安全に与した男たち その1「伊能忠敬」

消雲堂

小説

1,393文字

 

江戸時代の旅人は1日に10里(40キロ)は歩いたと言われる。実質7時間程度で測量しながら10里を歩いた。時速では5.5キロ程度だが、実際には早足で歩く以上の早さだ。さらに忠敬は幕府御用であるから一般人よりも便宜がはかられていたはずだ。第一次測量では各地で人足3人、馬2頭(蝦夷地では1頭)を調達できた。

 

各地では事前に人足と馬を確保しなければならない。そこで測量隊が到着前にお触れを出すわけで、予約した人足と馬はキャンセルすると再確保が大変であるから、スケジュールが狂わないように道路状況、天候などを含めた緻密な管理が必要になる。そこで緻密な管理体制と担当者が必要になる。これも責任者である忠敬が担当した。

 

「忠敬の婿養子時代」

 

忠敬は婿養子に入ると商売を必死で勉強した。養子に入った伊能家は、地主であり、酒造、米穀取引、川船運送業に貸金業などを営み、使用人も沢山抱えていた今で言うところの地方の中堅企業であった。自らが猛勉強して事に当たらないと家業は成り立たなくなる。

 

勉強だけでなく、天性の商才にも長けていた。忠敬は佐原で商売をしていたときに、江戸だけでなく大阪の商況も広く情報収集し、販売管理や物流などを情報管理していたという。

 

少年期に習った算術の才能が発揮されただけでなく、現状だけでなく先見性や今で言うリスクマネジメント能力なども知らぬうちに養われていたに違いない。その証拠に忠敬は常に米相場を気にかけていたという。相場が上がると米を売り、底値の時にはじっとして値段が上がるのを待つ。江戸周辺で米不足の際には、関西など遠方の米まで買い付けて利ざやを化成だという。僕はこういった才能がないので嫌いだが、忠敬は相場師の能力に長けていたのだろう。一方では倹約にも注意して合理的な商売を行っていたようだ。

 

天明元年(1781年)、忠敬が37歳の時に佐原村の名主になった。天明というと浅間山の噴火に後世で「天明の飢饉」と呼ばれる飢饉の時代だ。飢饉は5年間に及び、東北では10万人もの餓死者が発生した。忠敬の地元である佐原でも利根川の氾濫によって洪水の被害も発生した災害の時代である。洪水につきものであった疫病も発生した。

 

佐原の危機に忠敬が立ちあがった。忠敬は、商才を活かして関西地方の米を買いつけて関東地方に急送し、佐原や周辺の村の卸商人に安く卸して救済したのだ。赤字覚悟の行動だったという。

 

佐原は忠敬の行動によって、餓死者を最小限に抑え、一揆や打ちこわしなどの暴動も発生しなかった。この功績が認められて忠敬は苗字帯刀が許された。

 

おっと、いつもの癖で長くなった。まとまらなくなって自分でも何を書いているのかわからなくなったので、ここら辺で忠敬の安全功績をまとめる。

 

①     幕府の命によって国防のための地図作りを行う。そのための全国的な測量を行った。

②     測量には緻密なスケジュール管理が必要。忠敬は管理能力にも秀でていた。

③     測量時代以前に地元佐原で飢饉や洪水、疫病から村民を守った。

④     私費で天文学などを研究しながらそれを実証するために各地を測量し、測量技術を向上させた。

 

忠敬は、測量技術を向上させながら正確な地図を作り、国防に寄与したのだ。こんなのでいいかしら?

2012年6月30日公開

© 2012 消雲堂

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