魑魅魍魎に取り囲まれて

魔神は太陽を呑む(第3話)

ヨゴロウザ

エセー

9,920文字

オキクルミの物語

 なぜ神謡(カムイユカㇽ)が必ず自叙体で語られるのかについて、金田一京助は折口信夫の示唆をそのまま受け入れそれが神の一人語りだからだとして、巫女の口を借りて神が語るという起源を推測しています。いわく、
  
  
 アイヌといわず古代人といわず、凡て、素樸な心に映じた此の世界は、いわば魑魅・魍魎の棲家であって、山へ入り、谷へ下りては猶のこと、家の内、炉ばたで話す一言・一句も、直ちに目に見えぬ彼らの耳目に入り、無心の一挙手一投足も、或いは神々の怒り・憎みを買いつつあらねばならなかった。不慮の災・難儀・禍福、皆悉くその意志であり、機構であった。
(『ユーカラ概説』)
  
  
 そしてそれら神々と人間との橋渡しをするのが巫女であり、災害の起こった理由やなにかの由来、行事の説明などをするのだとしています。
 金田一はその他にそもそもアイヌは歌う事が好きな民族で何かにつけすぐ歌い出すということを挙げ、東京の自宅に下宿させていたアイヌ女性が電車通りで電車がつぎつぎ交叉するのを見て驚き、即興の歌を歌い出したことも書いているのですが、知里真志保にしてみればそれがまさにアイヌの歌も生活も近代人のそれとなんら変わりのない姿に描き出そうとする誤りなのであって、自著『アイヌ文學』の中でこう書いています。
  
  
 アイヌは歌の好きな民族だとさえ書いている人がある。しかし他の民族にくらべて彼らがとくによく歌うというほどのことはなかったようである。(…)彼等が歌うのは主として彼等の生命をおびやかすもろもろの悪魔を威嚇して遠ざけ、よい神々の助けを呼ぶためだったのであるから、そこでは歌はたのしみのためにあるのではなく、生きるための真剣な努力なのである。
  
  
 知里説でもアイヌ語のユカㇽの語源を「獲物のさまをなす」として、狩猟の予祝祭において巫者が神に扮して演じる所作の詞章が神謡だとしています。最近の研究では巫謡起源説も疑問視されているそうなのですが、起源の詮索はひとまず置いておいて神謡は一つ一つが文学作品というよりはまず歌であるので、身も蓋もないことを言うようですが活字となったテキストを読んでも魅力は伝わらないのかもしれません。私自身アイヌ語を読めないので訳文を目で追う以外に無いわけですが、今はありがたい事に公益財団法人アイヌ民族文化財団がYouTubeでアニメーション付きの神謡をたくさん公開してくれているので、どのように謡われるのかがわかります。
  
  

  
  
 この雪かきをしている謎のお爺さんは何者かというと、異伝を参照するに飢饉神であるようです。ではどこからかおもむろに現れてお爺さんを斬り殺すサマイェクルとは? 実はこの人の正体はよくわからないのですが(人間に文化をもたらした神、人文神であるとか、シャーマンであるという説が有力らしいですが)神謡集を読んでいるとしょっちゅう現れる人です。この人は知里幸恵の『アイヌ神謡集』ではオキキリムイ=オキクルミの名で出てきます。日高沙流地方の伝承ではサマイェクル=サマイウンクルはオキクルミと対になって出てくることが多いのですが、たいてい損な役割を負わされています。地方によってはこの神謡のようにサマイウンクルがかっこいいヒーローとして出てくるので、部族同士のなにか対抗意識などがあったのでしょうか。
 次に紹介するのは蜘蛛の神の神謡です。
  
  

  
  
 この村を襲う夜盗とはアイヌ語でトパットゥミと言って、たとえば日本との交易で栄えた村があると、食い詰めた村が村人総出で夜中にその村を襲い、赤ちゃんにいたるまで皆殺しにして物を奪っていくというものすごいものだったようです。物語に出てくるだけのフィクションであるのか本当にそういう事があったのかはわからないそうですが、法治社会でなければそういう無法が横行する可能性もあったのかもしれません。自分のところにやってきた脅威を迎え撃つというのがいかにも蜘蛛の神という感じがします。
  
