名状しがたい悲しさを彼女は帯びていた。決して彼女の全てを知ることはできないが、その痛楚たる様相は時節に合わない指先を鋭く殺す嵐で、僕の心は既にその嵐に呑まれ、ただ死に臨むフェルエルマの如くであった。
僕が彼女に出会ったのは、それが最初ではなかった。つまりこのパンとティフォンのような運命的邂逅は恐るべきことに轍をなぞっただけなのであった。とすれば普通は、なんの新鮮味もないリヴァイヴァルである筈だ。
されど、それは暗渠の進めであった、といえよう。彼女との再会という現象が、初めと同じものを繰り返すこととなって以後僕たちに彼女と会った際はこのようなことになるのである、という法則的な要素を懐孕した垂訓となる予定は、その陳腐さゆえに天上界のクレンス=メルトゥナによって破棄、もとい唾棄されたのであった。一度目よりも二度目の方が実は矍然たるもので、更に新鮮さを持つのである、という逆説的な展開が天界の主の粋な計らいで成立したのだ。
だから、ここでは二度目の再会にのみ触れることにしよう。ア・プリオリな陳套を秘めてしまった初回がそれを勝るすべなど持っていないのは明白であった。二度目は余りにも、余りにも短い時間の出来事であったが、僕にとっては、姦淫に及んだ罪でエルミシャに絡みついた青褐のいばらのように記憶に残り続ける強烈なものであった。
ただし、それでも僕たちの「まるで仕組まれた」神話はそれ自体が内的性質として秘めたむなしさゆえに自刃し、悲劇的な死をもって人知れず幕を閉じた。余りにもあえない最期であった。だが誰も拍手しまいし、最早それを歓迎する人間も現れることはないのが確かである。そしてその人間には、勿論僕も含まれている。
僕はあの時、○○駅の五番出口にある大きな広場にいた。その場を埋め尽くすほどではなかったが、いつもより多くの人々がいるように感じた。もう三月、僕は高校を卒業し、志望大学も受かって、やるべきことが余りなかった。というのも地元の大学で、僕は引っ越しの手続きとかそういうことをしなくても良かったからだ。この時分になると、そろそろ暖かくなってくる……と思ったが、最近は天候が荒れやすく、依然として肌を大きく露出して入れば祁寒であると思えるような気温で、また空気も乾いていたため、人ごみに紛れても人いきれを感じることはなかった。
その日は朝から古くより近しい知己と会って遊ぶ予定であり、朝の十時にそこで待ち合わせをすることを取り決めていたのである。僕は寝坊癖があり、それ故に遅刻して相手に迷惑をかけることを懸念していたことから、八時半には起きて身支度を済ませ、そこに向かったのだが、待ち合わせ場所に到るまでの所要時間について放念していたため、その広場に着いたときはまだ五十分ほどゆとりが存在していた。
この駅は高校生の時に必ず通学で利用していたので、一度家からどれほどかかるのか時間を計ってみたことがあった。その際は徒歩で二十分弱、軽く走って十四分という結果になった。つまりかなり近い位置にその駅は存在しているのにも関わらず、そのことを忘れてつい急いでしまったのである。僕はまだ家にいればよかった、と後悔した。この寒さだし、家のほうが落ち着く。こういう時は酷くやるせない気持ちで心が埋まる。暴れてしまいたい気分だ。僕はその気持ちを抑えるべく、遅刻するよりましである、と必死で心を落ち着かせた。逆に彼らが遅刻したときは、マウントがとれるから心に余裕も生まれる。そう考えた。五十分は些か長いが、ここで待ち続けることにしよう。
僕は時間潰しに、と思い、リュックから読みかけの小説を取り出した。家に帰ってから出して読んでいない、と思ったからだ。それはガルシンの作品群をまとめた本である。僕は昨日××駅へとそぞろな気分で出かけた際にふと目にした出張の古本市でこの本に巡り合うまで、彼のことを知らなかった。しかしその場で数頁読むと、まず彼の独特な文体に惹かれた。それは訳者の言葉選びに起因するものがあるかもしれぬが、確かに文章には彼が存在した。そしてそこから創造された世界は全体的に寂寞さで濡れそぼっていたのだが、また一条の光もちらと見え、それがなお一層作品へと僕を没入させてしまうような重厚感を醸成していた。僕は広場の加護を受けていながらも、その世界に足を踏み入れていたのだった。
広場は中央に大きな噴水があり、その中央にはシュリーエルモの石像が坐していた。彼女はエミシュラル神話の女神で、創造神アグヌシウスの妹であったが、兄がレルシルオの山奥へと隠遯した際は代わって彼女が世界の統治を行った。彼女は人々に三つの焔を与えたことで知られる。一つ目は愛他、つまり自分以外の万物を愛する力を与えた。二つ目は使智。文字通り智慧を用いて物事を効率よく行う力のことである。そして最後は創造である。彼女は人々が文明を創り出し、饒かな世界をはぐくむには文化の創造が必須であると考えた。文化は発展の母である。その俚諺はエミシュラル神話を信仰していたアフリカ北西部の地域では連綿と語り継がれていた。そのためシュリーエルモは平和及び文化の神として世界中で知られているのだ。
