ぼくが提示した「プロット」は「大正八年のフルスイング」と題されていた。
わかった、と米田淳一は同意したが、この作品にはいくつかの問題点があった。
それを解決しないことには我々に勝利の道は無い。
まずタイトルだ。
「大正八年のフルスイング」というタイトルを見て、どんな物語を想像するだろうか。
ああ、大正時代に米国から野球が伝来されて、その試合の物語とかだろう。と多くの人は思う。
野球がいつ日本に入ってきたかはわからないが、それでもなんとなくそんな頃のことだろうと勝手に想像して、「フルスイング」という言葉に引きずられたまま読み始めることになるだろう。
それがコンテクストだ。多くの日本人は、フルスイングと聞けば、野球のバッターボックスでの打者の行為を想像する。
スポーツに疎そうな米田氏はそうでないかもしれないが、とりあえずご贔屓の野球チームがあるような向きであれば、野球の物語だとミスリードされてしまうことだろう。
これはダメだ。野球の物語ではないと気づくのにたいへん時間がかかる。大長編であればそういうミスリードからのどんでん返しも有効かもしれないが、短編のコンテストでそれはない。
文章量的に多くを語れない以上は、読者のコンテクストを最大限に活用する必要がある。
また、コンテクストを上手く引き出せれば、感情移入もさせやすいはずだ。
そしてこの物語は野球の話ではない。文豪が女学生にひっぱたかれるという物語だ。
つまりビンタのフルスイングということだ。ちなみに米田淳一の小説でフルスイングといえば、だいたいビンタの話である。
彼のコンテクストはフルスイング・イコール・ビンタであるので、彼がこのようなタイトルをつけるのは決しておかしなことではない。
しかしだ。それはあくまで米田作品を知る、よく訓練されたファンとの間でしか機能しない。
審査員に米田淳一ファンがいる可能性も否定できないが、少なくともぼくが調べた範囲において、審査員の中に熱烈な米田ファンはいなかった。
ゆえにこのタイトルはダメだ。どうするかはあとで考えよう。
次に何らかの対策をしなければならないのは、ウンチクの多さだ。
米田淳一の作風は、怒涛の専門知識を惜しげもなく披露し、読者の知識欲を満たしつつ、キャラクターが軽妙なトークを交わして事態を収拾するというものだ。
すべてを読んでいるわけではないが、概ねそういう傾向であるし、彼はそれが得意だ。
今回の「プロット」にもわんさかと情報が盛り込まれている。すでに。
ウンチクが小説の要素としてとても大切であることは理解している。
しかし、それは物語の進行を妨げる諸刃の剣でもある。
ゆえに、全面的にカットするしかない。ということで、ザクザクとカットした。
とはいえ、せっかく用意してきた情報をこのまま捨てるのはもったいない。
幸いBCCKSには文書内でのアンカー&リンク機能が用意されている。
ぼくは彼のウンチクをすべて本文から排除し、文末に脚注として配置するように指示した。
ついでに、さらに盛り込むようにも言った。
本文はもうほとんどできているわけで、何か仕事をさせないとヒマになってしまうからだ。
これにより米田淳一の初日の作業の大半は、脚注の作成に充てられたのである。
ウンチクを排除することでだいぶ物語の輪郭が見えるようになってきた。
そして、マズイ点もさらに見えるようになってきた。
最大の難関ともいえるのがこれだ。
ぼくはひそかに「ヨネタテンプレート」と呼んでいるが、米田淳一はそのキャリアの長さから、ある利点と、ある欠点を同時に獲得しているのだ。
利点とは、ヨネタスタイルの確立である。長年の作家活動により、彼の執筆スタイルは完成に近づいており、指先でそのまま結論に直接アクセスできるようになっている。
なので、思考の速度でそのまま完成体としての小説を紡ぎ出すことができる。日産五万字ともされる驚異的な速度は、思考を凌駕する執筆スピードによって実現しているのだ。
そしてそれはそのまま欠点でもある。逆を言えば、執筆に思考が追いついていない。
考えるよりも速く、すでに書かれている。つまり、手先で書いてしまっているわけなのだが、それを自覚することは難しい。
長年編集部から離れてソロ活動を進めてきた米田淳一は、自分で自分の作品を編集しなければならないのだが、プロになるのが早かったせいでそのあたりのノウハウは作家としてのスキルに比して、正直言って低い。もちろん一般人に比べれば比較にならんほどには高いのだが、この会場においては決して高いとは言えない。
