紛う事勿れ

合評会2024年01月応募作品

春風亭どれみ

小説

4,159文字

敬える人の亡骸が目も背けたくなるほどに惨くなり、雑駁な蜚語が飛び交い祈りを遮る現実を前に、心に蓋をすることは狂人への一里塚なのだろうか。

「……っしゃーせー」

 

僕は確かにその日付まで、例のデパートのテナントの一角でやる気のない店員をしていた。そのデパートの名前を言えば、大抵の人は「心中お察しします」だなんてごにょごにょと言っては口を閉ざすか、あるいは「大変でしたね」なんて紋切り型のお見舞い文句を述べるかするであろう、そう、あのデパートだ。

デパートの店員だなんて言っても、雇用の実態はアルバイト、僕はただのフリーターに過ぎなかった。僕がなけなしのお賃金を貰っていたアパレルブランドだって、都内一等地のデパートなんかよりも郊外の駅前だとか、国道脇だとかにある方が馴染むファストファッションで、例のデパートに参入しようとした際には、「呉服系百貨店としての歴史を持つ当デパートのブランドが下がるから反対である」なんて声明がデパート内の店長会議にて発せられる程度には、周りからも歓迎されていない風ではあったらしい。

僕としてはそんなことなど知ったことではなかったが、バックヤードでの肩身はなんとなく狭いものを感じて、あまり気持ちのいいものではなかったので、「デパートだなんてお高くとまっているけれど、こんなに埃と鼠とこんがらがった配線塗れで食堂すらない薄暗いバックヤードでひもじくカップ麺を啜らなきゃいけないハメになるんなら、どっかのイオンモールの店舗に勤める方がよっぽどよかったわ」と文句の一言や二言でもぼやきたくもなった。僕は求人サイトからテキトーなアルバイトに応募をして、テキトーな心持でウェブにて面接したら、おそらく採用相手のテキトーな判断によって、この店舗に飛ばされたにすぎないのだから。

しかし、おかげで得をしたこともないこともなかった。月一の会議が近づくたびにみるみる血色が悪くなる店長には申し訳ないが、由緒正しすぎるがゆえに、駅チカというには、少し心苦しい目抜き通りの交差点に腰を据えるリッチにもリーズナブルにも中途半端すぎる空間と商品群を提供する例のデパートの集客力はお察しなもので、平日の昼とも夜ともつかない時間にはフロア単位ですらお客は数えるほどしかいないことが珍しくなかったので、出来高制でもないアルバイトの身としてはそれは気楽なものであった。

おまけに店長を除いた総てのアルバイト同士の上下関係も非常に緩いもので、人間関係のストレスも皆無に等しかった。せいぜい、お客が試着した後に棚に戻した服の畳み方がさすがに雑すぎるんじゃないかとかそういうことを半笑いでツッコまれて、「すんません、気を付けまーす」と返事をする程度の責任感で仕事をしていた。店長が不在の日は、モップ掛けやレジ〆の業務の担当をじゃんけんで決めていたほどだったと言えば、その実態に察しが付くであろう。

加えて僕はその環境を得であると感じる類の人間であった。雨ニモ風ニモ周リノ声ニモ負ケズに己の使命感と美学に基づいて仕事に勤しむような人間を紹介するテレビ番組やネットニュースを目にしても特に何の感慨も湧かないタイプと言い換えてもいいかもしれない。

それだけに、店長不在の責任の所在のない仕事日を喜び、その数時間後にはその責任の所在がないことを呪うハメになるのだから皮肉なものである、僕はそう思えてならなかった。

 

その日の昼シフトの人間は僕を含めて三人。一人はいわゆる「2番入ります」の状態で、もう一人はストックの整理をする為に奥に引っ込んでいた。

セルフレジの監視と接遇の為に店頭に立っているのはちょうど僕一人で、お客はというと、いそいそと同じ柄のボクサーパンツを焦った雰囲気でひたすらセルフのレジに通すサラリーマン風の男性、そして、僕がイヤに気になっていた二人組のお客、腕を組んで歩く白髪のお婆さんとそれにしがみつくようにして歩く襟のよれたパーカーを来た小柄な中年男性の計三名であった。お婆さんにしがみつくのと反対側の男の腕には木彫りのフラミンゴか何かと思われるオーナメントが大事そうに抱えられていた。お婆さんは「久しぶりの家族三人のお出かけ、楽しいね」なんて言いながらくぷくぷと笑っていた。僕はその光景が何だか薄気味悪く思えたので、会計中という最も警戒の必要な瞬間を迎えているサラリーマンのこともそっちのけで、失礼ながらその二人組の方に目線を飛ばしてマークを向けていた。そして、あの瞬間がもっと遅れてきていたのなら、僕はその二人のお客がショッピングに興じている間、彼女らをぼんやりと眺めながら、ありもしない背景を勝手に邪推し、身勝手に憐れんでいたりしたに違いなかった。

 

