」
真魚はそう言うと、今後の仕事の展望について語り出した。話題に上ったのはある討論番組だ。ちょうどその頃、憲法改正論議がさかんになりつつある頃だった。番組中、平和条項についてどうするかの議論があった時、ある議員が「それはもう神学論争だ」と議論を終わらせてしまった。しかし、真魚の意見では、まさに神学論争こそがやらなくてはいけないことなのだ。憲法の枠組みの中で憲法を見当しなおすことは、まさに神学論争だ。そもそも神学とは、人のすべてを規定した神について費やされた言葉なのだから――と。
いつか、彼が神学論争を公共電波で流せるようになることを期待している。同時に、私は真魚の射程の広さに驚く。彼は自分を超えるものを見ようとしていたのか、と。
遅まきながら、私は彼の言葉を再び吟味する。自分自身に別れを告げること。たぶん、それなしでは過去の自分を知ることすらできない。
私はこれから、自分に関わったものについて、思いつく限り書いていく。それはたぶん、大切な思い出ばかりになるだろう。
羅列は嫌いだ(すでに書いただろうか?)。しかし、単純な羅列を超えるような「何か」は、一度羅列してみないことには現れないだろう。
『言葉は事物にある堅固さを与える。しかし、大仰な身振りでそれを非難することはできない』――カフカはそう書いている。
私は羅列することによって、自分の書いたものに信じ込まされるかもしれない。しかし、いつか、私はそれらすべてを壊し、本来の意味に戻さなくてはならない。ちょうど、考古学者が墓暴きであるように。他にやりようなんてないのだ。
*
「そういえば、俺は養子みたいなんだ。こないだ役所で調べて知ったんだけど」
まだ高校生だった頃、真魚は言った。言い忘れていた些細な事柄を付け加えるといった感じだった。教室にはクラスメイトのざわめきとオレンジの残照が残っていて、すぐにかき消されてしまったけれど、やはりその言葉の異形は「ぼく」と元史を撃ちぬいた。ぼくは辺りを見回し、誰も聞いていなかったかを確認した。
「なんで?」
ぼくか元史か忘れたが、どちらかがそう尋ねた。
「なんでって……前からそうじゃないかと思ってたんだよ」
「なんでそう思ったのさ?」
「そういうのって、わかるんじゃねえの? 特に父親の場合は」
当然という真魚の顔に、ぼくと元史を呆気に取られた。なんと答えていいのかわからなかったが、とにかく場所を変えることだけを提案し、コソコソと教室を出た。地理研究室か、家庭科室か、大きな黒板のある部屋だ。真魚はそこに入ると、教壇の椅子に座った。ぼくが扉に鍵をかける側から、彼はもう話し始めた。
「母親は女だから、わからない。自分とは違うと思っても、それは性別のせいかもしれないからな。でも、親父はわかるだろ?」
「まあ、わかるけど、でも、役所に行くほどか?」と、元史は言った。
「そうか? なんつーんだろ、この人と俺は同じ生き物だ、みたいなさ、そういう勘が働くんじゃねえの? おまえらはそういうの感じるだろ」
元史はさも自信なさそうに「うーん」と唸った。ぼくは「たしかにあるよ」と答えた。
「だろ? 猫が他の猫を見た時に思うような感じっていうかさ。俺はそれを親父に感じなかったんだ。で、役所に行きゃわかるかなって。そしたらほんとにわかっちったよ」
「でも、原因は? 喧嘩でもしたの?」
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