あの日に戻る

竹之内温

小説

6,518文字

恋人に別れの手紙を送ったはずが、大学時代の友人の元に届いてしまった! 間違いだらけのちえ子のある夜のお話。

短編小説

 あの日に戻る

竹之内 温

 

 

さようなら。投函を済ませた私は名前も知らない交差点を渡った。

さて、これからどうしよう。とりあえず気分を味わうために美容室に行くのもいいだろうし、ラブストーリーを上映している映画館に足を運ぶのも悪くない。甘い甘い食べ物を食べるのもいいし、植木鉢を買うのもいいだろう。まさか終わった後まできちんとマニュアルがあるなんて今まで考えたこともなかった。私はすべきことの多さの前に心が挫けそうになった。悲しくもない私は今日は自分のベッドの上でごろごろと転がっていたい。

「この髪の毛にまつわる記憶をなくしてしまいたいから、ショートヘアに」

「これでもかって位に泣いて忘れたくて、大人一枚下さい」

「もう太ったって構わないの、チョコレートパフェとキャラメルパフェを」

「これから一緒に生きていこうと思って、この枝振りのいいベンジャミンを」

誰も、私のことなんて知りたくもないだろうし、知って欲しくもない。明日相手に手紙が届くのだろうから、それまでは私だけが恋人のいない女になり、相手は恋人のいる男になる。私が今日誰かと寝ても私のは浮気ではないけれど、果たして相手が誰かと寝たらそれは浮気になるのだろうか。手紙で別れを告げても、そこには届くまでに然るべき時間のずれがあるのだから、なんだかとても曖昧な別れの気がする。別れ日は今日になるのだろうか、明日になるのだろうか。祝う必要のない日は記憶しておく意味もないのだろうか。

 

 

「ちえ子さ、別れられないよ。俺たち」

「何を言ってるの?」

仕事からの帰り道、私は落ち葉の積もる道を歩いていた。

「だからさ、付き合ってないんだから別れられないって」

「そうですか……」

「ちえ子はそそっかし過ぎるよ。そそっかし過ぎて、凶暴に感じるよ」

「はい……」

恥ずかしさのあまり、落ち葉の上で足踏みをくり返していた。しゃりしゃりと鳴る落ち葉に私の身体の熱で火が点いてしまう程に身体が熱かった。

「『三木君へ、突然の手紙ごめんなさい。昨日会った(これが届く頃には一昨日になっているはずですが)ばかりだからね。実は前から話そうと思って話せないでいたことがあります。ここまで書いたら鋭い三木君のことだから分かるかもしれません。三木君は私にとても優しかったよ。でも……』」

「もういいでしょ? ごめんなさい。間違えました」

「聞かなきゃ駄目だよ。聞いて少しは反省しなさい」

私は水族館のサメのように道の真ん中をぐるぐると回っていた。その道は痴漢や狩りが多いらしく、一メートル置きに『この道、注意!』と立て看板が置いてある。だから住民の殆どは隣りの道を使っているみたいだ。道路はさながら空き地で、缶や吸い殻、カップラーメン容器や粗大ゴミで溢れている。

「『でももう私たちは恋人ではいられないよ。私には好きな人がいます。三木君は私以外に寝てる女の子がいるでしょ? たまに会って、ファミレスで夜中にご飯を食べてももう前みたいに嬉しくなったりできないの。三木君が大好物のたらこのパスタを注文しないだけで、私は『ああ、三木君は昨日もここに来て、きっとたらこのパスタを頼んだんだ。だから今日はミックスピザなんて頼んでいるんだ』と思ってしまうのです。『最近イメチェンしたね』とこの前三木君は言ったよね。私はイメチェンせざるを得なかったのです。三木君のもう一人の女の子と私の服装の趣味は似ているみたいだったから。』ちゃんと聞いてる?」

「聞いてます」

「じゃあ続けるよ。『見えない誰かと三木君が二人で過ごす夜を想像するのには疲れました。私はきちんと三木君と別れて、好きな人に告白しようと思います。会って話さないでごめんなさい。もう一緒に眠る夜がないなんて、起きる朝がないなんて、悲しいです。さようなら ちえ子より』」

