蕎麦と卵とチョコレート

児島啓祐

小説

8,078文字

そばを愛していたにもかかわらず、そばアレルギーになってしまった太一。もっとも愛するものを遠ざけて生きねばならない彼が、二つの出会いをへて下した結論とは? 新世紀の到来を告げるアレルギー文学。

太一の食い入るような視線が朝刊に注がれる。同時にボールぺンの握られた右手は高速移動を展開し、何かに取りつかれたように、正という文字が広告の裏に刻まれていく。テーブルに置かれたふっくらごはんや鮭の塩焼きには見向きもせずに奇怪な作業を続ける太一を見かねたのか、母親の荒げた声が響き渡る。それでも太一の腕の動きは留まることを知らない。正の字は丁度六個目になった。

「あんた、何朝からお悔やみ欄広げて亡くなった人の数を数えているのよ。縁起でもない。いつか罰があたりますからね」

太一は手を止めて豆腐の味噌汁を一気にすすると、近頃さらにしわの増えた母親へ向かって話し掛けた。

「なぁ母さん、今日のお悔やみ欄には三十人の名前があるんだけど、それは三十人死んでしまったということだよね」

目尻のしわを指で摘んで引き伸ばしにかかっていた母親は、太一の発言に小さな目を目一杯に見開いたので、しわは余計に複雑な図形へと姿を変貌させてしまった。

「あんた、いきなり話しかけるんじゃないよ。それより、早くごはん食べなさい、学校に遅れたらどうするの、あんたもう中三なんだから。しっかりなさい」

太一は大欠伸を一つすると、思い出したように言った。

「なあ、父さん、父さんの夢は何だったの? やっぱりそば職人?」

黙々と動かしていた父親の箸が止まった。黒淵眼鏡に大きな目が印象的である。

「いや、父さんはコスモの一部となりたかった。青い地球を、月面上から眺めてみたかった。太一、宇宙は素晴らしいぞ、たくさんの謎を我々に与えてくれる。どうだ、お前は宇宙飛行士を目指してはみないか?」

太一は儚い父親の期待を「でも諦めたんだね」の一言でぶち壊すと、再びお悔やみ欄を凝視し始めた。父親は顔を真っ赤に染めながら何かを言い返したい風であったが、太一が次に言った言葉を聞くと、ため息を吐きながら肩を落とした。

「この三十人の中で一体何人が自分の夢を叶えて死んでいったのかな?」

信州のとある町のはずれにたたずむそば屋に太一は暮らしている。父親は先祖代々続くそば職人の家系で、年季の入ったボロ屋を売り払うことも無く、そばを打ち続けている。今にも穴が開きそうなのれんが斜めにだらしなく垂れ下がる様は、このそば屋の客足を象徴しているかのようである。

太一は父親のそばを打ち出す様を一瞬見てから、のれんをくぐり外に出た。秋風が学ランに色を与える。形を与える。けれど夢は与えてくれない。太一はそう思うと何か投げつけたい衝動に駆られたが、何とか自分を押さえ込んだ。夢は掴むものだと自分に言い聞かせながら。

歩きながら太一は三年前の今日のことを思い出していた。

 

「太一、ほら、そばがゆで終わったぞ」

太一はその声を聞くと読みかけの漫画を読み捨て、一目散に台所に向かった。

そばは太一の大好物。そばを打つ父の背中を見て育った太一にとって、この瞬間は特別であり見逃せない。慣れた手つきでそばを湯気の中から引き上げると、麺は冷水でしめられてから、味わい深いざるにのせられる。漆黒のつゆにじれている太一の顔が映っている。何気なく流れるいつもの中に、太一は不思議と心が温まるものを感じていた。それは故郷から届いた母親の手紙を開くときの心境に似ているのかもしれないと、太一は想像しながら割り箸を割る。象徴的な音が響き渡った。

