蒼黒い大きな渦

合評会2022年07月応募作品

ヨゴロウザ

小説

4,308文字

ほとんどお題と関係ない内容になってしまいました。すみません。

 心の中とはよほど広いものであって、自分のものでありながらどこに何があるのかどこがどうなっているのかわからないものではないだろうか。感覚としてそれは胸のごく狭い範囲、心臓のある部位に重なって位置しているように思えるけれども、実は普段これが自分の心だと思っているそれは本当にごく限られた部分であって、全体像を俯瞰するなどとうてい無理なのではないかという気がする。きっと私たちは一生のあいだ自分の心の中を行ったり来たりしているだけなのだ。それが私たち一人一人の世界なのだ。そして誰もが自分が行ける限りの、きっと全体の千分の一にもならない範囲でだけ活動して、その外に広がる広大な領域を知ることもできないままに生を終えてしまうのに違いない。
  
 ……こんな妙な事を考えるのもこのいつ終わるともしれない自粛生活のせいに決まっているのだ。今は文字通り全世界が戸を鎖している。おかげで妙な事を考えているだけならまだしも、最近はなんだか変な音が聴こえるようにまでなった。眠ろうとして灯りを消してしばらくすると、自分の心臓の辺りから風呂の栓を抜いた時のような、なにかが静かに、ゆっくり吸い込まれていくような音がするのだ。最初は本当にどこかで風呂の水を抜いているのかと思った。けれどそれはいつまでも終わらない。それは決して不快な音ではない。ただ不安な音というだけだ…………
  
 記憶を辿ってみると、一番最初にそれを認識したのは駅の出入り口が封鎖されて列車に乗ろうとしている人々と官憲が揉み合いになっている映像でだっただろうか。その××という都市で発生した新型ウイルスの伝播を防ぐために、その街への出入りを禁じるためというのだったが、正直何が起こっているのかもよくわからなかったし、実は××という都市の名前も初耳だった。ただ東京以上の人口を有するというその都市を丸ごと封鎖するという話を聞いてなんともスケールの大きい話だと感心していた。私は東京以上の大都市など想像もできない。
  
 そして春になった頃には、諸外国では都市どころか国境も封鎖されているとか、外出しているところを見つかれば罰金を取られるとか、ある国では麻薬カルテルだかマフィアだかが人々の外出を取り締まるためにマスクを付けて銃を持ち、自警団のごとく見回りをしているなどいう話も伝わってきた。ある大都市ではウイルスに感染して死亡した、その遺体の数々を収納しきれなくなって路上に棺が溢れているなどいうニュースも画像付きで報じられていた覚えがある。 
  
 いつからか私の生活圏でも、どこに行っても店員さんが揃ってマスクを着用している異様な光景を目にするようになった。ははー例のあれですか、いま怖いですもんねーなどと呑気にレジで立ち話していた期間を経て、気が付けば外出そのものができなくなったのが今の有様だ。外出したところで法的に罰せられるような事はないし公共交通機関も動いているけれど、職場への出勤さえ禁じられた今となっては特にどこに行く当てもなくなってしまった。出掛けてみたところで地元の駅前でも街でも店がどこも開いていないのだからしょうがない。それにしてもいつも賑わっている場所が軒並みシャッターを下ろして人影もまばらなのを見ると、特にその実感も無いままに今は非常時なのだな、疫病下なのだなと思わずにいられなかった。
   
 この新型ウイルスに感染すると、最初はちょっとした風邪のように思えてもすぐに呼吸困難におちいり意識不明になり、数日のうちに意識が戻らないまま死亡するという話だ。私も最近になってようやく、そこはかとない恐怖を感じるようになってきた。自分もこれで死ぬのかも知れないと、冗談ではなくそう考えるようになってきた。それにしても不思議なのはこんな全世界的全人類的な状況の只中にありながら自分の身近にただ一人もの感染者もましてや死者も見当たらない事だ。メディアは連日、ついにどこそこでも感染者が出たというニュースばかり報じているのに……自分が知らないだけだろうか?
  
 今日はついに狭い部屋の中にこもりっきりでいるのに疲れて、郊外の公園まで出掛けてきた。最近のこんな状態はやりきれない。どこか広い開放的な場所で過ごしたかった。なのに公園にはかなりの人がいたので、なんだか拍子抜けしてしまった。誰もが自分と同じく強いられた外出自粛に飽き飽きして広い場所を歩き回りたかったのだろう。ただみんな妙に静かで声を立てず、マスクをしていない私を見ると眉をひそめて顔をそむけるのが通常と異なるようだったが、それ以外は何も変わらない。むしろ人が多すぎて落ち着けないぐらいだ。私はゆったりして緑豊かで静謐で、誰の姿も見当たらない、そんな終末の光景を期待していたのに。
  