「最後まで読むなんて酷いね。今さ、私がどんな姿だか想像できる?」

「分からない」

「寒空の下で泣いてるのよ。手紙を書いてから今日まで泣いていなかったのに。自分で書いた手紙を読まれていたら、いきなり客観的になっちゃった。で、悲しくなった。畜生」

「ちえ子さ、大切なことを忘れているよ。俺が今、手紙読んでいるんだよ。ってことはちえ子が届けたはずの男にこの手紙は?」

「届いていない」

「そうです。考え直すなら今だよ、それともこれをきっかけに俺と付き合ってみるかい?」

「間違いから始めるの?」

「とりあえず、うちに来なさい。慰めてあげるから。昔と同じアパートに住んでるからさ」

私の足元の落ち葉は踏み過ぎであらかた粉々になり、調味料のバジルみたいになっていた。冷えた空気がコートの隙間から肌に侵入する。このまま暖色の街を越えて、家には帰りたくなかった。私は誰かが暖めた後の部屋に行きたかった。それが知っている人なら安心だ。裸になって温めあう必要はない。私は雪山で遭難した訳ではないから、散漫にじわじわと取り戻せばいいのだ。

 

 

彼の部屋には学生の頃何回か遊びにいった。あれからの四年間に彼と何回位会っただろうか。二年振りってこともあったし、二ヶ月振りなんて時もあった。けれど学生の頃のようにお互いの家に行ったりはしなかった。きちんと待ち合わせをして、外でご飯を食べて、電車のある時間にはさようならを言った。忘れた訳ではない、私は十年前に訪れた場所だろうと彼の部屋になら辿り着く自信があった。そういう場所が一年に一個ずつ位は増えていく気がする。とは言え私が八十歳まで生きていたら地図もなく八十の場所に辿り着けるだろうか。きっと無理だろう。私は意外にも青春の直中にまだいるのかもしれない。

戻るのはあまり好きではないけれど、駅まで戻って踏切を渡る。彼と私は同じ駅に住んでいる。彼は八年も同じ部屋に住み続け、私は彼を思い出す訳でもなく、二年前に引っ越しをした。彼と同じ場所に住んでいるのに引っ越して一週間後のトイレットペーパーを買っている最中に気が付いた。踏切を越えて、右折し、銭湯の前を通り、直進する。煙草の自動販売機が見えたら最初の角を左に進む。そうすれば彼の部屋に着く。駅から歩いて十五分の距離だ。けれど直進を続けても銭湯は見えてこない。踵の高い靴を履いていたので実際の距離よりも進んだ気になっているのだろう、私はそのまま直進を続ける。現地集合のキャンプの日にちを間違えて教えたことがあった。彼は静岡県から電話をしてきて、暢気な声で「お前、あとどれ位で着くの? まだ誰も来てないんだけど」と言った。「ごめんなさい」と私が言うと一言で理解したらしく、「で、俺はあとどれ位待てばいいの?」と聞いてきた。「大体二十四時間かな」と小声で答えると、「なんだ、二十四時間ね。着いたら電話しろよ」。私は何故だか彼に対してだけ、間違える。アルバイト先では「社員になって欲しい」と必ず言われたし、友人たちも私をしっかりした女の子だと思っている。もう誰とも付き合いたくないな。冬眠と共に始まる週末、鳴らない電話に脱がされないブラジャー。独りに慣れるための修行にも似たベッドの上でのビデオ鑑賞。一人用の野菜、一週間に一度しか回らない洗濯機。私の部屋を掃除しようと思ったら、必ず干涸びたたらこの粒がテーブルの下や本と本の間や、体重計の裏なんかから出てくるだろう。タイムカプセルと化した私の部屋は身体にも心にも毒が強すぎる。足が痛くなってきた。もう三十分は歩いているはずだ。

「もしもし、着かないのよ」

「思い出せないの?」

「銭湯の前の道だよね」

「そうでした。でもあの銭湯は潰れたよ。迎えには行かないぜ。行きたいのは山々だけど、かわいい子には旅をさせろってね」

「寒いの。ここはね、二丁目二十三って書いてあるよ」

「待ってるよ。待つのには慣れてるからね、何時間かかってもいいぞ」

「じゃあ人に聞いてみるよ」

「何かの映画でさ、迷って、人に方向を聞いた主人公がさ、川に落ちて死んでましたよ」

 

 