  
 そしてこの 〽シトゥイエ サンノッ トンノッ パイェ とか 〽フン ンンー アオー とか繰り返し入る詞をサケへと言って神謡に必須不可欠なものとされています。これが入っていれば神謡、カムイユカㇽというジャンルのものということになっています。訳せるものもあるそうですが、意味の分からないものが多いとのこと。しかし一聴してすぐわかるように、繰り返されるこのサケへが意味はわからずともなんともいえない魅力であり、これを省いた、というかこれが伝わらない活字のテキストでは魅力が半減するのもわかっていただけるかと思います。知里真志保によればアイヌ民族は鳥や虫などがそれぞれ固有の「歌」=鳴き声を持っているように人間もそれぞれ固有の歌を持っていると考えていたとのことですが、このサケへも神としての自分を示す言葉なのかもしれません。
 私は実際に誰かが神謡を謡う場に居合わせた事はありませんが、これが自分だけでなく聴衆のいるところで、もちろん録音したものではなくいわばライブパフォーマンスとして謡われるところを想像します。するとこのサケへが、独特な韻律をもって何度も繰り返されるそれが場を支配するといいますか呪縛するといいますか、サケへが響き渡っているあいだその場に語りの世界が幻のように現出するような気がします。前節で少しインドのヴェーダのことに触れましたが、世界というか宇宙はヴェーダから生じ、宇宙の滅んだあともヴェーダは残り、また新しい宇宙がヴェーダから生じる、なので神はその間もヴェーダを大事に守り通しまた新しく人間に啓示するという話が私はなんだかよくわからないというか正直馬鹿げていると思っていました。ヴェーダとは詩集であり祭祀の儀軌であり、つまるところただの言葉ではないかという思いがあったからです。言葉とは音声でしかありません。けれどそのただの言葉から世界が生じるというのはこういう事かもしれないという気になったのです。
 もちろんヴェーダとの比較はあまりに大げさで突飛なだけでなくシンプルに間違っているに決まっているのですが、けれど文字として記録されることなくただ音声として人から人に伝えられ、そして新しく誰かが謡うとき、それも昔こういうことがあったという時制なしに、客観的な三人称でなくサケへの韻律を伴って自叙体で謡われるとき、まさにその都度新しく、現在そこに在るものとして神が顕れたのではないか、それが必ず自叙体で謡われる神謡の持つリアリズムなのではないか……もっともこれはあまりに折口的すぎる解釈かもしれません。ちなみに知里真志保によるとアイヌ文学は色彩などの視覚的な表現に乏しいが、代わりに鋭敏な聴覚的表現が随所にみられると。現代は視覚表現が覇を唱えています。そのぶん言葉だけで場を立ち上げる表現力は痩せているかもしれません。
  