 私は目の前の平和な、花の香りが混じった風に若葉が揺れ、人々が行き交う広い公園の景色を見ながらつらつら考えていた。滅亡の光景というのはひょっとしたらこういう風な明るいものなのかもしれない。それがやってくる時というのはやはり春で、こんな穏やかで、一挙に起こるのではなくひっそりと進行するのではないだろうか。ところがその平和な風景にはすでに何かが潜んでいるのだ。ウイルスとは生物なのか何なのかもわからない、普通の顕微鏡では見ることさえできない微細なものだと聞いた。そんな目に見えない得体の知れないものが世界を、少なくとも人間の世界を滅ぼしてしまうなんて不思議だ。誰の目にも見えないほど細かくて、そのくせ全世界を覆い尽くしているもの、それはいったい何だろうか? だからウイルスだろという無粋なツッコミは入れないでほしい。私が言っているのは別の事だ。たまたま今回ウイルスという形で顕れた、そのものの本質のことを言っているのだ。今夜はその事についてじっくり考えてみよう…………
  
 それはともかくとして、なんだか怠くて鼻水が出る……やっぱり早く寝た方がいいかもしれない。
 というか寒。震えてきたんだけど大丈夫だろうか。息が苦しくなってきたよ……
 もしかして感染した? まさかとは思うけどこれ……
 無理、苦しい。119番。119
    
***
  
「もう皆さん行ってしまいましたよ。残っていたのはあなただけです」
 私は船に乗せられて島を目指していた。海は静かで波が無かった。ただ、貝殻を耳に当てた時のような音がずっと聴こえていた。やがて島が見えてきた。
 島は、それ自体が一つの廃墟だった。一時間もあれば徒歩で一周できてしまいそうな大きさの島なのに、てんこ盛りに積んだという風に高層建築がひしめき合っている。それは全て赤茶けた錆に覆われ、窓だった部分がぽっかり開いていて、なんだか腐った巨大な生物のむき出しの骨のように思えた。誰の出迎えもないまま私と、その一度もこちらを振り返ろうとしない変な男とは上陸した。
「みんなどこへ行ってしまったんですか?」
「さあ。どこへ行ったという訳でもないのでしょうけどね。帰るべきところに帰ったんでしょうね」
「ここはどこです?」
「どこって、ここはあなたが遺した全てです。あなたの世界が遺した全てです」
 要領を得ない話をしながら、その男はぐんぐん歩いて行った。私は黙ってついて行った。歩きながら、私は島に草一つ生えていないことに驚いていた。虫やトカゲの類も見当たらない。半壊した建物のその残りが虚しく突っ立っている。さっきから聴こえていた音がだんだん大きくなってくる。
 男は島の中心まで来ると足を停めた。私もそこで立ち止まった。そこには巨大な穴が開いていた。穴ではなく、よく見ると渦だった。言うなれば島の底がぽっかり抜けていて、物も言わずなんでも呑み込んでしまうような蒼黒い渦が覗いているのだった。それは艶やかに緩やかに旋回し、中心に近づくにしたがって黒ずんでついには全宇宙の重力がそこに集まっているがごとき不気味な黒さを呈していた。
 ここが私の心臓で、ここから音が聴こえていたのだとわかった。廃墟の中でこの渦だけがみずみずしく、生きているもののように思えた。
「ここです。ここが全ての行き止まりです」
 男は振り返らずにそう告げた。今度ばかりは私も、みんなこの渦の中に入って行ったのだとわかった。
「だけど、この中に入ったらどこへ行くんです?」
「…………」
「海の底ですか?」
「…………」
「私がこの中に入った後も、この島は残るんですか?」
「ええ。誰も訪れる人はいないでしょうけどね。ただここで朽ちているだけでしょうけども」
「そうですか……」
「誰でもそんなものです。それに、本当はこの島だって残りません。最後に残るのはこの渦だけです。私たちはみんなここから来たのです。結局はここに帰るのです」
 私は無言で渦を覗きこんだ。もう本当に戻れなくなるのだ、なにもかも忘れてしまうのだと思うと寂しくなった。私には覚悟ができていなかった。あたりは他に何の物音もせず、ただ渦の音が決断を迫るように静かに高まってきた。………………
 
***
  
 私は二週間ほどで無事退院した。深刻な後遺症が残る可能性もあると告げられたので少し心配だったが、私はすっきりした気分だった。ずっと私を悩ませていたあの風呂の水が抜けるような音がぱったり止んだからだった。ほどなくして社会も、限定的にではあるが徐々に日常を取り戻した。けれど私はなんということなしに仕事を辞めてしまった。私は決してうまく逃げおおせた訳ではない、ただ猶予を与えられただけなのだ。なにか新しいことを始めるいい機会に思えたのだが、それから数年経った今となってみると、私は特に新しい人生を生きている気もしない。今となってはウイルス自体が脅威ではなくなった。当分のあいだ完成しないと見られていたワクチンがかなり早くに出回り、当初に世界保健機関の事務局長が世界はもうウイルス伝播以前には戻れないなどと言っていたのが遠い昔のことに思える。ひょっとすると後世の歴史家は、どうってことのない風邪の大流行に世界がパニックにおちいった滑稽な時代と考えるのかもしれない。
  
