私に気づいて

竹之内温

小説

8,886文字

ラブホテル街ととなりあわせになった動物園で働く「私」。恋人みたいな親子や、ずっと孤独だった新種の生物、壁のないトイレ。不思議な空間の中で、「私」の孤独が尖っていく。

私の生活は三十分単位で動いている。きっと会社のタイムカードのせいだろう。動物園の受付でパンダのピンバッチを胸に付けたトレーナーを着て、アルバイトをしている。そのトレーナーはゆったりとしていて、殆ど首から下は着ぐるみと一緒だ。相手に全く性別を感じさせない。動物園の受付に確かに性別は必要ないだろうが、首から上だけにはそれを要求させらせる。さっぱりとした化粧、束ねた髪の毛。そして女性的な微笑み。それはとびっきりの笑顔であってはならず、さり気ない微笑みでなくてはならないと上司に教えられた。

動物園の平日は幼稚園や小学校の団体が客の殆どで、後はもちろん暇な人達だ。大学生や、老人、一目で不倫と分かるカップル。余興として動物園に来ているのなら、早々にラブホテルに行ってくれればいいのにといつも思う。しかし動物園の真裏には動物園の敷地以上のホテル街が広がっているので仕方ないのかもしれない。ホテル名は動物に肖ったものが多く、『人間動物園』『獣みたいに!』に始まり、『うさちゃん』『なまけもの』と何の捻りもないものもある。ホテルでセックス前の男と女が身体を洗う水も動物園の動物が飲む水も、同じ水道管を伝って地上にくる。セックスの後の男の精液も動物の尿や糞も、同じ排水溝を伝って地下に潜る。不倫をしている男は大抵横柄で、女はよく謝る。私が「お楽しみ下さい」と言っただけで「ごめんなさい」と言うのだ。何もセックスを楽しめと言ってるんじゃないのだから、と私はすぐに斜に構えてしまうが、そういうカップルには相手にそうさせる面倒さが漂っている。

動物園の受付のアルバイトは驚く位にアルバイト代が安い。時給八百円で、一日七時間労働。お金の面では考えられない程に報われないが、年間入場フリーパスが貰える。

 

恋人は私が地味な仕事先で地味な仕事をしていると安心しているが、それは間違っている。私は自分がアブノーマルな人間になってゆくのを日々感じて過ごしている。一日に見る人間と動物の数が殆ど一緒で、一日に聞く人間と動物の声が殆ど一緒ということがどんなだか全く分かっていないのだ。私が会社に勤めていて、スーツを着たサラリーマンたちと一緒に過ごしている方がどれだけ安全だろうか。したってせいぜいが浮気だ。会社の中でだったら誰かの身体に惹かれることはあっても、自分の身体に飽きたりはしなかっただろう。自分が街を歩いている時、ふと猟をする体勢を整えつつある瞬間を最近感じる。

 

P3

あなた達の一体誰が私の名前を呼んだの?

 

無言

 

仕方なしに質問を変える。

あなた達の一体誰が答えてくれるの?

 

 

「さっこ、今日は何が食べたい?」

「うーん、肉」

「素材だけ言うのやめてよ。肉とか魚とか葉っぱとか」

「だって、料理って素材が大切じゃない。和食の揚げ出し豆腐だって、中華料理の麻婆豆腐だって豆腐を使っているのよ」

「僕たちは食事を楽しんで食べるんだよ。だから素材ではなくって、ジャンルを選ぶべきなんだよ」

「ジャンルねぇ」

「さっこは動物園で働くようになってから、面倒な質問をするようになったね」

「面倒って? もっと上澄みみたいな話をしていればあなたは満足なの?」

藤堂はしかめっ面で私の質問に答える。言葉の代わりに煙草の煙を吐くだけの何も生まない時間が流れる。二人でいるだけで得るものがある気分になってしまうだけに、一人でいるよりも二人でいる無意味な時間は全く救う術がない。私たちは結局その日、コーヒーを飲んでクッキーを齧りながら近況報告をしただけで別れた。私は自分がハムスターになった気分で両手にクッキーを持ち、前歯だけを使って丁寧に齧った。頬にクッキーを溜めてみたが、唾液で溶けたクッキーは甘い液体となって喉を通過した。私がハムスターになるには唾液が多すぎるのだろう。残念なことだ。自分の身体の表面的なことを変えるのは簡単だが、身体に押し込められた臓器の機能や量や時間を変えるのはとても難しい。髪の毛を切っても、それで汗の量が変化する訳ではない。

「藤堂君さ、私と一緒にいて楽しい?」

「楽しい時もあるし楽しくない時もある」

「付き合うってなんだろうね」

「習慣だろ……」

 

P5

「冷たい」と言葉にする人の冷たさを無視してはいけない。要注意!

