安全に与した男たち その1「伊能忠敬」

消雲堂

小説

4,849文字

織田信長は「人間50年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」と言った。つまり現世の人間の平均人生に値する50年は、天人には一日でしかない。まるで夢幻のようだ。生まれて死なぬものなどあろうものか・・・というようなことを、よく人は「人は生まれても、いずれは死ぬから、その間に悔いのないように一生懸命に生きるのだ」などと意味深気に語ったりする。ま、その通りなのかもしれないが、悔いのない生き方など“キレイすぎる”のが僕には気にいらない。

 

おっと、今回はそこではない。その人生50年であるところの50歳で家業を長男に譲り、隠居して江戸に住み、幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)の門を叩き門人になって、ついには幕府の仕事として日本国土の測量の旅をした伊能忠敬の話だ。話があちこちに飛ぶのは文章力がないためだ。ご勘弁を。

 

まずはwikipedia「伊能忠敬」を参照して忠敬の生い立ちを見てみよう。伊能忠敬は延宝2年(1745年)に千葉県山武郡九十九里町(以下現在地名)に生まれた。6歳のとき、母が死に、婿養子だった父親は兄と姉を連れて横芝町に戻るが、忠敬は残される。その後、10歳のときに父親に引き取られるが、宝暦12年(1762年)、忠敬は18歳で、佐原の伊能家に婿養子に入る。伊能家は酒、醤油、醸造に貸金業を営んでいたが、忠敬は婿養子に入るや生まれながらの商才を発揮して伊能家を再興してしまった。

 

伊能家を再興しただけでなくかなりの財産も蓄えるという天性の才能はかなりのものだと思われる。

 

さて、50歳でその家業を息子に譲って江戸に出て、高橋至時の門下に入った後のこと。伊能忠敬が至時の弟子になった際、その至時は31歳だった。忠敬より19歳年下である。至時は、それまで大阪定番の同心だったが、西洋暦学の大家であった麻田剛立の一番弟子であり、当時、天文学の天才と言われていたようだ。その至時が剛立の推挙で江戸に上った年、忠敬も家業を引退して佐原から江戸に上ったわけで、二人の出会いは運命的だった。。

 

忠敬は門前仲町に住み、蔵前にある幕府天文方の役所まで通った。ここには天体を観測できる機器があって司天台と呼ばれていたそうだ。忠敬は、門前仲町の自宅に天体観測の機器を自費で揃えて天体観測を行った。

 

忠敬は自宅から蔵前の司天台までの距離を測り、それを元に天体観測を行って緯度1度の距離を計測しようとした。このとき、距離の測定に使ったのが「歩測」だ。

 

ここでお断りを一席。このくだりは99年に発行された廣済堂「伊能忠敬を歩く」(伊能忠敬の道発掘調査隊編著)を参考にしています。

 

忠敬の1歩は2尺3寸(70センチ弱)で、同じ歩幅で歩くことで、大雑把ではあるが正確な距離を測ることができる。忠敬は門前仲町~蔵前間を何度も歩測して正確な距離を測ろうとした。この測量によって門前仲町は北緯35度40分30秒と断定。司天台は35度41分52秒だった。この差は82秒であり、両所の距離は22町45間とわかった。この距離を82秒で割って3600秒を掛けると緯度1度の位置が判明する。そして、緯度1度は27里弱となる・・・というが、僕には何のことだかさっぱりわからない。

 

寛政12年(1800年)忠敬は56歳になっていた。天文学を研究し始めてから6年が経っている。ついに忠敬の研究が実を結ぶときが来た。幕府は忠敬に蝦夷地測量を命じたのだ。忠敬一行の第一次測量は寛政12年4月19日(新暦6月11日)。このときの忠敬の身分は「元百姓当時浪人」という妙なものだった。

 

幕府は何故、忠敬たちに蝦夷地測量を命じたのか? それは日本の国防にあった。

 

