ミーチェンカ

応募作品

ヨゴロウザ

小説

4,151文字

こんなご時世ですが、最近ロシア語を習い始めました。

1918年 
 ミーチェンカが殴られていた。中庭の背の高い樫の木の下で。殴っていたのはアンドレイ・ペトローヴィチだった。なぜかって? なぜという事もない、なにかこの少年の事で気に入らないことがあったのだろう。それでなくてもアンドレイはよく飲んだくれて乱暴を働くことが多かった。それにミーチェンカというのは、どうにもかわいらしいところの無い坊やだった。妙に賢し気な顔をしていて、何よりもその灰色の眼がまずかった。しかも口下手であまり話さなかった。たいていの者は、この坊やが自分を見下しているような気がするか、そう思わなくても顔を見るだけでなんとも言えない嫌な印象を受けたのだ。だから彼が彼よりずっと大人のアンドレイに殴られて切れた唇から血を飛ばしているからって、誰も出て来て止めはしなかった。いい気味ぐらいに思っていたのかもしれない。アパートの窓からは、いつものように水回りの音がしていた。
  
 二十年ほど経って自分の命が危うくなったとき、怯えたアンドレイはこっそり懺悔したそうだ。自分があのとき、ミーチェンカの胸に憎悪の種を仕込んじまったのだと。「憎悪の種」とはふるった言い方だ。
  
 前の年、街路にたくさんの血が流れた。この年、皇帝は家族や使用人ごと殺された。
  
1937年
 ミーチェンカはいまや国家保安中尉だ。泣く子も黙るゲーペーウーだ。ミーチェンカなんて馴れ馴れしい呼び方をしちゃいけない、ドミートリー・イヴァノヴィチと呼ばなきゃ。ドミートリー・イヴァノヴィチ・チェルノフだ。けれどもちろん、昔からのアパートの住人からすれば彼はいつまでも可愛くない顔をしたミーチェンカだ。だからそのミーチェンカが何のためかアパートの視察にやってきた時、住人たちは気味が悪かったそうだよ。だって今さら何をしに来たというんだ? それはもうあの肩の細い弱々しい小僧ではない、背の高い、アイロンをしっかりかけられたシャツみたいにパリッとした中尉さんだったけど、あの厭な灰色の眼だけは変わっていなかった。その時は誰も彼と言葉を交わさなかったそうだけど、なぜまたやって来たのかはそれからすぐにわかった。
  
 というのもミーチェンカが来てちょっとしてから、おかしな事が起こるようになったのだ。おかしな事って? 人がいなくなるんだよ。それも誰もが寝静まってるような、こんな時刻にと思うような時間にミーチェンカが迎えに来るんだよ。いや、ミーチェンカ本人が本当に毎回来てたのかは知らないよ。誰もはっきり見た者はいないからね。とにかく夜中にやってきた車に乗せられて、それっきりになってしまうんだ。最初のうちはなんだろうと思っても、気付けばアパートの半分ぐらいの人間が連れ去られて、後に入ってきた見た事ない顔ばかりになってきたらこれはおかしいと思うだろう。けれどおかしいと思ったからって誰も何も言いやしないよ。うっかり文句言って自分が引っ張られたくないもんな。だから黙ってる訳さ。一度なんか、夜中の中庭で誰かが泣きわめいてたよ。いや、はっきりと助けを求めてアパート中を起こそうとしたんだ。けれどみんな寝てたさ。いや、そっとカーテンをずらして見てただけさ。そいつがゲーペーウーの連中に樫の木の下に追い詰められて、行きたくないってごねてるのをね。
  