 

 

ありくいのベンチの前で、中年の女が伸し餅みたいに寝ている。食べられない餅には存在理由なんてないし、伸びているだけ苛つく。間の抜けた動物やぬいぐるみを人は可愛いと言うが、人間にかぎって言えばそれはただの間抜け、果ては損をして生まれてきたということになってしまう。それにしても口を開けて気持ち良さそうにしている。

もちもちした食べ物は好まれるし、もちもちした肌の女もやはり好まれる。しかしそれはあくまで食感や質感の問題であり、全体的な雰囲気の話ではない。餅は餅らしく受け身を取り続けなくてはならないのだ。他人に頬張られたり、抓られたり、こねくり回されたりするためのものだからだ。餅、私は餅が大好きだ。好きすぎて毎日夜食に一個食べていたら、自分が餅みたいになってしまった。だから私は伸し餅みたいな中年女を馬鹿にしている訳ではない。同類のよしみを感じただけだ。私には誰かを馬鹿にする権利などない。

動物園の裏に広がる快楽と混乱に比べると、伸し餅おばさんは素敵に一人を楽しんでいるように見える。やぼったいピンクのカーディガンもどこか夢見心地だ。私の掌を見てみるとさっきまでは何十枚かのチケットの半券が握られていたはずなのに、それが餅に変わっていた。私は伸し餅おばさんの座っているベンチに近づいて、開いた口の中に餅を落とした。おばさんは目を閉じたまま口をごにょごにょ動かした。

 

P9

あの日は終わった。あの日として終わった。何度も何度も同じ話を繰り返したとしても、あの日の続きはないのだ。『何処でもない場所』に私は行きたい。

 

 

「昼の休憩って何時からなんすか?」

「一時ですが、それが何か?」

「一緒に昼飯食いましょう」

私たちが交わした会話はそれだけだ。自分がしている最中にホワイトタイガーもしているのかもしれないと思うと、少し興奮する。動物園の猛獣館の裏手には何故こんな場所に作ったのか不思議な位ひっそりとトイレが建っている。殆どトイレとして使用されることのないトイレを、清掃員は素通りし、せいぜい社員やアルバイトがこっそり煙草を吸いに来る位だ。四年前に猛獣館を増築した際に簡易トイレ代わりに作ったのかもしれない。女子トイレの一つには壁がなく、座ると目の前にホワイトタイガーの檻が見える。檻の裏側だし、トイレ自体が木や草に覆われているので人間の視線に曝される心配はない。トイレをしながらホワイトタイガーが見えるなんて、目の前に未来が見えているのと一緒だ。だからだろう今までクレームを言ってきた人は一人もいない。私は迷わず彼を女子トイレへと導き入れた。彼は私の制服を次々と脱がし、乳児を載せるための引き出し式のベッドを引いて私の制服をそこに載せた。彼はこういう場所でするのはきっと初めてじゃないんだなと私が思ったのは、相手の上下揃いの青い作業服に始まった勘ぐりのせいかもしれない。彼は私の下着をずらし胸を舐め回す。私はその間もホワイトタイガーがぐるぐると歩き回っている姿を見続ける。トレーナーを脱がされると私からもそれなりの女らしさが飛び出す。私は彼の首に手を回し、トイレの床を見つめる。トイレの床は当り前に汚れているが、これが高級ホテルの室内だったとしても、行きずりの相手と感じる興奮や侘しさは同程度なんじゃないかなと思った。彼の愛撫は場所と比較するととても濃厚で、突っ込んで果てる以外の人間的な装飾がふんだんに盛り込まれていた。例えば胸や耳へのキス、指先での摩擦、視線でのやりとり。私は職場でそれもホワイトタイガーの目の前でしているこの行為がセックスというよりも、交尾に近い気がしてわくわくしてしまった。しかし彼が私の膣内で射精してくれないことには交尾とは呼べない。断じてこれは浮気ではない。私は最中に牙で自分の身体が切り裂かれる所を想像していた。たった一枚のガラスが今、割れてくれれば私はホワイトタイガーと交われる。

彼は私を後ろ向きにして突っ込んで、「聞こえますか?」と言った。「何が?」と私が聞くと、「あなたにだったら聞こえるはずですよ」と囁いた。彼の作業服の膝は擦り切れていて、手首の部分はぬらりと黒く光っていた。その間も彼は様々な速度で私を離さなかった。