彼女は真正面で僕を見つめていた。そのまなざしは厳かではあったが、またやさしさも持ち合わせていた。僕は目が悪く、眼鏡を常に着用していたのだが、頻繁に目が疲れて眉間に痺れが来る時があり、よく小説の紙面から正面の風景へと視点を移して遠くをぼんやりと見つめるのであった。そしてよく彼女と目が合い、そのたびにきっと人々に火を授けた際はこのように慈愛に満ちた表情であったのだろう、と思いを馳せるのであった。
そして三回ほどその動作をして、ふと右手首に巻いたカシオの腕時計に目をやった。今めかしくデジタル時計であり、最早僕は時計の鼓動を聞くことは容易ではなかった。まだ待ってから三十分しかたっていなかった。それでも本はもう終盤に差し掛かっていた。元々この本は百頁ほどであり、また文体も簡潔なお陰ですぐに読み終わってしまうものだった。文体の明快さというものは非常に大切なものであり、それを有する作家を僕は巨擘であると捉えている。カントのような人を寄せ付けない難解さを僕は好ましいと思わなかった。将来は人々に分かりやすい文章を書く作家になりたいものだ、と屡々そう思ったものだ。
しかし今回はその単純明快さに悩まされていた。思ってもみなかったので、僕はこんなこともあるのだな、と思っていたがすぐに悩んだ。十分ほど余ってしまう。いやもし友人が遅れてしまったらそれ以上になりうる(果たして友人は遅れてきたのでその通りであった。僕は彼に飲み物を奢らせた)。
些細な時間ではないかと思うかもしれないが、僕はこのように時間を無下に扱うのは最低な行為であると考える嫌いがあった。その時僕は異様に死を恐れていた。いつ来るかわかりかねるが、確実におとのう存在または概念。死神は僕を死後へいざなうために、召し抱えた事故や病気をして僕のもとへかりだすかもしれない。それを考えると、限りある時間を漫然と過ごす、その時間が僕の時のように数十分ほどであっても、それをゆるがせにすることには僕は大切なものを自ら葬り去るように感じられ、嫌悪感をえた。
そのように懊悩していると、隣に誰かが座った。僕はちらりと相手が気づかぬようにわき目を振る。隣に座ったのは、僕と同じくらいの歳の女性であった。彼女の顔はどこか違和感があった。否定的な意味はない。彼女の顔はいたって普通であった。なかんずく傾城でもなければ、また醜女というわけでもない。平均的な顔をしていて、体形も中肉中背である。恐らく大半の人々が彼女の印象について一言聞かれれば、普通の子だと言うに違いない。失礼な話だが、見た目はそういう印象が相応しかった。しかし僕は彼女が迚も綺麗だと思った。今まであったことが無いような、それぐらい僕の目には彼女が絶世の美人であるように見えたのだ。彼女は狸目で髪は先がウェーブのかかった黒髪であり、その様はうら優しい雰囲気が漂っていた。そして黒のPコートをきっちりと着こなし、その下は白いシャツが見え、また足はデニールの高い黒のタイツで覆われており、彼女はほぼ全身を黒で染めていたが、それらは意外にも全て彼女の清楚さの発露に貢献していた。
それにも関わらず、彼女を瞥見したとき、僕の意識下ではおかしいというような不思議だというようなそのような感覚がはびこっていた。僕は再び小説の紙面に視線を戻した。しかし先の考えはしばらくの間僕を困らせることとなった。彼女から感得した空気の異様さで考えが一杯になって、小説の内容に頭が及ばなくなってしまったからである。一行読むのにとても長い時間が過ぎていくかのように感じられた。実際一頁読むのに二分かかっていた。僕は数頁読んだ後に、今読書をしても無駄である、と思い立ち、僕の心を占有する疑念について解き明かそうとした。それが一番有効な時間の使い方であったのだ。僕は彼女のことを考えるために一度本をリュックにしまった。
そうして数分がたち、約束の時間も既に一分過ぎていた。僕は友人がまだ来ないことに暗鬼を抱いたが、そのお陰なのか、彼女についての謎を紐解くことが出来た。
彼女には依然あったことがある。僕はそう思った。そしてそれを思うや否や、そうだ、僕はここですれ違ったのだ、と詳細まで思い出した。何故このことが鮮明に浮かんできたのかは分からない。僕は余り記憶力がなく、もの忘れに煩悶することが多々あった。しかし今僕の考えは穿った岩に湛えられた水潦の如く明澄であり、いとも簡単に彼女に関する記憶を取り出すことが出来た。
この蟠った気持ちはそういうことだったのか。違和感は一切消えて僕はさっぱりとした気持ちになった。しかし一方でそれによって生じた虚無感に寂しさを覚えてしまった。知らぬ間に僕は彼女のことについて何か思い残すことはないか、と思うようになっていた。そしてそれは彼女に関する知識を更に得たいという欲求へと変換され、僕は彼女と話したいという気持ちで胸がいっぱいになっていた。
このようなことは初めてである。僕はその気持ちの往来に対して半ば恐れ始めていた。未知のものに遭遇したときの感情だ。しかしそれを凌ぐほどの彼女への好奇心がその恐怖を無に帰そうとしており、そうして僕の恐怖心はいと情けなく萎んでいくのであった。
