「重く、ありませんか……?」
ぎこちなく体重を移動させようとする気配に、軽いくらいだ、と声を返す。言葉に嘘はなかった。嘘どころか心配になってくるほどに背の重みはふわふわと所在なく、ふと意識を外した隙に幻のように消えてしまうのではないかと思った。
首筋に触れる腕がひんやりと冷たい。擦って温めようにも、藤倉の両腕は背負った体を支えるために塞がれていた。
「もう少し羽織を引いて……ああ、それでいい」
先生が身じろぐと、微かな薄荷の匂いが着物の袖から立ち上る。病んだにおいではなく、不思議と心を落ち着かせるものだった。
「こう……ですか。これでは藤倉さんが寒いでしょう」
「いや、背中が温い分、暑いくらいだ」
先生の細腕がすっぽりと覆われた分、藤倉の腕は幾分か外気に曝されることになったが、蕾開くときを間近に控えた春夜の風で凍えることはなかった。
夜もすっかり更けた町に人の姿はない。二人が歩く間にもひとつ、またひとつと通り沿いの家々の灯りが消えていった。寝静まった町は生きるものの気配を暗闇に隠し、それゆえ温め合う二人の息吹をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「言い出した私が言えたことではありませんが……少し、恥ずかしいですね」
先生は人目を気にしているらしかった。どこかで犬の遠吠えが聞こえ、一際強い風が木の葉を騒がせ駆け抜ける度に、羽織の下でそわそわと首を巡らせて落ち着かない様子でいる。
「こんな夜更けにあてもなくふらふら出歩くなんて、先生はやったことないだろう?」
「……ふふ、それがね、あるんですよ。師範学校の寮にいた頃に、一度だけ」
内緒話をこっそり打ち明ける可笑しさに、先生の声は俄かに華やいだ。
「俺みたいな不良生徒ならともかく、先生にもそんな青春時代があったとはね」
「寮の同輩みんなで抜け出して……楽しかったですよ。門限を破って塀を越えて、あっさり見つかって散々に怒られて」
藤倉さんといると、まるで昔に戻るようです――郷愁の滲む声に悲しみはなかった。過ぎ去りし時も今この時も等しく大切に思っているとその声は告げていた。
「今度は、見つからずに済みそうですね」
「ああ。誰も見てやいないさ」
先生が望むならどこまでもいってやろう、ふとそんな思いが湧き起こった。もう二度と帰らなくたって構わない、何を犠牲にしてでも――そこまで考えて馬鹿馬鹿しくなった。
先生はそれを望まない。わかっていたことだ。望まない先生を、自分は愛おしく思ったのだった。
一歩、一歩と道を踏みしめていく。溶けた雪で水っぽくなった地面に残る足跡はひとつきりだったが、深く刻まれる分、そこにはたしかに二人分の存在があった。
道は緩やかに上り坂になる。目の前いっぱいに広がる黒々とした山の影は空をすっかり遮ってしまっていたが、今日は不思議と穏やかに見えた。
あの夏の日の逆回しのようだと思った。あの日もこの一本きりの坂道を先生を背負って歩いた。今にも止まりそうなか細い呼吸と死んだように冷え切った体の重さが消えてしまわないように、それだけを願って降りしきる雨の下を歩いた。
あの日はもう過ぎ去った。先生は今もちゃんとここにいて、背に安心する温もりを届けてくれる。首筋に感じる軽い喘鳴交じりの吐息は、彼が生きていることを伝えてくれる。背にかかる体重はあの日よりもなお軽くなったが、それでも先生はまだこうして笑いかけてくれる。
坂が緩やかになって、砂利が増えて足音が変わる。木々の間にひっそりと建つ寺の建物を横目に見ながら通り過ぎる。寝静まった時間だというのにひとところだけ灯りが漏れていて、誰かがひっそり起きているのだなと、影も見えないのに存在を感じて自然と足音を潜めた。
高台まではあと少しだ。いくら先生が軽いとはいえさすがに痺れてきた腕を持て余し、一度足を止めて背負い直すと、先生はこくりと肩に頭を預けてきた。疲れて眠ってしまったようで、落ち着いた吐息が春の風のように首筋を撫でていた。
伸びができない代わりに首を反らして空を見上げる。背の高い木々に囲まれているというのにやけに広く見えて、そうか前に見た景色の記憶は夏だから冬枯れの分広く感じるのかと合点がいった。
ふと空に小さな光がよぎるのを見た。
流れ星だ――思わず声に出しかけて口をつぐんだ。背負われた先生はくったりと身を預けたまま反応を返さない。眠っているのだから当然だった。
教室を閉めた日、夢うつつのままに先生が零した言葉を思い出す。たまたま見上げた夜空に流れた星に願いをかけた先生を、身も世もなく抱きしめたのを思い出す。
偶然に空に走った光を見たのは自分だけだった。流れ星を見たんだと伝えたら、先生は穏やかな笑顔を見せるだろう。幸せが訪れますねと、誰よりも幸せそうに言うだろう。先生は星を見ていないというのに、人の幸せを想って笑うのだろう。
まもなく道は行き止まりになった。四方を木々に囲まれた町を見下ろせる高台は思っていたよりも狭く、雨風に半分朽ちた腰掛けがひとつあるきりの寂しい場所だった。
「春の匂いがしますね」
足を止めたことに気がついたのか、先生は顔を上げるとゆっくりと左右を見回した。
打ち捨てられた腰掛けにやや窮屈ながら並んで腰を下ろす。大きく息を吐いて痺れた腕を伸ばしていると、細い指先が労わるように触れた。
「連れてきてくださって、ありがとうございます」