それから私は追加で一時間迷った。ようやく記憶に残る銭湯に着いたので、入ることにした。身体はがちがちに冷えていたし、自分の身体がいちょう臭かった。入浴料の四百三十円とタオル代百二十円を払って、湯船に浸かる。南新宿にいい銭湯があると聞いて、一緒に行った。私が案内して着いた先には元銭湯があった。国道の横には剥き出しの湯船と富士山のタイル絵だけが残っていた。蛇口も錆び付いてはいたが残っていたので、捻ってみると不吉なぼこぼこという音の後、黒い水が流れ出た。湯船には雨水が溜まり、緑色に輝いている。富士山には車のテールランプが映り込んで、お手軽な神々しさをばらまいていた。「ちえ子が連れてきたがった銭湯ってここ?」「そうだよ。朽ちた銭湯なんて見たことなかったでしょ?」「お金はどこで払えばいいのかな? ちなみに」銭湯に行くからと昨日から風呂断ちしていた彼は、頭を掻いてそう言った。「ごめんなさい」「ちえ子にしてはひねった間違いだから許してやる」。私は今まで彼に会った回数分だけ「ごめんなさい」と言っているのかもしれない。その後、バスタオルを首から下げて居酒屋に行ったんだっけな。帰り道寒そうな酔っ払いが道端で倒れていて、そのおっさんにバスタオルをかけてあげた。私が行こうとしていた銭湯は、その後飲んだ居酒屋の裏側にあったのだと後日友人に聞いた。しかし異性と銭湯に行ったって面白いことなんてないのに、私たちは二人で何をしたかったのだろう。根拠がないだけに、やたらに青春っぽい感じがした。三木君とは一度もお風呂に一緒に入らなかった。三木君は男の裸を不完全な物体と定義していたからだ。脱衣所で煙草を吸いながらコーヒー牛乳を飲んでいると、夜の十時も過ぎているのに、小学生位の女の子がチェック柄のパンツにピンクのキャミソール姿でテレビを見ていた。テレビは高い位置にあり、角度も悪く画が歪んで見えるらしく、「ブスー、ブウスー」と今一番人気の女優を指差して囁いていた。

「お父さんに頼まれて買いに行ったことがあったら教えて欲しいの。この辺にさ、煙草の自動販売機あるの知ってる?」

「知ってる。ピースとわかばと二つ知ってるよ」

「うーん。二つか。キャメルが売ってるのはどっち?」

「どっちでも売ってる」

「じゃあキャスターは?」

「キャスターもどっちにもあるよ」

「じゃあ近い方教えてもらえるかな」

「近い方って言われてもね、微妙なんだよね」

女の子は突然大人びた声を出した。危うく騙されるところだった。もう少しで、私は道端で凍死する羽目になっていただろう。

「そう、微妙なんだ。じゃあ私は微妙じゃない自動販売機探すよ。ありがとうね」

「微妙じゃない自動販売機なんてないよ。この銭湯だって微妙だし、お姉ちゃんのその洋服だって微妙だよ」

銭湯を出たところで、彼がさっき銭湯は潰れたと言っていたのを思い出した。私はもう一度駅まで戻って、最初からやり直すことに決めた。銭湯を出て左を向く。耳を澄ませても電車の通過する音は聞こえない。私が左に進もうと決めたのは左から駅前にあるスーパーのビニール袋を下げたおばちゃんがやってきたからだ。湯で膨らんだ足に踵の高い靴は窮屈すぎて、歩幅を小さくして歩き出した。煙草を八本吸っても駅にはたどり着けなかった。涙が出てきた。住んでいる駅でこんなに迷い、挙げ句素敵な場所を見つけるでもなく、時間だけが過ぎてゆく。肩にかけているカバンの重さに腹が立って、外灯の下で不必要な物を取り出した。中身の入っていないお弁当箱、予定の書かれていない手帳、使い終わった乾電池、仕事先でもらったマニュアル本。ゴミ箱は見当たらなかったので、私は誰も見ていないことを確認した後、道端にそれらを置き去りにして逃げた。私はゴミの日にたまには自分の細やかな気遣いを見せようと思い、玄関にあったゴミを捨てに行った。ついでに美味しい朝ご飯を作っている最中に彼は起きてきた。煙草を吸いながらぼんやりしていた彼が「あれ、玄関にあったゴミ袋知らない? 二つあったと思うんだけどな」と言ってきた。「捨てといてあげたよ。今日ゴミの日だったから」と私は包丁を手に持ったまま優雅に微笑んで答えた。「ちえ子さ、間違ってるよ、朝から早速。あれは友達の結婚式に着ていくスーツをクリーニングに持っていくために出しておいたの。今残っている方が本当のゴミだぜ」「ごめんなさい」私は手元の卵が焦げるのも忘れて、区役所に電話をかけた。しかし一度出したゴミはもう回収できないと落ち着いた声で言われた。私は電話機を元に戻して彼と向かい合ってソファーに座る。「今から新しいスーツ買いに行くの付き合ってよ」「私がお金は払います」。結局部屋には本当のゴミと、新たな焦げて使えなくなったフライパンというゴミが残り、彼の給料一ヶ月分のスーツは雲隠れした。「今回のはちえ子悪くないぜ。俺、ゴミをクリーニング屋のビニール袋に入れて、洗濯物をスーパーのビニール袋に入れてたからなあ。まぁちょっと見れば分かるはずだが」