「叫び声しか聞こえない」

「俺には叫び声なんて聞こえないよ。あんたここが何処だか忘れちまったのかい?」

彼の精液が流れ出す瞬間が分かった。しかし私はそれに気が付かぬ振りをした。それは藤堂に対しての幾ばくかの愛情だ。

私は掌で受け止めた彼の精液を眺めながら、耳を澄ましてみる。過去の恋人は私が想像力を働かせようと目を閉じるのをある日遮った。

「駄目だよ、ただ目を閉じただけじゃ意味がないよ。目を閉じる前に自分の立っている場所、前後左右の空間を意識しなきゃ。じゃないと君が目を閉じた先の世界は暗闇だけが広がっていて迷ってしまう。だから目を閉じてから落ち着くんじゃなくて、目を閉じる前に落ち着いてそれから目を閉じるんだ」

過去の恋人は私が目を閉じる前に知らない男の精液を眺めていると知ったら、残念がるのだろうか、呆れるのだろうか。意識を床に持っていき目を閉じた。ホワイトタイガーのモモちゃんの叫び声、相手はやはりホワイトタイガーのさとしだろうか。さとしという名前は、園長の長男が生まれて一週間目にさとしがこの動物園で生まれたので、園長の一存でさとしと命名されてしまったのだ。どうでもいい話を思い出してしまった。一つの記憶を引っ張り出すと、全く関連性もないのに記憶という一括りで今に蘇ってしまう。ここは動物園のあまり使われてないホワイトタイガーの見えるトイレで、サバンナでもないし、サーカス小屋でもない。

「あんたにはそれが限界?」

目を開けると声だけ残して男はいなくなっていた。掌の精液を確認すると先程までの白濁ではなく、透明でぬらりと光るものだった。

ホワイトタイガーはぐるぐる回りながら歩いている。彼は一度もホワイトタイガーのことに触れず、視線を移しもしなかった。

私はずっと暗闇の中にいる。だから目を閉じたって全然怖くなんてない。

 

P8

階級の差は女の方が感じやすい。受け身だから。労働者のセックスは執拗で甘くて、長い。欲望に素直でそしてグロテスクだ。

 

 

月曜日、午後三時半動物園内のカフェテラスのベンチに座っている青年の格好は、上から下まで高級そうな黒色で固められている。痩せ過ぎの身体にぺったりと顔にくっついた髪の毛、苛立たしそうに繰り返す瞬き。瞬間的に余興としてここに来たなと思った。私の読みは当たったらしく、掃除をする振りをして五分間位観察していると、トレイを持った女が男の前に座った。女は授業参観に行くような格好をしている。二人とも痩せているので、幸が薄そうに感じられる。きっとここが動物園で、私は動物園でアルバイトをしているから動物の圧倒的な食欲に感化され過ぎているのかもしれない。身体の大きさも美しさを保つという考え方も忘れてだ。二人の前に置かれたトレーにはホットドックが三本と、フライドポテトが二つ、たこ焼きと唐揚げが一つずつ、ペットボトルのお茶が二本。細すぎる二人の前に並べられた食べ物の多さに私は驚き慌ててしまう。私はちりとりの中身を地面にぶちまけて、再び掃除をしている振りを始める。私がほうきでゴミを掬ってしまうまで二人は食べ物を口にしなかった。男が煙草を一本吸っただけだ。女はそんな男に寄り添うでもなく、怒るでもなく座り心地の悪いビーチチェアの上でまんじりともせずに座っている。私が園内の掃除をちょっとサボった所で誰も気が付かない。気付く程しっかり働いている人間もいないし、人数も足りてない。私は五十メートル位進んだ所で再び掃除に没頭している振りをする。

男はホットドックのパンに挟まったレタスを契って口に運ぶ。女は男が手を出したホットドックのパンの端っこを摘んで、それを更に大豆位の大きさに砕いて口に入れる。動物たちに二人の人間的な葛藤が伝染しないといいのだけれど、と溜め息が洩れる。二人は二人で何をしに来たのだろう。結局二十分間の間にホットドック半分とポテトを一本食べただけで二人は席を立った。ペットボトルのお茶は女がカバンの中にしまっていた。