それと、米田淳一はあまり自分の作品を読まない。誤字脱字チェックを軽くするぐらいで、推敲などはほとんどしてないのではないかと思われる。
ブログやセルパブはそれでもいいのだが、勝負用がそれでは困る。
ヨネタテンプレートの低減はぼくの仕事だと思われる。そこはがんばらなければらない。
そのあたりをシャープに整えれば、きっとこのストーリーのいいところを浮き彫りにできるはずだ。
結果的にはこの作業が一番キツかった。
しかし、三分の一ほどやったところで、何をどうするか提示したら、後半は米田淳一が自ら手を入れてくれた。
それがなければ完成は間に合っていなかったかもしれない。
高速執筆の弊害ともいえる誤字脱字の多さについては、根性の校正でどうにかクリアするしかないと肚をくくった。
これに関しては俺のキャリアが火を吹くことになるだろう。任せとけ。
本職の校正人には叶わないが、俺だって貧乏編プロで長年培ってきた経験値がある。
それに群雛で何度もペンを交わしてきた相手であるから、誤字脱字のクセもなんとなくわかっている。
瑕疵を見逃す確率はそれなりに低くできるだろう。ここはチーム分けのメリットがモロに生きるところだ。
さて、文章として最低限やらなければならないことはこれでクリアだ。見通しが立ってきた。
いよいよ本陣に突入といこうか。
この物語には、そもそもの大いなる欠陥があった。致命的とも言えるデカいエラーだ。
ウンチクや設定を剥ぎ取ると明白になってしまうウィークポイント。それは、
「で?」
である。
伊藤博文の隠し子(架空人物)と若き日の林芙美子が、三人の出版人と広島の「ある建物」で知り合い、ドタバタと騒ぐ。
なんじゃそりゃ。
謎もなければ思想もない。心理の動揺もない。そもそも事件ですらない。
ただの日常である。
SF的な不思議な出来事もないのだ。
歴史の陰に隠れた、小さな小さなありふれた出来事。ただそれだけだ。
ウンチクの鎧に隠されてわからなかった、そんな問題点が、はぎとって丸裸にすることで全部見透けてしまったというわけだ。
これは、まずい。
とは思わなかった。それは最初からわかっていたことだ。
この素材の味は、もっと違うところにある。
「何も起こらない」ということがいかに「得難いこと」なのか、それを欄外に埋め込むことがぼくの作戦だった。
これはユリシーズなのだ。
それがこの作品を、勝てる状態に仕上げる一本の糸だった。
広島県物産陳列館。聞きなれない名前だが、それが舞台となる建物の「本名」だ。
この建物がそう呼ばれていたこの物語の当時、いずれこの地になにが起こるのか、誰一人知らずに過ごしていた。
女学生をからかい、反撃にビンタをされて、いい大人がうろたえる。
そんなどうでもいい事件が起こっていたなんて、今は誰も考えない。
その建物はある日を境に、たった一つの意味しか持たなくなってしまったからだ。
でも、ここでは、多くの人が泣き、笑い、楽しく過ごしていたのだ。
失われた日常。失われるなんて思いもしなかった、当たり前の日常がそこにはあったのだ。あったはずなのだ。
しかし、それをそう書いたのでは不躾だ。
幸い、この建物の本名を書けば、それがなんであるかが瞬時に分かると思われる審査員がいた。
米光さんは青年期を広島の大学で過ごしている。知っている可能性は高かった。
無論、他の審査員も博識であろうから、ピンとはくるだろうが、確実性でいえばある程度長い期間を過ごしたという情報がある米光さんであればわかるはずだと考えた。
ぼくはそこに勝負をかけることに決めた。
そして、米田淳一に今回のノベルジャムで最大の肝ととなる提案をした。
これに比べれば、他の工夫は些細な事だ。
「米さん、原爆ドームって言葉を一切使わないようにしよう」
「え、マジで?」
「うん。だってこの時代の人、ここがそう呼ばれるなんて思いもしないわけでしょ」
「なるほど。わかった」
物語で語られる「現在」よりあとに起こることは、一切本文から排除した。
時間軸のブレがなくなり、読みやすさは一層高まったはずだ。
文章としてもさらに洗練されたように思う。
不安がないといえば嘘になる。
仕掛けに気づいてくれなければ、「で?」となってしまう。
しかしのその次の瞬間に、「で?」と思えることの幸福を感じてくれれば、物語は無限の深みを得ることができるはずだ。
これは賭けだ。
読者のコンテクストを信じるしかない。
つづく
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