黄昏

吉田佳昭

小説

1,214文字

沈む夕日の赤さは短い命であるが、それは非常に煌めいて美しい。

苦しみは螺旋である。されどそれは楽しみと共に発条である。

 

窓から西日が差していた。天日のなよやかな暖かさが私のかんばせに触れて、私は、ああもうこんな時間か、と考えた。薄紫を帯びた陽光の傾きは悲しき運命の最後の輝きのようである。

私は儚げに照る斜陽が好きであった。学校で、家で、様々なところでその陽を享くるとき、私はまた一日が卒るのだ、と考えると同時に、それは始まりの予兆である、ということも感ぜられるからである。終わりには始まりはつきものだ。而るに、何が終わり、何が始まるかは大きく異なる。同じことがリフレインすることはあり得ない。必ずそれは何かが異なるのである。万物は必ずそれの生ずる前のものを知る。無垢のまま発生はしない。生まれ落ちる時から混合しているのである。

私はペンを動かすのをやめて窓を眺めた。様々な事物が私と同様に沈む夕日の光に覆われていた。そしてみな、あらゆる歴史と雑じりあっているのである。責任も何も持たない、ただの経験を内包しているのである。既に取り出すことのできない、上代の出来事も何もかも抱擁しているのである。

人間は様々な苦しみに絆されている。争いや別れ、痛みなど、様々なものに苦しまされ、人々は常に懊悩している。されどそれには必ず終わりがある。そして終わりには始まりを連れている。縦しんばその始まりが苦楽のどちらかであったとしても、その苦しみは終わるのである。

また人々は停滞を嫌う。停滞は生命の死であると彼らは信じているからだ。生命が何もない状態にいることを十分に知ってしまったとき、生命は死ぬ。それは終わりではなく無の入り口である、と。一度無に陥れば、二度と終わりと始まりの連続に戻ることはできない。本能はそれを峻拒するのである。停滞を排除するために、人々は無理やり変化を作り出そうとする。カントの望む恒久平和が存在せず、また限りのない戦争が存在しないのはそのためである。

だが本当の停滞は存在しない。停滞のように見えるのは遅々たる変化である。故に無というのも存在しない。本能は無の存在を信じ続けるが、そのお陰で始終の輪廻が存在するのである。

再び夕日を見る。日輪は更に地平線に潜り込んでいた。黄昏時が夜に変わるのは非常にはやい。気づけば斜陽の美しさを逃した、ということが度々あった。私は終わり行くものの美は懸命に留めようとするもそれが叶わぬ脆さゆえに美であるのだ、と考究した。

私は瞼を閉じ、人々の様々な苦しみを想起した。子供たちの飢餓や宗教的な紛争。だがそれもいつかは終わる。終わりとは径庭の間かもしれないし、はたまた咫尺の間かもしれない。しかしそれはいつかやって来て、彼らは幸せをつかむだろう。その幸せもまた終わりは存在するが、今はそれだけを願った。

太陽は上限まで沈み、残るのは空と溶けて作り出された殷紅色のみであった。私は明日の来訪を待ち迎えることにして、机上のものをしまい、そこを後にした。

2021年8月28日公開

© 2021 吉田佳昭

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