「アイツ、いつまで休憩してんだよ……もう15分経っているだろ、まあ、知らんけど」

 

僕がそう思いながら、けだるげに欠伸をした矢先、けたましく鳴り響く警報が僕たちの耳に突然の平穏の遮断と異常の到来を突き付けた。

それは何の類の異常なのか、まもなく鼻腔と涙腺をやさしさのないエアロゾルが容赦なく襲い、その刺激にのたうち回りそうになったのですぐに察しがついた。涙目で見上げると、天井にはどす黒い煙の幾層にも膨れ上がっていた。その圧はすさまじく、無数の目を持った積乱雲がこちらの存在を嗅ぎつけて、喰いにかからんとしているようであり、両足が竦んだ。

パニックになりながら、辺りをキョロキョロすると、誘導灯に導かれるように、ボクサーパンツをかなぐり捨てたサラリーマンとバックで商品の整理をしていたバイトリーダーが一目散に脱兎のごとく駆け出しているのが、僕の目に映った。そこには肩書きもなく、地位もない二人の人間が生き物の本能に任せて、危機から身を遠ざけようとする姿しかなかった。お客のサラリーマンがとっとと逃げてくれたのは良かった。しかし、バイトリーダーが僕に何の断りもなくその場から立ち去ったことは、僕がこの瞬間にテナントの唯一の従業員であり、防火管理者、責任者となった、僕にしてみれば、なってしまったことを意味していた。

 

「お客様、か、火事です。いませんか、いたら早く逃げてください……!」

 

売り物のハンカチで鼻と口を覆いながら、たどたどしく、稚拙な言葉とともに僕は叫んだ。僕は不安でならなかった。残されたお客がまだいるのならば、僕はその人たちに的確な指示を下せるのだろうかと。

「なんでこんな時に……」とまだどうしているとも分からない二人のお客の小さな背中とそれから、こんな時にのうのうと休暇を取っている店長を恨めしく思ったりもした。

僕が血眼になって探していた二人のお客は、試着室の片隅で震えながら身を寄せ合って小さくなっていた。まるで、最期の時を覚悟したかのようにお婆さんは、中年男性の禿かかってバーコードのようになっている頭を撫でながら、「ずっと一緒、ずっと一緒だ」と呟いていて、その悲壮な姿を見てからというもの、僕の中から、ふつふつと忌々しさと憤りの感情が湧いた。それを顔色に出さないように押しとどめて、叫ぶのが僕はやっとだった。

 

「今すぐ、ここを出てください!!」

 

僕は二人のみすぼらしく丸まった背中を殆ど蹴倒すようにして、引っ張り出し、店の外へと引き摺り出した。僕の視界の隅の試着室の鏡は横たわるフラミンゴを映していたが、構わずに僕はそれらを視界からフェードアウトさせていった。ある不在に気が付いたのか、バーコード頭の中年男性は堰を切ったように、嗚咽交じりに泣き叫んでいた。お婆さんもすすり泣いていた。僕はそんなこと、知ったことではないと思った。むしろ、何の覚悟もないままにこの理不尽に放り込まれたことへのやるせなさと、そんな僕のことなどお構いなしにしっかり悲劇の主人公のように振る舞い、ある種の呑み込みをすませてしまったかのような二人のお客と違い、こんな時にも自分の人生へのどんな感情の顧みもどこにも僕の中に存在していないことに対しての自分自身への虚しさと失望、怒りが化合して、何だかくらくらした。もう有毒ガスもストレス性物質もない、そんな感じであった。

僕の瞼も次第に煙に抗えなくなったのか、どんどん視界は薄く細く、ドブ鼠の色に染まっていく。もはやと、僕も観念しかけた先に、僕の目は視界の先にゆらゆらと小さく揺らめいた光を見つけて、言葉にもならない叫びを擦れた喉から絞り出した。小さな光は、また別に光を呼び集め、それは銀色のヘルメットの群れという形となって、僕たちの前に姿を現した。

 

「大丈夫ですか!?」

「僕は最後の店員で、お客もそこに人たちだけです」

「あちらの方たちが、パパと泣き叫んでいるのですが……」

「その二人で最後です!!」

 

それからの、その日の記憶はあまりにおぼろげだ。非常口からカンカンと足元のおぼつかない階段を下りたことや、担架の上から見下ろされながら、「避難誘導の責任、立派でしたよ」と消防士の人たちに声をかけられてもまったくピンとこなかったことを辛うじて覚えているに過ぎない。

その日を境に僕はアルバイトもバックレてしまったし、テレビもつけず、SNSの鍵アカウントも消してしまったので、ロクにスマホすら開いていない。漫然とニュースを見てはご高説を垂れる街のご意見番より遥かに例のニュースの詳細を知らない。何人助かって、何人助からなかったか、そもそもそんな人はいたのかまで、なんにも。