「何か見たいのある?」

女が男にそう聞いていた。そう女が男に!最初から最後まで男は恋人に対して一切の優しさを振る舞っていない。

「ないな。それより俺、薬局でワックス買いたい……」

ここが何処だか分かっているのだろうか。皆は「見たいのある?」とは聞かない。「何から見ようか?」がここでの正解だ。私は腹立たしまぎれにちりとりの中身を男の顔にかけてやろうと二人に歩み寄ったが、二人の前に行き、いざちりとりを持ち上げるとそれまで必死に集めたゴミがなくなっていた。息み過ぎて二人に近寄る最中に落としてしまったのかと後を振り返ったが、地面には落ちていない。

「ここは満足に食べられる場所って聞いたけど」

「何が?」

「質問ばかりして、ちっとも変わっていないね」

「私のこと知っているの?」

「また質問かぁ。君は僕を覚えていない?」

女はこの時だけ、男に寄り添う姿勢を見せた。苛立たしまぎれに私はその場で地団駄を踏み、二人に中指を立てた。

 

P10

Vulnerable 傷つき侵されやすい。攻撃されやすい。

君にぴったりの言葉だよ。自分でもそう思うでしょ?

 

 

アパートに帰ると、鍵をかけたはずのドアが開いていた。私が中に入るとこの前トイレから逃げ出した男がテーブルの前に座っていた。テーブルにはいちごみるくのパックが置かれていた。彼はビールか缶コーヒーしか飲まないと勝手に思っていたので、侵入されたことよりもいちごみるくの存在に驚いてしまった。

「君はコーヒー牛乳でよかったかな?」

「うん。今日も私たちするんですか?」

「質問をする前にまずは自分で考えるんだよ」

彼は相変わらず上下揃いの作業着を着ている。私は制服を脱いで新しく買ったワンピースを着ている。自分でも何故それを選んだのか不思議に思う程如何わしいデザインをしている。胸の部分には大きく切り込みが入っているし、一歩踏み出す度に太腿が剥き出しになる。

「私はセックスをしたいんじゃなくって、安心がしたいだけなの」

「ふーん。それなら君はまず僕の名前を最初に聞くべきだったよ」

「今からじゃ遅い?」

「どっちだと思う?」

「遅いことなんて絶対にない」

彼は作業着をひょいっと脱いだと思ったら、それをくるっと回して、その中から蛇口を取り出した。私の部屋の壁に彼は蛇口をくっつけた。白い壁に蛇の舌みたいに赤い色をしている。彼は再び作業着を着て、しゃーっと笑った。

「これは蛇口だからね、もちろんひねれば水が出る。好きなだけ水を飲むといいよ」

「ホテル街と動物園と同じ水道管を伝ってここにくるの?」

「その質問なら答えてあげよう。『ノン』だよ」

私は如何わしい洋服に飽きて、ワンピースを脱いだ。彼に見て欲しくて代わりにパジャマ着た。彼は部屋の中にはもういなかった。「逃げたな」心の中でそう呟いた。ついでに「おっと、名前は?」と続けてみたが彼は戻ってこなかった。

私は限りなく正方形に近い湯船に浸かって、煙草を買い忘れてしまったことを思い出した。もう十一時は過ぎているので、コンビニまで買いに行かなくてはならない。久しぶりに夜の散歩も悪くないかと腹をくくって、風呂上がりなのにブラジャーを着ける。髪の毛が乾くまで歩くと決めて、ポケットにライターと小銭を入れる。彼にもらった蛇口から水を出してペットボトルに入れて出発する。風が夜に響くいい夜だった。

コンビニの駐車場で銀色の物体を見つけた。ビニール袋かと思い大して期待せずに近づくと、それは生き物だった。ぱっと見た感じはフクロウにそっくりだったが身体のどこを探しても肝心の羽が見当たらない。目は二つあるし、嘴も下向きに鋭利に尖った例の型をしている。首を回してもらうとそれは百八十度回転した。どうやら私は台東区の真ん中で新種のフクロウを見つけてしまったらしい。ずいぶんよくできた話だとは思う。動物園に勤めている人間が新種を発見するだなんて。変なIT社長見つかっていたら今頃フクロウはオークション行になっていたはずだ。私は自分の名前と、今たった一匹で世間を渡り歩くのがどれだけ厳しいかを説明した後、もしよかったら動物園に行かないかと聞いてみた。自分の番を探すことを条件に新しい生き物は動物園行を承諾してくれた。番の好みそうな場所を尋ねたが、それは全く見当がつかないらしい。私は新しい生き物を肩に乗せて散歩を続けた。新しい生き物は私が煙草に火を付けると、煙草は吸わないでくれと言った。方向感覚が鈍るらしい。しかしそもそも路頭に迷うあなたを救えたのは、私が昔から煙草を吸っていて、買い忘れた煙草を買いに来たからだと伝えた。それならば止む終えないとこちらを向いて新しい生き物は告げた。