 *
  
 ところで巫謡起源説を採るとするならばこれら二つの神謡は、たとえば祭祀の時などにこういう事になるから飢饉の神よ今年はあまり雪を降らせたもうなとか、安全に過ごせるように蜘蛛の神の加護を願ったとか想像できなくもないのですが、中には本当にこれも巫謡起源なのだろうか? と思ってしまうものもかなりあるのも事実です。久保寺逸彦『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』には主に日高沙流を中心に胆振千歳蘭越、石狩旭川近文を加えた地方で採取した神謡が106篇収められていますが、その中で巫術との関係が推測しやすいものとして雷神の神謡があります。
 雷の神が人間世界を見たくなって天下り沙流川の流れにそって行くとオキクルミの村が見えた。オキクルミは雷の神が来るの見て村人に謹むよう言い渡して皆それに従ったので雷の神は感心して通り過ぎる。次にサマイウンクルの村に来ると、サマイウンクルは同じように村人に言い渡したが二人の女だけがわざわざ家から出て来て雷の神を罵りながら汚水をぶちまけたりしたので、雷の神は激怒し、
  忽ちにして
  黄金の神駕
  神駕の上より
  焔の虹
  燃え立ち
  たれば、
村は炎上するのであるが、誰も生き残っていないだろうと思って見るとなんとあの女二人だけが生き残っている。腹の虫が収まらない雷の神は罰として二人の女の局部にそれぞれ白楊の葉、カシワの葉をくっつけておいたという神謡です。これのもう一つの異伝はやや合理化されていて葉っぱをくっつけるという話はなくなっていますが、村人が警告を無視して雷が来たからといって仕事をやめられるかと茣蓙織りや刃物研ぎを続けたので全員殺してやったぜというものです。つまり、雷が鳴っている時に金属を扱うと危ないという教訓になっているというのです。
 この神謡は実際の出来事が元になっているらしく、沙流川の岸にシュマルペという山があったが落雷で崩落し、岩石の散乱が麓の里を襲い父娘三人だけが生き残ったという事があったのだそうです。そこで巫女に神意を伺ってもらってこの神謡が出てきたのか、又は古老の夢の中に雷の神が出て来てこういう話をしたのだろうと。
 その他、なにかの由来や起源を説明するというのも巫術の扱う範囲なのでしょう。蝉がなぜ夏の間だけ鳴くかを説明した神謡があります。ある夏に蝉が海辺の櫓で過ごしていると、海の向こうからいかなる神ともわからない正体不明の神々がやってくるのが見える。上陸間際になって、それらは疱瘡神(天然痘)の群れだとわかる。蝉は慌ててこの村には食べ物がないから沖の人たちの国(オホーツクの方の島?)へ向かうよう説き伏せて追い返す。蝉の神はその次第を夢で人間たちに知らせ、毎年夏になると警告の意味をこめて鳴くようになったと。また海鵜の神の神謡では、シャチの神が眷属を引き連れて泳いで行く途中、サメだけが海鵜に無礼を働いたので海に時化を起こしてシャチの神の群れを皆殺しにしてしまう、ところが肝心のサメだけ討ちもらしてしまい忌々しくてたまらないので海鵜はいつも不機嫌な顔をしているという話です。
 行事の由来に関係するものに船の女神の神謡があります。オキクルミが伐り出した木でできた船が(もちろん、この船の自叙です)和人との交易などでたいそう活躍するのですが、あるとき難破して粉々になって浜辺に打ち上げられる。オキクルミはその破片を集めてかつて材木を伐り出したその切り株のところへ積み上げ、村人たちと一緒に米や煙草、酒を備えて祝詞のようなものを唱えて丁重に神の国へと送るという話で、有名な熊送りの儀式だけでなく長く使ったモノも同じように神として見ていたことがうかがい知れるものです。

  
 そういった話を伝えるのが巫女ないし古老の仕事であるというのはわかりやすいのですが、たとえば久保寺逸彦だけでなく萱野茂も採取している蛍の神の神謡などは、ちょっとそういう由来が想像しにくいように思うのです。それは蛍が結婚相手を探してぺかぺか光りながら夜の海を行く謡で、何人か候補が見つかるのですがなんだかどいつも変な顔をしててちょっと無理、最終的に自分好みのイケメンを発見して結婚するのですがそれがカジキマグロであるというきわめて牧歌的な神謡で、なんでも蛍の飛ぶ季節がカジキマグロの漁期であったそうなので、そういう背後の人々の生活が偲べると言えば偲べますが宗教的意義や教訓を引き出すなど無理に思えます。なかなかの佳編なのですが。
 次の神謡などは、内容どうこうよりも話の面白さを追求したような、いわば本格昔話に近いものを感じます。
  
  

  
  
 目的不明に襲ってくる六つの首の化け物というのがかなりグロテスクで良いのですが、これはその化け物を散々いたぶった挙句殺してしまう過程の面白みにウェイトがかかっている気がします。久保寺逸彦は「アイヌの猿蟹合戦」と言っていますが、確かに昔話として作り込まれたようなところを感じなくもない。この神謡を謡っているのは神ではなくただの人間のように見えますが、久保寺の『神謡・聖伝の研究』では異伝も載っておりそれでは蜘蛛の神の自叙ということになっています。なのでもしこれが祭祀などで語られたとするなら守り神の蜘蛛を讃えたものじゃないかとか言えそうではあります。
 ではこの神謡はどうでしょう。
  