「いただきます」

つゆに浸されとうとう口へと運ばれる。父親は満足げに太一とそばとの対話を楽しんでいる。それは何も変わらない出来事のはずだった。

「どうしたんだ! 太一!」

急に太一は箸を床に落とした。顔は真っ赤にむくれあがり、呼吸のテンポが速くなる。

父親は椅子から落ちた太一をすぐさま抱きかかえると、救急車! と誰彼かまわず叫びつづけた。

「そばが怒っていたんだ」

救急車で病院に運ばれた太一が意識を取り戻した後に発した、初めての言葉がこれだった。

太一はそばアレルギーだと診断された。この事実を聞いた両親もショックだったが、言うまでも無く、一番大きな衝撃を受けたのは太一だった。

「もうそばは食べられないの?」

声の震えが病室に木霊する。点滴が落ちるように、太一の心の中にも何か重たい液体が溜まっていく。

病室には両親と太一しかいない。顔を伏せる両親に太一は再度話し掛ける。湿った空気が一帯を包み込んでいる。

「何で? 僕はなぜそばを食べてはいけないの? 誰が決めたの? どうして……僕はそばに嫌われたの?」

太一のか細い声は失われていくだけだった。

この日の夜、太一は両親が帰り誰もが寝静まった時間帯に、点滴を自ら抜き取り病室から抜け出した。非常口の深い緑光が、太一の目に虚しく突き刺さる。何の当ても無く太一は彷徨いつづける。聞こえるのは自分の足音と心臓の音だけだ。それ以外の音全てを暗闇が溶かしている。太一は自分の存在を、飽和状態で溶けきれなくなった物質と重ね合わせた。自分だけそばを食べられない。自分以外はそばを食べられる。

太一は虚無的宇宙の中で、ある何かを探したが何も見つからなかった。

太一はどこをどう行ったのか、縦縞のパジャマとスリッパのまま病院を抜け出すと、いつのまにか近くの公園の中を歩いていた。夜風が冷たく吹き付ける。太一はこの風が自分の大切なものを全部運んでいってしまうような気がしたが、一体今の自分にとって大切なものとは何だろうと思った。そば以外に何かあるのだろうか。

ベンチに積もった紅葉を払いのけると、太一はそこに腰を下ろした。ふと空を見上げると今夜は満月だった。いつの時代にもあり続けた空の中に燦然と輝いている。

「お前さん、満月が好きかね」

隣でいきなり声がした。太一は声のした方向に顔を向けた。そこには見たこともない老人が座っていた。太一はすぐ隣にいた老人に気づかなかったことと、話し掛けられたことにあまり驚かなかった自分を不思議に思った。

「わしは満月が好きだよ、なんたって卵に似ているからね」

太一は老人を観察した。ヒヨコの絵が入ったTシャツに(I LOVE EGG)の刺繍入りのジーパン、オマケに眼鏡も卵の殻が半分に割れたような形のレンズだった。

「卵がお好きなんですか」

「おう、大好きだよ。特にゆで卵が好きだったな、プリッとした白身にモチっとした黄身がコラボして、口の中にパラダイスが広がるんだよ。灯されたろうそくのようにしみじみと。目玉焼きは醤油派で半熟が大好きでね。白いふっくらご飯の上に、半熟の目玉焼きを乗せて黄身を潰すんだよ、するとお米と絡み合って……絶品だったな」

卵老人は懐かしむように語っていた。太一はどこか自分にも共感できる部分があるような気がした。この十二歳の小学生と、卵好きの変態老人との間に共通点を見出したことが、太一には面白くてたまらなかった。

「だがもう五十年以上前の話だがね」

卵老人の声のトーンが少しだけ下がった。

「ワシは五十年以上も前に卵を食べて死に掛けたことがあってな、本当に哀しかった。心はこんなにも卵を愛しているのに、体が卵を裏切ってしまったのだからな。そうワシは卵アレルギーと診断された。それ以来ワシはずっと悩み続けているんだ。食べたいけれど食べられないという拷問的矛盾の中で。苦しみ続けているんだ。一体化していると思い込んでいた心と体には、実は目に見えない淵が存在しているなんて。どうしようもなかった」

「僕も今日そばアレルギーだと診断されました。でも信じられないです。もうそばを食べられないなんて……」

太一の目には複雑な色が混じった感情が、ビー球くらいの大きさに凝縮され、そこに留まっている。卵老人は太一の話を聞くと目を瞑り、腕を組みながら何かを考えている風であった。卵老人はゆっくりと諭すように言った。

