窓に激しく雨が打ち付ける。ごうごうと外がうるさい。目と鼻の先も見えない土砂降りを見て、今だ、とあなたは思った。
あなたは、知らないことを知りたいだけだった。濁流の中を大きな木の枝が流れていく。この川が防波堤を乗り越えてきたら、すべてを飲み込んで世界が終わってしまいそうだ、とあなたは思った。でも、世界は終わらない。たかが台風で滅んだりはしないのだ。世界が滅ぶにはもっと大きな衝撃が必要なのだ。
でも、とあなたは思う。
世界ってそもそも何なのだろう。地球? 宇宙? この目に映る全てを世界と呼ぶのなら、あなたが終わるのはすなわち世界が終わるのに等しい。あなたが見ている世界が世界そのものだから。そしてそれはあなたに限った話ではなく、私や、他の誰かだったとしても同じことなのだ。観測者がいなければ世界は成立しない。誰にも観測できないものは存在していないに等しい。無の世界は知ることができるのだろうか。無は眠るのに等しいのだろうか。眠っている間の記憶はない。それと同じなのだろうか。ぞっとするけれど、好奇心が抑えられない。
扉を開けると雨が家の中に吹き込んできた。あなたは慌てて扉を閉める。そして一瞬で全身がずぶぬれになった。こんな暴風の中では傘を持っても意味がない。そもそもこれからやろうとしていることを考えたら、傘は必要ない。何も持っていく必要はない。家の目の前が川で良かった、とあなたは思った。
あなたは吹き付けてくる雨の中、防波堤に手をかけて川を見下ろした。猛スピードで濁流が走る。
あなたはあの時、一瞬でも私のことを思い出してくれただろうか。
※
胸の肋骨の隙間にナイフを突き刺すと致命傷を負わせることができるらしい。
腹にナイフを刺した後、刃をねじると傷口がボロボロになって治癒が困難になるらしい。
目の前を歩くクラスメイトをどうやって殺せるか考えてしまう。あの胸ポケットの位置にカッターナイフを刺せば致命傷を負わせることができるのか。彼女には何の恨みもない。ただ想像するだけ。いきなり殴ったら周囲が止めるだろうから、一撃で仕留められる方法で殺すべきだ。学校にゾンビが攻め込んできたらどうやって戦うか、と同レベルの空想遊び。猟奇殺人鬼の本を読んでほくそ笑んだり、カッターナイフを持ち歩いてみたり、そういうありがちな「イタい奴」なのだ、僕は。人間の皮でベストを作った殺人犯や、妊婦の腹に黒電話とミッキーマウスのキーホルダーが詰め込まれていた事件の話を好んで読み返す。フィクションはつまらない。ノンフィクションが面白い。家の古新聞を両親の留守中に漁っては十代の少年少女が起こした猟奇殺人の記事をキャンパスノートにスクラップしている。面白そうな事件があれば、犯人の年齢に問わずコレクションに加えることもあるが、やはり若者の殺人事件の方が目を引くものがある。ついこの前も女子高生が幼女を誘拐して首を切断する事件があった。首というのは案外頑張れば切断できるのだな、と思った。特に幼児の骨はやわらかいので切断しやすいのかもしれない。
いつも挨拶してくれるあの子を僕が殺したら世間はどんな反応をするだろう。僕の席の三つ隣の列の一番前に座る山下さんは毎朝誰にでも挨拶をしてくれる。きっと悲しむ人も多いだろう。僕は世間から憎まれる。僕に刺された山下さんを想像する。何が起こったのか分からない、という顔のまま胸から血を噴出させる。
「ね、こぞっちはどう思う?」
不意に話をふられた。何も聞いてなかった。
「いいんじゃないかな」
答えに変な間ができてしまった。
「また絶対聞いてないやつじゃん。小園ワールドに飛んでたんでしょ」