嘉永6年(1853年)の100年近く前から日本、特に蝦夷地(北海道)へのロシア船が来航するようになっていた。限られた国以外とは交易を許さない鎖国令が布かれていた江戸時代に、幕府の目が行き届かない遠い蝦夷地には松前藩のみの管轄という大雑把な統治状態。これでは蝦夷地が日本の領土だと胸を張って言えるはずがない。

 

当時の北海道には先住民の蝦夷を源とするであろうアイヌ以外に生活する者はなく、さらに凶暴なる(多分)熊や日本狼が生息していたであろうから他国が侵略しようと考えても簡単にはいかなかっただろうが、蝦夷地を統治していた松前藩は慌てた。実力の程がわからぬ赤蝦夷(顔が赤いロシア人を松前藩はそう呼んだ)に戦いを挑まれたら勝てるかどうかもわからない。慌てた松前藩はすぐに幕府に救いを求めたというのが現実だろう。連絡を受けた幕府もいい加減なもので一応焦ってみた。ま、よくわからないながらも自分の領土が侵略されるかもしれないといういい加減な危機感は実に滑稽だ。

 

今のヤラセ政治を行って国民を苦しめるという不勉強無責任体質は、これより大昔の大和朝廷統治・・・否、それ以前からあったに違いない。大体が国民を働かせて税を徴収して自分たちはろくに働かずに贅沢な暮らしをしているというのはおかしな事である。

 

また脱線してしまった。

 

当時のロシア船は千島列島周辺で毛皮の材料となるラッコを捕獲する漁を行っていた。遥か遠洋まで漁に出れば船員や漁師の水や食糧が必要になる。シベリアを経て運ばれる水や食糧を待つよりも蝦夷地で確保できれば合理的なのである。侵略ではなく、ロシア船は極めて友好的に紳士的に日本と交易したかったようだ。

 

大体が蝦夷地がどのくらいの広さで居住できる土地がどのくらいあるのかも見聞していなかったはずだが、とにかく日本の領土であるということを強調しなくてはならなかった。その結果、幕府は東蝦夷地(松前周辺)を即席で幕府直轄とした。

 

しかし、先述したように幕府には蝦夷地の情報などなかった。自分の国であるにも関わらずである。幕府は蝦夷地の情報が欲しかった。そこで幕府は天文学で老後を謳歌している伊能忠敬に目をつけた。幕府は忠敬に蝦夷地測量を命じた。ただし、幕府は旅費はもちろん、測量のために必要となる機材の費用を出さない。つまり忠敬は、自費で蝦夷地測量を行わなくてはならなかったのだ。

 

それでも忠敬は幕府(日本国)の役に立てることを大いに喜んだだろう。忠敬には金と暇があり余っている。さらに当時は勝手な旅行もできない不自由な時代だ。幕府の御用という立場で自分が極めようとしている研究のための旅ができるとあれば、嬉しいのは当たり前だ。

 

幕府の目的はもうひとつあった。松前藩同様に国土の果てに位置し、その動きが全く見えない薩摩藩を探る意味もあったとされる。つまり・・・密偵スパイということだ。

 

忠敬の第一次測量は、忠敬のほか3名の測量隊員と2名の下男(使用人)の合計6人。測量器具は間縄と呼ばれる役18メートル(60尺)の巻尺で、6尺ごとに印がついていた。さらに量程車という車輪がついた測量器具も使用した・・・が、当たり前だが舗装路ではない当時の道では役に立たなかった。そこで歩測によって距離を測った。それには歩幅が正確でなくてはならない。測量前には、かなりの練習が必要だったに違いない。

 

忠敬の歩幅は2尺3寸(70センチ弱)と言われていて、歩数を数え、記憶しながら400里を歩いた。しかも1日に平均10里(40キロ)を歩いたのだ。

 

前述した「伊能忠敬を歩く」を見ると、忠敬は午前8時ごろに宿を出発して午後4時前には次の宿場に到着していた。

 

2.