「君にもいずれ分かることになると思うが、我々のような境遇の人間は時が経つに連れてその対象への食欲というものがだんだん薄れていくんだ。食べるということを求めるというよりは、もっと別の感情を抱くようになる。食欲から、興味、憧れ……そして夢。食べるを通り越してその対象を食べるという意味を求めるようになっていく。でも諦めやすくなっていくと思うよ。それは本能に近い欲求ではなくなっていくから。だからそうなるまでは、出来るだけ忘れる努力をしなさい。興味を他の光に向けてみるんだ。無論忘れることなど出来はしないけど、楽になっていくのは確かだ。そして最後は諦めることが出来るはずだ」

話を聞き終えると太一の中に何か違和感のようなものが残った。それはいつまでも鎮静しない池の波紋を眺め続けるような感覚だった。具体的に言うなら卵老人は別の光りを見つけることができなかったのだろうということだ。この卵老人の言おうとしていることは分かる。けれど諦めることが出来るがというのは違うのではないか。強引に不可能だと思い込んで、自分の理想を必死に押さえつけて生きているのではないか。どちらにせよ、考えれば考える分だけ太一の気持ちは沈んでいくだけだった。

「今夜はもう帰りなさい。日を替えてまた会わないか。ワシはいつもこの公園のこのベンチに座っているよ」

そう言い残すと、卵老人はベンチから立ち上がり歩き出した。卵老人の背中が闇に溶け込もうとしている瞬間に、太一はやっぱりこの卵老人はまだ諦めきれてはいないのではないかと思った。

翌日退院した太一はすぐにあの公園に向かった。

休日の昼時で、天気も快晴だというのに公園にはあまり人影が無い。太陽は一番高い場所で輝きながら太一を照らしている。太一の足元に軟式ボールが転がってきた。太一はそれを拾おうとすると、どこからか声がした。

「キャッチボールでもやらないか」

声の方向には黄色の革靴を履いた、昨夜の卵老人が立っていた。

卵老人からグローブを受け取ると二人の間で振り子運動を逆さにしたような光景が何度も繰り返された。それから三十分くらいでその単調な繰り返しは卵老人の一言により終わりを告げた。

「禁断の木の実の話は知っているかな」

卵老人は捕球しながら言った。それを機に卵老人は太一に手招きをして、昨夜座っていたベンチに二人とも腰を下ろした。一呼吸置いてから太一が口を開いた。

「アダムとイブの話ですか?」

卵老人はしばらく、積もった落ち葉を眺めていたが、すぐに向き直り話し始めた。

「そう、エデンの園にある知恵の木の実だ。アダムとイブが蛇に誘惑されて、神の禁止を破ってこの実を食べてしまった。激怒した神はこの二人を楽園から追放したという。旧約聖書の創世記に出てくる話だ」

太一は卵老人の言わんとしていることが何となく分かったが、静かに耳を傾けていた。

「ワシにとっての禁断の木の実は卵だし、君にとってはそばだ。これは絶対に守らなくてはいけない神との誓いなんだよ。破ってしまったらひどいことになる」

太一は頭を両手で抱えた。違う、禁断の木の実の話で自分達をたとえるのは絶対におかしい。そう思ったとき、昨夜から溜まり続けている重い液体は一気に言葉に変換され太一の口から流れ出していった。

「でもアダムとイブは後悔しているんですか。いや、アダムとイブの場合は、蛇に誘惑されたのだから後悔しているでしょう。しかし、信念を持っての行為だったらどうですか。それでも後悔をするんですか。自らが考え、選び、信じた道で失敗したとしたら、人は自分の選択を呪うんですか」

卵老人の目は大きく見開かれた。言葉を失ってしまっている。呆然と話を聞いていた。

「あなたは自分に嘘を吐いているように見えます。自らの人生に妥協しようとしている。あなたの夢は何ですか。静かな余生を送って虚しく生きることですか。僕にはそうは思えません」

