その夜、不規則に聞こえる物音で目が覚めた。
どこかの扉が開きっぱなしになっていて、風に煽られて音を立てているようだ。キイ、キイと木が軋む音はささやかではあったが、一度意識してしまうといつまでも頭の中を行ったり来たりして、中々離れてくれない。
しばらくそのままにしていたが、諦めて起き出した。部屋を出て廊下を覗くと、案の定ともいうべきか、暗がりの奥で物置の扉が半開きになっているのが見えた。
そろそろ初夏の頃だが、夜はまだ冷える。素足には冷たい廊下を足早に横切って扉をきっちりと閉ざすと、ようやく深閑とした夜が戻ってきた。
――いや、まだ何か聞こえる。しばらく耳を澄ませてわかった。これまで扉の軋む音に紛れていたそれは、微かな咳音だった。
「すみません、うるさかったですか」
布団の上に身を起こしていた先生は、掠れた声で詫びた。夜目で判り辛いが、恐らく青ざめているだろう唇からは弱い喘鳴が漏れ聞こえている。不自然に長く深い呼吸は、きっとそうしていないと息が上がってしまうからなのだろう。
「大丈夫か? 医者を呼ぶか」
「いいえ……ッ、は……これくらい、私にとっては、よくあることです、から」
諦めたように薄く笑った先生は、再びこみ上げてきた咳の衝動に耐えるように息を詰めた。喉の奥で咳払いをしても堪えきれない咳が二、三鋭く吐き出されて、彼の華奢な背を揺らす。
「薬はないのか?」
「もう、飲みました」
「飲み薬? ……この間の吸入器のは」
「ああ、あれは駄目、です……強い薬ですから、この程度で頻繁に使っていては心臓が保ちません」
この程度と先生は言うが、藤倉にはとてもそんな言葉で片付けられる様子には思えなかった。細い呼気をゆっくりと長く吐き出し、短く息を吸い込んでは軽く咳き込む危うげな呼吸は、少しでも歩調を乱せばすぐに息も継げぬほどの咳へと繋がってしまうのだろう。それでも大丈夫、直に治まりますからと言われてしまえば、藤倉にはそれを信じるほかはなかった。痛々しい呼吸が少しでも楽になればと、前屈みになった背を緩く擦る。
「昔から、こうなのか」
「ええ……物心ついた頃から、すんなり眠れた夜の方が珍しい、くらい……っく、う……もう、慣れています、から」
「慣れるようなものではないだろう」
「慣れる、ものですよ。これくらいでは死にはしないと、慣れてしまわなければ……何もない夜も、恐ろしくなってしまうでしょう」
浴衣一枚の背は随分と冷えている。いつからこうして身を起こして咳いていたのだろう。もっと早く気がついてやれればよかった。
「ずっと、この町で暮らしているのか」
枕元に畳まれていた羽織を掛けてやると、先生は小さく礼を告げる。
「ええ。高等小学校を出てから数年は、進学して東京にいましたが」
背を温めたのが良かったのか、少し血色の戻った顔で先生はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「師範学校に通うために上京して……卒業してから一年だけ、東京の小学校で教えていたんです」
「へえ、そうだったのか。東京のどのあたりだ? 俺も高校を出るまでは東京に住んでいたからさ。もう十年ほどは昔のことだが」
「青南です」
「青南か! 俺の通ってたところの近くだ。はは、俺達もしかしたら昔、東京ですれ違っていたりするのかもな」
先生はきょとんとした顔をした。やがてああ、と合点がいったようにひとつ頷く。
「藤倉さん、誤解は早いうちに解いておきたいのですが……私は今年で二十五ですよ」
「……嘘だろ」
精々ひとつかふたつしか違わないと思っていたのに、目の前の大人びた教師は藤倉の六つも年下であった。
「歳より上に見られることが多くて……やはりそう見えますか」
「いや、何だ、あんまりに落ち着いているもんで……」
教師という職業柄もあるのだろうが、先生はその年齢には不釣り合いなほどの落ち着きを持っているように思えた。見た目ではなく、言葉の、表情のひとつひとつがそう思わせるのだ。
「師範の出なら、本当に教育の専門家なんだな。元気盛りの子ども達をきっちりまとめあげる手腕はさすがだなと思っていたが、なるほど納得だ」
「ありがとうございます」
先生は礼を口にしたが、瞳にはどこか憂いが灯ったままだ。
「一年だけ、東京で教えていたと言ったでしょう。一年しか、保たなかったんです。朝早くから夕方までの授業、余りある元気をもつ沢山の子ども達、都会の慣れぬ環境――並べ立てるほどに言い訳のようで情けないのですが、急坂を転げ落ちるように悪化していきました。結局冬のある日に肺炎を拗らせて死にかけるまで止められずに。そのときに悟ったんです。ああ、私は自分の思い描いた教師には決して成り得ないのだと」
そんな程度の存在です、と先生は言った。
「……思い描いた通りではないかもしれないが、お前さんは立派に教師だと思うよ。子ども達を見ていればわかるさ」
先生の歳に合わぬ落ち着いた気配は、そういった過去が生み出したものなのか。
彼はこれまでどれだけのものを諦めてきたのだろうか。一体どれだけ、自分に絶望してきたのだろうか。
「望んだものにはなれずとも、誰かが私を必要としてくれているうちは、できることを精一杯にやろうと……今はそう、思っています」
濡羽色の瞳が真っ直ぐに藤倉を見る。先生はいつだって、誰かの心を真っ直ぐに見通す。それがこそばゆくも心地良くて、藤倉は少し面食らう。
「貴方は随分聞き上手ですね……そうだ、明日は貴方が子ども達に話をしてやるのはどうでしょう?」
きっと喜びます、と先生は嬉しそうに言う。
「俺が? 俺は大した学もないし、第一怖がられるだけじゃないか?」
背丈と容貌のせいか、これまでの人生子どもに喜ばれるより泣かれる方が多かった。
「怖がられてなどいませんよ。みんな貴方が気になって仕方がないのに、貴方が寄り添おうとしないから近寄れないだけで」
「いや……そもそも俺は子ども達の喜ぶ話なんて知らないんだよ」
いいえ、と先生は首を振る。
「貴方のこれまで見てきた世界の話を、してくださいませんか。私の持ち得ない、宝物の話を」
その瞳は、子ども達と同じ輝きを秘めていた。
「聞かせてください、貴方の話を」
いまだ見ぬ世界に憧れる少年のように純粋で真っ直ぐな眼差しは、どこまでも澄んでいた。
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