  

  
  
 これも教訓を説いていると言えなくもないでしょうが、そうだとしてもかなり低次元な教訓な気がします。もしかすると実際に酒の席の喧嘩で死人が出るという事件でもあったのかもしれません。ともあれ、この場合は神々の話というよりは擬人化された動物という感じが拭えない気がします。何が言いたいかというと、すべてを宗教や祭祀起源とするのは画一的な考え方で、別に真面目で厳粛な動機でなくとも単に形式だけを継承して自由に創作されるようになって行ったのではないかという事です。
 しかしながら、私は個人的にはむしろ真面目な動機で作られたように見えるもののほうにより惹かれます。そちらの方にこそ、日本神話的にいうと草木や水の泡に至るまで万物の言問い荒ぶる国、引用した金田一京助の言葉を借りると魑魅魍魎の棲家を生きるパトスが感じられるからです。
  

  
 さて、飢饉や疫病さえも神とされているのを見て来ましたが、このユーカラの世界における神とはなんであろうかという疑問が当然起こって来ます。金田一京助はユーカラに「咽せ返る様な異教の匂い」を指摘し、その神とは「いわば霊魂にすぎないようなものである」としていますが、中川裕『アイヌの物語世界』ではアイヌの神(カムイ)という言葉は「キリスト教やイスラム教のような唯一の絶対神とは明らかに違うし、日本古来の八百万の神というのともちょっと違うのがおわかりであろう。むしろ、『自然』と訳してしまってもよいくらいではないだろうか」とされています。
 和人である私としてはこの「自然」という感覚は非常にわかりやすいのですが、しかしこれこそは私たちの手持ちの既成概念に当てはめることでずれた理解をして、下手すればさらに「だから、我々に本質的な違いなどない。同じだよ」とやってしまいかねない典型ではないのか……と思わなくもありません。およそなにか考えを詰めていってその裂け目から絶対や超越と呼ぶべきものが顔を覗きそうになるとすぐ軟膏をすりこむようにして「自然」という概念で繕って安心してしまうのは私たちの神アレルギーないし自然イデオロギーとでもいうべきもので、やはりカムイはカムイとして考えるべきかもしれません。私はむしろ異教の匂いを嗅ぎ取った金田一に共感を覚えます。
  