卵老人は声をあげて泣き始めた。涙が頬を伝って地面の落ち葉の上にこぼれる。雨の降り始めのコンクリートに出来るしみのように、涙の雫は落ち葉の中に浸透して模様が出来る。しみはどんどん増えて大きくなる。この卵老人の涙は何かを語っている。

太一はどうしていいか分からずに左手で、震える卵老人の肩をぎこちなく叩いた。すると卵老人の嗚咽が激しくなった。この卵老人の中でたまっていた何かが溢れ出したのだった。

時間がいくらか流れた後、卵老人の涙は収まり、太一に感謝するように話し掛けてどこかへ行ってしまった。夕焼けを背景に影となっている卵老人の背中は、昨夜見た背中よりもずっとたくましく大きく、太一には目には映った。

いつのまにか枝に止まっていたはずの小鳥も、秋の中に消えていた。

数日後のお悔やみ欄にアレルギーが死因だという六十三歳の男性が載っていた。

僕が殺してしまったのだ、太一はそう思い詰めるようになっていた。自らの言動がまだ生きられるはずの寿命を食い潰し、その周りに陰鬱な衝撃を与えてしまった。自分が取り返しのつかない失敗をしてしまったのだ。なぜあんな言葉が自分の口から溢れてきたのだろう。自らが放った、死を扇動するような言葉はあの日以来、毎晩枕元で聞こえてくるようになった。眠れない。そんな時に太一はあるクラスメイトに声を掛けられた。

「太一君、最近暗いね。こっちまで重苦しくなるじゃない。正直、ムカつくんだけど」

余計なお世話だと太一は思いながら、彫刻刀を握り締め机に彫刻を続けている。そこにはそばの絵が掘られている。太一は無視を決め込む。だが、おさげの似合わないそばかすだらけのクラスメイトは、鋭い視線で太一を睨みつける。でも当の本人は微動だにしない。悠々と彫刻に夢中になっている。今度は卵を掘り始めた。

「もうすぐバレンタインよね」

睨むのを諦めたそばかすは肩を落とし、落ち着いた声で太一に話し掛けた。太一は彫刻刀を滑らせ、卵が半分に割れてしまった。少し惜しい気持ちになった。

仕方なく太一は初めてそばかすの方向を向く。そこには顔を赤く染めた一人の女の子が立っていた。

「私だって気になる男子の一人くらいいるわよ」

刺のある口調でそばかすは言う。太一は黙って見とれている。何でこんな話をわざわざ自分にするのかわからない。

「私チョコレートアレルギーなの。食べられないだけじゃなくて、匂いも駄目だし、触れるのも駄目。だから手作りのチョコレートなんて自殺行為なの、でも手作りで渡したい。この気持ち太一君なら分かるでしょ。そば好きでそばアレルギーの太一君ならさ」

太一は卵老人のことを思い出した。唐突に自分の恐ろしい言動がよみがえってくると、太一は脊柱が氷の柱に変わったような感覚にとらわれた。太一は顔を真っ赤にしながら必死で説得した。

「駄目だよ! チョコ作るなんて。死んでしまうよ、アレルギーなんだよ。死んでしまったらその好きな人に自分の思いをどうやって伝えるんだよ」

「でも……」

「絶対に駄目! 命懸けでチョコ作るなんて馬鹿げてるよ」

そばかすは顔を真っ青にしながらポツリと呟くと自分の机に戻っていった。

「ごめんね……」

バレンタインデー前日のお悔やみ欄に死因がアレルギーの十二歳の少女が載っていた。太一にとってもちろん衝撃的ではあったが、その出来事から太一は一つの結論を導き出した。

止めても死んだ。このことだった。あの老人も、結局は自分で選んだ道なのだ。自分がけしかけなくとも最終的には老人は卵を食べたのだろう。そう考えるといくらか太一は気が楽になったが同時に自分のことを蔑みたくなった。結局は自己満足と罪悪感の打ち消しが目的でそばかすを説得していたのかもしれないからだ。

でもこのとき太一は初めて自分は心のどこかでそばかすのことを応援していたのだと気づいたのだった。

 

