序 春光に山笑いて

薄暮教室(第1話)

篠乃崎碧海

小説

2,788文字

花の下で生きると決めた日のことを思い出す。仰ぎ見た空から、彼の好きだった色が降りそそいでいた。

 先生、クマ先生早く、と呼ばう声と、少し先で振られる小さな手。三々五々連れ立って歩く子ども達の後ろ姿を見ながら緩やかな坂道を登りきると、太陽に暖められた心地良い風が吹き抜ける高台に出た。耳を澄ませると列車が山間の鉄橋を渡っていく音が聞こえる。ここからは見えないが、あの山の頂上からならばきっと海が望めるだろう。

 高台の端、町を見下ろすように開けたところに小さな石碑がある。

「先生、これなあに」

 裏に書かれた文字を読もうと回り込んだ少年はこの春小学校に入学したばかりなので、恐らくここに連れてくるのは初めてのはずだ。

「薄暮教室の記念碑だよ」

「きょうしつ?」

「前にいた先生が開いていた教室だ。学校がひけてから夕方だけ開かれていたから、薄暮教室と呼ばれていたんだよ」

 あまり崖に寄りすぎるなよと声をかけてやると、はぁいと楽しげな返事が返る。

「前にいた先生って、どんな先生だったの」

 まだ漢字が難しかったのか文字を追うのを諦めた様子で、少年は石碑の周りに落ちている若い木の葉や花びらを拾っては前に並べ始める。

「そうか、まだ小さかったから覚えていないか。優しくて、賢い先生だったよ。とても話をするのが上手で、俺もよく皆に混ざって聞いていたが、あっと言う間に日が暮れてしまうくらい面白かった」

「いいなあ! 僕も先生のお話聞きたかった」

 前の先生のこと、もっと教えて。頬を膨らませて続きをせがむ少年の頭を撫でる。

「また今度ゆっくり話してやろう。教室にみんなを集めて、美味しい菓子でもつまみながら、な」

 春の日向ひなたの柔らかさと、晩夏の夕暮れの寂しさを併せ持つ。先生はそんな人だった。

 青空に霞む桜の花がよく似合っていた。少し伸びた襟足を春風にそよがせて、日に焼けることを知らない首筋を木漏れ日に晒していた。

 初めて会ったのも、今日のように良く晴れた春の日だった。僅か二年前のこととは思えないくらい、その光景は昔日の色をして目裏に蘇る。一生をかけても足りないくらいのものを受け取ったからだと藤倉は知っている。

 藤倉さぁん、と遠くから呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、白衣姿の壮年の男を先頭に、何人かまた坂道を登ってくるのが見えた。

「池沢先生、お久しぶりです。……その格好を見る限り、緊急の病人でも出たのかい」

 池沢と呼ばれた白衣の男は首を横に振った。

「いいえ、おめでたですよ。確かに急ではありましたけれどね」

 生え際に白いものの目立ち始めた髪をかき上げ、池沢は近くの丸太に腰を下ろした。白衣の襟元を扇ぎながら、木漏れ日に目を細めている。

「そんなに慌てんでも、少し遅れたところであいつは怒ったりしないさ」

「そうかな、とは思ったんですけれど。私が早く来たかっただけなんです」

 ここに来ると、不思議と柔らかな記憶ばかりが浮かんでくるんですよ――陽だまりの中に佇む石碑を見て池沢は笑う。石碑の周囲はいつの間にやら、子ども達の手によって花畑になっていた。

「藤倉先生、お久しぶりです」

 池沢と共にやってきたのは、かつて足繁く教室に通っていた子ども達だ。しばらく見ないうちにすっかり大きくなって、今となっては子どもというより青年達と呼ぶのが相応しいだろう。

