伝票もどきのメモ用紙を広げ、レジの正面に立つ。
店員三号も、ワンピースにエプロンをしていることに変わりはない。しかし髪は栗色にカラーリングされ、肩までのセミロングにウエーブがかかっている。そして一号二号とはまったく異なる微笑を向けてきた。陽だまりのような優しい顔。薄く塗られたオレンジのシャドウも、他の二人にはないものだった。おそらく一番若いだろう。
「ありがとうございます」
店員三号はメモ用紙を受け取り、レジを打つ。チーンという頼りない音がした。
「二百八十円になります」
コーヒー一杯二百八十円。微妙に安い。鞄から小銭入れを出し三百円を渡した。お釣りをくれた店員三号の爪は透明のマニュキアで桜色に輝いている。
「あの、コーヒー美味しかったです」
「それはありがとうございます。自家焙煎なんですよ」
愛想のある店員三号に、ずっと言いたかったことを切り出した。
「あの、実はですね、おたくの看板をその、自転車でぶつけて、ちょっと……壊してしまったんです」
「看板、ですか?」
「店の前の道路に出ていた看板です。それでお詫びしようと」
自分が悪いのは半分くらいだ、と思っていたが無論そんなことは言えない。
「ああ、あの看板ですか。壊れてしまったのですね」
「はい・・・・・・すみません。坂道なのでブレーキが効かなくて。両面のプラスチック板が割れて、中の電気も壊れてしまったようです」
「そうですか」
店員三号はニコニコと微笑んだまま、ゆっくりと頷いた。
「仕方ありませんね」
仕方ない。たしかに壊れてしまったものは仕方ない。だがそれで済ませてもらえるのだろうか。
―――そう思った途端、突然激しい吐き気が胸の奥からせり上がってきた。仕方ない、という言葉が頭をぐるりと一周し、吐き気を攪拌している気がする。ぐっと飲み込んだが、今度は背中から指先まで嫌な悪寒が走る―――
「すみませんお手洗いはどこですか」
自分の顔が冷たくなっていくのがわかる。
「そちらです。大丈夫ですか? お顔の色が」
店員三号の声が少し遠くから聞こえる。レジの向かいにある扉に<TOILET>と書かれているのを確認すると、急いで駆け込んだ。
入ってすぐに便器はなく、洗面台があった。もう一つの扉を開ける余裕がない。頬の髪をかき上げて洗面台にうつ伏せた。
吐き出したのは、褐色のコーヒーと胃液が混じったものだけだった。喉と鼻の奥に酸味がはりつき、他には何も出ない。吐けない事が辛く、しばらく排水口をにらんだまま「うぇっ」と呻く。涙が滲む。鏡に映る自分を見たくない。
うつむいたまま蛇口を捻り、口をゆすいだ。指先で目尻をぬぐう。吐き気はおさまったが、まだ酸味がひりひりと喉の奥にこびりついている。
煙草の葉とコーヒーと無花果の茶色が重なって、体の中を這い回っているような不快感。そこに子供の柔らかな足の残像が混じると背筋に悪寒が走った。
WTV ゲスト | 2009-11-09 20:09
オーナーの人物像が気になります。
「誰ですか?」と言われても、ねえ。