夕凪の部屋(7)

夕凪の部屋(第7話)

竹之内温

小説

7,580文字

美しく奇妙な母親のいる恋人の実家を再び訪れることになった真理子。恋人に聞いた母親の秘密を探るべく、台所に足を踏み入れてみると……。

彼が私のアパートに来て、かれこれ一週間後に連絡がある。ようやく撮影が終わったらしく、明日の午後一時に池尻大橋で会う約束をした。私と彼にとって午後一時という待ち合わせ時間はなかなか早いものだが何故そんな時間に会おうとしたのか理由は簡単で、池尻大橋でお茶を飲みその後彼の実家で夕飯をご馳走になるためである。

連絡を受けた日の晩はやはり上手く眠りに至らず、ベッドの中では彼の実家に買っていくお土産の事ばかり頭をちらつく。過食症の人の微睡(まどろ)みと同じように、食べ物が次から次へと姿を現す。たまに食べ物から記憶が蘇り、男の子と口づけをした後に食べたシュークリームの味だったり、別の男の子が最後の贈り物にアイスクリームを買ってくれた事なんかを思い出したが、食欲がなかったのでそれらの記憶はあっという間に部屋の暗闇に消えた。とにかく買っていくという行為が大切なのであって品物は何でもいいのだろう。何度も自分にそう言い聞かせる。ベッドの中独りで汗をかきながら何の参考にもならない狼狽(うろた)えから抜け出す為に、電気を付け冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ電子レンジで温める。音楽を聞いたり本を読んだり、何度も手に取った覚えのある映画のパンフレットを眺めたりするうちにようやくお土産の事を考えなくなった。 彼の母の前で私はあの時以降失った声を取り戻したい。それは、もちろん彼と私の将来への恐怖を打ち消す為の奮闘ではなく、私の女としての行く末を確かなものにするためだ。

「お待たせ」

彼は右手を振りながらこちらに向かって歩いて来る。

「その顔は撮影上手く行ったのね?」

「まあね。今回はなかなかいいのが撮れたと思うよ」

方向を確認もせずに国道二四六号線沿いを三軒茶屋方面に下って歩き出す。

「そういえば真理子に内容教えてなかった?」

「二十五歳で自殺すると決めた男の子が、その決意を友人の女の子に打ち明けて、その男の子にも女の子にも恋人がいるのに、その男の子が自殺するまでの一年間二人で一緒に住むんでしょ? それでその女の子は男の子が死ぬまでの記録をビデオカメラで撮影して残す、って所までは聞いたよ」

「大分変わったんだよ。結局自殺しようとする男と恋人と男の女友達とその恋人の四人で生活するって設定にしたんだよ。三人でどうにか自殺を食い止めようと協力しあう。蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた嫉妬や疑惑の中でね。一度だけ男と女友達はセックスをする。女は『これであなたが死ぬのは狡いわ』と泣き出す。最後はどうなると思う?」

「『死んだ事にして下さい』ってダイニングテーブルの上に置き手紙を置いてその男の子はいなくなるの。でも本当は三人に別々に手紙を残していて、そこにはいなくなる理由が別々に三種類書かれているの。どう?」

「何だ、真理子に相談してから脚本書けばよかった。そっちのが面白そうだな。その男の心は弱くて、自殺は止めるの。それも女の事で。男の自殺予告を中心に始まった友情は崩壊する。四人は慌てて引っ越すって話」

「でもそもそもその男の子はなんで自殺を考えたの?」

「なんとなくだよ。死ぬって決めたら日常が変わるのか、賭けをしてみたって感じかな」

「随分と軽々しい理由ね」

「映像に理由は必要ないからな。画面をどれだけ見させるかが重要でしょ?」

「そういうものかしら。まぁ観てから判断するわ」

「明日から編集始めないと」

「昭、何時になく今日は楽しそうね」

「完成したらもっといい顔してるはずだぜ」

車の騒音の真横を歩いているので、声量に乏しい私の喉は大声で話すうちにかさかさになってしまった。

「世田谷公園に行くの?」

「公園の近くにいい喫茶店があるんだ。そこでいいでしょ?」

「いいよ。何処に何があるのかよく分からないし」

「でもこの場所は真理子の実家からそんなに遠くないでしょ?」

「うん。池尻大橋は毎日の通学路だったけど、高校生の私には散策って発想がなかったのね。通過するだけの街だった」

「ここ左だから」

国道を逸れると車の音は背後に移り、ようやく丁寧に話が出来る。騒音の真っ直中での彼との会話はあっという間に忘れてしまうだろう。音の群れに対抗し得るのはたった数音で今を凌駕(りょうが)する言葉だけだ。つまり今の彼と私の会話では記憶には残らない。

彼が案内してくれたお店は世田谷公園を左側に更に直進した場所にあった。古い民家を改装して店舗にしたらしく、昔の住人の表札が掛けてあったであろう柱部分の石だけが四角く黒ずんでいた。一番奥の席に座り、コーヒーを二つとガトーショコラを注文する。

「そういや母さん張り切って、俺が家を出る時にはもう夕飯の下ごしらえしてたよ」

「結婚相手でもないのに頻繁に家に行くのは少し気が引けるな」

「付き合うのと結婚ってそんなに違うもんかね」

「私達はともかく、親にとっての恋愛と結婚の違いは南か北か位違うんじゃないかしら」

「何だ、それ。変な例えだな」

「今は自由恋愛の時代だもんね。昭は私でなくても女の人と結婚するつもりあるの?」

「結婚は考えてないな。甲斐性ないしね」

「映画があるものね。結婚してとは言わないから、映画撮って食べていける様になったら海外旅行にでも連れて行ってね」

「いいよ。好きな国に連れて行ってやるよ」

私は愛の告白をこんな形でしか伝えられない。未来の、それも想像しようのない場所に自分を置いてはそれでも懸命に伝えんとしているのだ。相手は意味を成さない囁きと受け取るであろう事は、もちろん分かっている。

運ばれてきたコーヒーを啜りながらガトーショコラを食べる。

「昭のお母さんケーキは嫌い?」

「好きだよ」

2008年7月14日公開

作品集『夕凪の部屋』第7話 (全8話)

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© 2008 竹之内温

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