「久しぶりだな。毎日励んでるか」

「はい、おかげさまで」

「藤倉先生、聞いてやってくださいよ! こいつ実業高校の推薦試験に受かったんです」

「ば、ばかやろ、自分で言おうとしてたのに」

「嘘だ、さっき先生の前で『どうか言い出す勇気をください』ってお祈りしてたろ」

 今は進学した者、就職した者など様々だ。背も伸び体つきも大人に近づいてきたが、早く話を聞いてくれとばかりにきらきらした視線を向けてくる様は、まだまだあの頃と変わりない。

 ほら、子ども達は大丈夫だって言っただろう。日の光を受ける桜の枝葉を仰ぎ見る。花の上に彼等の声は届いただろうか。

「さてと……馴染みの顔はこれで大体揃ったな。遅れてくるのは酒でも用意してるんだろう」

 俺は野暮用で抜けるが、くれぐれも小さな子達から目を離さないように頼む。久々の再会に花を咲かせる青年達に言い含めると、驚いた瞳が一斉にこちらを見た。

「え、先生! それはないでしょう」

「今日の会は藤倉先生が用意してくださったのですから……」

 おろおろとする青年達の間に、まあまあ、と池沢が割って入る。

「彼にも事情というものがありますから。それにすぐ戻るのでしょう?」

 まだやらねばならないことがあるんでしょう。わかっていますよ、と池沢は軽く目配せした。

「ああ、酒がくる前には戻る。すまないな」

 行ってらっしゃい、と微笑む池沢に手を上げて応えると、藤倉は子ども達の笑い声を背に一人、元来た坂道を下っていった。

 道沿いに民家が一軒、また一軒と見え始めるあたりに、何かがぶつかったのか少し右に傾いた古い郵便ポストがぽつんと立っている。藤倉はポケットから一通の手紙を取り出すと、宛名をしばらく眺めてからそっと投函した。カン、とポストの底に落ちる音に、本当に届くのだろうかと一抹の不安を覚える。

「さてと、そろそろ戻らないとな」

――最近独り言まで多くなったな、増々年寄りみたいじゃないかと思いつつ仰ぎ見た遥かなる山々は、彼がかつて好きだと言った花の色で満ちていた。

 

 

拝啓 桜の香り華麗はなやかなるこの頃、如何いかがお過ごしでしょうか。

何故突然に手紙など、と驚かれたことでしょう。もっとも、放蕩息子が今更寄越した文など目を通す価値もないと、うに破り捨てられているやもしれませんが。

二度と敷居を跨ぐなと言われ家を出てから拾三年、長らく不義理を重ねていたのは、ただこうあれと提示された未来を受け入れることへの幼き反抗心と、所詮は拠り所を求めて彷徨っているに過ぎないと気づかされることへの恐怖心からだったように思います。

今は山すその小さな町で、学校帰りの子ども達に勉強を教えて暮らす毎日です。空気の澄んだ良い所で、山向こうの鉄橋の立てる音に耳を傾けていると、兄上達と列車を追いかけて走った幼き日々を思い出して懐かしくなります。綴りながらふと、かつての私が見たら平凡極まりないと怒り出しそうな人生だと考えて笑ってしまいました。

年をとったからか、最近はお話ししたいことが沢山あるのです。これまでに巡った場所で見た、私の拙い言葉ではとても伝えきれない雄大な風景。そこに住む人々や暮らしのこと。そして二年前にこの町で出会ったある男の話を。聞きたい話も沢山あります。兄上母上、妹がどうしているのか、そしてもしも許されるならば、貴方の人生のことを。いつの日にか必ず会いに行きます。

遠方より皆々様のご無事息災を心よりお祈りいたしております。 敬具

四月拾七日

父上様               藤倉柳三 

 

 

 二年前のある春の日に、藤倉は一人の男に出会った。

 いつも優しげな笑みを浮かべ子ども達に囲まれていた彼は、皆に先生と呼ばれていた。

2021年4月5日公開

作品集『薄暮教室』第1話 (全15話)

© 2021 篠乃崎碧海

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