我に帰ったとき太一の目の前には町立図書館があった。落ち着いた木造の建物で、決して大きくはないけれど、異様な存在感を持つ図書館だった。

何気なく入ると、司書が訝しげな視線をこちらに送ってきたが、特に言求されずに済んだ。本が持つ圧迫感を背中に受けながら太一は現代小説のコーナーをグルっと回りながら何となく目に入った文庫本を手に取った。そして年季の入ったソファに持たれながら読み始めた。だが目に入ってくる活字は意味を持たないただのしみでしかなかった。

太一は人間にとっての『死』の意味について考えた。自分はあの老人を死に追いやったのかもしれない。それによってあの老人と関連性を持った様々な世界に、大きな損害を与えてしまったのかもしれない。

しかし人間が死に向かって歩きつづけなければならないのは、一生懸命になるためなのではないだろうか。死とは自らの充実度を具現化させる上で最も重要な要素の一つだと考えるならば、たとえ自分の言動があの卵老人を死に追いやったとしても、それは誰にも責任は無いのではあるまいか。それにそばかすのように自分がいくら説得しようとも彼女は止まろうとはしなかった。自分の夢を否定してまで生きたいのであれば、あの卵老人やそばかすは死んでいないはずである。

また死について無意識に考えてしまうことは、もしも自分がこうなってしまったらという悲壮的な自己投入だ。太一はもしも自分がこの卵老人のように人生の課題であるそばを食べた場合のことを想像すると、鳥肌が立った。

しかしそれと同時にこんなことを考えることは無意味なことなのではないかとも思った。自分は卵老人やそばかすではない。たとえどれほど酷似しようとも、太一は卵老人やそばかすと関連させて自分について考えたくはなかった。

ただこの三年間というもの、太一の中にはあるモヤモヤした何かが膨らみつづけていた。あの老人が卵を食べて死んだのかもしれないと考えれば考えるほど、そのモヤモヤは心の中で肥大化と高密度化を繰り返していった。

そのモヤモヤを太一は一言で言い表せることが出来る。でも、もしも自分が言い表してしまったら、もう自分が抑えられなくなってしまうのではないか。

だが自分でもあの卵老人に語ったように、自分に嘘を吐きたくは無い。自分の信じた道を自らが選んだ道を、突き進むべきだ。夢を追うこと、それは自分にとっては死を意味している。自分が死ぬということは、当然ながら周りにも影響が出てくる。けれど周りのことを考えながら達成できる夢なんて、所詮はたいしたことはないのかもしれない。

これは自殺だろうか。いや、自殺ではない。少なくとも自分は自分がそばを食べることに対し誇りを持ち、食べることに意味を見出している。結果的に自分が死んでも、それは殉職になるのではないかと太一は考えたと同時に、卵老人やそばかすも同じ事を考えていたのかもしれないと思った。

本を閉じると太一は図書館を後にした。

 

 

太一は食べることに対し、夢を追うということとして割り切っていたために、ほとんど葛藤というものを抱かなかった。だから迷うことも無く太一は両親の居ない時分を狙って厨房に立つことができたのだ。三年振りの厨房。太一は煮え立つお湯の中にそばを飛び込ませる。

太一は夢をゆでている。

太一は死をゆでている。

やがてゆで終わったそばが湯気の中から現れ、冷水でしめてからきれいに器に乗せられる。つゆを注ぎ、割り箸を割る。すべての動作が、象徴的な音を奏でている。何を象徴しているのかは言うまでも無いことだ。太一は箸を動かして口まで運んだ。そばは太一の様々な思いと共に飲み込まれる。

「ありがとう」

箸を置いた瞬間、太一は自らの命が燃え尽きたことを知った。しかしそんなことは所詮結果に過ぎないのだ。彼はその過程に、新たな世界を、そして自分の生きる意味を見出したのだ。

永遠という偶像を満たす小さなコインの表裏。太一の言葉は明瞭かつ克明に、そのコインの表と裏に刻まれたのである。全ては極めてシンプルな事象を獲得するために。

2007年12月16日公開

© 2007 児島啓祐

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