散歩の終わり、名前は何がいいか。本名や欲しい名前があるならば上に掛け合ってみると私は言った。

「名前なんていらない。身体だけで充分だ」

 

P15

言葉は誰のものでもない。

いいえ、時にそれは誰かのものになると思う。

それじゃあその言葉、君にあげるよ。

 

 

園長は私の連れて行った新しい生き物を見ると大喜びし、私に新しいパンダのバッチをくれた。私のトレーナーには二つのバッチが素敵に並んでいる。園長に新しい生き物の番を必ず見つけ出して欲しい、このままではきっと寂しいだろうからと伝えると、「寂しい?」と疑問形の顔をして、トレーナーの上からでも分かる大きな腹を細波みたいに動かした。園長の肩に乗って去って行く新しい生き物の銀色の体毛は光を反射し、世界の中心みたいだった。やはり羽はどこにも見当たらなかった。

受付で切符を切って二時間目、ちょうど十一時三分に昨日見た変なカップルがやってきた。券売機の様子を見ると、やはり女が二枚のチケットを買っていた。男は意に返さないらしく、着ている様服の袖口を弄ったりしている。私は女が出した二枚のチケットをもぎり、半券を渡そうとすると以外にも男の方が受け取った。二人が歩き出すのを見届けて、私は受付を別のアルバイトの女の子に代わってもらい、ほうきとちりとりを持って二人の追跡を始めた。今日こそは太々しいあの男にゴミをかけてやろうと息み、中指を立てる練習を何回かしてみる。あいつの髪の毛はペッタリとしているから、きっとゴミをたっぷりと吸収するだろう。

二人は園長が慌ただしく作った新しい生き物の柵の前で立ち止まった。新しい生き物の名前は園長の長女と同じ、さとみとなっていた。私は新しい生き物にウインクを送り、歩き出した二人に続いた。新しい生き物はどうやら眠っているらしかった。二人は昨日と同じベンチに座った。そして女は財布を持って売店へ小走りに向かった。男はポケットから取り出した煙草に火を付けて売店にいる女を眺めている。まさか今日はトレイを自ら進んで運ぶのかと思ったが、何のことはない、ただぼんやりしているだけだった。私は開園二時間目で汚れていない地面にちょっとした穴を開けて、その削りカスをほうきで掃いて、ちりとりに詰め込んだ。女は昨日とは違った食べ物を買っていた。クレープを四枚だ。どう考えたって甘い物が空きそうな二人ではない。私の思った通り、二人は生クリームを人差し指でちょろっとすくって舐めただけだ。会話あってのクレープだろうがと腹が立ったが、まだ早いと押し止まり、新しい穴を地面に開けた。二人はクレープを三個と八分の七の残して席を立った。私は二人に歩み寄った。

「あんた何で女に買わせるだ買わせて、何故食べない?」

「腹が減ってない」

「だったら彼女にそう言えばいいのに」

「君は前提がまず間違っている。僕たちは恋人ではなくって親子だ」

「あなたお母さん?」

女は恥ずかしそうに頷いた。持っているカバンの取っ手の部分をぎゅっと掴んで。

「じゃああなたたちは恋人みたいな親子? 親子みたいな恋人……。恋人みたいな親子の方がいいのかな。何となく」

「君のいけすかない視線だと、親子すらみっともない恋人に見えるんだよ」

「はい……」

「でも許してあげる。新しい生き物を見落とさなかったからね」

それだけ言うと男は真っ直ぐに歩いていった。女は私に小さな声で「ごめんなさい」と言い、男を追いかけた。私はあの二人、ただの不倫カップルなんじゃないかとも疑ったけれど、今日は男の言葉を信じてみることにした。

 

P25

 

だったら沈んでしまえばいい。怖いことなど何も無い。

数えなければ待つ時間もない

 

 

「幾ら?」

スーツを着てだらしない笑顔を私に向ける男が目の前に立っていた。その頭の上、遠くの方には燦々と輝くネオンライト。

「幾らって?」

「あんた娼婦だろ。そんな格好でホテルの前に立ってて。違うの?」

ホテル街の裏には忘れ去られた動物園がある。

「五万……」

 

2007年8月14日公開

© 2007 竹之内温

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