 今ふりかえると私はあの異様に静かな春の、ごく短い期間を懐かしく思わなくもない。あの不気味でいながら心地よい渦の音をもう一度聴いていたいとさえ思う。あの音が聴こえなくなってから、おかしな話だけれど私は自分がすでに死人になってしまったような気がする。だから私は今度砂浜へ出かけて、手ごろな巻き貝の貝殻を探してこようと思う。それを耳に当てたならあの音をまた思い出せるかもしれない。きっと世界それ自体が、自身の去ったあとに大きな一つの貝殻を遺すのだ。そしてそこで永劫の虚無が鳴り続けているのだ。私はそんな考えに憑りつかれるようになった。

2022年7月14日公開

© 2022 ヨゴロウザ

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"蒼黒い大きな渦"へのコメント 14

  • 投稿者 | 2022-07-17 04:35

    なんだかきっと、この時代が、遺産としてどこかに残っていくような気がします。
    どんな形になるかはわかりませんが、、、時代を、まるごと残せたらいいんですけどね

  • 投稿者 | 2022-07-20 00:58

    驚いたのが細かな描写ですね。特に匂いの描写が多かった気がします。
    豊かで賑やかだった街がウイルスのせいで無くなる。でもそれも街の遺産・・・。
    面白かったです。

  • 投稿者 | 2022-07-20 08:18

    何この話、こわい。超怖い。あの男の人誰?超怖い。一度も振り返らない知らない男の人超怖い。なんであの人要領の得ない話をすごいしてくるの?超怖い。要領のえない話をしながら、ぐんぐん歩いて行く男の人超怖い。すごく怖いんですけど!

    え?怖いって思ってる私だけ?

  • 投稿者 | 2022-07-20 09:15

    コロナ渦が後世の負の遺産となるかもしれませんね。夢の中の出来事として語られていますが幾つかのパンデミック小説で感染者が孤島で隔離される話があります。この後変異を繰り返し毒性が強くなりそれが現実の出来事にならないように願うばかりです。

  • 投稿者 | 2022-07-22 11:44

    夢の中の島が世界遺産の象徴だとすれば、誰も訪れることなく「ただここで朽ちているだけ」という表現は痛烈な皮肉であるように感じました。
    死の淵をさまよったときにどんな夢を見るのか、どんなことが頭に浮かぶのかなどと考えさせられました。人間は死だけは経験できないなんて言われたりもしますが、だからこそ様々な芸術で表現されうるテーマなのかなと思います。

  • 投稿者 | 2022-07-23 07:19

    諸星大二郎の漫画のような不条理感があってよかった。コロナの後遺症で最も深刻なのは生きる気力を奪うことなのかもしれない。

  • 投稿者 | 2022-07-23 14:12

    たしかにコロナ禍は、ふだん遠ざけているけれども、誰もが死に向かって生きているのだと嫌でも気付かされたことでした。「風呂の水が抜けるような音」と言う秀逸な比喩と共に言語化される「死」を巡る内省が、人の儚さと強さを見せてくれたようで、心に残る作品でした。

  • 投稿者 | 2022-07-24 05:51

    ステイホームで家にこもる生活を続けながら、芸能人のこの人やあの人が自殺したニュースを見ていたころの閉塞的な気持ちを思い出した。現実的な意味での他者が登場しない代わりに、自分の内側をとことん凝視し、描写しようとする姿勢はすごく評価できる。

  • 編集者 | 2022-07-24 14:07

    夢の描写は面白かったです。そちらをメインにすると細やかな描写がさらに生きると思います。現実的な思考を連ねるのはいいと思うのですが、スーパーに並ぶ人々の背格好や救急車で運ばれた後の病院でのコロナ禍の惨状が描かれると、さらにその心理描写が生きるのではないかと感じました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 21:30

    とりとめもない日常が遺産になる。実際の世界遺産にもあるんですよね、原爆ドームにポンペイに。それの意味することを改めて考えさせられる作品になっている点で題に対してかなり誠実な作品であると感じました。

  • 投稿者 | 2022-07-24 22:42

    お題と関係ないと仰ってますが、「時代」が世界遺産になるならコロナ禍時代は後世間違いなく世界遺産になりますよね。そういうことを考えさせられる作品でした。
    奇を衒わず、技巧に走ることなく、真摯に小説に向き合う筆者の人格が偲ばれます。

  • 編集者 | 2022-07-25 11:53

    日常への描写が良い。他の方も書いているが、世界遺産もかつては日常の風景だった(それが建物なり分かりやすい形になっているだけでしかない)ということに思いを馳せる。

  • 投稿者 | 2022-07-25 21:00

    お題からは逸れてるかもしれませんが、良い雰囲気の作品でした。音は胎内みたいなイメージでした。
    最初の長文でひきつけられました。

  • 投稿者 | 2022-07-25 21:49

    一見すると、真ん中の段落がダイアローグのように見えて、その実、心象風景だとすると、最初から最後までモノローグなんでしょうか。
    遺産の話をしつつ、非常に自己完結的な作品だったなと。

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