欲動は増加していく。イドが自我を制御しようとしている感覚である。
今思えば、これを恋であると言うかもしれぬ。確かにそうであろう、と彼女との交わりを回顧すればそのように思えて仕方がない。もし相手が同性であればそんな興味も湧かないであろうし、また異性であるからといって誰でも良いわけではない。彼女であるからこそ成立した状況かもしれないし、現に僕はこの経験の後、様々な女性と話す機会があったが、このような気持ちになることは一回もない。
僕の気持ちは膨らむ一方であった。僕の理性はその感情に締め付けられ、心臓の拍動は加速していく。表に出さずに保つことで精いっぱいであった。エルクライドの猛火の話のようだ、と僕はふと思った。彼はヴェルデ岬の近くにある洞窟の探検の際、アグヌシウスから一本の松明を授かった。その松明はエルクライドの感情の起伏に応じて焔の大きさが変わるというものであった。アグヌシウスは彼の情緒のあふれるさまを考えて、そのような松明を用意したのだ。実際にその松明は彼の探検に大いに寄与した。しかし洞窟の最奥に辿り着いたとき、そこには一人の少女がいた。彼女はアグヌシウスの父、エルミシャの隠し子であったのだが、底知れぬ妖艶さを秘めており、エルクライドはそれに誘惑された。彼は彼女に対して恋情を燃やした。そして急激に増幅していくその愛情を制御することが出来なくなり、松明の焔は遂には彼を包み込み、彼は焔の熱さに苦しみ悶えて死んでしまったのである。
僕もエルクライドのようになるのか?そう思った。しまいには彼女に声をかけようか、とさえ思うようになった。しかしそれは実行に移すことはできなかった。彼女は僕のことを知らないはずだから、僕に対して不快感を覚えるに違いない。そうしたとき僕はどうすればよいのだろう。その感情の失墜は則ち僕への攻撃となる。そしてそれは致命的なものに相違ないはずだ。僕はどうなってしまうのだろうか?それだけが頭の中で蠢いていた。
愉快な話だが、未だに僕はこの思いが恋情であると気づいていないのである。ただ彼女が僕に与える危害の惨憺さだけを必死に揣摩しているのである。
しかしそれは結果として全くの邪推でしかなかった。彼女から声をかけてきたからである。
「あのう……」彼女は眉を下げ、わずかに困ったような顔をしつつ、口角を上げて聞いてきた。
僕は仰天した。その不意打ちによって愕き、なよなよしい声をあげずには済んだものの、彼女への応答は、
「な、なんですか?」と吃ってしまった。
「もし間違えていたら申し訳ないのですが……前にすれ違いざまにお会いしたことがありませんでしたか?」
なんたることであろうか、彼女もまた僕と会ったことがあるのだという記憶を保持していたのだ!僕は急に肩が怒っていることに気づいた。緊張と不安のあまり、体がこわばって肩が上がっていたのであった。僕は体をほぐすように、しかし彼女に訝し気に思われないようにわずかに体をよじって、
「……ええ、僕も……貴方に会ったことがあるなと思っていたのですよ」と告白した。体のこわばりはそれでも収まらず、不快感は残存していた。耳の奥で、高鳴る脈動が僕を不安にさせようとしていた。
「そうですか……多分、前にここですれ違ったときにですよね……?」
「……そうだと思います」少しずつ符合する事実認識に動揺され、僕は少し溜めてからそう応えた。そして続けて、
「貴方も違和感を覚えたのですか?」と言った。まるで彼女も同じ気持ちだったというかのような口をきいてしまった。しかし仕方あるまい。彼女の文言は余りにも、余りにも僕の期待通りであるからだ。今まで意識はしたことがなく、そう思うしかないのだろうが、このように自分が満足するような相手の仕草はこれから後にも先にも存在しない。しかし彼女はそれになんとも思わない様子で、
「ええ」と返してくれた。
彼女の眼は僕の顔をとらえており、彼女から目を離すことは容易ではなかった。彼女は僕と目を合わせ続けているというわけではなく、彼女はただ僕の鼻の上、大体眉間の所を一点に見つめていたが、それでも僕は彼女から逃げることはできないのだ、という確信が、まるで死を本能的に悟り、惰性で逃げている草食動物のように得られた。それを自覚すると、忽ち自分に催眠をかけたかのように僕の身体は緊張と不安、興奮などによって強張るのであった。
彼女と僕は暫し沈黙に染まっていた。遠くでぼんやりと浮かんでいたシュリーエルモが、僕を押しつぶすかのように次の行動を催促していた。しかし僕は次の行動を決め兼ねる。彼女も恐らくそうであったのであろう。何分というわけではないが、僕たちはそれが会話の途切れである、と感じるような合間に顔をうずめた。その沈黙は少しずつぎこちなさを僕たちに課し始めた。
しかし形而上学的なものに抵抗するのは人の性である。僕達は常に見えないものを渇望し、如何なる手段を講じて実行してでもそれを獲得しようとするからである。抵抗とは離別のことに限らず、それとの主従関係の逆転、つまり所有物が所有者に対して下剋上するといった、ことにも大きく関与するのだ。ここでは形而上の存在は沈黙であり、彼女はその状況を打破し、沈黙を手なずけようとして、