そう言う高田真美はこのいわゆる仲良しグループの中で僕のことを気にかけてくれる人だ。このグループに僕がいるのも彼女のおかげだ。あまり美人ではないが、透き通るような色白に真っ黒い髪が映えている。もしも生涯で一人しか殺せないならこの子が良い、と僕は思っている。この白い肌が切り裂かれ、赤い血が噴き出す様を思い浮かべる。
「そんなことないよ」
「えー、じゃあ何の話してたか言ってみて」
思わず黙ってしまった。もちろん聞いてないので。高田真美はいたずらっぽく笑うと、今度の体育祭の時につけるおそろいのアクセサリーの色は何色が良いかという話をしていたのだと説明してくれた。
「あー、あたしは別になんでも良いかな」
あたし。よそよそしい言葉だ。それに比べて「僕」というのは良い響きだ。安心感がある。口にした時、しっとりとした優しいくちどけがある。やわらかな膜に覆われているかのような安心感。僕は安心が欲しいのだろうか。分からないけれど、「僕」は誰が使っても良いと思う。でも、僕が「僕」と言うと大抵の人はギョッとした顔をする。うっかり口走ると、変な空気になる。だから僕は人と話す時に「僕」とは言わない。
僕は高田真美を殺したい。胸を一突きでも良いし、首を絞めたり、何かで殴って弱らせてから、あちこち切り刻むのも捨てがたい。そんな風に思っているくせに、僕は彼女を積極的に殺すつもりはない。何月何日に実行しようだとか、そんな計画は練っていない。告白せずに寝かせているほのかな恋のようなものだ。
思春期は多感な時期らしい。らしい、というのは言われるからそう認識しているだけで、別に自分で自分が多感だとは微塵も思わないからだ。僕らはまだ子供だ。親の保護下に置かれていて、行動できる範囲も狭い。ただ気取ったり、憧れたりしているだけ。大きな夢に胸膨らませギターを始めたなんちゃってバンドマンのうちの何人が本物のミュージシャンになるのだろう。伝説的な猟奇殺人について調べまわる中二病患者のうちの何人が本物のシリアルキラーになるのだろう。偶然とれた好成績で勉強に目覚めた天狗の何人が本物の学者になるのだろう。本物の、偉大な人。本物の人。僕たちはまだ何者でもない。これから何者かになる僕らは無限の可能性を秘めているのだ、と先生も言っていたが、どうせ僕は何者にもなれず、本物じゃないまま、この繰り返しの果てに死んでいくのだろうと思う。無限の可能性というのは、どうも自分の事には思えなかった。
「ばいばーい」
放課後、皆おのおの部活へと旅立つ。もとは高田真美と同じ部だったが、僕は一学期に辞めた。
市立図書館の自習室へ行く、と高田真美たちや親には伝えているが、実際には近所の路地裏や公園などをさまよっている。
僕たちの通学路には葬儀場があって、毎日違う人の名前で「〇〇家式場」という案内看板が立てかけられている。高田真美も殺されたらこうやって葬式をされるのだろうか、と思いながらいつも看板を横目で見ている。毎日人が死んでいる。昨日の看板の名前ももう覚えていない。僕がいつか人を殺してしまったとしても、すぐに忘れ去られるのだろう。
最近、近所で連続して猫が殺されており、この町では大きなニュースになっている。猟奇殺人が起こる前触れにありがちな状況だ。動物に残虐行為を働く人間は、殺人の予行練習として動物を殺している。あるいは、殺人欲求を抑えるために動物を殺して気を紛らわしている。殺された猫たちは舌が切り取られたり、目玉をくりぬかれたりという惨たらしい状態で物陰などに半ば隠されるようにして置かれているらしい。子供だけで夜は出歩かないように学校でも注意喚起があった。パトロールも強化されているらしいとは聞くがあまり警察は見かけない。
