雨にけぶる視界にちらほらと提灯の灯りが見えてくる。
鐘楼の軒下で十数人が落ち着かぬ様子で話し合いをしていた。一人が藤倉に気がつき、険しい顔をして走り寄ってくる。
「暗さもさることながら、見る間に雨足が強くなって、これでは私達まで遭難しかねない。一旦応援を呼びに戻ろうかと話していたところで……」
町にはどのくらい騒ぎは広まっているかと尋ねられ、藤倉は黙って首を横に振った。
「わかりました、ではやはり応援を呼びに、」
「そんな悠長なことをしている暇はない。何人かは今すぐにでも捜索にかかるべきだ」
「しかし、まとまって行動した方が良いのでは」
「たしかにこの雨と暗さだ、人数はいればいるだけ心強い。だが全員で行動する余裕がないのも事実だろう。ひとまず捜索隊を三分して――」
気がつけば皆藤倉の話に耳を傾けていた。旅慣れた藤倉の説得力ある言葉に、捜索隊は次第に統率のとれた動きをし始める。
藤倉は数人の青年を連れて山頂への道を登り始めた。数歩先は闇、絶えずざあざあと轟く雨音のせいで目も耳も碌に役立ちはしない。若者達に先を歩かせ、藤倉はひたすらに辺りを見回した。
突如稲光が目の前を青白く照らし、轟音が耳をつんざいた。木が裂けて倒れる音と遅れて地を伝わる振動に、すぐ前を歩く青年が息を呑み身を竦ませる。足元を川のように流れる泥水の先を目で追うと、岩の割れ目から水が噴き出していた。よく見ればあちらこちらで同じように噴き出している。間違いなく土砂崩れの前兆だ。
麓の方から鐘の音が重く聞こえてくる。日常の時を知らせる間隔とは違うそれは、増援に行った者達が鳴らしているものだ。
十分おきに鳴らされる鐘の音を三回目に聞いたとき、藤倉は苛立たしく足を止めた。
「っくそ……やはりこうしてただ登っても埒が明かないか」
前を歩く若者達を呼び止めると、小さな金属製の笛を渡す。
「俺はもう少し奥まで行ってみようと思う。お前さん達はこのまま道沿いに登って捜してほしい。何かあればこの笛を鳴らしてくれ、なるべく合流するから」
「そんな、駄目ですよ! 単独行動はするなって言ったのは他でもない藤倉さんでしょう」
「心配するな、己の身ひとつくらいなら守りきれる。いいか、もし二人を見つけたら、笛を吹いてそのまま二人を連れて山を下りるんだ。俺のことは気にしなくていい」
コンパスも持っていることだしな、と見せてやるが、笛を渡された青年はなおも恐怖に顔を歪めている。
「そんな顔するな。大丈夫だから、信じて任せてくれ」
ぽんと青年の肩をひとつ叩くと、藤倉は返事も待たずに背の高い草の奥に向かって分け入った。提灯の灯りが遠ざかると、途端に二、三歩先を確かめるのがやっとの闇が体を包み込む。本能的な恐怖に背に汗が伝う。
「先生! 一彦! 返事をしろ!」
雨音と風音にかき消されてほぼ意味はないと知りつつも、つい大声が口をついて出た。何度か声を張り上げているうちに、無情にも五回目の鐘の音が耳に届く。
闇雲に叫んでも時間と体力の無駄だ。藤倉は必死に考えを巡らせる。しかし冷静に考えようとすればするほど周りは見えなくなっていった。
目覚めたくても目覚められない悪夢のように、何度も最悪な一場面が瞼の裏に浮かぶ。先生も一彦も別々のところで遭難していたら、いや運良く互いを見つけていたとしても沢に迷い込んでいたら、怪我をして動けなくなっていたら。
六回目の鐘の音がこだまする。想像は加速する。目の前の大きな木を回り込んだ先に、背の高い草をかき分けた先に見つけるものは、もしかしたらもう人の温もりを保っていないかもしれない――足元にまとわりつく邪魔な雑草を乱暴に払いのけた瞬間、端で切れたのか手のひらに鋭い熱さを感じたが、そんなことは最早どうでもよかった。
早く、早くしないと。早く……!