「面白いものですね、一目見ただけだったのに……」とささやくかのように言った。わずかなささやきだが、それはいとも簡単に沈黙をものにして僕達の活躍を預言した。ただし彼女の質問は僕に対しても彼女自身に対しても聞いているようであった。彼女の声は忍ばされてはいたが玲瓏としていて、乾いた空気にすう、と響いた。深遠な命題が清かな水に沈み、なおも鮮明に見えた。そういう声だった。
僕は返答に困った。確かになぜ?何か僕たちにそれが特別であることを示唆しているのか。
「なんでだろう……?」僕はそう独り言ちるように応えた。無難な返答であったが、しかしその代償として依然、真相は雲間に隠れていた。僕にはこの寒い空気が重く感じられ、窮屈に思えた。こうした空気の下では自然と泥沼に填まるが如く、詰まらないことを言ってしまうものだ。現に僕はその時、
「これも運命だったりして!……なわけないですよね……ごめんなさい」と冗談めかして言ったが、後にこれが全く面白くないということに気付き、それを思い出す度に、深いため息をついてしまう。
彼女はそれを聞くと、一瞬だけ僕の目に視点を合わせてから少し目を開いた。やってしまったかと思うと、脂汗が背中の奥からじわりと染み出るのが分かった。彼女は目をすぐ定位置に戻した。しかし幸いなことに彼女は軈てふふっと失笑して、
「本当に運命的な出会いだとしたら、面白そうなのに……」と言った。その声は諧謔的な調子であったが、そこには別の顔もうかがい知れた。
沈黙は最早貌を見せず、僕たちはその後様々な会話を始めた。それら全ては観照的に見れば、全くつまらなく他愛もない群であったが、それでも時間を忘れて話し合うことができた。今思えば数分間の会話だったのに、あの会話がとても長く、永遠に続きそうな勢いであったのを今でも鮮明に覚えている。彼女への愛情が少しずつ萌芽してはいたものの、会話内容とその意図には凡そ一切の性欲などのみだらな欲望は擯斥された全く純粋なものに由来した。暫くすると、お互いの語調には堅苦しさは全く見られず、敬語は既に様式美としての存在へと押しやられていた。曏までのぎくしゃくとした雰囲気は杳として行方を知れない。僕はいつの間にか別の所にいた。彼女は僕に対して心を開き、自分の本心をさらけ出そうとしているように見えた。僕たちはこの狭い世界に閉じ込められたような気がした。冷ややかでごつごつとした薄鼠の石のベンチの上だけしか存在していないような。シュリーエルモに見つめられながら、僕たちはその世界を経験していたのである。僕は彼女の目をじっと見る。彼女の緩やかな眦は僕を和らに包み込んでいた。
「君はガルシンの赤い花って知ってるかい?今僕が読んでいるんだけど」
「ええ、知ってる……確か、精神病院の患者の話よね?実はまだ読んだことないけど」
「そうそう……今あいつが来るまで暇つぶしがてら読もうと思って……ええと……あった、これ」僕は先ほどリュックにしまった「赤い花」を再び取り出して、彼女に手渡す。彼女はまじまじとその表紙に記された説明書きを読み、やおら本を開くと、ゆっくりページを捲りつつも「赤い花」の雰囲気を知ろうとしていた。僕は彼女の相貌を何気なく見つめた。彼女の双眸は黒々とした長い睫毛に飾られ、その目は時折吹きすさぶ風の寒さで涙を麗して、一種の静止画的美麗の感覚を知らしめる。僕はそれに釘付けになりつつも、彼女が物語に没入しはじめているのに気付くと、
「この作品面白いだろう?僕はこういう作品が創りたいんだ……」と何気なく、彼女に障らぬようつぶやいた。すると彼女は僕の顔を先のようにゆくりと振り向くと、
「作家を目指しているの?」と聞いてきた。
「聞こえてたか……うん、そうなんだ。彼の平易な文章が好きで、僕もこういうの書いてみたいなって。今のご時世こういうのを自由に書くとなると結構根気がいるだろうけど……」僕は笑いながらそう言った。嗚呼、姸しい時代!僕はこの瞬間を保存したかった。この思いが痛烈に心を刺激して、僕は無性に焦りと興奮とを感じ始めた。プラトン的愛の予感だ。それは永遠であるべきだと僕は思ったが、このままでは薄らいでいくようにも思えたのだ。
「そんなことないわ……貴方と話してると、迚も思慮深くて聡明な方なんだろうと犇々と感じる……きっとこのような話だって作れるわ」
「ありがとう……でも、ゴールズワージーみたいな作品みたいなものの方がいいな」と僕は再び冗談を言った。彼女はこれまで以上に笑ってくれた。今度は恥ずかしくなかった。
シュリーエルモへちらりと視線を向けると、彼女が遠くで笑みを浮かべていたように見えた。彼女の腰のところに等間隔で設置された噴水孔からは頻りに水が噴き出しており、それが彼女のベールとは別に、彼女が水のスカートを穿いているように見せていたのだが、今回はそこから派生した飛沫が、陽光で燦燦と照り輝いて、神秘的な暈を創り出し、それを被った彼女はより一層かむさびていた。僕は彼女が自分を特別視しているように思いこんだ。先の彼女との運命的な邂逅、これまでにないほど弾む会話、今の彼女の神秘さ。すべてが僕のためにあり、そして僕を讃えているようにしか思えなかった。そして僕は彼女よりも破顔の笑みを浮かべて、