 けれど面白い事が一つあるんだ。連れていかれたほとんどのやつらは、アンドレイに密告されてたんだよ。考えてみればこのアパートにそんな危険人物がそうそういるわけもないだろう? 人がいなくなり出してから、アンドレイはすっかり怖くなったんだね。ミーチェンカがあの日の仕返しに自分を連れて行ってしまうだろうと考えたんだ。それで落ち着かなくなった彼は、何のつもりかある事ない事言って、自分の隣人を密告しまくったんだ。その頃は珍しくもない話だよ。理想のために自分の家族を密告した者もいるし、自分の子に密告された親たちはかえって子供たちを誇らしく思ったものさ。けれどアンドレイの場合は少しひどいな。まあそれもこうやって、あの時代がいったん過去として過ぎ去れば、皆そうだったんだから仕方ないという話になる。なるけれども連れていかれた連中にしてみればたまったもんじゃない。彼らは北の、彼らのために作られた収容所に入れられて拷問を受けた。誰かしら知り合いで怪しい人物の名前を吐くまでひどい目に合わされた。それでも最後まで吐かないでいると、柱に縛り付けられて水ぶっかけられてそのまま外に晒されるんだ。春が来るまで氷漬けだよ。
  
 そのうちアンドレイはずっと暗い目をして沈み込むようになった。彼は安心できなかったんだ。ついにアパートの三分の二ぐらいが見慣れない新顔になった。彼らは昔からの住人に会っても、顔を伏せるか背けるかして挨拶しなかった。中庭でね、樫の木の下で彼らのうちの一人が黒い犬と遊んでたよ。どういう訳かこの犬、人の顔を決して覚えない駄犬だった。ずっと吠えてやがるんだ。うるさくてしょうがない。それに不気味だったのはね、その犬、ミーチェンカみたいな灰色の眼をしてたんだ。だからみんな迷惑に思いながらも、その犬を連れた男に会うとぞっとして何も言えなくなるんだ。それで耳障りな吠声を聴きながら、みんなぶつぶつ言いつつ台所仕事をしていた。アパートの窓からは、いつものように水回りの音がしていた、はずだ。犬がうるさくてわからないけど。なんだってあんなに吠えるんだろう?
  
1938年
 アンドレイに朗報だ。新聞が国家保安中尉ドミートリー・イヴァノヴィチ・チェルノフの身勝手極まる自殺を報じたからだ。新聞が報じたところによると、灰色の眼の中尉は最近奇怪な反革命思想に憑りつかれていて、すこし頭がおかしくなっていたとの事だ。その奇怪な反革命思想の内容とやらも紹介されていた。
  
「彼がよく親しい者らに語っていたことをまとめると、次のようなことである。つまり、我々の遠い祖先――現生人類が旧人に取って替わったごとく、より小さな次元でも、より大きな次元でも世界は常に更新されるものである。それは善いとか悪いとかではなくただ歴史の必然であるに過ぎない。考えてみて欲しいがもし地上に――旧人しかいない、旧人たちのものである地上にただ一人だけ新人が現れたとして、彼はどうやって生きて行くだろうか? 周囲との軋轢を避け自分の正体を隠してひっそり死んで行くか、発狂するか、あるいは敢えて新しい言葉を発した結果偉人として祭り上げられるかであろう。おそらくそうした孤独な新人たちは今まで人類史のうちに何人か現れてこの三つの内のいずれかの道を辿ったのだろう。さて革命とは人類史における、より大規模な更新の萌芽である。これがいかにして起こったかというと、つまるところもはや少数派とは言えないほどに増大した新人と、それでもなお大多数の旧人との闘争、そして新人の勝利の結果である。これは上述の、より大規模な更新のごく最初の段階に過ぎない。そして更新が避けがたい歴史の必然であるなら、次に起こる事は旧人の絶滅であろう。したがって現在もっとも反動的な事とは、新人の活動を阻害する旧人をのうのうと生かしておく事であり、そのような旧人は積極的に除かなければならない。やがて彼らは地上から完全に一掃され、人類史は新たな段階の幕を開くであろう。それはより新しい人間が現れ、彼らがもう無視できぬ数に増えるまで続くであろう」
  
 なんの事だかわからんがそういう事らしい。何はともあれ、アンドレイはやっと安心した。春だった。遠い収容所では彼のために氷漬けになった者たちも溶けだし、お役御免となっていることだろう。人民の勝利だ。アパートの窓からは、いつものように水回りの音がしていた。
  