僕はその犯人に会ってみたい。なので、野良猫がよく現れるような路地裏や公園、神社を順番に巡りながら帰っている。夜遅い時間に出歩くことはできないが、猫がいる場所に犯人はやってくるはずだ。毎日期待しながら歩いていたが、ここ一か月何の成果もあがっていない。強いて言えば、顔見知りの猫ができたくらいだ。猫の方はこちらを顔見知りとは思っていないだろうが。
今日も僕はいつもの神社の裏手をぐるりと回って歩いていく。この神社にはぶち猫がいる。行けば必ずと言って良いほど見かける。じっと見ていると、こちらと目を合わせてにゃあ、と鳴く。僕が何もくれないのを理解しているのか、一言二言挨拶をした後はすぐどこかへ行ってしまう。いつもの猫を探しながら、クヌギの裏を覗き込んだ。
死体があった。
例のぶち猫は腹を割かれて木に張り付けられていた。濁った眼球。だらしくなくのびた乾いた舌。キリストのように左右の手に釘を打ち付けられ、切り開かれた腹からは腸がだらしなく垂れ下がっていた。それを見て僕は「腸ってすごく腸」と思った。ザ・腸。小学生並みの感想。ああ、心が死んでいる。人の心がない。いつも見ていた猫がこんな風になっても悲しくならない。
「見つけちゃったね」
後ろから声がした。振り返ると僕と同じ制服を着た女子生徒が立っていた。学校の中で見かけたことはあっただろうか。見たような気もするが、あまり顔が広くないので定かではない。胸元のリボンの色がえんじ色だった。三年生の学年色だ。僕は二年生なので先輩だ。
「あの、どうしてこんなところに」
恐る恐る話しかけてみた。神社の人には失礼かもしれないが、中学生が放課後に遊びに来る場所ではないように思えた。
「ちょっと、探してて」
目の前の人物は何の気なしに答えた。何を探していたのか。殺す獲物だろうか。だとしたら、僕のことも標的にするかもしれない。
「あなたがやったんですか」
死体を横目に、胸が高鳴った。のどが渇く。恐怖ではない。期待だ。女子生徒はもったいぶった様子で緩慢に首をかしげ、死体を見つめ、もう一度首をかしげた。そして、口を開いた。
「そうだよ。僕がやった」
口元が緩むのが自分でも分かった。「僕」。この人も一人称が僕と同じなのだ。親近感を覚えた。僕と違うのは現実での実行力だ。猫の惨殺といい、一人称の使い方といい、彼女は僕と違って行動力がある。油断してはいけない。相手は猫を惨殺するような猟奇的な人間だ。危険な人物なのだ。殺されるかもしれない。僕は死にたくないのだろうか。いや、僕は死んだって良い。別に生きたいとも思ってない。積極的に死んでいないだけだ。そう思っているつもりだったが、冷や汗が流れた。
「あたし、小園っていいます。二年生です」
相手のことを知りたいと思うものの、質問攻めにする勇気もなく、ぎこちない自己紹介をしてしまった。しかも「あたし」。本当は僕のくせに。意気地がない。僕は彼女と違って行動力がない。ただ想像してばかりの頭でっかちの臆病者。
僕の突然の自己紹介に彼女は困惑したのか、しばらく神妙な顔をして沈黙した。まずい。僕はコミュニケーション能力が壊滅的だ。いわゆるコミュ障ど真ん中だ。憧れの猟奇殺人犯予備軍に出会ったというのにどうすれば良いのか、自分がどうしたいのかも分からない。僕が「あの」とか「その」とか「なんか」とか言い訳がましく言葉にならない言葉を呟いて慌てふためいていると、彼女は堪えきれない様子で噴き出した。
「自己紹介ありがとね。僕は三年生」
名前は教えてくれなかった。僕はとりあえず力いっぱい何度も頷いた。彼女は微笑みながら、踵を返した。
「待ってください。あたし、ずっとあなたを、その、先輩のことを探してたんです」
咄嗟に呼び止めた。やればできる。勇気が出すと、思っていたよりも大きな声が出た。彼女は驚いた様子で足を止めて振り返った。