駅に着いた時には終電も終わっていたし、生乾きだった髪の毛は気持ちの上では凍る寸前の冷たさだった。街は夜から夜中へと移動し、そりゃあ電車の走る音が聞こえない訳だ。私はコンビニでコーヒーを買って立ちながら煙草を吸って、呼吸を整える。窓ガラス越しにコンビニの店員と目が合う。「こんな夜中に外にいるなんてお互いろくなもんじゃありませんね」という視線で返す。ここから始めるのだ。電話から三時間半が経過していた。寒いのに汗は出るし、足先だけ火照る程に痛いし、銭湯で温まったのは気のせいだったのかもしれない。靴を買おうにもどこの店も閉まっている。私は頭の中でシュミレーションを始めた。あの日を思い出せ、最初に一人で彼の部屋を訪れた日だ。まずは南口を出て、線路伝いに直進する。行き止まりになったら、左に曲がる。ここが小さな商店街の入り口だ。そこから三つ目の小道を右折する。はて、二つ目だっただろうか。確か、あの日も迷ったのだ。あの日は確か、二つ目を選んでしくった。中華料理屋が角にあって、私と彼が付き合ったら夜中にお財布だけ持って食べにくるのかななんて想像したはずだ。だから今日行くべき道は三つ目。後は簡単、直進、煙草の自動販売機を左折だ。これで着く。しかし自動販売機が撤去されている可能性もある。あの日、私はスカートをはいていた。当日丁寧にアイロンをかけた赤いスカートを私は仰々しい家の柵に引っ掛けてしまった。尻の部分に大きくあいた穴からは水色のパンツが見えた。あの自動販売機の斜向かいの林さんの大きな家だ。林という名前は憎々しいものとして今でもしっかり忘れていなかった。その横には古井出さんの木造作りの家があった。古井出さんの家には鋭利な部分は全くなく、私はあの日、住むならこういうまるっこい家でなきゃと穴のあいたスカートを揺らしながら思ったのだ。そこからちょっとの場所に彼のアパートはあった。アパートの前には、私を待つ彼が立っていた。

 

 

アパートの前には、私を待つ彼が立っていた。

「あれからもう四時間だぜ。どうしたらこんなに迷えるのさ」

「どうしてでしょう。でも思い出したらちゃんと着けたよ。林さんの家」

「水色のパンツ、か。俺、寒くて死にそうです。早く部屋に入ろうぜ」

「ずっと待ってたの?」

「ずっとずっと待ってたよ。でも、ちえ子の最後の間違いは結構気に入ったよ」

「ねぇ、慰めてくれるって言ってなかった?」

「じゃあ、早速付き合いましょうか? でもこれってちえ子は浮気ってことになるのかな」

「ね、私もそういうの気になってるの。でも今日は手紙が届いているはずの日で、ということは浮気にならないのかもね」

「でもさ、今日郵便局の人が届けるべき手紙の中にちえ子の手紙は入ってないよ。まぁいいや。それよりさ、間違えていいことの最中に俺のこと三木君って呼んだりしないでくれよ」

「そしたら一回位、私の間違いを怒ってよ」

――(了)

2007年10月5日公開

© 2007 竹之内温

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