佐々木、愛なのか?(1)

佐々木、愛なのか?(第1話)

青井橘

小説

4,916文字

佐々木晴男の一日は、数字と対峙することから始まる。

その数字は、新聞の経済欄や株式市場とは何も関係がない。その数字は、今月の交通死亡事故件数にも、ここ数年の少子化率推移にも影響されないし、遠い国の戦争で失われた命の数など測る事は出来ない。

[おこづかい帳]と油性マジックできっちりと書かれた大学ノートを埋める数字は、佐々木晴男の生活を記したものに過ぎない。

 

佐々木晴男は、深緑の遮光カーテンで北と西の窓を塞いだ六畳一間のアパートで、毎朝七時半に目を覚ます。しばらく暗闇の中でじっとしたまま、ぴよぴよぴよぴよ小鳥の声を聞く。小鳥たちはみな、近所の主婦よりも高い声で早口に囁くので、佐々木晴男の神経に触れる。けれども、毎朝その苛立ちを充分堪能した後、ゆっくりと上体を起こし、尻の下で硬くなった布団の湿り気を感じると、妙に安心するのだった。

口の中が粘ついて、軽い口臭がするのに気がつき、腕を伸ばして枕もとのスポーツドリンクを飲むのだが、生ぬるく無駄に甘い液体は、佐々木晴男の渇きを癒さない。

また夏が来る。

スポーツドリンク同様ぬるく、重みを持って体にまとわりつく空気の温度と、部屋に澱む湿度を感じると、哀しくも嬉しくもない、ただの事実として季節の変化を知る。そうしているうち空腹になり、手探りで眼鏡を探し当て、立ち上がる。毎朝、おそらく八時前には立ち上がっている。

半畳ほどの板の間に小さなキッチンがあって、流し下の扉には以前の住人の趣味だと思われる、スマイルマークの黄色いシールが貼ってある。多分、五センチ以内。佐々木晴男は目測でそう認識していた。何も定規で測るほどのものではない。

キッチンの蛍光灯をつけ、蛇口の横にあるコップに立ててある歯ブラシを咥えながら、鍋に水を入れてコンロを捻る。キッチンの横に置かれた黒い冷蔵庫を空け、膝を折り、ほの暗い灯りと共に流れ出てくる冷気を浴びながら、しばらく中をぼんやり眺める。

折りたたみ式の四角い机で、目玉焼き、塩鮭、白米、即席味噌汁の朝食を終えると、佐々木晴彦は食器をいそいそと洗い、掛け布団を畳んでカーテンを開ける。南向きでないことは幸いだったが、眩しさを憎悪することにかわりはなく、口元は不満げに突き出し、色白の肌と華奢な首筋は自然光に照らしだされ、銀縁眼鏡の奥の小さな瞳は、光を拒絶し更に縮こまる。

しかし、まだ佐々木晴男の一日は始まっていないのだった。佐々木晴男は折りたたみ机に背中を丸めて向かい、右手にボールペンを硬く握り絞めながら、[おこづかい帳]を開く。

日光を疎んじながら、大学ノートに目を落とす。ページには一ミリもはみ出すことなく、まったく歪むことのない、佐々木晴男にとっては「完璧な」直線が引かれ、それぞれの記入欄がもうけられている。一番上の少し広い欄に、日付・摘要・収入・支出・残高。それらの単語はノート一冊の最後まで、どのページにも同じ位置に、同じ文字で繰り返されている。その下に並ぶのは執拗なまでに整った文字と数字。

[摘要]の欄には、缶コーヒー、ハブラシ、ヨーグルト、目薬など、あらゆるモノの名前と買った店の名前が記入されている。平仮名もカタカナも漢字も、全て三ミリを超えることは決してない。佐々木晴男は文字の大きさと間隔を、透明のプラステック製定規で正しく測りながら書くことにしているのだった。

収入支出や残高欄の数字も恐るべき精密さを持ち、水性の細いボールペンは、一度もかすれることなく数字の曲線を美しく描いている。特に[8]は同じ大きさの二つの円で表すことに細心の注意が払われていて、千円単位を区切るコンマの位置は、きっちり等間隔に数字を分断している。

摘要、という言葉がはたして正しいのかどうか、佐々木晴男は知らない。しかし、どうでもいいことだった。摘要でも適用でも適応でもなんでもいい。どちらにしても、このノートを支配しているのは自分なのだと知っていた。摘要と書かれた欄に、金の使い道を書く。それだけのルールの為に使う言葉など、佐々木晴男の気にかかるはずもない。

