傷が癒えたら働く、とミユキに約束していた。彼女も張り切って知り合いの旅行代理店の人に相談し、会う約束を取りつけてくれた。年度が変わる頃に、面通しがあるはずだった。
しかし、私がその間募らせていたのは、社会に対する責任感や、将来の安定への願いではなく、漠然とした冒険心だった。それを静めようとはせず、ただ待っていた。どうしたらいいのか、わからなかったからじゃない。時間が経つにつれ、冒険に必要なだけの勇気が備わってくれることを期待していたのだ。
穏やか過ぎる川は、流れているかどうかわからない。それと同じように、私は時間に対して無頓着になっていた。手術をした頃は晩冬だったけれど、いつしか春が訪れ、手術痕は薄い痣になっていた。
私はテレビを見ていた。有名な戯曲のタイトルをもじった番組の映る画面の前で、ミユキと肩を並べていた。すると、ミユキが「そういえば、残念だったね」と唐突に言った。尋ね返すと、旅行代理店の話が立ち消えになったことだという。「ああ」とだけ答え、画面を見直すと、ちょうど、夫が旅行代理店に勤めているという女性が話し始めたところだった。
彼女の夫は、バスのために生きている。旅行代理店に勤めたのも、そのためだ。二人の息子にも、バス会社の名前をつけた。たしか、そんな内容だった。
話が終わると、ミユキは感想めいたものを漏らした。幸せそうだとか、そんなところだ。それから、ミユキは仕事に関する一般論を展開した。彼女は「天職」という言葉を用い、人の幸福はそれを見つけられるかどうかにかかっていると言った。自分にはそれがないとも言っていた。私は彼女の話を否定するともなく聞いていたが、賛成しているわけでもなかった。人生をかけるのは何も仕事でなくてもいい。その何かが仕事と一致した時にだけ、「天職」と呼んでいるだけの話だ。もっとも、私自身、それを「何か」という言葉以外で呼ぶことはできなかった。
番組が終わると、私達はベッドに入り、だらだらと長いセックスをした。それからシャワーを浴び、歯を磨き、ようやく寝る準備ができたところで、ミユキは煙草を手に取った。ライターをつけると、青暗い室内にミユキの裸が浮かび上がる。私は彼女の一糸纏わぬ姿を眺めた。痩せてはいるが、やたら背が高くて、それがうすのろな感じを与えるし、スタイルもいいとは言えない。凹凸の少ないのっぺりした体系で、苦労を重ねてきた農婦のようだ。それでも、愛しく想っていた。ミユキは風のない室内でも、ライターを右手で抱え込むようにする。まるで、それが大事なものででもあるかのように。ミユキが煙草を吸うことは嫌だったが、小さな火を守っている彼女の姿は好きだった。曖昧で、それが逆に印象深いから。
ミユキは煙草を二、三口ふかしただけで消してしまった。そして、布団に潜り込むと、しばらくは私の手術痕を撫でていたが、すぐに眠りについた。まだ眠くなかった私は、ミユキの身体を撫でたりしていたが、そのうちに飽きてしまい、一人物思いに耽った。頭に浮かんだのは、テレビで見た「バスのために生きる男」だった。自分を当てはめてみる。何かのために生きている自分を想像することは難しかった。私は自分をただ生きている人間としてしか想像できなかった。
ミユキのために生きよう――そんな一人言を呟こうとして、やめた。「ミユキ」の後が続かなかったのだ。私は少し考えこみ、Mの名を呟いてみた。所在のはっきりとしない中心へと胸が縮こまっていくような気がした。いびつな引力のようなものが胸の内奥で生まれた。その力がざわざわと全身を広がっていく。
それまで、Mの名前をそれほど魅力的なものだとは考えていなかった。取りたてて個性的でもないし、柔らかい響きとは裏腹に、学術用語みたいな堅苦しい字面だ。深淵、あるいは中心的なものを信じ込んだプラトン的な思考の持ち主である親が、図々しくもつけそうな名前ですらある。
それでも、このようにしてひっそりと囁かれた言葉は、深い場所へと誘う力を持っているように思えた。その名の持つ真の意味をこの時はじめて知ったような気がした。
いや、違う。その言葉をひっそりと囁くということが、私に思い込ませたのだ――誘われるべき深い場所がある、名前には真の意味がある、と。いつの間にか、Mという人間の持つ素晴らしさをいくつも取り逃したような気になって、それを後悔し始めてさえいた。
Mのために生きよう――知らないうちに、そう呟いていた。臆病な罪人のようにミユキを見た。彼女はもぞもぞと動き、布団をたくし上げた。聞こえたはずはない。その言葉は、とてもひっそりと囁かれたのだから。
翌朝目覚めた瞬間、確信めいたものに満たされている自分に気付いた。眠りに落ちる前の錯乱ではなかったのだ。私は興奮していた。ミユキもそれに気付き、「なんか楽しそうじゃん」と尋ねてきた。私は特に何も答えなかった。午後を過ぎると、すぐに行動を開始した。
ところが、電車に乗ってYまで行っても、Mの家には辿り着けなかった。町の風景は変わっていなかったのだが、彼女の家だけが変わっていた。外観だけをあの時の姿に留め、表札には違う名前を刻んでいた。たしか、遠藤さんとか、近藤さんとか、そんな名前だったと思う。
引っ越したのか、それとも記憶違いか。しばらくの間、その家の前で考えこんだ。手がかりは何もない。挫けてもおかしくはない状況だった。しかし、得体の知れない想いに励まされ、打開策を検討した。
手段はいくつかあった。区役所に転居先を尋ねたり、Mの通っているはずの大学を訪ねたり、少し馬鹿げているが、興信所に調査を依頼したり……。しかし、そういった現実的な手段を取ることはできなかった。そうすることで、Mとの再会は無意味なものになってしまう気がしたから。その時の私はちょうど、念力で物を動かそうとしてうんうん唸っている子供に似ていた。
うろうろと同じ場所にいたら、突然話しかけられた。落ち着いたピンクのショールを巻いた初老の女性だった。「お久しぶりです」と言っている。頭を何度も上げ下げするので、顔がよく見えず、誰かはわからなかった。私はもごもごと挨拶を返した。
「お変わりありませんで」
そう言われた時、やっとわかった。Mの家にいたお手伝いさんだ。抱きつきたくなるような思いを抑え、笑顔を作った。
「懐かしいですね……たまたまここら辺に来たので、ちょっと寄ってみたんですよ」
「あら、お仕事で?」
私はちょっと迷ってから、「ええ」と答えた。お手伝いさんは私を上から下まで見た。幸い、嘘をついているように見えるほどだらしない格好はしていなかった。ノータイだが、シャツは着ている。そのシャツ自体は学生の頃に買ったカジュアルなものだったが、お手伝いさんは襟付きの服に合点がいったらしく、感心した風に頷いた。
「あの時の学生さんが、もう社会に出られたんですねえ」
「ええ。早いものです」
「ほんと、年を取ると、時間が経つのがあっという間で……」
彼女はその後、よくあるような話をした。小学生だと思っていた親戚の子がもう高校生になっていたとか、そんなところだ。私は話を聞きながら、焦りを感じていた。苛立ちすら覚え始めていた。ちょうど、大義を持っている(と自分で思っている)人間と同じように、同じ場所で足踏みするような会話が気に食わなかった。
「引っ越しちゃったみたいですね」
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