「あの、こんなこと初めて会う人に言うのおかしいかもしれないんですけど、あたしは猟奇殺人ばっかり調べちゃってて。なんか、そういうのばっかり見ちゃうんです。その、あたしはそういう想像ばっかりしてるくせに実行できないから、実行できる人が羨ましいっていうか。でも、犯罪者になりたいとかじゃなくて。なんて言ったら良いんですかね。すみません、なんかいきなり」
未熟な言葉を吐き出した。まるで整理できていない。僕は何を言いたいのか。自分で分からないのだから他人に伝えられるはずがない。
「じゃあ、君にとって僕は憧れの人なんだ」
彼女はにやにやと笑いながらこちらへ近づき、半泣きの僕の顔をじっと覗き込んだ。そんなにじろじろと見られると緊張する。僕も腹を切り裂いて張り付けにされるかもしれない。
「尊敬してるんです」
そう言いながらも喉の奥が重い。冷や汗が出てくる。死んでも良いと思っていたけれど、体は抵抗しているのだろうか。
「部活やってないからさ、先輩なんて呼ばれて尊敬されるなんて、新鮮でいいかも」
軽い調子で彼女は答えた。調子が狂う。ちゃんと僕の話を聞いているのだろうか。そもそも猟奇殺人犯予備軍に話なんて通じないかもしれない。
「ねぇ、君は誰かを殺したいの」
疑ったのも束の間、まともに話を聞いてくれていたらしい彼女は、僕の目をじっと見つめた。そらした瞬間に刺されるのではないかと思うと、目をそらすことができない。僕は斜に構えて気取っているだけで本当は死にたくないのだろうか。情けない。
「高田真美っていうクラスメイトを殺したいんです。いや、高田真美はいつもあたしに優しくしてくれて、本当に何の恨みもないんですけど、ただ本当に好奇心で切り裂いてみたいけど、でも切り裂いたら高田真美は死んでしまうので、どうしようかって思って」
自分でもめちゃくちゃなことを言っているのは分かっていた。でも、そう思っている。こんなことを初めて会う人に言うのは間違っている。間違っているのに言わずにはいられなかった。
「あ、じゃあ生きてたら切り裂いちゃって良いってこと? 助かる程度に切り刻めるように医学でも学んだら良いんじゃない?」
彼女はにやにやと笑いながら言う。からかわれているのだろうか。顔が熱い。赤くなっているかもしれない。それが余計に恥ずかしくなる。
「ごめんなさい」
僕は弱々しく言いながら目を合わせたまま後ずさりをした。獣に襲われそうになったら目をそらしてはいけないと何かで読んだのを思い出した。猟奇殺人犯予備軍は獣みたいなものだろう。
「謝る必要なんてないよ。君、ほんと変な子だね」
不意に彼女のにやにや笑いが弾けて、自然な笑みがこぼれた。目がきゅっと細くなる。
「ねぇ。明日もここにおいでよ」
馬鹿にされているのかもしれない。それでも僕は彼女の言うことをきっと聞いてしまう確信があった。ぶんぶんと頷いている僕に微笑みかけると、彼女はその場を後にした。僕はもう既に早く彼女に会いたくなっていた。
その後、興奮冷めやらぬ中、どうやって帰ったのかあまり覚えていない。ただ、家に辿り着いた瞬間、今日の出来事が夢のような気がしてきた。
「おかえり」
母が玄関に出迎えにきてくれる。僕のスマホを回収するためだ。家に帰るとスマホをは回収される。スマホを母に渡す時、いつもどんな顔をすれば良いのか分からなくなる。
「いつも嫌そうな顔して。やましいことがあるんでしょ。出会い系サイトにでも登録してウリでもやってるんじゃないかって心配になるわ」
母曰く僕は嫌そうな顔をしているらしい。嫌そうな顔をしている自覚もなかった。
「やってないし、こんなブスができるわけないよ」
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