1997年
 この話をどうまとめたものだろう? あれから数年後、ドイツが攻めて来たときあのアパートは灰燼に帰したよ。爆撃されて焼け落ちたって意味さ。あの中庭の樫の木も燃え上がって、それ以来葉っぱを付けなくなっちゃったけどまだ生えてるよ。夜なんかに見ると、それが地中から伸ばされた老婆の手みたいに見えると言ったらいいかね? それが、何だっけ、アンドレイの言ってたやつ、ミーチェンカの胸に仕込んだ憎悪の種だっけ? それが育って大輪の花を咲かせ終えて、ひっそり枯れたかのように見えるとでも言えば綺麗な終わり方になるかね? ちなみにアンドレイは大祖国戦争も生き延びたからね、たいしたもんだよ。
  
 いまや国自体が崩壊して、その後に混沌が現出してる有様だ。人が氷漬けになってた例の収容所ならもう無いよ。今はその跡地は畑になってる。耕してると今でも人骨が出てくるそうだよ。気味悪がっちゃいけない、俺や君が食べてる野菜はそこから来てるんだから。なんで知ってるかって? それはあのアパート所縁の人物にその収容所跡を案内してもらったからさ。彼女はそれを免れたけど、お父さんがアンドレイに密告されたんだ。そして帰ってきたお父さんは身の毛もよだつ収容所での話を伝えたんだ。生きて帰ってこれたのは、つまりそういう事かって? そのへんは深く詮索しないよ。必ずしもそういう訳ではなかったんじゃないかな。事実っていうのは複雑なものだよ。複雑で、しかも平凡なものなんだ。彼女は僕に言ったよ。
「ミーチェンカの思想というのは、別に彼が異常な男だった訳ではなくて、私たちはみんなある程度同じ思想を、理想を抱いていたのです。みんな信じていたのです、新しい世界を。それはひょっとすると、まだ私たちには早かったのかもしれません。けれど今の人たちに何がありますか? 彼らの理想はおカネでしょう。家畜の理想ですよ、そんなもの。結局生き延びるのは、ねえ、旧人なんですね。まだまだ彼らが勝利の凱歌を上げて、道を我が物顔で歩くんですよ……」
 なんだか湿っぽい話になってきてしまったけれど、僕は見渡す限り視界を遮るものとてない、周囲三百六十度地平線が見えるような場所に来てなんだか感覚が慣れず変な気分だった。僕にはすべてを見守ってきたこの大地こそ何よりも揺るぎないものに思えたよ。だから年老いた彼女を元気づけるつもりで「スラーヴァ、エスエスエスエル!」と叫んでみたけれど、なんだかしかめっ面されてぷいと向こうを向かれてしまったな。

2022年5月22日公開

© 2022 ヨゴロウザ

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"ミーチェンカ"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2022-05-25 22:05

     誰の視点で描いているのかよく判らないまま進行し、これは作者の視点なのだろうと思っていたら終盤になって「僕」の視点だったらしいとようやく判る。冒頭で視点の主が誰なのかを読者に伝えるのは大切な約束事のはず。てか、そもそも「僕」って誰なんだよ。/たいがいの読者は、ミーチェンカがどういう経緯で秘密警察に入りどうして出世できたのか、アンドレイが何者で地元でどういう存在なのか、アンドレイが密告者だとバレたのにその後なぜ誰にも殺されないまま無事でいられたのか、さらには何度も出てくる「密告」とは具体的にどういう内容のものなのか、などについて知りたくなるからこそ多少退屈な内容でも読み進めてくれる。にもかかわらず、それに対する答えらしきものが何も提示されないまま話が終わってしまっている。わざと読者をイライラさせるために小説を書いてるのか? ミーチェンカの精神状態がおかしくなって自殺したという経緯も反革命思想とやらの内容も作者の都合でこしらえた感が強くて説得力を感じない。/掲示板で管理者さんに対して直接、合評会にはもう参加しないと公言したのは、それなりの考えがあってのことと思う(個人的には、黙って勝手にすればいいことではないかと首をかしげるが)。今後は気が向いたときにでも合評会の様子を冷やかしで見物してくれよな。/余計なお世話を承知で中国の古い諺を贈りたい。「相手を怒らせることをいとわず、本気で忠告してくれる人こそ真の友」。

