「私そろそろ行こうかな」
「ご飯食べていったら?」
「ううん、今日は遠慮しておくわ。実はお腹あまり空いてないの。このクッキーもらっていっていい?」
「どうぞ。そっちの方が母さんも喜ぶよ」
残すのは悪いと思い、先程精液を拭うのにも使ったティッシュケースから同じ右手でテッシュペーパーを引っぱり出し、クッキーを包み、鞄に入れた。
「明日、学校行くよね?」
「うん、多分ね。真理子も二限からでしょ? なら起こしてよ」
「分かった。昭君が先に起きたら起こしてね」
「うん。多分それはないけどね」
「確かにね」
階段を一緒に降りる。できれば、彼の母には会いたくなかった。買い物にでも行っている事を願い、履き慣れないスリッパの模様を見つめながら一歩一歩を踏み締める。期待に反して一階には夕食の匂いが充満していた。少し遅すぎた。彼は奥の扉を開けて彼の母に何かを話している。私の帰宅を告げているのだろう。彼の母はエプロンで濡れた手を拭い、スリッパをぱたぱた鳴らしてこちらに向かってくる。いつでもその中にいて、手紙の側を離れないつもりだろうか。
「何もおかまいしなくって、ごめんなさいね」
「いえ、紅茶とクッキーごちそうさまでした」
「ちょっと焦げちゃったの。大切な日に限って焦がしちゃうのよね」
「私、一度もお菓子なんて作ったことないから驚きました」
「じゃあ今度来た時に一緒に作りましょうか? 昭は放っておいて」
「はい、是非」
「真理子の作ったクッキーって、あんまり食べたくないなぁ」
昭君、と言おうとして止めた。この場所で彼の名前を呼んではならない。彼とも昭君とも言ってはいけない。彼の母の前で彼の事を話すのは失礼だと感じたのだ。
「ちょっと待ってて、トイレに行ってくるわ」
彼はトイレを理由にその場を立ち去る。私は彼の母と廊下で二人きりになる。
「昭がこの家に人を呼んだのあなたが初めてなのよ」
「ええ、そう私も聞きました」
「私は友達でも連れてきたら? と小さい頃から言ってるんだけど、あの子人の家にお邪魔してばかりいて」
「えぇ……」
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