ピィィィィッ、と甲高い笛の音が響いて、藤倉は顔をさっとあげた。闇を切り裂いたそれは藤倉のいるところより少し上の方から聞こえてきていた。笛の音は二度、三度と繰り返された後、しばらく間を置いてまた同じように鳴った。音に進路を定めて歩を進めると、音の方も徐々にこちらに近づいてきているようだった。
しばらく歩くと、頼りない提灯の灯りが木々の向こうに朧に見えた。灯りとともに動く数人分の影にほっと息をつく。
雨音に紛れて何か声が聞こえる。声、というよりは泣き声のような。
「おい、何があった!」
藤倉の声に影は足を止める。提灯が辺りを彷徨うようにふらふらと照らし、やがて暗闇の中の藤倉を捉えた。
「藤倉さん! ……が!」
何かを叫んでいるようだがよく聞き取れない。草木をかき分けやっとのことで合流すると、
「一彦!」
青年におぶわれ泣いていたのは一彦だった。藤倉の声を聞くなり身をよじって青年の手を離れると、藤倉の胸元に飛び込んで一層大きな声で泣きじゃくり始める。
「一彦、よかった、怪我はないか」
一彦の体をぺたぺたと触って確かめる。汚れているところがないくらい全身泥まみれで、手足には擦ったような傷がいくつもできていたが、幸いにも大きな怪我はしていないようだった。
「怖かったな、もう大丈夫だ、安心し……」
「せんせいをおぉ゛っ、たずけて、だすけてぐださっ、た、けて……っ」
胸元に顔を埋めたまま吐かれた叫びに、藤倉は息を呑む。
「先生といたのか!? どこではぐれた!」
思わず声を荒らげたせいで、一彦は怯えて泣き腫らした目を大きく見開いた。
「二十分ほど前のことです、この子が一人で山頂方面から泣きながら歩いてきたのを保護したのは……最初に笛を吹いたのはそのときです」
一彦をおぶっていた青年が代わりに答える。
「それで、先生は!」
「それがわからなくて……先生は助けを呼べとこの子に伝えたそうなんです」
とにもかくにも一彦を保護した地点より上の方に先生はいるらしい、とわかった彼等はそこから隊を二手に分け、片方は先生を探しにそのまま山を登り、片方はこうして一彦を麓まで連れていくことにしたという。
「俺も上に行く。後は頼んだ」
一彦を背負い直した青年は任せてくれと大きく頷いた。
七回目の鐘の音が響く。それに負けないくらいの大声で、藤倉さん! と呼ばう声に振り返ると、青年は何か小さな物を振りかぶって投げた。提灯の灯りに反射してキラリと光るそれは、ぱしりと音をたてて藤倉の手のひらに収まった。
片手を上げて応えると、返された笛を懐にしまう。雨脚は依然として強く、指先は痺れるほどに冷えていたが、僅かに差した希望の光が悪夢を溶かし始めていた。
この先にきっと、先生はいる。
次の鐘が聞こえる前に、先に登った者達に追いついた。
彼等の体力の限界も近い。荏の油で水を弾くようにした合羽も次第に雨を染み入らせ、ひたすらに体温を奪う重荷と化してきている。
「藤倉さん、もうすぐ一寸先も見えないようになります。このままではいずれ私達も戻れなくなる」
わかっている、あと少し、せめて次の鐘まではと呻くように呟いた頭上を無情にも八回目の鐘が鳴り渡っていく。山に入ってからもうすぐ一時間半が経とうとしていた。
「あと半刻、いや四半刻だけでもいい……あいつはいる、絶対にこの先にいるんだ」
藤倉の瞳にはいつしか野生の獣のようなギラギラとした剣呑な光が宿っていた。呼吸の度に荒く上下する肩に少しでも手を触れようものなら、限界まで張り詰めた理性の糸は呆気なく切れてしまうだろうと思えた。
「約束したんだ……あいつは俺が必ず、」
「あれは……何だ?」
藤倉のすぐ後ろにいた青年が不意に訝しげな声を上げる。足を止めた藤倉の横をすり抜け前に進み出た青年は、ほとんど消えかけた提灯の灯りを霧にけぶる前方にかざした。
「あの木のところで何か、光った気がして……」