「もし僕が本当に作家になれたら、また君と会ってみたい」とつい調子に乗ったことを言ったのだった。
この言葉から……いや、最初から決まっていたのかもしれない……
幸福は絶望と紙一重である。こうした考えに肯うとき、僕はこの時のことをよく論拠にする。僕と彼女の短くも栄華なダイアローグ。夢幻は現実という名の針で割れたとき、その中の住人は絶望に身を包み、もがき苦しむ。その刹那、今までの短きプレリュードは終わり、限りない無限の寂寥感を帯びたロンドを僕は踊ることになった。冒頭に書いた通り、僕は彼女からあのような悲しみを分け与えられたのであったが、それはこの時であった。
彼女は少し笑ったのちに、僕の目へと視線を合わせた。先もあったことなのに、僕はぎょっとした。彼女は依然として微笑の名残りが漂う、通常通りの優しそうな顔をしているのにもかかわらず、彼女が遠く行ってしまう、いや遠くは行っていないが決して僕が彼女を触れえぬところ、例えばあの濡れ羽の黒鴉のような昏さのあるカズムに隔たれている、そのような印象が強烈に湧きあがった。
すると彼女の美しき目の畔から急に涙が溜まり始め、それと同時に彼女は急に感情をあらわにして嗚咽を漏らし始めた。その噎び泣きの音は何処か玲瓏の響きを持ちつつも、絶望をひっかいたような恐ろしさの響きを持っていた。
扉のしまった音が僕たちの世界にとどろいた。僕はその音を訝しく聞いているのみであったが、すぐに僕の世界が仄暗くなっていったことに気づいた。
彼女は少々平静さを取り戻したが、それでも烈しかった。内側のシャツからハンカチを取り出して、目元を拭うと、そこには目元を腫らした彼女の歪つな美しさが鎮座していた。僕は彼女の目の中に想像を絶するものを窺えた。そして僕は彼女の寂しさを知ったのだ。それは何を根源として誕生したのかは分からないが、ただ僕は晴天の下、冷やかな風に吹き付けられ、底の冥邈たる深淵に身を乗り出しているかのようであった。
僕は背筋が凍り付き、今までの爽やかさは鈍く粘って僕の精神にまとわりついた。この時の僕は顔を引き攣らせていたに違いない。
気圧され、僕はどうすればよいのか模索していた。時間を確認する。しかし全く時間は進んでいない。先から一、二分経過したばかりであった。時間は緩やかになり、いずれ止まってしまうかのように思えた。一度落ち着いた胸の拍動がまた速くなった。一方で周りの空気の流れ、人々の徂徠、空を流れる色づいた葉の動きなどは遅々たる様であった。
そしてついに僕は、
「……何かあったの?」とかすれた声で彼女に聞いた。それは必死の逃亡の末、捕食者に喉笛を噛み千切られた草食動物の呼吸音のようであった。自分でさえその声に驚いた。だが無理もない、初めて本格的に話しあうことになった女性が実は厖大な苦役に身を捧げていると知れば、誰だって周章するに決まっている。僕は平々凡々な人間だ。例外であるわけがない。
「なんでもないの……気にしないで……」彼女はかぶりを振りながら返答する。うら悲しげな声色は出来るだけ鳴りを潜め、彼女は平然さを務めようとしたが、一方で彼女の裏に潜む翳りはより一層その暗冥さを強めた。絶対に彼女は孤独な悩みを抱えているに違いないと僕は確信した。
「だけど……」
「本当に何もないったら!……ほっといてよ……」彼女は声高に言った。その声色は柔らかさの中に確かな威嚇を持っており、僕は思わず怯んでしまった。僕の顔は先よりも引き攣っていたに違いない。しかしそれは悲しみを帯びているだろう。僕は理由の知らぬ焦燥感を抱いた。そして彼女と同様に、
「だって、いきなり泣いてみせてさ、なんでもないわけがないじゃないか!どうしたんだよ……」と言った。彼女はすぐさま僕の顔を見た。その顔は怒りと悲しみが混ざり合ったようなものだった。しかしその中に一抹の不純物が存在するように思えた。
周りからはどう見えたのだろうか。僕は彼女の顔をぼんやりと捉えつつ、ふと脳裏によぎるものに意識を向かわせた。カップルが痴話喧嘩でもしていると思っただろうか。きっとくだらないことを端緒として馬鹿みたいな言い争いだと思っている筈だ。僕はそう思料した。しかし僕は決してそう思われているだろうということに何ら恥ずかしさを持ち合わせなかった。彼女のことが気がかりだったのもあるが、それ以上に僕は具体的な人物像を考えられなかった。ただ漠然とした疎らな群衆が、僕達に気を向かわせずに歩き去ることだけが直感的に考えられた。僕達だけの世界がここにあるように思えたのだ。薄暗い膜を張った世界。シュリーエルモの像は僕達の世界におらず、他人のことを気遣っている。つまり僕達は見放されたのだ。この問題は二人だけの問題なのだ。続く沈黙によっておなかが痛くなった。早くここを去りたかった。でも彼女のことが気がかりでずっとここに居続けるのだろう。