さやさやと柔らかな風が先生の伸びた横髪を撫でる。山を吹き下りる風に誘われて見えるのは屋根にまだ少し雪を残した小さな町の姿と、蕾を膨らませた桜の木だった。
足元を抜ける風に短い浴衣の裾がそよいで、素足の白さが暗闇に浮かんで見える。そうだ、寝床から着のみ着のまま拐うように連れ出してしまったのだ――今更ながら己の勢いに任せた行動に頭を抱えたくなったが、当の本人は気にもせず細い足を朧な月明かりに曝して楽しんでいるようだった。
「好きな花は、ありますか」
まだ花開くには早い桜の蕾を見上げながら先生は尋ねる。
「……百日草、かな。昔、母がよく生花に使っていたのを覚えている」
実のところこれといって特別思い入れがあるわけではなかった。ただなんとなく、好きな花はと聞かれて思い出すのは昔家の花壇に沢山植えられていた、背の低く花弁の多い色とりどりの花だった。
「あの花は次から次へとよく咲くが、咲き過ぎたものをいつまでも放っておくと栄養を奪ってしまって後に咲く花が小さくなってしまうんだと。まだ咲いているのに早々に首元から短く刈られて、幼い妹はそれを見る度綺麗なのに勿体無いと嘆いて……見かねた母がこうすればまだ楽しめると、小さな一輪挿しをいくつも作っては家中に飾っていた」
思えばあれが俺にとっての一番古い記憶なのかもしれない。普段は意識に上らないだけで何気ない幸せな記憶は今日まで沢山この身に降り積もっていて、そうして今の自分は形作られているのかもしれなかった。
「夏の初めから雪の手前頃まで咲く、強くて太陽の似合う花……藤倉さんにぴったりですね」
ここに辿り着いてから、触ることのできる幸せが増えた。これまでは気がつかなかった幸せが目に見えるようになった。
「先生の好きな花は?」
「私は桜が好きです……正確には、桜の咲く季節そのものが」
「今年ももうすぐ、そんな季節になるな」
「ええ。こうして待っている時間も含めて、春が好きです」
この高台から見下ろす桜の景色はさぞ見ものだろうと言うと、先生は穏やかに笑って遠景の町を指差した。
「あの辺りにひときわ大きな古木があって、ちょうど町の真ん中のあそこ、公民館の屋根に桜吹雪が降り注いで綺麗なんです……向こうに見える山々には五月の半ばまで雪が残るので、桜の淡い色と雪の白の対比が素晴らしく絵になります。ああそうそう、先程側を通ってきたお寺の奥にある大きなしだれ桜には、怪談めいた言い伝えがあるんですよ……」
先生の姿がいつかの母と妹の影に重なって見えた。あの日も今も、優しい眼差しと声に触れて、世界が少しだけ色鮮やかになった。
「藤倉さん……?」
ふいに黙り込んだ藤倉に先生は不安げな目を向けた。瞬きをひとつすると、幻は残像も残さず消えてしまった。
「もっと、遠くまで連れていってやろうか」
望むのならば、どこまでも遠くへ。嘘でも、その場しのぎの慰めでもなかった。
「……いいえ。ここで、充分です」
乱れた浴衣の裾を整えて、先生は手を差し出した。細腕はしっとりと温かく、握ると手のひらにとくりと拍動が伝わった。
「桜が咲いたら、また来ましょう」
その日が、先生の最後の自由な一日となった。
二、三日に一度少量の喀血があった。以前のような大喀血こそ起こしていないものの、止血剤と麻酔でぼんやりと眠り続ける先生には、もう昼も夜もないようなものだった。
一度発作を起こすとしばらくは自力で呼吸を続けることすら難しくなる。高熱に意識を混濁させ、咳き込む力も衰えている今喀血を起こせば血を詰まらせて窒息しかねないからと、夜の間だけ泊まり込みの看護婦を一人雇うことになった。
高熱に魘され、薄氷を踏むような危うい呼吸を始めると、看護婦は酸素筒の螺旋を緩め、吸入器を先生の骨の目立つようになった顔にあてがう。吸入のおかげでなんとか呼吸を鎮め、やがて力尽きて眠りに沈むのを見届けて、看護婦は静かに枕元から離れ控えの隣室に戻る……そんな日々の繰り返しだった。
昼間に発作を起こしたときには藤倉が傍についていることもあった。痩せた頬には大きすぎる吸入器を支えながら、紫色になった薄い唇が酸素を求めて細い呼吸を紡ぐのを、永遠に続くような時間の中で見守っていた。
週に一日ほど、昼過ぎた頃に少し調子が上向く日があって、そういうときには縁側のガラス戸を開け放ってつかの間の穏やかな時間を過ごしたが、日が傾く頃にはまた熱が上がって呼吸困難に喘いだ。
本が読みたいと言うので取ってきてやっても大抵は読みきる力もないままに臥せるので、気がつけば書斎の本がどんどん部屋にやってきて溜まっていく。埃が身体に障るからと池沢が全て片付けさせた。これだけは読みかけだからと置いておかせた一冊は、栞の進まないままに放置されて半月が経とうとしていた。
ぜぅぜぅと病んだ呼吸音が耳に刺さる。力のない、ほとんど吐息のような咳の奥で、肺に根を張った病が組織を傷つけているのがわかる。次に大量の喀血を伴う発作を起こしたら最後だと誰もが覚悟していた。
看護婦は背を擦り続けている。咳が止まらないままに気を失いかけているのだ。やがて喉を絞められたような音とともに少量の血を喀き、先生はずるりと看護婦の腕に崩れ落ちた。
冬来りなば春遠からじ――あの日、咲く前の桜を眺めて笑っていた先生を想う。
まだ固い蕾に、先生は何を願っただろう。
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