  • 投稿者 | 2022-05-27 09:48

    視点人物である僕がカメラ役に徹していて、物語と主体的な関係をほとんど持たないのが好みの分かれるところだと思います。私は嫌いではないです。
    密告社会の胸糞さをもっとストレートに描けばインパクトはもっと大きかったかもしれませんが、これはそういう作品ではないのかな、と理解しました。上記の通り語り手が対象と距離を置いて淡々と語っているので、ふんわりとした感じ。

    • 投稿者 | 2022-05-28 00:09

      鈴木様、コメントありがとうございます。
      この語り手・語り口はプーシキンの『オネーギン』を模したもので、文章もちょっとロシア文学の翻訳調に寄せました。ネタばらししますが今回はソヴィエト時代の小説のモチーフ色々入れて書きました。アパートから人がいなくなるとか親しい間での密告などは事実としてあった事ですが、小説の中でもよくネタになってます。ミーチェンカの「思想」についてはトロツキーその他も同じような考えを持っていましたし、オレーシャの『羨望』などはまさに新しい人間と古い人間の交替がテーマで、これがソヴィエト連邦のイデエの一つなのかなと思ったので。

      よそから借りてきたツギハギだらけではないかという話ですが、言語、文化、何から何まで違う外国の話をリアルに感覚的に書くのは自分には難しすぎましたので、そういうパッチワークな感じで、『オネーギン』みたいな物語詩風にしていかにも作り物感・虚構感を演出してみたかった感じです。

      著者
  • 投稿者 | 2022-05-28 01:03

    ドミートリーの思想や自殺の理由がよく理解できなかったので、私も「なんの事だかわからんがそういう事」かと受け取った。あえて内面に踏み込まない語りを用いた目的についてもっと話を聞いてみたい。あと「俺や君が食べてる野菜」と「彼女はぼくに言ったよ」のところで一人称がゆれている?

  • 投稿者 | 2022-05-28 08:33

    視点人物がよく分からないところにこそ、密告のはびこる社会がうまく表現されているのだと私は思います。

  • 投稿者 | 2022-05-28 10:22

    この話を絵本で読みたい。って思いました。いや、そのままでも面白いんですけども。でも絵本にしても面白いと思うんです。私は。これを読んでる時に、
    「ああ、ページめくってミーチェンカが夜の外の雪が降ってるドアの前に、顔がよく見えない状態で軍服的なものを着て立ってる絵があったら、凄く見たい!」
    って思って。

    はい。感覚的な想像なんですけども。そういうシーンがぶああって出てきました。

    ええ。だから絵本にして、絵はクレヨンで描いたような絵にして、絵は全部じゃなくて所々で、勘所で出てきたらもう、それはもう。

    それはもうじゃないかなって。すいません。感覚的過ぎてわかり辛いですね。

  • 投稿者 | 2022-05-28 18:42

    グレーの粘土を食ってるみたいなソヴィエトの雰囲気がうまく滲み出ているように思いました。ちょっと後半息切れして密度がキープできなくなっている印象があるので、チャージして後半リテイクしたらまた違った印象に仕上がるかも。

  • 投稿者 | 2022-05-28 23:19

    ロシアらしさが満載で楽しめました。ソ連崩壊まで暗い話ばかりですが、御伽噺風で軽妙な語りが良かったです。

  • 投稿者 | 2022-05-29 00:31

    グレーの粘土みたいな密告社会のどんよりした空気感をうまく全体に滲ませることに成功しているように思う。一人称小説においては、語り手は誠意を強要されない。必ずしも理路整然と全てが語られるわけではないということは常に念頭に置いておきたい。

  • 投稿者 | 2022-05-29 01:53

    誰が何を喋っているのかよく分かりませんでした。
    すみません。

  • 投稿者 | 2022-05-29 08:31

    噂話風な語り口が一貫していて上手い! と思いました。貧弱な語彙になりますが、なんというか、ソ連っぽいモチーフが散りばめられていて世界観も上手く構築されているなーと感じました。

  • 編集者 | 2022-05-29 18:50

    他の方がみんな良いことを書いてしまった。整理されていないところが、密告社会の息苦しさを表していると思った。

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