腰の引けた足取りで恐々と数歩踏み出した青年は、道から少し外れたところで根こそぎ倒れている巨木の根元に灯りを向ける。ゆらゆらと彷徨う灯りが根元の濃い影を横切ると、たしかに一瞬何かがぴかりと反射した。
「ほら、あそこに何か光るものが」
灯りがある一点を横切る度にちかり、ぴかりと小さな反射が起こる。青年が一歩、また一歩と近づくにつれ、斜面に向かってどうと倒れた木の全貌が霧に浮かぶように見え始めて、
「根元に洞があるんだと思います……そこに何か引っかかって、」
青年の言葉は半ばで途切れて豪雨の中に溶けた。
そんな、まさか。青年が声も出ないままに口元をはくはくと動かしたときにはもう、藤倉は足元も見えない霧の闇の中に飛び出していた。
根元にぽっかりと空いた洞の手前で光る、何か小さいもの。そこから伸びるリボンのような紐の先に見えるのは、細く白い人間の手指――
「先生!」
洞の外に投げ出されていた右腕を掴む。そのまま抱くように横倒しになった体を引き寄せた。
「先生! しっかりしろ!」
凍りついたかのように冷えきった体はぐったりとして反応を示さない。揺さぶった衝撃で指に絡まっていた紐が解けて、小さな鈴が草の上に湿った音をたてて落ちた。
細い手首にかじかんだ指先を押し付ける。凍えたそこに生の拍動はない。
「おい、嘘だろ、嘘だ、」
半ば恐慌状態に陥った藤倉は先生を地面に横たえると、痩せた胸に両の手のひらをぐっと押しつけた。
雨音も消え失せるような張り詰めた永遠に近い一瞬の後、とくり、と弱い鼓動が手のひらに返る。氷のように冷たい胸の奥底に、まだたしかに熱はあった。
生きている。まだ、生きている。
「先生! 返事をしろ!」
ぱん、ときつく頰を打った。二度、三度と繰り返してもそこには赤みさえささない。
「頼む……目を開けてくれ……!」
頰に置いた冷えた指先を、微かな呼吸の温もりが撫でる。それはまさに風前の灯のように儚い。
「嫌だ、こんな、こんなのは、」
不意に冷たく固まっていた睫毛がふるりと揺れた。固唾を飲んで見つめる先で、睫毛についた雨粒が涙のように頰を伝い落ちたかと思うと、ゆるゆると幻のように瞳が開いた。
「おい、俺がわかるか!」
見えているかも定かではない、焦点の合わない瞳がふらふらと彷徨う。やがて瞳の動きは緩やかになり、藤倉の視線と絡み合い止まった。微かな驚きが浮かび、ふわりと溶けた。
何か言おうと唇が動く。咄嗟に寄せた耳元に、しゅうしゅうと空気の漏れるような弱い呼吸音が聞こえる。
「あ……たの、おはな、し、が………………やくに、た、まし…………」
ほとんど吐息に近い声は、くっつきそうなほど近づけた耳にやっと届く。呼吸は今にも止まりそうなほど浅くゆっくりで、喘鳴さえ聞こえないのが逆に不気味だった。
「ああ、ああ、もう大丈夫だ。大丈夫だからな、お前さんはよくやったよ」
先生は尚も微かに笑ったままだ。そのまま眠るように瞼が落ち、それからはどんなにがくがくと揺さぶろうと、大声をかけようと反応は返ってこなかった。
それでもまだ心臓は動いている。呼吸は続いている。それだけで充分だった。
「まだ駄目だ、すぐに医者のところまで連れてってやるからな……!」
着ていたコートを脱いで先生に羽織らせてから手早く背負うと、袖口を前で結んで固定する。前にだらりと落ちた先生の左腕には浅いが大きい切り傷ができていて、腕を伝って流れたであろう血が指先まで筋を描いていた。
まだ生きてる、早く麓まで、と口々に慌てる青年達の様子がようやく目に入る。ふと足元に落ちたままだった鈴の存在を思い出し、拾い上げて懐に滑り込ませた。
雨に濡れた大人の男一人を背負っているにしてはあまりに軽すぎる感覚。それでも耳元に届く微かな息吹は、彼がまだ必死にこの世界にしがみついて生きようとしている確かな証だった。
それから先に聞いた鐘の音の数はついぞ記憶にない。
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