それからの僕はというと、つい昨日、その日までの給与明細と店側から貸与していた備品の返却の督促の旨を記した封筒をポストから受け取った以外は、SWITCHで同じゲームのレベル上げを食う寝る、三日に一度の風呂以外はずっと、ずっとし続けている。

僕が分かっているのは、あの木彫りのフラミンゴは、影も形も残らず、その消し炭も誰にも何も検証されることなく、無に還っているということだけだ。あの時のお婆さんと中年男性の顔は今でもたまに脳裏に過る。

改めて時が経ち、その時、僕自身はどんな感情だったのかと振り返ると、本当に、何の感情も湧かないのだ。申し訳なさでもなく、逆ギレめいた憤りでもなく、仕方なかったのだと自分を納得させるやるせなさもなく、本当に何も。

 

今まで考えたこともなかったけれど、僕はサイコパスなのだろうか——?

2024年1月7日公開

© 2024 春風亭どれみ

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"紛う事勿れ"へのコメント 11

  • 投稿者 | 2024-01-20 14:14

    アルバイト先で「すんません、気を付けまーす」と言えたり、損得で動けるちゃんとした人間が主人公。本人はそれを過小評価しているけれど、やっぱり火事になれば人を助けようとする。それでもやっぱりPTSDになってしまう。風呂に入れなくなるという描写や、全体を通した回想的一人称も、その理由がじわじわと分かって味わい深く素敵です。

  • 投稿者 | 2024-01-22 09:17

    火事の瞬間の描写が、ありきたりの緊迫感や通り一遍のパニック描写に終始せず、主人公の内面に迫ってくる感じがとても不気味で印象的でした。

  • 編集者 | 2024-01-25 09:37

    自分が適当な人間であるとくだを巻きながら、いざ火事となると責任者として避難誘導するあたりは真面目なんだなと思いました。平日の閑散としたデパートでトイレに行くのが好きです。

  • 投稿者 | 2024-01-26 10:27

    君はサイコパスじゃなくて、不真面目ぶってる本当は真面目な人間やで!
    と主人公に言いたくなりましたが、松尾さんに既に書かれてました。
    フラミンゴのことを気にもかけないし、ひきずりもしない人の方が多そうですが、主人公はそのあたり繊細で文学的というか、なんというか、良かったです。

  • 投稿者 | 2024-01-26 23:46

    すでに他の方々もコメントされていますが、主人公は特にサイコパスという感じはしませんね。誰だったか、危機に際してはどんなアホでもヒーローになれる、だからその時に人間を判断してはいけない、その人が普段やっている事こそがその人だと言った人がいましたが、主人公はちょっと自分の現状にイラついているだけの常識人な気がします。けど、若い時は何でもない事で自分はおかしいのかな、駄目なのかなと悩んだりしますよね。

    余談ですけど自分も昔、新宿の百貨店で警備のバイトしてましたが、敷地内のホームレスと喧嘩になった事がありました。次の日自分は非番だったのですが、なんでも週刊誌の記者を連れてきた上にありもしない暴行まででっち上げて自分に謝罪を要求して大勢で警備室に乱入してきたそうです。まあ結局謝罪してないんですが。

  • 投稿者 | 2024-01-27 11:22

    茶でも飲みながらゆっくり読みたくなる味わいある文体ですごく好きです。
    主人公の取った行動を見ればヒーロー的だと思います。
    しかし動機はヒューマニティではなく「定められた規則で」防火責任者になってしまったので、何がなんでも義務を遂行せねばならぬと思い込んでしまうところに、一般の人とのずれを感じました。私だったらとっとと逃げますけどね。バイトだし。
    老夫婦(?)のフラミンゴをなんとなく引きずっているのも、相手の心のうちがよく見える人だからなんだなと思いました。

  • 投稿者 | 2024-01-28 01:56

    バイトリーダーが逃げてる様さえ見なかったら。それさえ目に入らなかったら。きっと悩むことも、いや、どうだろう。分からないけど。
    あと、消防の人に立派でしたよって言われるのはきっと恥ずかしいですね。きっと。いや、もしかしたらまた言われたいって思うのかな。また言われたくて次は自分で火をつけたりするかも。

  • 投稿者 | 2024-01-28 08:44

    主人公はサイコパスじゃなくて単に真面目な人なんだと思いました。バイトなのにあそこまで責任を感じるなんて……。そして真面目な人ほど自分のことをサイコパスだと疑うのかもしれません

  • 投稿者 | 2024-01-28 11:23

    皆さんの作品を読んでサイコパスの定義がよくわからなくなっているのですが、社会的に正しいとされている倫理観から著しく逸脱した人間とするなら主人公は責任感ある立派な人間だと思いました。

  • ゲスト | 2024-01-29 00:47

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  • 投稿者 | 2024-01-29 12:55

    老夫婦への対応でサイコパスなのかどうか判別可能な気がしました。僕も主人公と同じ感情になったので、福祉の仕事に就いてなくて本当によかったと思います。

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