軽すぎるマッチ箱

猫が眠る

小説

5,884文字

芥川龍之介の「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。」からタイトルを考えました。

その時から十三年もの年月が無為に流れていた。

私は今は使われていない患者用の机の奥にそれらが隠されているのを見つけた。どうやら、当時の患者による手紙の下書きと、その恋人からの返信らしかった。差出人を見て、看護記録を参照して、もう十三年も前の患者だったので私は驚いた。

数年前に、もう彼には身寄りもいないということを聞いていたから、私はその机から密かに持ち帰って、自室で一通ずつ読むことにした。

私は一通目を開いた。

 

一通目

直子へ

ここの療養所──ダルクと言うのかもしれないが──好いところです。何より清潔です。それに僕の好きな空も大きく見えます。

最近は僕の中毒症状も治まってきて、こうして手紙をかけるまでになりました。直子、元気にしているか。

 

二通目

一郎様

空が大きいと云うのはとてもけっこうなことだと思います。清潔なことは何よりです。

いつか一郎さんのところへお伺いしようと、しようと、思っていたのですが、そちらは、また、大阪からだと遠いし、山の上で、交通手段もほとんどないとのことで、私も習い事もあって、行きあぐねております。

私は私で元気にやっております。

空が大きいと云うことは本当に何よりです。だって一郎さん、事あるごとに山に登りたがって、街を歩いていると、「俺は、こんな、空の、狭い、場所で、生きたくない」と街中にも関わらず、大声で言いなすって。貴方、本当に声が通るものですから、私、あの時の恥ずかしさを思い出すと、今でも顔から火が出るようですわ。少しは同情なすってね。

長くなりました。御病気が回復することを心より祈っております。

早く大阪へ帰ってこれますように。

 

三通目

直子へ

俺がそんなことを言ったかね。大声で。さあ、さっぱり覚えていないが。

空が大きいということは祝福されるべきだ。

ここはいつも天気が好いし、療養所の内も外も空気が澄んでいます。下の病院にあるような湿っぽい空気は一切ない。

一寸、こちらの様子をお知らせしようか。

いや長くなるから、また今度にしよう。とにかく好い奴ばかりだ。君もいつかここに来る機会があったら彼らのことが気に入るに血がいない。

何せ何もすることがなく、デジタルなものは一切持ち込んではならないことになっているんだから──煙草をつけるにもライターじゃなくマッチ箱だ(そういえば今日は煙草の日だ!)──みな本を読むか煙草を吸うかしかすることがないから、みな、本を下から取り寄せては、読んでいるばかりだ。文学青年ばかりと云う訳だよ。

どうだ、気になるだろう。今度の手紙で仔細についてはお知らせしよう。

じゃあ、また。今日は煙草の日なんだ。

お元気で。

 

四通目

一郎様

是非とも、その御友人のことをお知らせくださいな。

是非とも。

私は毎日、早朝に起きて、近所の公園(貴方はお忘れになっているでしょうから、付記しておきますが、一周一・四キロメートル)を四、五周はしていますよ。

貴方が山の方へ行ってしまってから、この冬に公園の草木が、何の考えあってか、全部刈り取られてしまったのです。おかげで隠れる場所が無くなった猫ちゃんたちが、いなくなってしまったのよ。貴方がおふざけでお付けなすった「猫太郎」も「ミケランジェロ」も。

私、貴方が山へ行ってしまって寂しいと思ったら、唯一の憩いの手段の猫ちゃんたちもいなくなってしまったのよ。ねえ、同情なすって。

芳江さんとは、時々お食事に行くわ。同性の友だちっていいものだわね。ほら、次の手紙ではあなたの御友人のことを紹介してくださいな。

先に言っておきますけれど、私と芳江さんの話は詮索しないでくださいね。

例の、女の、「秘め事」と云うものよ。貴方ならお分かりになることでしょう。

では、さようなら。

お元気になることを祈って、心より祈っております。

 

五通目

直子へ

「秘め事」とは何だ。気取りやがって。

うそ、うそ。わかっているさ。

じゃあ、この前約束した様に、僕の新しい友人たちについてお知らせしよう。

一人は佐野君と云う。青年だ。僕より五つほど若いから、二十二か二十三か、そこらだと思う。いがぐり頭で、僕などと違って、真面目に本を読んでいる──僕などは女性雑誌なんかも取り寄せている始末さ──佐野君は国木田独歩の『武蔵野』何かを読んで、うんうん唸っている。

でも話しかけると気さくな奴でね。どうも三人──僕の部屋は三人部屋なんだが──になると、どうも会話に入ってこないんだがね、一対一だと本当に好い青年だよ。坊主頭で中肉中背、顔は二枚目を少し渋くした感じかな。

