十二 薄暮の部屋

薄暮教室(第13話)

篠乃崎碧海

小説

8,281文字

拐ってやりたい。その運命からも、枷のついた身体からも。
望まないと知っていた。拐うかわりに、手のひらを重ねた。

 誰かが呼んでいる。

 聞こえてくるのは人の声で、ずっと遠くの方で何か言葉を発している。実際に耳に届くのはそれくらいのものだったが、その声はたしかに誰かを呼ぶ声で、求められているのは自分だと理由もなくわかるのだった。

 呼びかけに答えようとする。自分はここにいると口を開く。しかし声は出ない。声を出そうと口を開いた瞬間に、叫ぼうと思った言葉が頭の中から消えてしまう。

 夢の終わりはいつも同じだ。発すべき言葉を探して狼狽えているうちに呼び声が急速に遠くなる。すっかり聞こえなくなってしまってから、何故自分がここにいたのかもぼんやりとわからないままに目が覚めるのだった。

 今宵も同じ夢を見た。しかし終わりがいつもと違っていた。全てがわからなくなる前に涼やかな鈴の音が転がり落ちてきた。はっと目覚めた途端に音は夢のあわいに溶けるように消えてしまったが、藤倉は迷わず先生の下へと向かった。

「どうか、しましたか」

 暗がりの中、廊下から漏れる僅かな光にぼんやりと浮かび上がる先生の顔に浮かんでいたのは、純粋な驚きだった。

 積み上げた毛布から身を起こす。たったそれだけの動作で先生はゼぃゼぃと胸を喘がせた。上がってしまった呼吸を整えようとする間にもひゅう、ひゅうと木枯らしのような息吹が胸を満たして、苦しさに胸を押さえてうずくまる。

「呼んだだろう。……薬がいるか」

 骨の浮いた背を擦ると、先生は苦しい息の下でふるりと首を横に振った。

「いえ……呼んで、いません、」

「本当か?」

 ええ、と先生は頷く。たしかに言葉通り、鈴は枕元に置かれた盆の上から動かされたようには見えなかった。

「悪いな、寝ぼけていたらしい……起こしてすまなかった」

 ではあの音は幻だったのか。少しばかり合点のいかない思いは残るものの、どこまでが夢だったのかはっきりしているわけでもない。

 先生は相変わらず危うげな呼吸を整えようと肩で息をしている。落ち着いたら部屋を出ようと決めて、藤倉は華奢な背をあやすように擦り続けた。

 

「藤倉、さん」

 躊躇う感情をそのまま音にしたような声が静寂に落ちる。口に出したら何か変わるのではないかと期待しつつも、そうでなかったときを思って予防線を張る諦めの気配。

「藤倉さん」

 細い背が震える。ゆるりと上げられた先生の顔に廊下の仄灯りがさしている。頬を伝う一筋の涙が藤倉の意識に焼きついた。

 

「ここから、連れ出してください」

 

 迷う理由などなかった。藤倉はゆっくりとひとつ頷いた。

2021年4月9日公開

作品集『薄暮教室』第13話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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