  
 アイヌ語のカムイは日本語の神から来ているとも言われるそうですが、知里真志保によればカムイという語はやがてよい神だけを指すようになっていったが、地名などに残っている古い用法を見るに「魔」と訳したほうがしっくりくると述べています。たとえばカムイコタンという地名はカムイ(神)+コタン(村)なので理想郷のような場所を想像しがちだが、実際は交通上の難所でそこを通るときしばしば人が死ぬような場所にその名前が付いている、カムイがそこで人間の犠牲を要求する「魔の里」と訳した方がよいと(『アイヌ語入門』)。
 この『アイヌ語入門』で知里は「古代人のこころ」という章を設けて、アイヌ語の背景にあるものの見方や考え方について様々な例を挙げて解説しています。同書ではアイヌ語地名に関する先行研究が間違いだらけであるということをかなり執拗かつ辛辣にあげつらっているのですが、知里はそういう間違いが起こる一つの原因として研究者がアイヌの世界観を理解していないことがあると考えているのです。また、『ユーカラの人々とその生活』という論考においても、すでに日本人と変わらない生活をしている現在のアイヌの考え方を古来のものとして盲信してきたことにアイヌ研究の致命的な欠陥があると述べています。ではこの二書の他『分類アイヌ語辞典』などの諸著作に見出せる、知里の考えるアイヌの古民俗、ユーカラの人々の世界とはどのようなものであったか?
 それはたとえばマイタケを採るときも儀式的な舞踊を踊り、動物は肉や毛皮を手土産に人間世界に遊びに来た神であり、植物もやはり人間世界に来た神で木は根を足に、幹を胴体に、枝を手にして空に手を広げて立っているものとし、山や川をも生きているものとして見て(川は山から海へ流れるのではなく、海から山へ向かっているとされていたそうです)、山頂には神の遊ぶ人間禁制の神聖な場所があり、また風が吹けば鎌を立てて奥さんの下着が切れるからそんなに強く吹かないでくれという呪詞を唱え(鎌は魔神に対して用いるもので、善い神に対して用いてはならなかったとか)、また山で遭難者が出れば巫女がその山に成りきって、自分の体のどの位置がむずむずするので、もう降りてくるところだから大丈夫だと告げ、波頭をウサギが跳ねていると見なして海でウサギの名前を言う事を、また夜中にカワウソの名前を出すと悪さをしにくるからその名前を口にすることを禁じ、また死後の世界に通じる洞穴がある、そういったアニミズムおよびシャーマニズムの世界であると。そしてそういう世界に生きる人々は普段から自然に対抗するために呪詞を唱えるわけです。それは私たち和人の中でも「痛いの痛いのとんでけ」とか「指切りげんまん」のような子供時代に言ったり言われたりしたものがありましたが、それに類したごく素朴なものから、自分に迫ってくる魔物の正体を暴いて無力化するようなものまで、さまざまなものが『アイヌ文學』に収められていますが、知里はまさにそうした呪詞をこそアイヌ文学の基としているのです。つまり、アイヌの文学とは自らを脅かす神々の脅威に立ち向かうところから生じたと考えているようです。
 たしかに神謡(カムイユカㇻ)やそれからサケへがなくなり散文体になったとされる昔話(ウエペケㇾ)などを読んでいて感じるのは、さまざまな自然が特に美しいものとはされずむしろ恐ろしいものとして出てくることです。虹なども魔の一種とされ、虹に追われた時のための呪詞、またその由来を説明した昔話まであります。虹に追われるという状況がどういうものかよくわからなくもあるのですが、とにかく現代人が綺麗だといって眺めるような感覚とは違ったようです。「自然との交感」とか「自然との共生」とか言うよりは、「神々との闘争」といった印象すら受けるのです。
  
  
 神謡が神々の世界だとすると散文体の昔話(ウエペケㇾ)は人間の世界とされるのですが、それも結局は魑魅魍魎に取り囲まれた世界を生きる人間の物語なのです。たとえば神に恋慕された結果殺されてしまう男女の話などが出てきます。神は神と、人間は人間と結婚するべきなので人間と結婚しようとする神は悪神なのだそうですが、具体的にどうするかというと、ここでの神は熊であったり蛇であったりするので肉体上のことで現世では結婚できない、そこで好きになった相手を殺して魂だけにすることによって神の国で結婚しようとするのだそうです。そこで一つ紹介したいのがパウチという神(?)の話です。
 このパウチなるものは知里真志保が『えぞおばけ列伝』で書いていますが、夜中に裸の男女が踊り狂っていて、それに魅かれて一緒に踊り出すとそのままずっと世界中を踊り続けながらまわって歩くことになるというもので、これが個人に取り憑くと裸になって走り歩いたりするようになるので、トゲの生えた枝で打ち据えたり、川で溺れさせたりして体内から追い出すというのです。
 知里はこのパウチを「淫魔」と訳していますが、萱野茂が採取したウエペケㇾでは「淫乱の群れ」と題されて『カムイユカㇻと昔話』中に収められています。夜中にこれを目撃したある老人がびっくりしてしまいパウチにこの村ではなく十勝の方の村へ行くよう言うのですが、その結果十勝ではパウチに加わった男女がたくさん出た。そこで十勝の長老が千里眼で透視してみるとこの老人がいらん事を言ったのだとわかったので、復讐に一家皆殺しにされてしまうという話です。知里と同じく自身アイヌである萱野茂は自分の村の近くにもパウチが集まるという山があったが、本当にそういう事があったのかどうか知らない、願望の産物ではないかと解説していますが、やはり若い人たちの抑えきれない性欲や性衝動も恐るべき神であったという事なのでしょうか。
 その他、人間は途中で何か嫌になっても神が自分にこうさせているのだからと思い直したりする敬虔な面もある一方、6回丁重にお願いしても願いを聞いてくれない神には呪いをかけて死なせてしまったり、山の神とされる熊でも人間を殺した熊は悪い神として丁重に弔うのではなく辱めるように死体をバラバラにしてばら撒いたりと、不条理で残酷な神でもそれに従うというようなところは無いのが興味深い。
  