なんでも、この山に着た初日に頭をバッサリやったらしい。定期的に剃刀で剃っているようだね。

彼はどうも幻覚剤やら、試せるモノは何でもかんでもやったらしい。彼と話すと、自嘲気味にその時のことを話してくれるよ。

佐野君は眠っていても、時々うなされているときがあるな。──ところで、これは書いたのかな、二人が眠っている時にこの手紙は書いているんだ。──佐野君は僕より先客だ。ロシア文学なんかも読むようでね、ドスト氏の話をされた日にはびっくりしちまったよ。何せ俺はまるで読んでいないんだからなあ。唐突に言うんだ。

「ラスコーリニコフは悔い改める必要があったのでしょうか」

「アリョーシャは本当に善良な人間と言えるでしょうか」

そんな文学談義をふっかけてくるのは、何も分からん俺としては困ったことだね。真面目なのは大いに結構だが。あら紙面が尽きてきたな──まあでも真面目でユーモアのある青年だし、回復したら、前途洋々と云うところだ。

俺は元気だ。

では、また。

 

六通目

一郎さんへ

その佐野さんと云う方はとてもinterestingな方ですね。私、その方と話してみたくなったわ。私はそう云う文学談義大好物なの貴方知っているでしょう(貴方は大体本を読むことを怠り過ぎよ)。

本を読むと云えば、困ったことに、いつも私が読書や勉強をしていたドーナッツ屋さんが潰れちゃったのよ。たかだか一時間の勉強にファミレスやパスタ屋に行かなければいけないのよ。

こんなこと、山の上に居て、のんびりしている貴方に愚痴っても仕方ないのだけれどね──勉強は順調よ。ハングル教室も英会話講座も行けているわ。読書もまずまずと云ったところ。最近はベケットを読んでいます。貴方読んだことないでしょう。私知っているのよ。貴方の本棚を隅々まで見ましたからね。貴方は軟派な本や漫画ばかり読んでだらしがないわ。

別に元気ならそれでいいけど。

もっと佐野さんのこと教えてちょうだいな。その人のこと気になるわ。

では、また。

 

七通目

直子へ

うん、佐野ね、佐野君ね。彼はいつも一種の緊張感の様なものを周囲に廻らしている様に思えるね。

話していると、その場は気さくなんだが、ふと目を離すと、何て言ったら好いか──パーソナルスペースと言うんかね──その様な張り詰めた空気感が生まれているんだよ。ほとんど僕から話しかけるんだが、彼が自分から話しかけてくるときは、本当に突飛でね、この前書いた様なことだよ。「ラスコーリニコフは……」「アリョーシャは……」……。びっくりさせられるよ。

どうも看護婦連からは、「いがぐり君」と呼ばれているようだね。なあに、少し二枚目だからって可愛がられているのさ。

別にこれは嫉妬なんかじゃないが、あの孤高感は、そう云う自惚れ──自分が二枚目だと思われていると云う自覚──から来ているんじゃないかと思うよ。

僻みなんかじゃないってば。

まあでも佐野君は、君の好みのタイプじゃないかな。

勉強順調で何より。

たまには僕のことを心配してくれよな。

佐野君もそうだが、僕ら薬物中毒者は精神病を併発することが多いらしい。

佐野君も時々マイナートランキライザーを飲んでいるし、僕となっては、マイナーもメジャーもどっちもさ。

ここの残念なところは、米が不味いとこだな。

家の美味しかった米が恋しいよ。

ここの米は一気に大量に炊いているからだろうな、カレーライスなんかが時々出てくるが食えたものでないよ。

そう云えば、看護婦連の中に一等美しいのがいる。サツキさんと皆から呼ばれている。だが性格に難あり、だ。ツンと澄ましていやがる。若くて色白で小顔で髪はショートボブで、お眼鏡で、鼻筋は美しく、唇も控えめにぷっくり色づいている。本人もそれを分かっているんだろう、お高くとまっていやがるのさ。それよりも僕は好きな看護婦がいる。顔は少々古風な美人だが、愛想がよくて、ロングヘアーでいつもニコニコしている。

サカイさんと云うらしい。やっぱり女って愛想が大事だね。

紙面尽きにて、これで終わり。

心配してくれ。

 

八通目

一郎さんへ

貴方の手紙は何だか客観性とか哲学ってものがまるで無いわ。男の人って女の人をそんな風に批評する目で見ているのか知ら。

心配してくれって言ったって、そんな風に女の人を眺めていられるほど、批評できるほど、元気じゃないの。その看護婦さんと浮気でも何でもすればいいのよ。私は私で気ままにやるから。

そう云えば、この前ネットで素晴らしい文章を書いている人に出会ったのよ。何と言っても文体が魅力的で、内容も思想の軸があって示唆に富んでいるのよ。それに、小説で地方の賞を取っているようだわ。どうにか連絡をつけてみようと思っているの。どう思う?

もう元気そうだから祈る必要はないわね。

じゃあ、また。

 

九通目

直子へ

何だそいつは。

男か?

