幸福論

島津 耕造

エセー

4,506文字

高校生の頃に書いた作品です。

4 幸福論 ?
人を愛することで自分は何を得ているのでしょうか?
人間のいう愛とは、分けられるものなのでしょうか。

僕は愛とは一つのものを得るものだと考えています。
それは相手との心の調和です。
よく、肉体的な愛と精神的な愛は区別されますが、それは違うと僕
は考えます。
精神的な愛とは一口に言って、相手との心の調和、つまり、相手の
心を自分が受け入れることをでき、相手も自分の心を受け入れてく
れる、そのような条件が一致したと、確かめられるとき、即ち、調
和するとき、成り立っていると言えると思います。
肉体的な愛とは、発端は確かに性欲でしょう、、、しかし、それは
性欲を足がかりにした、調和を目指す感情だと僕は考えます。肉欲
のみであればどうして、相手のことを知りたいと思うでしょう、ど
うして、相手を大切にしようと思うでしょうか、肉欲だけなら、性
行為が目的であれば良いのです。しかし、肉体的な愛と言うものも、
肉欲を足がかりにしながら、しかし、主根は、もっともわからない
異性と言う生き物に対しての調和を求める行為だと考えられます。
そして、最後に自己愛。これは、いうままに、自己を愛することで
すが、これは間違いなく調和を目指す行動です。自己愛とは、ただ
愛するのみが其の手段ではなく、例えば、なんらかの信念を持つと
か、目的を持つとかでも、「今、自分は素晴らしい人間だなあ」と
か、いう自己愛そのものが生まれてくるでしょう。
ええ、本当は愛と幸せについてですが、それには幸せと調和と言う
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ものについて考えなければいけません。
それでは調和と言うものは、どのようなものと想像できますか?
自分の精神、信念の調和、相手の心との調和、集団の意思との調和…
ここから何を感じることができるでしょうか?これはまさしく幸せ
と呼べるのではないでしょうか?
人々がまず叫ぶ幸せというものに、生理的欲求というものがありま
す。これを満たすのが幸せと言えるでしょうか?それは確かに肉体
的な満足と言えるでしょう、、しかし、そこに精神的な満足なしに、
幸福と言えるのでしょうか?
例を挙げて、食欲について考えてみましょう。
貴方はきっとご飯を食べたとき、幸せを感じるでしょう。それは何
故でしょうか。ご飯がおいしいからでしょうか、それとも、お腹が
みたされたからでしょうか。いいえ、違います。どうして、おいし
いものを食べると、幸せになるのか。。。それは、おいしい、とい
う、感覚に、自分の心が賛同し、それをいわば「信念」のようなも
のとして調和が生まれるから、生まれる幸せだと考えられます。
よく、いわれるのが、「お腹が減っているのに、いつもはおいしい
ご飯を食べても、確かにおいしいんだけど、味がしない。」
絶対にこの人は、いつものように、おいしい味、を感じているでし
ょう。しかし、別のことに頭がいっていて、幸福を感じられないの
です。それは、その人の心が、そのおいしいと言う、一つの現象と、
調和していないからです。
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5 幸福論 ?
受動的作用…肉体的・精神的快楽への欲求
能動的作用…価値・意味のあるもの即ち真実への精神的欲求
簡単に言えば、この二つの欲求が、同時に、満たされたとき、それ
を調和と言い、幸福は生まれる。
言い換えれば、受動的作用が満たされ、それを真実と精神が能動的
に認めたとき、そこに幸福が生まれる、ということです。
何故之を調和というのかというのかといえば、偽りの幸福と言うの
を考えるとき、人間がこの二つの要求が、調和しない状況になるべ
き、と僕が考えるからです。
精神的作用というのは価値を認めたときに満たされるもので、「人
生において意味のあるものは何も無い」という真実を見ることによ
ってそれは満たされなくなり、しかしながら、それから逃避するこ
と、即ち快楽を盲信することは精神の自由を自ら遮断すると言うこ
とです、よって逃避すべきではないから、つまるところ、盲信によ
る調和は認めらるべきでないと言うことになります。
盲信による調和による偽りの幸福は人間の精神を殺すものです。
そこで考えることは
・我々は幸福を求めている
・そして我々は真実を何者よりも尊重しなければならない
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ということです。
ここで、真の調和による真の幸福と言うものを考えます。
それは、人生が無価値であることを認めながら、無価値と言う真実
を愛することです。
今、人間の精神に欠落していたのは真実です。これによってこの真
実を認めることで、その精神は虚無的な精神を虚無的なまま維持す
ることができます。
普通に愛すると言うのとは意味が違うかもしれません。
普通に愛すると言えば、その対象の価値を全面として認める偽りで
すが、僕の言う愛するは、その価値の全く無いことを全面的にうけ
いれるということです。
それは空っぽに違いありません。しかし、それは空のままそこに真
実として存在し続けるのです。
之が真の調和であり、有る意味真実と幸福の調和と言えるのかもし
れません。
この調和が無ければ人間は真実から目をそむけてしまうか、幸福に
なりたいと言う心を偽ることになるでしょう。
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6 幸福論 ?
欲求を受動的作用、能動的作用と分けたのではありません。
肉体的欲求を受動的であるとして、これを受動的作用としました。
精神的欲求を能動的であるとして、これを能動的作用としました。
欲求を肉体的なものと、精神的なものに分けたのです。
肉体的なものと精神的な欲求との境界は、それが外部のものに依
存し反射的に働くか、唯そのもののみで働くか、というものです。
それによって、更に、受動的であるか、能動的であるかということ
が明確に分かれます。
無価値を受け入れることは、盲信を捨て受動作用から精神が開放
されることによって精神の自由を手に入れることであり、又、能動
作用の要求である真実と幸福を調和させることであります。
価値が無いということは、能動的作用である精神の真実への要求
にすれば、それは絶望であるかもしれません。しかし、それを積極
的に認めること、即ち調和によって、精神は自由と真実を保った新
たな精神として生きることができるのです。
今、考えたことですが
我々は受動的作用を自らの心に認めるときそこに死を見るのかも
しれません。受動的作用が感覚のうちに生まれることは、それ自体
が、有限的な人間と言うものを現しています。これによって外部か
らの反射的受動作用を避けられない、たとえそこに精神の自由があ
ろうと、さけきれない、死を確認するのだと思います。
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死後の世界を証明できない限り、人間にとって死とは、死後の世
界については考えないにしても、意識を失うこと、永遠に眠ること
と、捕らえられるでしょう。眠りとは、覚めるから、その眠りと言
う言葉の真実を知ることができるのであって、覚めない眠りなら、
我々は永遠に死を知ることがないと言えるでしょう。
過去は記憶です。それ以上の世界はこの世界にありません。有る
とも想定はできますが、少なくとも認識できません。
無価値と言うことを認めることは調和、精神の自由です、むしろ
真の幸福であると言えます。
僕のうちで唯一つ要求されるのは、偽りを捨て真実のみを知るこ
と、唯それだけです。