 

幕府は何故、忠敬たちに蝦夷地測量を命じたのか? それは日本の国防にあった。

 

嘉永6年(1853年)の100年近く前から日本、特に蝦夷地(北海道)へのロシア船が来航するようになっていた。限られた国以外とは交易を許さない鎖国令が布かれていた江戸時代に、幕府の目が行き届かない遠い蝦夷地には松前藩のみの管轄という大雑把な統治状態。これでは蝦夷地が日本の領土だと胸を張って言えるはずがない。

 

当時の北海道には先住民の蝦夷を源とするであろうアイヌ以外に生活する者はなく、さらに凶暴なる(多分)熊や日本狼が生息していたであろうから他国が侵略しようと考えても簡単にはいかなかっただろうが、蝦夷地を統治していた松前藩は慌てた。実力の程がわからぬ赤蝦夷(顔が赤いロシア人を松前藩はそう呼んだ)に戦いを挑まれたら勝てるかどうかもわからない。慌てた松前藩はすぐに幕府に救いを求めたというのが現実だろう。連絡を受けた幕府もいい加減なもので一応焦ってみた。ま、よくわからないながらも自分の領土が侵略されるかもしれないといういい加減な危機感は実に滑稽だ。

 

今のヤラセ政治を行って国民を苦しめるという不勉強無責任体質は、これより大昔の大和朝廷統治・・・否、それ以前からあったに違いない。大体が国民を働かせて税を徴収して自分たちはろくに働かずに贅沢な暮らしをしているというのはおかしな事である。

 

また脱線してしまった。

 

当時のロシア船は千島列島周辺で毛皮の材料となるラッコを捕獲する漁を行っていた。遥か遠洋まで漁に出れば船員や漁師の水や食糧が必要になる。シベリアを経て運ばれる水や食糧を待つよりも蝦夷地で確保できれば合理的なのである。侵略ではなく、ロシア船は極めて友好的に紳士的に日本と交易したかったようだ。

 

大体が蝦夷地がどのくらいの広さで居住できる土地がどのくらいあるのかも見聞していなかったはずだが、とにかく日本の領土であるということを強調しなくてはならなかった。その結果、幕府は東蝦夷地(松前周辺)を即席で幕府直轄とした。

 

しかし、先述したように幕府には蝦夷地の情報などなかった。自分の国であるにも関わらずである。幕府は蝦夷地の情報が欲しかった。そこで幕府は天文学で老後を謳歌している伊能忠敬に目をつけた。幕府は忠敬に蝦夷地測量を命じた。ただし、幕府は旅費はもちろん、測量のために必要となる機材の費用を出さない。つまり忠敬は、自費で蝦夷地測量を行わなくてはならなかったのだ。

 

それでも忠敬は幕府(日本国)の役に立てることを大いに喜んだだろう。忠敬には金と暇があり余っている。さらに当時は勝手な旅行もできない不自由な時代だ。幕府の御用という立場で自分が極めようとしている研究のための旅ができるとあれば、嬉しいのは当たり前だ。

 

幕府の目的はもうひとつあった。松前藩同様に国土の果てに位置し、その動きが全く見えない薩摩藩を探る意味もあったとされる。つまり・・・密偵スパイということだ。

 

忠敬の第一次測量は、忠敬のほか3名の測量隊員と2名の下男(使用人)の合計6人。測量器具は間縄と呼ばれる役18メートル(60尺)の巻尺で、6尺ごとに印がついていた。さらに量程車という車輪がついた測量器具も使用した・・・が、当たり前だが舗装路ではない当時の道では役に立たなかった。そこで歩測によって距離を測った。それには歩幅が正確でなくてはならない。測量前には、かなりの練習が必要だったに違いない。

 

忠敬の歩幅は2尺3寸(70センチ弱)と言われていて、歩数を数え、記憶しながら400里を歩いた。しかも1日に平均10里(40キロ)を歩いたのだ。

 

前述した「伊能忠敬を歩く」を見ると、忠敬は午前8時ごろに宿を出発して午後4時前には次の宿場に到着していた。

2012年6月30日公開

© 2012 消雲堂

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