世界が変わるインシデントには、二つの映画作品と、一つのユーチューブ動画が直接的に関連してると言える。一つの時期に、アメリカ発信の映画作品と、韓国発信の映画作品と、日本発信のユーチューブ動画が世に出て、その時期のラストに、世界が変わるインシデントが起こる。一見、日本発信のユーチューブ動画が直接関与して世界が変わったように見えなくないが、明らかに違う。この時期に、二つの作品と、一つの動画が存在していたことで、世界が変わるインシデントが起きたと説明出来る。それはつまり、何かが、誰かが起こしたことではなく、しいて言えば、人が真剣に自らの人生に向き合ったことが原因と言えるのである。つまり、それは、その原因は、「時の流れ」に等しい。日本発信のユーチューブ動画は、大勢の人の中の一人が作り出したものであり、これは、幅広く言えば、すべての人にあてはまる。歴史上の人物。今の人間。これからの人類。すなわちすべての人間は、世界を変える能力は根底から持ち合わせていない。持っているのは、いわゆる「使命」。つまり、生まれてきた目的を果たすことだけが世界を変えるために直結するものを指すことであると言える。すなわち、真剣に自分の人生に生きて、結果を出せば、世界が変わることに関与出来、その完結に直結することに可能なのは、それが、人間という生命体なのであるということ。世界が変わるのは、「結果そのもの」に過ぎない。つまり、起こそうとして起きることではなく、起きることなのであるということ。つまり、世界を支配しているのは、「時間と言う王」なのであり、そのしもべとして人間は生活し、暮らし、生きているということ。「支配的」という手法を用いて説明すると、こういう説明の仕方が出来る。支配に従い、支配の元でおとなしく真面目に生きることが、世の中で成功し、人生がうまくいく一つの答えだと言い切ることが可能である。それはすなわち、自分の人生に真剣に生きるということだけが、生きるということに等しいことを示す。つまり、生まれてきて、真剣に生きることだけが、生きる手法であり、それを果たせずに死んでいく人がいないのなら、もし、そうならばとするならばだが、そういう前提で言えるのなら、「死ぬために生きることが正しい生き方」、このことが模範的な「人の夢」であり、それを果たすために人生があると、精神世界的に表現することになる。このことから、「物事」というのは、起こすのではなく、起こせるものではなく、生きてるから起きることと言え、死んだから起きなくなることに示される一つの「自然現象」と言うことが可能である。世界が変わる出来事は、その、人が起こした物事の一つになり、物事と言える以上、特別な物事なのではなく、これは特別と示せることが何も出来ないからである。世界を変える、世界が変わることが、どう、どうして特別なのかが示せないのなら、特別と仕分けはするべきではないということ。ただ、世界が変わるというイベントは、人類が、生きている上で欠かすことの出来ない、目を背けることが不能な事象であり、このことは、支配者である「時」が、「時」だけが知っている「夢の原因」なのであると言えるように思える。この「原因」は、「人が生まれてくる理由」に等しいことを指すことにあたる。しかし、夢、つまり、世界が変わったことで、破滅に向かう必要はあるように感じない。しかし、現実的に、夢を果たすということの次に来る、それを果たしたことで起きていくことは何かと言うと、それは、「オルタナティブな破滅」と言うことが出来る。つまり、夢を果たすために生きている訳ではなく、夢を果たすことで死んでいく、終わっていく、その、人の行く末も自然なことではあり、それを拒否する理由もある訳はなく、受け入れる意識を持つ術も持ち合わせていなく、夢を果たした後の人類の行く先を行く、そういう人類のさががあるというだけのこれからが待っているということになる。つまり、これは、ユートピア世界を示すのは、ディストピア世界ということにあたり、ユートピア思想、精神を実現した結果、達成をした世界がディストピア精神を持つ、つまり、オルタナティブ精神で「いわゆる、人類の滅亡」に向かっていく、夢の続きを行く余生的旅を、これから人類は過ごしていくという理屈にあたる。このような表現で、人類の今は示すことが出来る。世界が変わることは、人類の夢である。その価値は無限大であり、未知数であると言わざるを得ない。だが、その意義を知ることは不可である。それは、理由は分かるが、理屈が分かりえないのが、「人」と、「時」の関係だからである。つまり、この世の中で起きるすべての物事は、「人」と「時」の関係性により起こる出来事と表せ、「人」にとって「時」は、何ものでもないものであり、生きるために利用出来ることが不可な、一つのアイテムになり、それでいて、一つのツールとして、欠かすことの出来なく、使用しているものであるのである。つまり、人の答え、人は何ものかという答えは、人は知っているはずで、それでいて、示すことが出来なくなってしまうICコードのようなものを、人一人一人が持って、ICコードの人生を、その通りに遂行するAIロボットのようなものが人にあたる。人は、何が起こしたものか。人は、知る権利はあるはずである。それは、誰かが教えてくれるのか。いつか分かるのかは、つまり、それは、人が人である上で、人のものである一つの事実に基づいた結果を求めた上での数値は、「0以上の0より前にあたる1以上」と表すことは出来る。それは出来たが、それが何を表す数値の値なのか。人の墓場があるのなら、そこに入ってから知るのは容易かもしれない。人はどこへ行くのか。人はどこから来たのか。分からないことは、分からない心情に浸ることで癒されることしかが、人の答えというしか、答えにあたる、数値と言えることの正体は明確に出来ずにいる他あるはずは起こりえない。このことから、「神」は、人の求める、人とは何かを示すものを解決する現実逃避をする中で生まれたその中での思い出を指す観念だと言うべき概念ではないかと、証明のようなかわいい自らへのプレゼントであると事実に似た納得を起こすための象徴を求めた絵のイメージであると分かる。すべての事柄は、時が起こす現象であり、その結果としてすべての物事が存在するという世界のシステムがある。そのことを支配出来た時、人は神と同調するというシナリオは抱ける。可か非か。
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