これまで説明したように、人間の真の幸福とは真実と精神の自由によって得られ、受動的作用に支配されれば精神の自由と真実は得られずに真の幸福というものは得られないということを説明しました。
これまでで我々の精神の自由というものは生きることの無価値を認識することで受動的な作用の誤った価値をすてさることにより保証されます。次に満たすべきは真実への能動的要救です。
幸福論は能動的欲求を満たすべき、というところまで着た。能動的欲求とはそれ自体で価値を持つ真実を求めるものだ。では真実とは何か。それについて考える。
真実と事実は同じものと考えることはできないだろう。しかし、事実とは真実に含まれるものだということは言える。「***が犯人である」このようなことも真実である。しかしながら真実が価値を持つためにはそれがより普遍的なものでなければならない。そのためには真実とは移り変わり行く人間の行動のひとつひとつに関するものよりも人間の在り方、この世界、などの移り変わり行くものに直接関係を持たないものであった方がより大きな価値を持つといえる。
これによって人間の能動的要求は満たされる。

 

真実と美

これまで僕が人間が求めるべき第一のものとして考えていたのは人間の精神の自然からの独立であった。しかしそれは美と死について考えた時と同じような結論を下せてしまうのではないかと考えはじめた。則ち、美への愛が死への恐怖から生まれた永遠性への憧れであったように、精神の独立も死への恐怖から生まれた永遠性の憧れではないかと言うことだ。そもそも精神の独立とは自然から逃れようとすることだ。それは何故生まれるのであろうか。ただ精神とはそういったものだ、という考えを持つ方もいるかもしれない。しかし、僕にはこれが死から逃れるための生存欲、この言葉で片付けて良いものか解らないが、とにかく死にたくない、という恐怖から生まれるものであるというように感じる。こう考えると真実とは美の一部であるということがわかると思う。

しかし、精神というものがあるということは認めよう。そして精神は先に考察したような性質を持つということも認める。ただそれが、全てはせいぞん欲に基づくということだけに留意してほしい。つまり、この精神にとっての真理の価値の僕の説明はつまり、精神の欲求の作品だということだ。精神とは何かといえば、それは欲求に調味料を持たせるようなものだろう。性欲だってそれは交合をすればすむものを、芸術などに表現しさらにそれを大きな満足を得られるものとするのだ。例えを引き継いで芸術について考えてみると、それは性欲に価値を与えたものだといえる。価値を与えるとは何か、価値とは何なのか考えてみようと思う。

価値とは

価値の性質を考えてみるとそれは自らにとって永遠に正しいと認められるものであるということがある。ここでまた「永遠」という言葉がキーワードになる。この言葉が出てきたらまずこれは死への恐怖の裏と考えるべきだろう。則ち生存欲である。よって価値とは則ち生存欲のことである。
よって欲求に降り懸かる調味料はいつでも価値、生存欲の為せるものである。しかしそれは果たして正しいものかと言われればそれは定かでない。いつでも我々は有限的である。こう考えると価値は失われてしまう。
ここまで考えてきた価値の捉え方は生存欲のなかでも死にたくないという欲求、永遠に生きたいという欲求のみに絞ってあり、それは精神の独立というときに働く生存欲について考察してきたためであった。
しかし生存欲には先にあげた消極的な要求だけでなく積極的なものもある。それは生きたいという欲求である。消極的な欲求はこの積極的な欲求が十分に満たされない不安から生じたものであろうと思う。積極的な欲求は積極的に価値を生み出し、消極的な欲求と異なり、矛盾することがない。よってこの価値は認められる。

2020年12月5日公開

© 2020 島津 耕造

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