六 繊手に初紅葉

薄暮教室(第7話)

篠乃崎碧海

小説

6,337文字

どうかいつまでもこのままでと願うのは、彼にとって酷なことだろうか。

「失礼するよ」

 夜も深くなった頃、藤倉は先生の自室の前に立っていた。どうぞ、の声はないが、構わず障子を開ける。

 先生は文机に突っ伏して浅い呼吸を繰り返していた。右腕を枕にして項垂れ、呼吸の度に痩せた背が波打つように揺れる。声に反応してちらりとこちらを見遣った目は疲れきっていて、首筋に汗がじわりと光っていた。

「飲めるか」白湯の入った湯呑みを差し出すと先生は僅かに頷いた。咳き込むのを堪える一瞬、ぐ、と苦しそうに眉根が寄る。一口、二口目で堪えきれなくなったのか、震える手で湯呑みを置くと背を丸めて激しく咳いた。

「――ッぜほっ……! ゼッぜうっ、ゼッ……っきひ――ッ、は、ゼッゼッゼっーっ、ぜろ、ぜぃいっ…は、はぁっ、は…」

 咳というより喘鳴を吐き出しているに等しい。その響きは病んだ胸を、背を容赦なく抉るようだった。咳き止まない、呼吸も儘ならない背中の中心を強めに擦ると、痩せた肩がびくりと跳ねた。

「っぜエぇ――ッ! ぜォ、ぜゴォおゼッゼッゼッ…ハぁっはっ…ゼェえ゛、ゼ……ッほ、ごほ…ぅ、ぐうッ……ごぼ、ぜぅオぉ゛ぉ゛ッッ――!」

 火のついたように咳き出すと、もう自力では止められない。胸に燻るものを全て吐き出してしまうまで咳いて咳いて、しまいには嘔吐することもある。

 いつもならこれくらい咳き込めば痰を吐けるのだが、飲んだ水の量が少なすぎるらしい。仕方なしにと藤倉は背を擦るのを止めると、ちょうど喉を詰まらせた子どもにするように背を叩いた。

「ぅぐ……っ、ゔッ…ぜぅ、ぜ…――ッぜぉぉっ、ぜぉッ、ごォッゼッゼッゼッ――っぜえぇ゛っ、ゼぉぇえ゛っ、っうェ゛っぐぅぅっ……」

 ようやく口元に懐紙をあてがって痰を吐いた。ぜぇぜぇと波打つ背からはいまだ喘鳴の残滓が聞き取れるが、息詰まるような狭窄音は段々と落ち着いてきている。痰さえ吐ければ後は薬で落ち着くので、これならば池沢を呼ぶ必要はないなと、藤倉は知らずのうちに詰めていた息を短く吐き出した。

 どういうときに発作を起こしやすいか、またその前兆は、医者を呼ぶ必要のある発作かそうでないか、薬はいつ飲ませるのが一番効果があり、かつ身体への負担が少ないか――学ばなければと気負って覚えたわけでもなく、気がついたら体が自然と動き、判断できるようになっていた。

 病者のいる生活に慣れるとはこういうことなのだ。先生はもしかしたら、こうして周囲の人間が手慣れた様子で世話を焼く度に申し訳ない気持ちになるのかもしれない。処置の方法など何ひとつ知らなかった自分がこうして医者の真似事のようなことをする度に、心苦しく思うのかもしれない。

「ごめ、なさ……」

 先生の掠れた声にはっとした。心を見透かされたような気がした。

「ごめんなさい」

「気にするな。……俺は居間にいるし、直次もそろそろ帰ってくると思う。何かあればすぐに呼んでくれ」

 先生はいまだ喘鳴の絡む呼吸をしながらも、確かな目をしてこくりと頷いた。

 発作の治まりきらない身を一人にすることに以前は抵抗を感じた。だが彼がそこまでの気遣いを欲していないことに、今なら気がつける。藤倉は静かに廊下に出た。手の中には冷めた白湯だけが残った。

 先生が自分を引き留めたくないと思った理由に触れた気がした。先生は慣れて欲しくなどなかったのだろう。藤倉だけにではなく直次にも、両親にも、池沢にも、近所の茶屋の娘さんにも。自身の身体が人の手助けなしには生活できないほど弱いものであるという事実を突きつけられる度に、自分の存在を許せなくなるのだろう。

『彼のために何をしてやれるのか』その答えはまだ見つからない。何かをしてやれるのではないかと思うこと自体、烏滸がましいことなのかもしれない。それでも、あの日ここに残ると決めた選択に決して後悔はしない。慣れることも手を伸ばすことも恐れはしない。あの雨の中、冷え切った手を固く握りしめた瞬間それを心に決めたのだと、少なくとも今はそう信じている。