  
 それでもウエペケㇾに出てくるのは普通の人間なのでわりと無力であったりするのですが、カムイユカㇻではいわばこの魑魅魍魎の世界を生き抜く人間の代表、ロールモデルとして出てくるのがオキクルミなのではないかという気がします。知里はこのオキクルミとはシャーマンだったのだという説を立てていますが、たしかにこのオキクルミはさまざまな呪力を駆使して人間に害をなす神々を撃退するのです。知里幸恵の『アイヌ神謡集』ではただ鳴きながら寄って来ただけの蛙を叩き潰したりと容赦ないところもありますが、呪術で漁の邪魔をする狐を射殺したり、どうしても釣られようとせず散々海を引き回したカジキマグロに呪いの言葉を投げかけたりします(呪われた方はたかが人間ごときが何を言うかと高を括っているのですが、なぜかその呪いの言葉通りの行動を取って悲惨な死に方をすることになる)。
 それぐらいならまだ普通の人間にもできそう(?)ではありますが、沼に住んでいる竜神(巨大な蛇らしい)や特に理由もなく近寄ってきた人間をなんとなく殺して楽しんでいた巨大ミミズ、またフーリという人間を食べる怪鳥を退治したりと怪物や魔神と戦う話が多く、さらには村のリーダーとして津波に対処したり、飢饉の神を退治したり、疫病の神がやってくるのを特別な草で作った人形の兵団でもって追い返したりといわば天災をも相手取るような話も出てきます。もし知里の考えるように自然の脅威に対応するための呪詞からやがて神謡にまで発展したとするなら、そういった呪詞の具現化というか受肉したものがこの主人公なのかもしれません。
 ところが沙流の伝承では、オキクルミは人間が堕落していったのでついに彼らを見限り、アイヌの国土を去っていったと伝えられるのだというのです。行った先はシベリアの方とも日本の本州とも言われるそうですが、去って行った先でオキクルミの妹がいわばホームシックになり、アイヌの村を懐かしんだことを謡ったのがこの神謡です。
  
  

  
  
 久保寺逸彦の著書に載っているものでは炉の灰ではなく空一面に描き出したことになっています。この神謡はある古老の夢にオキクルミの妹が船を漕ぎながら現れて謡っていったものだそうで、またこの 〽ホーレー ホーレー という哀愁を含んだサケへを後に残しながら去って行ったのだと。これは物語というよりは抒情詩のようで、文学的な洗練を経ているようにも思えますが名篇に思えます。久保寺も逸品として紹介しています。
  
  
 しかし、実は私がついに自分の求めていた縄文土器や装飾古墳のような表現を文学の世界でも見出せたと思ったのは、神謡よりもむしろこの呪詞の受肉たる主人公が自ら叙述するより長い謡いである聖伝(オイナ)と英雄叙事詩(ユカㇻ)においてでした。(つづく)
  
  
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引用・参考文献
『金田一京助全集 第8巻』 三省堂 1993
『知里真志保著作集』 平凡社 1973-75
『アイヌ文學』知里真志保 元々社 1955 復刻版2012
『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』久保寺逸彦 岩波書店 1977
『改訂版 アイヌの物語世界』中川裕 平凡社ライブラリー 2020
『カムイユカㇻと昔話』萱野茂 小学館 1977
『アイヌ神謡集』知里幸恵 岩波文庫 1978

2025年1月24日公開

作品集『魔神は太陽を呑む』最新話 (全3話)

© 2025 ヨゴロウザ

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