暫くして彼女はまた顔を歪ませた。しかし泣きはせず、
「ごめんなさい、気が動顚しちゃって……」と僕に謝った。再び沈黙。僕は何を聞けばいいのか分からなかった。額が迚も冷たくなった。結局僕は彼女に次の言葉を委ねたのだ。僕は怠けようとした。無責任にも、僕はこの経験したこともない他者との重い沈黙の共有に対して全く知識がなかったのを理由に相手に全てを任せ、自分はただ受動者になろうとしたのだ!しかし僕は発言を彼女に移譲したことを後悔している。
「私は決して貴方と同じ世界に居られない……貴方と話した時、人生で一番楽しくて、これまでにないほど心が温まった……外は寒いのに、貴方と一緒にいたこの空間だけはまるでとうとう春がやってきたみたいに美しく暖かかったの。だから私はまだ大丈夫だって、きっとやり直せるんだって、そう思ったのに……それは間違いだった。私はやはり罪びとだって……貴方の朗らかで優しそうな声を聞いて、そう気づいた……私の世界はこのまま冥い冥い地の底にあって、私は青海の空を知らぬまま死んでいくの……」彼女は途切れ途切れにしゃべり続けた。その内容は全く以て彼女の事情を知ることが出来なかった。唯ぼんやりとした寂しさのみがそこにあった。
「どうしてそう思うんだ?僕は君の犯した罪を知らないけど、そこまで悲観することではない。君がどんなに重い罪を背負ったとしても、君がそれを仕方なくやってしまったというのなら、それでいいじゃないのか……?」僕は問うた。彼女に救いの手を差し伸べたいという曖昧な気持ちがこの言葉を投げかけるよう突き動かした。僕は「善」意を以て彼女にそう言った。
「無理よ……無理なのよ……私は、私は……」彼女は依然としてその暗さに包まれている。目を閉じて顔をこわばらせ、彼女は肩を震わせた。僕は彼女の得も言われぬ美しさが、僕のことを苦しめているように思えた。姸麗さが僕達の足を深い谷底に引き摺りこみ、無限の痛苦を経験させようとするからだ。恐らく悲劇とはそれに始まるのだろう。僕はカサンドラの悲劇を思い出した。彼女はアポロンの浮気の予感を知り、その愛を深い痛みを齎す前に断ち切ろうとしたものの、彼女の悲劇は思わぬところで続いた。彼女は一番真実に近かったのに、民衆によって一番嘘に近い存在にされた。そして祖国の陥落、小アイアースの凌辱、果てはクリュタイムネストラの嫉妬に彼女の人生は悲劇である侭立ち消える。僕は彼女の美しさは正しくカサンドラ的であると思った。だからか僕は彼女を助けたかった。しかし僕は甘かった。事態は想像以上に酷いものではないという楽観視が彼女の悲劇主義と対照的にあった。この点で僕は彼女を助ける権利なんてなかったのに……
彼女は再び号泣し、両手で顔を抑え、身をかがめた。僕は大丈夫、大丈夫だって、と語り続けたが、彼女は一向に泣き止まない。太陽の光に彼女の髪が照らされる。黒髪だと思ったが、決してそうではなく光が当たったところは茶色く輝いていた。僕は自然とそこを見つめていた。そこがきっと喜劇の発生源になると思っていたからだ。くだらないだろう?決してそんなことになるわけがないのに、僕はそれに縋ろうとし続けた。死に際に立たされた人間の現実逃避はここから生じるのだろうか。僕の心が彼女の栗毛の髪一点に絞られ、じっと僕はそれを見つめている。そうして楽観的な感情を維持しようとしたのだ。
僕は次第にそれに釘付けになっていった。そして僕は自然とそこに手を伸ばし、彼女の髪を撫でようとした。そして後付的に何か励ましの言葉を掛けようとしたのだ……僕は、僕は、この世界の奥底を見通したように思えた。悲劇のクライマックス、オイディプスの潰れた目、アグヌシウスの殺人、ロメオとユリアの心中……その総ての悲哀の絶頂がその触れる指先と彼女の言葉に集約されていた。強く強く強く……
指先が次第に伸び、ついに彼女の髪に触れると、彼女は静かに告白したのだ。
「私ね……お母さんを殺したの……」
僕は思わず声を漏らした。呆気にとられ、僕は潰れたような声を出す。彼女の重苦しい告白に対し、群衆の徂徠はそれに影響されず、未だにその動きを止めない。僕だけがこの言葉の重み、苦しみの色を知り、受け止めなければならないのだった。それでも受け入れることにしようと決断し、僕は傾聴することにしたが、やはり彼女の言葉は僕を酷く動揺させてしまうのであった。僕はそれを聞いたとき、世界の崩壊以上に僕は冥府の嵐の中でもがき続けるフェルエルマに投影していることに思いが向かっており、その自分の思いの揺らぎに呆然とした。
