玄関の隅にぽたりと落ちていた手紙を拾った。風に飛ばされたまま、ちょうど暗がりに隠れてしまっていたらしい。急ぎの用でなければいいがと確かめた消印は幸い三日前のもので、ほっと息をついた。
この筆つきは前にも見たことがある。年が改まる頃にはいつも、そしてそれ以外でも時折、そっと様子を窺うような顔をして届く。師範学校時代の級友なのだと先生は言っていた。
部屋に入る。先生は目を閉じていた。本を読むには少し低い背もたれに半身を預け、両腕を緩く組むような恰好で腹のあたりに置いている。水温むこの季節にはそろそろ邪魔になってきた長羽織を袖を通さず肩から流したまま、ゆったりと眠っているように見えた。
急ぎでもなし、後にしようと襖に手をかけたところで背中に声が降った。何か御用ですか。やや掠れた、重さを感じさせない声。少ない酸素に僅か音を乗せるようにして言葉にする。
「手紙が届いていたから持ってきた」
羽織が肩から滑る。腕をついて身を起こすのを助けようと近づくと、大丈夫と目だけで制された。
羽織を直そうともせず、先生は右手を胸元に添わせてしばし息を詰めた。やはり少し苦しい動きだったのか、薄い眉根が寄る。
「……ナイフを」
「え? ああ、ペーパーナイフか」
薬のせいで震える指先では些か不安にも思える。封を切ろうかと尋ねたが、いいえと首を振られた。
ナイフの、緩やかな曲線を描く銀の持ち手に細い指が添えられる。傾けた爪の先に窓の向こうの西日が反射して、くすんだ光を膝下に零した。呼吸よりもささやかな音をたてて薄茶色の封筒が切られる。
「おや」
下に傾けた封筒の口から、はらはらと白いものが舞い散った。
「……桜?」
水分を失いやや色褪せてはいるが、その花片はまだ薄紅の気配を残していた。指を差し入れて書箋を引き出せば、さらにこぼれる春の便り。長い羽織の裾にも落ちて、然乍ら花筏のようだ。
「――書物さげて戻り来ればさくら散る、山中のはがき届きていたり」
先生は手紙の冒頭だけを見せてくれた。時候文の代わりに流麗な筆つきで歌が添えられている。島木赤彦の作ですね、と先生は言った。手紙の主はよくこうして、その時々で気に入っている歌や句をお裾分けでもするように認めてくるという。
「粋なことをするものだな。……この桜も」
封筒の裏に書かれた住所には東京とあった。あちらではもうとっくに花開いていて、春の遅い山里にこうしてわざわざ届けてくれたのだろう。花を見に行くどころか自由に立ち動くことすら儘ならない先生の具合を知ってか知らずかわからないが、深い優しさに心打たれた。
「師範学校を卒業する少し前にね、遠方に発つ友人の持ち物にこうして桜を忍ばせたんです。当時から洒落たことをする人で――私は共犯、そう、友へ宛てた最後のささやかな悪巧みでした」
まだ覚えていたのですねと先生は懐かしそうに呟いた。膝に落ちた欠片をひとつ拾い上げて、そこに過ぎた日々を見るかのように目を細めた。
返事を書かなくては――しかしその顔からは先ほどよりも色が抜けている。けほ、せほと吐息のような咳を散らして、再び苦しげに胸をおさえた。今度は痛みもあるのか、右手の甲に僅か筋が浮く。
盆に置かれた手拭いを渡すと、色のない唇を隠すように押し当てた。肺腑のつかえを咳き出す度、骨の浮いた背が痛々しく震える。喘鳴を孕んだ呼気が蝋燭の先のように揺れて、清潔な手巾に熱を喀いた。これ以上身を起こしていたらまたひどく喀血しかねない。
「今は休め」
支える力の尽きた半身が傾いだ。崩れぬように肩を抱いて、そのまま背もたれに横たえる。血が下がったのか、くらりと一瞬焦点の定まらぬ目をした。
手から落ちた便りを拾って、元の通りに封筒に収めてから近くにあった本の上へと置いた。散った花片はどうしようかとしばし悩んでから、ひとまずこれも拾い集めて封筒へと戻した。水に浮かべるより、乾燥させて押し花にした方が保つだろう。後で新聞紙に包んで重い辞典の間にでも挟んでおこうか。
「あれは確か、寒緋桜でしたね」
ふいに先生は呟いた。
何の話だ? 聞き返しても返事はない。目を閉じて、浅い呼吸でただ仄かに笑うのみだった。在りし日の友へ語りかけたのだと少し遅れて理解した。
戻りたいと願っているのだろうか。病に教師としての人生を奪われ、自由を手放し、何もかもが遠くなった今、心だけでも帰してくれと願っているのだろうか。
「絶等寸の、山の峰の上の桜花、咲かん春へは、君し偲はん」
君は、正しかった。囁くように先生は口にした。
さらさらと風のそよぐ部屋。春の気配は窓の外からくるのか、それとも遠き便りが運んできたものか。ひとつだけとりこぼした桜が、柔らかな風に誘われて縁側の方へと転がっていく。
逢うは別れの始めと、旧い人は言った。出逢いは必ず別れをもたらす、世の中とは斯くも儚いものであると。しかしそれではあまりに哀しい。それならば、別れも永遠のうちと思えばいいのではないか。
逢うは永遠の始め、過ぎた日々も今も、全ては無常の内に抱かれたあたたかきもの。
瞼を下ろした横顔は、その一欠片に相応しいものに思えた。
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