俺は目についたものを逐一報告しているだけで、それがたまたま彼女たちだったと云うだけだ。

俺がいない間に、男探しか?そりゃ面白い。

 

十通目

一郎さん

男探しなんて人聞きの悪い。ただ尊敬できるところがたくさんある人に会って話をしたいと思っただけよ。

その人はブログで文章を書いているのだけれど、私も同じサイトでブログを開設して、メッセージを送ったわ。

男とか女とか関係なく、人間として尊敬しているのよ。

貴方にはそれが分からないか知ら?

 

十一通目

直子へ

男なら、人間が何だろうと、男だ。

メッセージのやり取りはかまわないが、

この話は辞めた。

三人部屋のもう一人の男は、五十代の痩せぎすの男だ。白髪だが60歳くらいだろうと思う。何だか、名前も知らない、聞いたこともない、海外の本ばかりを読んでいる。

今、彼の机の上にある本を覗いてみたら『偉大なるデスリフ』とある。『グレート・ギャッツビー』なら俺も知っているが、それの二番煎じか?

この男は名を岡田と云って、毎晩念仏を唱えている。早くして亡くした奥さんのために唱えているのだそうだ。念仏は毎晩消灯してから決まった時間唱える。この間計ったら十三分だった。ここでは室内は火気厳禁だから、線香をあげられないんで、ああして毎日念仏を唱えているんだそうだ。岡田さんは、それ以外はいたって普通の人で、物腰柔らかく、人間がしっかりしているようだ。

佐野君よりも先客だ。

どうやら睡眠薬依存症でこの施設に入ったらしい。

睡眠薬ぐらいなら、早々に出られそうなものだが、と最初は思ったが、本人の話によると、睡眠薬を飲む量が日に日に増えていき、気づいた時には死ぬところだったそうだ。人間がしっかりしているとさっき書いたが、それはどんな価値観であれ、それが善いものであれ、悪いものであれ、軸としてぶれないと云うことだ。

岡田さんと話していると、僕は本当に安心感を覚える。そう云えば明日は煙草の配給日だ。楽しみです。この前煙草を吸ったらマッチが少ししかなかった。まあ足りるだろう。

では、また。

追記

 

十二通目

一郎さん

貴方が山の上の施設に行ってから、三ヶ月が経つのね。こんな言い方変だと思うかもしれないけれど、短いようで長かったわ。

私、その人の文章が好きで好きでどうしようもないみたい。

今日、というか、今さっき、メッセージでそのことを伝えたわ。

 

十三通目

直子へ

本当に、そんなことを送ったのか?

俺はお前を疑ったことはなかったのに……。

もう返信は要らない。

何かあればこちらから連絡する。

 

十四通目

一郎さんへ

だから、人間として、尊敬していると言っているじゃない。

あれから、メッセージはやり取りしているけれど、色恋みたいなことは言われてないし言っていないわよ。

 

十五通目

直子へ

人間として、な。

何が、人間として、だ。

お前を、見損なった。

追記

岡田さんにこの話をしたら「そんな芯のない方とは付き合わない方があなたの精神衛生上善いと思う」と言われたよ。

そう云う訳だ。

 

十六通目

貴方はそう云う人ってわけね。私の方こそ失望したわ。彼は私のことを分かってくれた。彼は文学に聡い人だから、人の心情も容易に推し量ることができるのね。貴方みたいな浅薄なひとと違って。京都に住んでいるそうよ。今度梅を見に行く約束をしたわ。

これは人間同士の関りよ。貴方にあれこれ批判される覚えはないわ。

じゃあね。

 

十七通目

直子へ

自殺するぞ。

 

十八通目

一郎さんへ

ごめんなさい

東京の実家に戻って。

大阪に帰ってこられると困るわ

あと……死なれると私が困るわ。

 

そこで、手紙のやり取りは終わっていた。私のことも書いてあった。彼は私が笑いかけると、いつでもとても朗らかな笑顔を向けてくれる患者だった。年が明けると彼は一番に私のところへやってきて、「明けましておめでとう。今年もよろしく頼みます」とはきはきした声で言った。その声が十三年経った今でも思い返せた。

年が明けて三ヶ月と経たないうちに、彼は山の奥深くで、剃刀で首を切って死んでいるのが見つかった。

誰もが彼が死んだことを不可解におもっていた。

私がこの手紙を読んで彼の死んだ理由を知って、いちばんに感じたのは、こうもあっけなく人生は閉じられるのか、と云うことだ。いくらでも彼には可能性があったのに。

でも、そのときの彼には一本の線──自殺への道──しか見えていなかったと云うことだ。

確かに可能性はいくらでもあったのだ。こんなにあっけなく人生の幕を閉じることなんてなかったのだ。もっとあがいてよかったのに……。

その後のことは何にも分からない。もちろん彼の恋人がどうなったかは分からない。彼が死んだときにも山に来たのは彼の父親だけだった。彼女は「彼」と幸せになって家庭を築いているのかもしれないし、破局したのかもしれない。もうこの事柄は誰にも関係のないことだ。関係のないことになってしまったのだ。

十三年前に。あまりにもあっけなく。

2022年3月10日公開

© 2022 猫が眠る

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