ゲンちゃんはカワウソとかビーバーを思わせる風貌だった。小さな丸い目、白い前歯が唇から飛び出ており、色黒で痩せこけてカピカピの鼻水が頬に線を引いていた。お下がりの学ランは襟がぶかぶかだし、ズボンの裾は地面を引きずって擦り切れ、肘や膝や背中は脂が浸みてテカテカになっていた。皆で列を作って歩けば必ず遅れ、挨拶をすればワンテンポどころかツーテンポ遅い。
国語、英語、社会、体育、図工、家庭科、音楽と、ゲンちゃんは見事にオール1だったが、数学だけは全校トップで理科(特に物理系)の成績もまずまずだった。始めて習った方程式の解法を黒板に何通りも書いて見せたりするので、先生も生徒もゲンちゃんには一目置いていた。とはいえ、何しろいつもヘラヘラ笑いながら何ごとかをつぶやいているので、みんな気味悪がって近づかなかった。でも私は構わずによく一緒にいた。保育園も小学校も同じだったのでゲンちゃんのことはよく知っていた。
夏休みが終わった初登校日、家庭科自由研究の成果物を提出しなさいと言われ。皆が手縫いのバッグやらボックスやらを見せ合う中、ゲンちゃんは丸っこい円錐状のモノを恭しく差し出した。
「何ですかこれは?」
と尋ねられてゲンちゃんは意気揚々と答えた。
「うんこ型のクラインの壺です」
それは油粘土でこしらえた明るい茶色の円錐で、上向きの先っちょがぐにゃりと下に曲がって己れ自身に突き刺さっていた。大きさの具合がまた絶妙にちょうどよくてご丁寧に段々まで入っているものだから、先生の手のひらにちょこねんと乗っかった様はまったく「うんこ」そのものであった。
「なんでこんなもの作って来るの!」
先生は半ば呆れ半ば激昂してブツをゲンちゃんに押し返し、作り直しなさい! と怒鳴った。ゲンちゃんは心外そうな様子で抗議を試みたものの、普段から大人が聞く耳を持たないことには慣れていて、口をちょっと尖がらせると、クラスメートの笑い声の中「うんこ」を持ったまま飄々と出て行った。
なんとなく気になってホームルームの後に探しに行ってみた。いる場所はきっと裏庭の花壇の陰だ。萎れたひまわりの葉っぱの下にゲンちゃんの小さい背中が見えた。目の前に流れているいたち川が正午の日光でキラキラ光っている。ゲンちゃんはブロックの上に腰掛けて何やら呟いている。その足元には野良猫が寝そべっている。
「うんこは宝物なのになあ」
ゲンちゃんの声はまだ小学生の頃のままだ。
「汚いし」
「汚いけど、大事なものがいっぱい詰まってんだよ」
「身体に要らないもの捨ててるんでしょ?」
「身体に要らないけど大事なの。身体も内臓も血も病気も全部出ちゃうんだよ。うんこって自分自身なの。裏と表のようなもんだよ」
意味がよく分からなかったので、さっきの「うんこ」を見せてもらった。
「これ、うんこじゃなくてうんこ型のクラインの壺だよ」
言いつつ「うんこ」の先っちょを撫でた。
「底に穴が空いてるでしょ」
この穴が先っちょの輪につながっていて、穴をたどればうんこの内部へ到達するのだと言う。
「これ裏も表もないの。表と思ってこうやってなぞってくと裏に入るでしょ? でこうしてくとまた表に出るでしょ?」
しかし田舎の子供の素朴な頭では、ゲンちゃんの説明がよく分からなかった。分かったような分からないような顔をしている私を見てゲンちゃんはつまらなそうに鼻をほじった。
「例えばね、頭とお腹一緒に痛くなって、頭をこうやってお腹に突っ込んだとするじゃん」
と、ゲンちゃんは前かがみになる。そんなことができるものかと言いかけた私を無視してゲンちゃんは続ける。
「頭をお腹にぶっこんで、胃袋も腸も突き破るとさ、お尻の穴まで出るでしょ? お尻の穴から顔を出すと外が見えるでしょ? それでね、口から水を飲むと、喉を通って水がどんどん体の中に入って来てお尻の穴まで来ると、顔が水で濡れるんだよ。これがクラインの壺。俺らはみんなクラインの壺なんだよ」
「はあ……はあ?」
無茶苦茶な例え話に呆れ返っていたのだが、感心していると勘違いしたらしいゲンちゃんは、得意そうに鼻を鳴らそうとしたのだが代わりに鼻水が飛び出してきた。そこで手の甲で鼻の下をひゅるっと拭った。
「同じようなのがあってねー、この猫」
真昼の日差しを受けて寝ているブチ猫は日干しになるのではと思うほど長々と延びていた。ゲンちゃんは両手で猫を丸めて頭とお尻をくっつけた。猫はされるがままに寝ている。
「頭、背中、お尻、で、また頭に戻ってくるでしょ」
それからゲンちゃんは猫の背中をくるりと一ひねりして白いお腹側を頭にくっつけた。猫は依然として知らん顔をしている。
「クラインの壺の平面版でメビウスの輪っていうの。表にいたのにいつの間にか裏にいるの。裏からまた表に戻って来るの。頭、背中、お腹、ちんちん、ほら、頭の後ろ行ったでしょ、背中、お尻・・・・・・ギャーッ!」
ゲンちゃんの手を猫が思い切り引っかいた。
「ゲンちゃん、血が出てる!」
慌てて花壇横の水道からホースを引っ張ってきて手を洗ってやったら、ゲンちゃんはベソをかいていた。
「このバカ猫! うっ、うっ、うぇーん! ……バカ猫ぉ」
顔中が涙と鼻水だらけになっていたので拭いてやりたかったのだが、あいにくハンカチは傷口に巻いてやってしまっていた。ゲンちゃんはそれでも左手で大事そうに「うんこ」を持って帰って行った。
その年のうちにゲンちゃんは家の引っ越しで転校して行った。転校先でゲンちゃんがうまくやって行けたのかどうかは知らない。ともかくそれ以来私の頭の中には、うんこ型のクラインの壺と猫の姿のメビウスの輪が中途半端に残ったままになっている。
その後、ウロボロスとか、無限ループとか、さまざまに回帰するものを知り、やがて回文作りを趣味にし始めたのは、ゲンちゃんの遺徳の一部に違いない。いや、ゲンちゃんが死んだと言う話はまだ聞いていないが。
この子根暗!クライン変態壺
今、屠殺さ。だんだん死んだんだ。さっさと埋没。
異端変異楽々、猫の子
このこねくらクラインへんたいつぼ
いまとさつさだんだんしんだんださつさとまいぼつ
いたんへんいらくらくねこのこ
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