ただし二十三歳にもなって[おこづかい帳]というタイトルは少し考えものだ、と思った事はある。金銭出納帳くらいにしておけばよかったのかもしれない。けれども、大学ノートは既に八冊目であり、六年前の十七歳の冬に無一文で家を出てからつけ始めて以来、ずっと同じタイトルだった。変える理由が思い当たらない。何処にいるのかわからない他者への恥よりも自己同一性を取るのが、佐々木晴男の美学と言えば、美学だった。

おこづかい、という言葉は子供に親が遣る金と認識していた。そしてどこかの知らない誰かが金をくれるはずもなく、佐々木晴男の考察によればこの世に神など存在しないので、これも正しくはないように思った。しかしその件に関して佐々木晴男は自分なりの答えを出している。自分による、自分のための、自分に対する小遣い。少し格好つけて言えば、自分で手に入れた自由、が金であった。

佐々木晴男は、現在無職である。ただし仕事がないわけでも働きたくないわけでもない。ニートという嗜好品は、中国の山奥で食されている甘すぎてわけのわからない菓子程度のものであり、佐々木晴男的には無縁のものだった。

自らの判断で選んだ、無職期間の只中にいる。それは佐々木晴男にとって必然であり、至福に近いものだった。自分の金で自由に過ごす。どれだけ矮小な世界の中であろうが、ささやかな行動と思考で過ごす日々であろうが、知ったことではない。佐々木晴男が欲していたのは、蛙や蛇や熊と同じく、眠りながら季節をやり過ごす事ができるだけの蓄えだった。

 

六年間、佐々木晴男はよく働いた。

高校二年の三学期が始まった頃家出をしてから、約一ヶ月間はクラスメートの家を転々とした。クラスメートたちは皆平均的に親切で、時折「親の気持ち」とか「青臭い」とか、耳を素通りさせれば全く苦痛ではない類の単語を吐き出す輩もいるにはいたが、とりあえず最低でも三日は泊めてくれた。中には一週間の滞在を許してくれる者もいて、佐々木晴男は数枚の下着と靴下と制服だけを持って、六軒ほどの家庭を渡り歩きながら、バイトを探した。

高校の授業料は運良く冬休み中に払ってあったので、佐々木晴男に必要なのは、寝る場所を得、飯を喰うだけの金であったが、それは当時の彼にとってかなりの金額だった。電気、水。金のかからないものは世の中にない。

最初に見つけたバイトは新聞配達とラーメン屋だった。まだ薄暗い住宅街に朝刊を配り、そのまま自転車で高校へ行った。家出中などとは知らず、ただ泊まりに来ているだけだと思っているクラスメートの親には、感涙すら含んだ暖かい眼差しで見守られ、「今時いない勤労少年」「あんたも見習いなさい」という台詞によって、クラスメートのひんしゅくを買った。

高校はある程度の社会性を必要とする場ではあったが、佐々木晴男にとっては楽ちんな場所であり、昼休みのバスケには、それなりの熱意を持って参加した。

授業が終わるとすぐに自転車を走らせ、商店街にあるラーメン屋《のぼり軒》で夜十時まで皿を洗った。

人の親の誤解と同情と、クラスメートの嫉妬と軽蔑が混じりあいながらも、他人の家にいる間、他人の親が自分に食事を振る舞ってくれることはラッキーであった。佐々木晴男はタダ飯をおおいに喰い、ゆっくりと他人の家の風呂につかり、他人の家の匂いがする布団で眠った。

月曜から土曜まで働いた結果、一ヶ月後には十万ちょっとの現金が掌の上で踊っていた。

「これで部屋を探せるだろうか」という不安はあくまで金の問題だったが、高校に自転車で通える範囲で家賃二万敷金三万の、四畳半、風呂なしトイレ共同のアパートを見つけたとき、保証人という新たな、そして切実な問題があることに気がついた。

母親に連絡をすると、保証人の承諾を取り付けることが出来た。母親は、佐々木晴男に同情的であったし、協力的だった。

「出来れば私も逃げたい」という言葉に少し刺されつつ、逃げたいのに逃げない母の気持ちが理解できないと思った。いつか、連れ出してやれればいいのだが。そんな考えがよぎった後、お姫様の衣装を着た母親と、白いタイツを履いた王子の自分、髭を生やした魔王の父親が脳裏に浮かび、自分の幼児性とオイディプス的思考を嫌悪した。