 

 翌日の朝、昨夜帰りの遅かった直次の代わりに朝食を作ろうと藤倉は台所に立った。

 直次はまめな性格で、上手くいったレシピ、池沢に教わった滋養強壮のレシピ等々をひとまとめにして綴じていた。とりあえず台所に立ったはいいがいくらなんでも雑な旅人飯ではなあ、と困っていた藤倉には救いの神のごとき存在だった。

 途中ありあわせの食材を色々と追加しているうちに本来のものからは大分逸れた気がしないでもないが、優秀なレシピのおかげで何とか形にはなった。これを毎朝こなした上に忙しく働きに出る直次は手際がいいな、と改めて感心する。

「おはようございます。……おや、今日は藤倉さんが作ってくださったのですね」

 先生は普段より少し遅めに起きてきた。発作を起こした翌日は大体これくらいの時間になるとわかっていた。

「おはよう。ちょうどできあがるところだ」

 慣れたからこそできることで少しでも彼に笑って生きてもらえるのならば、それだけでいい。

「いい匂いがします」

 先生は汁物の鍋を覗き込む。

「直次のレシピのおかげでどうにかなった……と言いたいところだが、言いつけを守らなかったせいで旅人風になった」

「それはそれは……後でどんな風に作ったのか、教えてください」

「どんなと言われても、レシピ通りの野菜が足りない分は適当にありあわせで色々と突っ込んだだけで……」

 どこぞで買ったきり忘れ去っていた謎の香辛料を味見もそこそこに入れてみたことは話さない方がいいだろうか。

 まあきっと大丈夫なはず、と内心ひやひやしながらも料理を食卓に並べていると、俄かに縁側の向こうが騒がしくなった。

「先生! おはようございます!」

 先生が窓を開けると、ぴょんぴょんと飛び跳ねて中を覗き込もうとする姉弟の姿があった。

「おはようございます。朝から元気ですね」

 ハツ子と一彦の姉弟は揃って両手を後ろに回し、何やらにこにこと笑っている。

「先生、目を閉じて、手を出してみてください」

 先生は言われた通りに目を閉じて窓の外に手を伸ばす。先生の手のひらにハツ子の小さな手のひらがそっと触れ、何かを握らせた。

「……おや、これは綺麗ですね。ありがとうございます」

 そっと開いたそこには、燃えるような深緋の一葉。

「今年一番に見つけた真っ赤な紅葉もみじ、先生にあげます」

 先生は紅葉の葉柄の部分を持ってくるくると回してみせた。先まで綺麗に赤く染まった紅葉が朝の光にきらきらと輝く。

「先生、クマ先生っ」

「何だ? 一彦は俺にか?」

 一彦は藤倉にも同じように目を閉じ窓の外に手を伸ばすように言った。目を閉じる瞬間、一彦が悪戯を隠しきれないといった顔で笑うのが見えた。

 手に感じたのは何か、しっとりとした柔らかいもの。

「きゃっ」

 手のひらのものを見た瞬間、ハツ子は小さな悲鳴を上げて後ずさった。そこにいたのは鮮やかな緑色のアオガエル。小さなそいつはひと飛びで窓枠に飛び移り、あっという間に草葉の影に見えなくなった。

「っはは、やってくれるじゃあないか」

 一彦はきゃっきゃと笑っている。

「今度はもっと大きなのを捕まえにいくか? こぉんなのもいるぞ」

 藤倉が両手で円を作ってやると、一彦は目を輝かせた。一方のハツ子はやめて! と本気で怯えた顔で後ずさっている。

「ま、カエルはまた来年の夏だけどな。さっきのやつはきっとのんびり者だったんだろう」

 笑いながら話を聞いていた先生が閃いた、といったようにポン、と手を叩く。

「来年の夏は藤倉さんを先生にして、山で自然観察会をいたしましょう」

「いいのか? 教室がカエルだらけになっても」

「えっ、いや、それはどうでしょう……直次が怒るでしょうね……」

「冗談を真に受けるな、そんなことはしないから」

「別に、いいんですよ?」

 先生は悪戯っぽく微笑む。

「そのときには池沢先生にもおすそわけしてあげましょうか」

 お前さん、前々から思っていたんだが、穏やかそうに見せかけて実は結構悪巧みが好きだろう。藤倉の言葉に先生はさあ、どうでしょうねと小首を傾げた。

 季節は晩秋。雪深い冬はもうすぐそこまで迫っている。それでも、どんなに身を切られるような寒い日でも、きっとこの教室は春の陽だまりのような温かさに包まれているだろう。そんなささやかな幸せを信じられるような優しさが、ここにはあった。

2021年4月6日公開

作品集『薄暮教室』第7話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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