「お母さん……お母さん、私のことを結局愛してくれてなかったの……私はお母さんのことが好きだったのに、お母さんのこと自慢に思ってたのに……思えばいつもお母さんは私のことを叱ってばっかりだった。私の人生はお母さんのもののような物言いで、いつも私のすることに文句をつけて、ヒステリーになって私を怒るの……毎日毎日……私はいつも辛かった、辛くて、でも逃げ場がなくて……お父さんは離婚してもういなかったから、お母さんを止められる人間は私しかいなくて、でも私はお母さんに口答えなんてできなかった……お母さんが好きで傷つけたくなかったから……こんな日が何年も続いた……私、いつも学校とかが終わると、この広場でずっとぼーっとして夜まで過ごした……長い間お母さんと居たら、私壊れちゃうもん……でも、夜が怖くて、どうしようもなくていつも夜になってほしくなかった。でもやっぱり夜になって私は家に帰ってお母さんの顔色を窺うの……お母さん、いつもは普通で、私のためにおいしい料理を作ってくれたり、私が欲しいものを買ってくれたりして、辛い時は優しくしてくれて……だから私、お母さんが好きで、お母さんも好きだと思ってた……私、お母さんが毎日毎日働いてくれてたから、恩返ししたくて、だから受験勉強を頑張って良い大学に行こうと思ったの、そしたらお母さんを今度は手助けできるでしょ?……それで猛勉強したの、でも私要領が悪いから思うように上手くいかなくて、だから模試の点数とか低いとお母さん、私のことを鬼のように怒って、何日も私のことを罵って……勉強も総て厭になって、何度も死んじゃおうと思った。でも死ぬのがやっぱり怖くて……首を吊ろうとしても最後は泣きながら、止めて、死ねない自己嫌悪に走って……結局大学は落ちちゃった……滑り止めで受けたところしか入れなくて、そこに行くことが決まったの……今年の春から、遠いところに大学があるから、独り暮らしをするんだけど、私勿論お母さんの負担にならないように、アルバイトしてお金を稼ごうと思って、そうおもってたら、お母さんから、『私お金払わないからね』って言ってきて……『私あんたみたいな大学に落ちるような屑生まなきゃよかった……恥ずかしいよ、あんたのこと聞かれて、大学落ちましたっていうの。なんで本当に殺してやりたいよ』その言葉で、私今まで何やってきたんだろうと思って、そうしたら急に頭が熱くなって、お母さんの胸倉摑んで、謝れ!謝れ!って叫んで……でも謝らないから、私思い切って壁にめがけて突き放したの、そしたらお母さん動かなくなっちゃった……もうおしまい、でも私はとっくのとうに終わってたのかな……?」
彼女の断続的な言葉が僕の楽観的な感情を消し去った。僕は今や、死の願望への恐怖心で一杯だった。時間は無限的休息を目指して、その足取りを遅くする。そして緩やかに流れていく時間の中で、僕は永遠的な問いに出くわした。僕は決して他者を愛することが出来るのだろうか?最低だが、僕はこの悲痛な告白にどこかしらの嫌悪感を抱いてしまった。彼女の印象は一切吹き飛び、残ったのは彼女の背負った罪をいかに無関心でいられるかという考えのみであった。僕は彼女を無視したく思った。僕は他人をここまで疎ましく感じたことはなかった。僕がこの場所に踏みとどまれたのは、彼女の話を積極的に聞こうとしたから、後処理をちゃんとしなければならないという義務の自覚からであった。
しかし僕は彼女に発する言葉が見つからなかった。自分は不幸や事故といった不安定な事象の発生を恨み、和平を望み続けてきた。しかし彼女の罪を受け入れようとは思えなかった。彼女は……余りにも可哀想だった。哀れだった。その哀れさが僕に強烈な嫌悪感を覚えさせたのだ。そして僕は嫌厭を理由に死にたいとも思った。
僕は広場の噴水に目をやった。そこには耽々と彼女が僕を見つめているのである。僕の彼女への眼差しは怒りと悲しみに満ちていた。彼女に対する愛情とそれが叶わぬという運命の暗示、そして彼女は僕とともに生きていくことが出来ないという決定に対するやり場のなさゆえであった。
短い時間のなか、僕はあらゆる苦痛を得た。それも偶然的な事象の中で僕はその経験をしたのである。それは一種の洗礼であった。僕は今まで無垢であったということを初めて知った。自分は恐ろしくあらゆることに対して無知であったのにも関わらず、まるで知っているかのように振舞っていたのである。それは稚拙で何も実りない演技であった。
懸命に何を言おうか思議するが、やはり分からない。僕の齷齪する様は恐らく彼女に見られていたのであろう。だが、彼女は僕に何もしてくれなかった。しかしそれは慈愛に由来したものであることは分かった。彼女の発言は僕を検束し、更には僕を殺してしまうかもしれないからだ。
突然ピリリリリリ、と音がして、鼠径部の所で何かが振動した。携帯に電話を着信したのだ。僕はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。相手は僕が長いこと待ちわびていた友人であった。僕は彼女に軽く会釈し、電話に応じたのだ。
それは友人の遅れたことへの謝罪から始まり、今○○駅に着いたという旨が主な内容だった。僕は彼に適当に相槌を打ちながら、同時に彼女から離れようと思った。面倒なことになりそうだったし、僕は彼女から逃げたいと思い始めていたからである。
彼が電話を切ると、僕は彼女に、ごめん、とただ一言だけ口にした。不思議と口の中は渇いていて、声が引っ付いたように感じた。
