母の納骨式を済ませた夜、香耶は一人自宅へ帰って床に就いた。疲れているはずなのになかなか眠れない。まどろんだかと思うとすぐに目を覚まして、布団の中で何度も寝がえりを打った。足が冷えて仕方がない。靴下を履いても無駄なようだ。築七十年の大きな家は広すぎるし寒すぎる。三月も末だというのに、石油ストーブを消した途端に真冬の寒さだ。ここで生まれ育って十八歳まで暮らしたはずなのに、すっかり東京のワンルームに慣れてしまって、だだっ広い部屋に一人でいると手足の置き場もない心地がする。
東側の窓が白々と明るみ始めたのが見えて、香耶は眠るのを諦めた。無理に寝ることもないし、眠くなったら昼寝でもしよう、と考えながらのそのそと起き上がり、寝間着の上に上着を羽織って階下へ降りた。台所でミルクを温めて飲もうとしたら、鼻先に牛乳の風味に混じって香の匂いが漂ってくる。夕方の御勤めで焚いた香の火が消えなかったのかと、座敷に入って確かめてみたが、火の気はなかった。強めに焚いた白檀の香が暗闇にいつまでも残っていたのだった。
仏壇の前に座り、母の新しい遺影をつくづくと眺め、軽く鈴を鳴らして手を合わせた。あまりの寒さに傍らのストーブを点けて手足を暖めると、もうそこから動けなくなった。
実家に戻ってこれで二週間ちょっと。母が倒れたと連絡を受けて急遽、ここ舟橋村に帰省したが、その日のうちに母は帰らぬ人となった。それからは喪主として通夜や葬儀の支度に追われ、それが済んでからは納骨の手配やら名義変更やら相続の手続きに奔走し、ようやく昨日するべきことを終えた。今日は心置きなくゆっくりと休んで良い日なのだ。
写真の笑顔はあまりに屈託がなくて、こっちの居心地が悪くなるほどだ。それにちょっと若すぎる。これは十年ほど前に撮った写真だ。ここ最近の母の顔を思い出してみようとしたが、こんな邪気のない笑顔しか浮かんでこない。だいたい母はひどい笑い上戸で、つまらないことを面白がっては、底が抜けたようにいつまでも笑って周りの人に呆れられていた。急な心臓発作が起きたのも、笑い過ぎたからじゃないかと疑うほどだ。でも死に顔は安らかで清潔だった。この数年、体調が悪そうだったのを見て見ぬふりをしてきた罪悪感が幾分穏やかになった。
突然、香耶は頭を抱えこんだ。これではいけない、母を偲んでいたはずが、いつの間にか違うことを考えている。心はある種の焦燥でいっぱいになっている。夜中に一人きりでいると、焦りや不安で身悶えしそうになる。
他人が見れば、急な病であっけなく亡くなった母を慕い悲しんでいるように見えるだろうが、何のことはない、実はずっと会えないでいる不倫相手の男が恋しくてたまらなくなっているのだ。立場上、彼は葬儀にも来られないし、弔電や香典をよこすこともできない。かろうじてメールでやりとりはしているものの、相手もこちらの状況をおもんばかってか、どこか遠慮がちだ。納骨式が済めば時間が取れると連絡をしているのに、何やかやと都合が合わず一向に逢瀬の約束ができない。
何週間も約束がないなんて、今までこんなことはなかった。すぐにでも飛んで帰って、いつものホテルで待ち合わせたい。そう思っただけで頭の芯が蕩けて身体が疼いてくる。なんでこんな寒い座敷で一人ぼっちでいるんだろう、なんでメールに返事をくれないんだろう。もしかしたら他の相手を見つけてしまったのかもしれない。もともと何の約束も縛りもない、一時の遊び相手とお互いに割り切っていた、そんなことは最初から知っていた、仕方がない、仕方ないのだ、と頭では考えるものの、みぞおちの辺りから苦いものがうねるように突き上げてきては、じんじんとした悲しみに変わって目の前を暗くする。生木を裂く、という言葉が浮かんできた。身体はそう簡単には承知してくれないのだ。
雀の囀りが聞こえて、ハッと我に返ると、朝日がうっすら差し込んでいて、母と目が合った。遺影は相変わらず笑顔で香耶を見つめている。その隣には祖母の写真。紋付姿で髪をきちんとひっ詰め、大真面目な顔をしている。白黒写真だがきりりと整った顔立ちなのがよく分かる。その隣の写真は更に古く、祖母の妹、香耶には大叔母に当たる人だ。祖母よりも穏やかで優しい顔だった。曾祖母の写真は他の人よりも二回りも小さく、黄ばんでぼやけていたが、印象的な生き生きとした表情の人だ。