保証人という問題は佐々木晴男の存在を少しだけ揺さぶった。自分は誰かに保証されなければ、部屋も借りられない。世の中は自分を無条件に信用などしてはくれない。世の中は、そういうふうになっている。

ともかく住処を得た佐々木晴男は、高校卒業まで新聞配達とラーメン屋のバイトを続けた。暮らし始めて間もない頃は、一枚の毛布に包まって眠り、モヤシが主な食料だった。しかし、風呂なし四畳半には布団や生活用品などが、少しずつ、埃が溜まっていくように増えていった。

「大学進学」という選択は真っ先に削除された。父親の金で学校に行くなど、もうこれまでにしたいと心から願っていたので、卒業証書は高校生活を終えた証の紙切れではなく、鎖を断ち切るための刃として厳粛に受け取った。では、何故一年間退学せず、ほとんど無遅刻無欠席で高校に通ったのかと、自らに問うたことはない。学費が払ってあるなら、行けばいい。佐々木晴男を取り巻く現実は金を中心に、矛盾を抱えながら回っていた。

卒業後はバイトを変えた。しかし、かけ持ちをするという習慣が一年の間に身についていたので、やはりバイトは常に二つ。初めの一年は朝から夕方まで弁当屋、夜は居酒屋。その後、喫茶店、焼肉店、夜間工事、引越し作業員、清掃員など昼と夜の仕事を並行した。短期のダム建設要員として二ヶ月間、山間部のプレハブで過ごしたこともあったが、監獄としては、父親と称する人物のいる家のほうが劣悪だったと思ったに過ぎない。

平均睡眠時間は四時間という生活を繰り返していたが、六年の間に幾つかの変化はあった。まず十九歳になった頃、有り金をかき集め、普通運転免許を取った。住処を風呂なし四畳半から、風呂のある家賃四万五千円の六畳一間に移したのは二十歳前だった。普通免許取得から三年以上経ったのを見計らい、四ヶ月間昼の仕事を外し、自動車教習所であらゆる運転免許を取った。大型、大型二輪、大型特殊、けん引免許まで、第一種の免許を全て取った。細く小柄な体で乗る大型バイクに一番てこずった。

俺は沢山の乗り物を動かす事ができる。トレーラーだって、コンテナだって運べるのだ。二種? 人間を運ぶものに興味はない。勝手にどこでも行ってくれ。

佐々木晴男はそこまでハード・ボイルドな思索をしたわけではなく、いつか役に立つ可能性があるという極めて現実的な動機によって黙々とルールを学び、実技をこなした。金はかかったが価値ある投資だと思った。

一年前に昼夜のバイト生活を再開した。時折日曜日に高校のクラスメートに呼び出されカラオケに行く以外、質素な生活をしていたため、免許取得に費やした金などすぐに取り戻せた。何しろ、朝から晩まで働いていた佐々木晴男には時間がなかったのだ。

そして百万弱という数字が郵便貯金通帳に印字されたとき、佐々木晴男は自分が慢性的な寝不足だと気がついた。

眠い。

この金が与えてくれる時間分だけ、寝て過ごそう。一ヶ月十万以内の生活をすれば十ヵ月間は働かずに済む。

こうしてあまりに簡単な計算を終え、今年の四月末でバイトを辞めた。一年続けたバイトは母親の紹介で始めた税理士事務所の雑用と、焼き鳥屋だった。

そして一ヶ月が過ぎた。はじめの数日は一日中寝て過ごした。佐々木晴男はまさに爆睡した。目覚めたときしばらく瞼が目やにで糊付けされ、容易に開かないほどよく眠った。おこづかい帳は布団にうつ伏せて書いたが、字が歪むのでやはり机でなければならないと悟った。

すぐに、明日の予定などない毎日が佐々木晴男から一切の疲労を取り除き、夜十半時に眠れば翌朝七時半には目が覚めるという習慣となった。それでも睡眠時間九時間。佐々木晴男はこの生活に満足していた。

 

2012年7月8日公開

作品集『佐々木、愛なのか?』第1話 (全8話)

佐々木、愛なのか?

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© 2012 青井橘

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