「……行ってしまうの?」
「……うん」
「……最後に聞いていい?」彼女は軽く聞いてきた。「私のことなんてどうでもいいの……ただ、ただ……私の話を聞いてどう思った?」
僕はただ、分からない、と応えた。それは正しく本心であった。
彼女はただ僕の短い返答を無言で優しく受け止めると、にっこりと笑いながらお別れの挨拶をして右手を振った。僕は少し悲哀で塗られた顔をして手を振り、ただ本当に済まない、と言って去った。すぐに五番出口の方へ向かったため彼女の反応は分からなかった。
僕はガルシンの本を彼女に渡したままであることに気付いた。しかしそれを取りに戻るには僕には荷が重かった。
彼女の行方は知らない。あの広場で会うことはもうなかった。彼女の起こした事件に関して僕はニュースや新聞で見ることはなかった。彼女の嘘だったのだろうか?余りにも情報が無くて、そう思ってしまうこともある。それ以上にあれが本当であったら、僕は余りにも薄情なことをしたように思えたからだ。
何とエゴイスティックか!僕はあの時完全なる他者としてそこに君臨していた。他者の冷ややかな心。決して共感してくれない冷酷な心。僕はそれを嫌っていた筈だ。僕はヒューマニストを気取っていた。しかしそれは所詮虚飾でしかなかった。やはり僕は冷淡な他者の一人だったのだ。
嗚呼、僕は今まで知らなかった……時間以上に恐ろしいものがあるとは……僕は浅はかだった。聖なる焔を無下にしたことは恐らく僕の一生の罪となるだろう。だから彼女の話が偽りであることを僕は切に祈る。彼女の話が本当であれば、僕は決して生きていくべき存在ではない。こんな……こんな人間は死んだ方がましだ!
……しかし彼女の娟娟たるも負に満ちたあの顔を思い出す度、僕の考えは絶対に間違っているのだ、と考えずにはいられないのだ。
あの時から二十年以上たって、僕もいつしか不惑を迎えてしまった。大学を卒業して、普通の企業に就職して以来、そこで僕の望む平常的な生活を送っている。同時に様々な人々との出会いや別れも経験した。あの時一緒に遊んだ友人はそれから数年して、アメリカに留学し、そこで客死した。現地でドラッグを覚えたらしく、それに入り浸るうちに、ある日酒とドラッグを同時に服用して、それで中毒になって死んだのだ。僕はそのことにいたく悲しんだのであるが、今思えばそういった今生の別れも普通の人間に起こりうることなのだろうと思う。また僕は職場の同僚と交際して結婚した。彼女もまた僕にふさわしい普通の女性であった。そして彼女との間には二人の息子が存在する。下はまだ中学生であるが、上は高校生である。二人は良くも悪くも平均的であって、とびきり優れたことはないがまた犯罪などの悪事にも手を染めたこともない。彼らは僕のことを思慕しており、僕も彼らのことを同様に「愛」している。僕はそのような平和な生活を送ることが出来て幸せである。
一方で僕の頭の隅には未だあの時の失敗を悔やむ気持ちがある。僕は何故あの時彼女を疎んじてしまったのだろうか?当時の感情が風化していくたびに、その気持ちが膨らんでいく。僕が自分の子供を育てるようになってから、もっとそのことを思うようになった。そしてそれを思い出すと、色褪せた情景の中で、負の感情だけが現在に鮮明に思い出されて、僕は度々吐きそうになる。あの時高校を卒業したばかりの自分はもう大人だと思っていたが、結局彼女よりも自分を優先するような子供だった。ただ大人びた感じをうわべだけでも醸し出して周りよりも優れていると思わせようと躍起になっているただの見栄っ張りだ。あの時は彼女を心の底から罪びとの、それも穢れた存在だと思っていた。しかしそれは彼女だけでなく、僕もそうであった。いや、僕の方がその罪は重いのかもしれない。そう思っては、僕は彼女に会って償いをしたいと考えてしまうのである。
しかし一方で本当にそうで済むのだろうか、とも思ってしまう。実のところ、彼女の話を聞いた時に僕はどう言えば良かったのか現在も考えているが、なお満足する解答には至っていない。だから彼女と繰り返して会ったところで、それ以上発展することは不可能ではなかろうか。つまり僕と彼女との別れは必然的であったのだ。そう思うことも屡々ある。だけど結局のところ何が正しいのかは分からない……
僕は家の書斎にいるとき、よく窓を見る。そこには縹色の空とそこへと手を伸ばす薄い灰色の摩天楼の群がある。それをぼんやりと見つめながら、僕はいつもあの事を考える。
彼女にあの時どう言えばよかったのか。そしてどうするべきだったのか。
抑々人はどうやって他者に接すればよいのだろうか、と僕は頻りに考える。しかしそれに適した答えは出てこない。
僕は全ての本源であるクレンス=メルトゥナの意思に触れることが出来ればどれほど心地よいものかと考えるばかりである。しかし彼について確信していることが一つある。それは彼が僕と同じ状況にあれば、ただ彼女を優しく抱擁するのだろう、ということである。
"罪(旧題:レス・エルト・プラング)"へのコメント 0件