仏様たちの前で何を考えているんだろう、と香耶は一人赤面し、ごまかすように仏壇掃除を始めた。どうせ時間はあり余っている。
曾祖母の代から受け継いでいる、無駄に立派な浄土真宗の金仏壇。祖母も母も毎日の様に磨いていた。仏壇を見ればその家が分かる、なんて常々言っていたけれど、今どき仏壇がある家の方が珍しかろう。経机を後ろへどかすと、手前から和讃箱や過去帳を下ろし、香炉や花立、折敷も下ろし、更に灯籠や瓔珞を外して、ご本尊には触れないようにはたきをかけ、仏壇全体を乾拭きする。それからさっき下ろした仏具類を一つずつ磨いてやる。古い仏具なので、壊さないよう細心の注意を払う。細工の細かいところは綿棒で汚れを落としてやる。
過去帳の埃を払うついでに中を開けると、見事に女の名前ばかりだ。中山家は四代続いた女系家族で、直近で死んだのは母の中山郁子、法名は釈尼福郁、その前には祖母の中山スミ、その前は大叔母の中山ミツ子、そして曾祖母の中山トキ。
この家は七十年前に曾祖母と祖母が二人で建てた。古い家が多いこの舟橋村でも、この頃は建替えが進んでいて築七十年なんて家はもう少ない。
曾祖母のトキは、朝鮮からの引揚げ者で、戦後子供を抱えて大変な苦労をしたと聞いている。祖母のスミは出戻りだ。嫁ぎ先の舅姑と折り合いが悪く、娘を連れて身一つで追い出されたと言う。それでも和裁の腕を活かして自立し、子供を育て上げ、家まで建てたのだから、昭和の中頃の話とはいえ、あの時代に生きた人は本当にたくましいと思う。
祖母は加耶が小学校に上がる頃まで健在だった。うっすら残る記憶の祖母は、いつも和服を着て背筋を伸ばしていた。家には大勢の和裁のお弟子さんが出入りしていて、若い娘さんにはついでだと言って行儀作法まで仕込んでいた。母によれば、祖母は諸芸全般に一通りの心得があり、特に茶道では裏千家の講師の資格まで持っていて、礼儀作法には非常にうるさかったと言う。その反動で、母は家出同然に故郷を離れ、各地を転々として奔放な生活を送ったらしい。ちょうどバブル景気の真っ最中で、働き口には困らなかったことだろう。父と知り合ったのはその頃だったようだ。事情があって結婚できなかったとしか聞いていない。結局三年ほどで実家に戻ってきて香耶を産み、その後は地元に落ち着いたということだが、あの笑い上戸の母にそんな過去があったとは今でも信じられない。
この家は代々の女が揃って同じような人生を歩んだことになる。その末裔の香耶は三十代半ばにもなって結婚もせず、あまつさえ不倫に身をやつしている。この過去帳に次に書かれるのはもちろん自分の名前だ。ただし跡を継ぐものはもういないだろう。
そんなことを思いながら、過去帳を片付けて最後に残った大物の和讃箱に取り掛かった。金ぴかの仏壇に劣らぬ立派な和讃箱で、漆塗に金蒔絵は大谷派の宗紋の抱き牡丹だ。年季が入っているのにつやつやのピカピカで、指紋を付けるのも憚られる。そっと蓋を取ると、「ご経本」と呼んでいる柿渋色の「正信偈和讃」が何冊か納まっている。古ぼけて色が剥げているのが祖母のもの、少々くたびれているのが母のもので、新品同様のは、香耶が今回母の葬儀で初めて使ったものだ。
箱の底に同じような色の袱紗の包みが納められていた。今まで気がつかなかったが、あるいは曾祖母やもっと前のご先祖の経本かもしれない。取り出して中身を開けてみると古ぼけた大学ノートだった。昭和の頃によく使われた綴じ代の黒いノートを開くと、最初の頁にいきなり「姦通は悪か人が悪か」と墨書してある。
この達筆は祖母の字だ。中山スミより郁子殿へとあるから、祖母が母に当てたものだろうか。日付は昭和六十三年五月一日とある。香耶が生まれる数か月前のころだ。
最初の頁は筆書きだったが、以降は万年筆でびっしりほぼ最後の頁まで書き綴っている。流麗な美しい字だが、中身はどうも穏やかならざる気配だ。「不義密通」「売女」「重ね斬り」「鉄道自殺」……興味に駆られた香耶は掃除の手を止めてノートを読んだ。
