おれはその研究室の両開きの扉を開いた。すると広い室内が見えた。大きな机とそれに備えられている丸椅子がいくつもあり、中は迷路のように入り組んでいた。おれは迷わず入室し、その迷路の室内を奥まで進んだ。
一番奥の室内全体を見渡せる位置に、書類が散乱している机と、背もたれと肘掛けが付いた椅子があった。そしてその黒の頑丈そうな椅子に、お目当てのペンウィー・ドダーが座っていた。
彼女は白のシャツに黒のスラックスを着、その上から白衣を着ていた。髪は黒で、いわゆるウルフカットと呼ばれる丸っこい髪型をしていた。
「誰かね?」と彼女は直進していくおれに問うた。おれは彼女の眼前まで行くと、「誰でもいいだろう?」と返した。ペンウィーは首を傾げてから素早く頷いた。
「今日は警告しに来たんだ。……これ以上IMSに関わるのはやめておけ」
おれはぶっきらぼうに放った。
するとペンウィーは肘掛けに右肘を置き、頬杖をついた。
「……私はラストリス君のような失敗は犯さない」それは余裕と気品を備えた滑らかで妖艶な雰囲気の声だった。
「それはどうかな。アンタだって人間だ」
「私は医学者だ」ペンウィーははっきりとした鋭い言葉使いだった。
「ラストリスだってそうだったじゃないか! アンタは自分が特別な存在だと思ってるようだが、実際はそうじゃない。アンタも、死んだラストリスも同じ人間だ」
「私は特別だ!」
ペンウィーは低く、重みのある声を放つとそのままゆっくりと立ち上がった。おれたちは至近距離で睨み合った。ペンウィーの香水と体臭が混ざった甘い香りが鼻孔に触れた。
「私は特別だ。……そして私は、英雄だ」
「ほう……、人間の性別を無くすことが英雄だと?」
「そうだ……」
ペンウィーはおれの顔をぎゅっと睨み、そのまま五秒間何も話さなかった。かと思えば急におれから目を離すと、そのままこちらを向いたまま、後退して椅子に着地するように座った。
「あんたはっ――」
「お母さんっ!」
おれの横を一人の女の子が通り過ぎた。その子は五歳ほどで、薄桃色のワンピースを着ていた。
「おおメカブ! どうした? 外で待っていたんじゃなかったのかい?」
ペンウィーは走ってきたメカブと呼ばれた女の子を素早く抱きしめた。その顔には今までの敵意のような硬い感じはなくなっており、代わりに柔らかく温かい、ぬるま湯のような感情があった。
「すみません、ペンウィーさん。どうしても会いたいって聞かなくて」と弁明しながらこの研究室に入ってきた黒コートの女は、おれのことを無視してペンウィーに歩み寄った。女は角ばった顔で、ペンウィーを見る目には彼女と同様に優しく生温かい雰囲気があった。
「そうかい。まあ仕方がないな。今はお客さんがいるけれど」
「すみません」
女はおれの方を見ると本当に申し訳なさそうな顔色でペコリとお辞儀をした。おれはその途端微細な罪悪感に包まれた。こうも真っ向から謝罪されると流石に良心が痛み、この研究室に名前も名乗らず乗りこんできたこと自体がいけないことだと思えてきた。
ペンウィーは女の子を下ろしてからおれの顔を見た。「それで、ええと名前はなんだったっけ? 君の要件はそれだけかな?」
おれは何も言わずに素早くお辞儀をした。「おれは国立塩梅研究所の第二研究室主任、ラズーン・ドロリーだ」おれはお辞儀をしたまま、つまり床に顔を向けたまま名乗った。
「そうかい。塩梅研究所の人間なら、確かに私の行動に嫌悪するのもわからんでもない。しかしねラズーン君。うん? なんだか聞き覚えのある名前だな。……とにかくラズーン君。私は自分の行動に自信を持ってるし、それを取り下げるつもりもないよ」
おれはお辞儀をやめてペンウィーの顔を視た。その顔には並大抵ではない覚悟が現れていた。双眼には確固たる意志の光があり、そこに自分なんかが介入できるわけがないと、おれは思った。
「さて、そろそろ帰ってもらおうかな。私はこれからキャナウェイに会う予定があるんだ」
「あ、ああ……、それじゃあおれは帰るとするよ」
おれは右手を振りながら早足にこの研究室から出ようとした。しかしもう一歩というところで足を止め、女の子の頭を撫でているペンウィーを見た。
「ところで……、その女の子、どうしたんだ?」
「私がイチから育てたんだ。……試験管の中で」
「そうかい……」
おれは溶けゆく声で答えてからこの研究室から出た。
廊下には、白い光と研究者たちの日々の硬く物質的な意志の残り香のようなものが舞っていた。おれはポケットに手を入れ、手のひらよりも小さい大きさの長方形の塊を取り出した。それには中心に赤く丸いボタンが付いていた。おれはそのボタンを躊躇なく押し込んだ。
おれは深い息を吐いてから歩き出した。数秒後、後方の研究室が爆発した。
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