Chapter TWO……藍より出でて、藍よりブルー
僕は霊感というものを信じない。創作の神は舞い降りたりはしないからだ。努力という供物をいやというほど重ね、搾り出すようにしてなにかを創作したあと、創作の神は頬笑みながら去っていく。やってくるところは見えない。ただ、いつのまにか側にいたことに後から気づくだけだ。待っていてポッと沸くものじゃないのだ。ただ、「書く」という一番最初の決意だけは、自分でも気づかないうちに生まれるものらしい。それをインスピレーションと呼ぶのなら、同意してもいい。
ぼくは祖母の家からアルバムをぶん取った一週間後、山口県は瀬戸内海沿い、柳井市にあるJR柳井駅に降り立っていた。東京駅から新幹線を使っても約六時間、片道二万円ほどだ。無理をいって貰った八日間のバイト休みを利用し、光降る神々の海に面したこの町で取材をするのである。
連れ立った弟子は「暑いよ、溶けちゃうよ」と漏らしながら、一刻も早くタクシーに乗ろうと、駅前のロータリーを見回していた。
弟子、といきなり書いたが、僕には弟子がいたのである。文章だけで飯を食えない身分のくせに。
彼はDDと呼ばれている。本当は土井内大輔という名前なのだが、高校でヒップホップグループのMCをやっていた頃、DDと名乗っていた。僕の二個下で、弱冠二十三歳の会社員である。会社員といっても、実家が印刷会社で、社長の息子だ。「オフセット印刷」という看板を出しているような零細ではなく、Tシャツのプリントやら、色々と手広く稼いでいる。次期社長もほぼ内定、こんな風に休みを取るのも簡単だ。創業者は彼の祖父だから、『売家と唐様で書く三代目』というやつである。まあ、彼はあまり漢字を知らないから、〈For Sale〉とでも書くんだろうが、これだけは断言してもいいだろう。彼の代で土井内印刷㈱は終わる。
DDが今回の取材旅行についてくるといいだしたのは、些細なきっかけによる。出かける三日前にかかってきた電話で、僕は山口に行くことを漏らした。はじめは興味なさそうに聞いていたDDだったが、山口の名所の話になって、山口市湯田に中原中也記念館があることと、美和町が芥川竜之介の実父新原敏三の出身地であることを、僕がうっかり漏らしてしまうと、がぜん行く気になった。彼は文豪ゆかりの地に行けば小説が上達するという、素朴な巡礼信仰の持ち主だった。
まあ、僕は僕で貧乏だから、同行者がいた方がレンタカーも安くすむ。ソロバンを弾いた結果、お師匠様は同行のお許しを与えたのである。
「なんか蒸しますね。早くタクシー乗っちゃいましょうよ」
DDはそう言うと、斜にかぶったキャップを脱いで、額の汗を拭った。キャップには〈Nomad〉と刺繍が縫ってある。
「どこ行くつもりだよ。それより、レンタカー借りればいいだろ」
「だってレンタカー借りるところ見つかんないっすよ。タクシーで頼めばお店まですぐじゃないっすか」
「おまえ、小説家に向いてないよ」
僕はそういって、公衆電話に向かった。ハローページで住所を調べる。地図で照合する。これで一丁上がりだ。この世界では、調べればほとんどのことがわかるようになっている。これが取材力というものだ……と、ボックスを出れば、DDはいない。辺りを見回すと、JRの改札からへらへらと出てきた。
「駅員さんがあっちっていってたすよ」
「いってたすよ、ってなんだ? 田舎の百姓みたいな話し方だぞ」
「マジすか? 田舎の百姓ってこうやって話すんすか?」
「いや、知らないけど」
僕は彼がウンコたれな同行者だと思いつつ、レンタカー営業所へ向かった。借りた車は九十一年式のアルトで、ステレオもパワーウインドウもついていなかった。DDは手動で窓を開けるのが面白いらしく、開けたり閉めたりを繰り返した。
「すげえ田舎っすね! なんか家畜の匂いするっす!」
DDはふわふわヘアーを風になびかせて、感心することしきりだ。
「金町だって大して都会じゃねえだろ。下町もいいところじゃないか。自分が下だからって、下ばっか見るなよ」
「それもそうっすね! あ、あの病院見ました? ウケるくらいボロい。肝試ししてえ!」
DDはそう言って奇声を上げた。僕は彼と来るべきではなかったとふてくされながら、一向に回転数の上がらないエンジンを酷使すべくアクセルを踏みこんだ。
阿月という町は柳井駅から車で四十分ほど離れた場所にあった。町などと自称するのはあまりにも田舎者の見栄っ張りじみていて悲しくなるからいっそやめないか、と町長に忠言したくなるほどの漁村だ。瀬戸内海に突き出た堤防の付け根にそびえるスピーカーは、早朝の出漁を知らせるサイレンのためだろう。ヴウーとけたたましく鳴るだろう音は、千葉の館山近くだったか、静岡の戸田辺りだったか、どこかのひなびた町で聞いたことがあった。
と、例によってあしざまに田舎の風景を描写していると、DDがこちらに無邪気な尊敬の眼差しを向けている。
「Fさんって海の男だったんすね!」
「なんだよ、いきなり。俺は正真正銘の郊外住宅育ちだぞ」
「でもたぶん似合うっすよ。ほら」
DDはそういうと、助手席を降り、海とぼくを結ぶ延長線の上に立った。
「ほら、こうやって海をバックにすると、メチャ似合ってるっすよ。ちっすよち」
「なんだよ、ちっすよちって」
「だからちっすよ。ほら、こういうとこに流れてるじゃないっすか」
工員とは思えないほど華奢なDDの腕に浮き出た静脈を見て、ああ血か、と気付く。
「血だけじゃどうにもならないよ。向き不向きは小さい頃からの教育で決まるんだ。そういう先天的なものでどうにかなると思ってると、怠け癖がつくぜ」
「でも向いてると思うんだけどな。Fさんって、どう見てもガテン系っしょ。日焼けして、ハチマキ巻いたら、おわ、はまるわ」
「なんだよ、俺って小説家に向いてないか」
「向いてるっすよ。漁師やりながら小説家もどうかって話しっすよ」
「嘘、じゃあ俺って小説家に向いてる?」
「めちゃめちゃ才能ありますよ」
「おまえのそういうとこ、ほんといいよ思うよ」
「まじっすか。じゃあ百万円下さい」
こんな無駄話を重ねている間に人生は終わって行く。
僕は車を降り、地図を眺めた。母から聞いた住所ではこの辺だ。絶縁状態だったミツムネ氏の電話番号は聞けなかった。氏が祖父の告別式に来たのも、新聞の訃報欄を見てのことらしい。手紙を書くのもまだるっこしいと直接来てみたのだが、住所で辿り着けるのはここまでのようだ。住所の示す範囲はあまりに広い。一応、この先にそびえる山にミツムネ氏の家、つまり宗おじさんの家はあるはずだった。
細い山道の入り口には農協があった。そこで尋ねようと側まで寄ると、閉まってはいたものの、駐車場には呆けたように打ち水に耽る老人がいた。
「すいません、この近くに後藤さんの家はありませんか」
「ああ?」と訊き返した老人は、不思議そうにこちらを眺めている。僕ははたと思い当たり、「松永」という本来の姓を告げてみた。すると、老人は急に敏い目つきになって、こちらを見返した。
財津達也 ゲスト | 2011-01-22 16:48
読ませますね。おもしろい。思わず笑わされている。つづきが楽しみ。