郁子殿
今年は長い冬でしたが、ようやく陽光まぶしい春爛漫の季節を迎えました。貴女の丹精の御蔭で、庭の藤棚も花海棠も美しい花を咲かせています。何年かぶりの嬉しい春となりました。
暮れに帰って来た時、貴女は私がすっかりやつれてしまったとびっくりしていましたね。家の手入れがなおざりになっていることにも驚きを隠しませんでした。それはそうでしょう。貴女がいない家で何もする気が起きず、仕事も手につかず、心配ばかりを重ねていたのですから。
私は逆に貴女の痩せ衰えた顔を見て仰天したのですよ。せっかく帰って来たのに、これではすぐに死んでしまうのではないかと、年末だというのに青木病院に無理を言って往診してもらいましたね。いろいろとすったもんだがありましたが、結局は笑い話になって本当に良かったことでした。
貴女が少しずつ朗らかで明るい顔に戻って行くのを嬉しく眺めながら、機会を見てじっくりと話をしたいと思っておりました。貴女はもう立派な大人ですから、これから世の中を渡って行くにあたって知っておくべきこと、いえ、知る権利のあることは話しておくべきと考えました。でも、貴女のお腹にいる赤様が誰の子だとは一生聞きますまい。でもその子は我が家の子です。それだけは安心しておいでなさい。
どうも面と向かっては切り出しにくく、どこから話していいかも思い迷うし、話し始めればきっと長話になってしまいますから、いっそのことこうして手紙にすることにいたしました。身体に障らない程度にゆっくりとお読みなさい。母が今思うことを順々にお話します。
貴女もご存じの通り、我が家の女は皆、火の性で、決して一人の男と連れ添うことがありません。この母も、貴女の叔母様もそして私の母も。
私の母のトキ、つまり貴女のおばあ様は、明治の生まれで元は士族でした。大名の流れを汲む名家に嫁いだものの、良妻賢母に収まる人ではなく、嫁ぎ先の下男と恋に落ちて朝鮮に駆け落ちしました。当時の京城、今はソウルという町で私が生まれたのです。しかし男とは間もなく別れ、おばあ様は一人で商売を始めました。私は父の名前さえも知りません。知る必要などないとおばあ様は言うのです。
その後、おばあ様は現地の軍属の方と同棲するようになって、叔母様が生まれました。その方の伝手で陸軍兵営の酒保業者に指定されて、軍隊相手に一財産を築いたのですよ。私や叔母様が十分な教育を受けられたのもそのおかげです。戦局が悪くなって敗戦が近いことをいち早く察知し、混乱が起こる前に親子ともども内地に戻れたのも、軍内部の情報を流してくれる人がいたからです。
日本に戻ったおばあ様は、実家のあった富山で再び商売を始め、私と叔母様を育て上げたのです。この舟橋に住み始めたのは、引き揚げの翌年でした。知り合いから貸家を安く借り受けたのですが、最初はよそ者扱いされて大変でしたよ。もっともおばあ様はそんなことには頓着なさいませんでした。ものすごく忙しかったから。
昔風に言えば、小股の切れ上がったいい女で、気風が良くさっぱりとした人でした。朝鮮にいた頃から随分もてたようでしたが、ほどなく家にもいろんな男衆が出入りするようになりました。亭主を追っかけておかみさんが乗り込んでくるようなことも、一再ならずあったのですよ。おばあ様は少しも慌てず、「お前様がそのように髪振り乱して、襟はだけたまんま、糠味噌臭い口で怒鳴り散らかしたりするから、ご亭主が他所の女へ迷いもするのさ、出直してきやがれ」なんてやり返して。まあ随分周りと悶着を起こしましたよ。
でも、不思議に恨みつらみを後々まで引きずるようなことはなくて、おばあ様の葬式の時は、「おトキさん、おトキさん」って大勢お焼香に見えましたよ。昔、怒鳴り込んできたおかみさんもお線香を上げてくれたのです。
我が家が舟橋村の一員と認められ、今もつつがなく不自由なく生きていられるのは、おばあ様の旺盛な独立心と男相手に世間を渡り歩いた度胸の賜物であると思召せ。
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