その夏は人々の悶々とした気分と平行して過ぎた。普段は天気の事など話題にしない若者まで、物憂げな顔で明日の天気の予測などをしている。祭り気分は残り僅かな休みが減ってゆくのと同じ速度で停滞し、考えたところで仕方ないという嘆きはあの夏以来、人々が心を閉ざす原因になってしまったみたいだ。
「唐突ね。ちょっと待って、思い出してみる」
あの日、私の夏。一人でいた夏。待っていた。その日に限らずただ一人を待っていた。そんな必要も状況でもないのに、いつでも全てを捨てる準備をしていた。それが例え一時間の為だとしても、全てを捨てられるという思いを太陽光を避けながら反復していた。反復する事でしか、簡単な事を複雑化する事でしか希望を見出せなかったのだ。今では彼は私の恋人だが、反復するという悪しき習慣は続けてしまっている。彼のどこがそんなに好きなのかという一点を除いてではあるが。
「確かね、サリンジャーを読んでいたわ」
あなたを思い出すために、表紙の破れたその本を読むというよりも眺めてばかりいた。
彼は私の話を聞きたいのではなく、私の話を頼りに記憶をたぐり寄せている最中なのだろう。その本が『ナインストーリーズ』なのかどうか、聞いてもこなかった。
「あの日はね、久しぶりの晴天で、私はどうしてもキャミソールを着て出掛けたい気分だったの。だけど前の晩から読み始めた本の続きが気になっていたから、近くの川にキャミソールを着て、読みさしの本を持って行ったの。川の側には蚊がたくさんいて、本当にたくさんいて、私は首元やら手やら足の指先やらを大量に蚊に刺されて、結局五分とその場にいられなかった。だからすごすご家に帰って、本を読んだの。もちろん蚊取り線香を焚いてね」
「凄い記憶力だな。俺はその日、斎木と話をした?」
「どっちだと思う?」
「話をした気がするんだよね。でも思い出せないや」
「それ、私とちかちゃんを間違えているんじゃないの?」
私は口に出さぬと決めていた単語を口にした。癖で親指と人差し指を唇に持っていく。不安になると指で唇に何秒間か触れ、その場しのぎではあるものの、安堵感を得るのだ。その夏、彼がその女の子と一緒にいなかったのは知っている。試してみたのだ。その単語を声を震わせずに発音できるか、彼は狼狽えずに聞き入れるかどうかを。一度、彼のアパートの最寄り駅のホームで二人の後ろ姿を見ただけだ。ちかちゃんは足の形がいい訳でもなく、美しい髪をしている訳でもなかった。真っ先に心の中で「あんな人より」と思っていた。二人を見つけた瞬間から、いかに多くの欠点を探せるかと必死だった。醜い心を表には出したくない。私は声をかけなかった。どうせ想いは言葉にはならない。私は二人が改札から連れ立って歩く姿を確認してから、一人泣きながら次の駅まで歩いた。新しい靴を履いていたので、靴擦れして踵の皮が剥けた。それでもかつかつと美しい音を立てる靴。歩かなくてはならない。自分の行動の一つ一つが滑稽で仕方なかった。私は人目も憚らずに大声で鼻歌を歌った。
「ちかとはあの夏はもう一緒にいなかったからね。ちかではないはずなんだよ」
どうやら消去法で私が残った様だ。いっその事、まず消去された方がどれだけいいだろう。
「私、あなたとは話してないわよ。あの日は最後まで一人だったから」
「そうか、俺は斎木と話したのかな、となんとなくだけど思っていたよ」
「でも何故今になってその日が気になるの? 重要な事なの?」
「昨日さ、本棚を整理していたら一冊の本の表紙に七月二十五日と書いてあったんだよ。何の事か全く見当もつかないからインターネットでとりあえず調べたら二回目の梅雨明け宣言の日だった。でもそんな理由でメモを取ったんじゃないだろうし、気になってさ」
言えば思い出すのだろうか。私は目の前の人との今より、自分の記憶を大切に閉まっておく為に言葉を発するのを止めた。
「ちかちゃんとは会っているの?」
「なんでそんな事聞くの?」
「少しお酒を飲んだからよ」
「気になる?」
愛される者の優越の中にしか生まれない微笑みで、私を見やる顔が目の前にあった。
「ふと、思いついただけよ」
いつも通り可愛くない事を言う私から「もういいよ」とは言わないが、彼は顔を逸らす。答え方によっては相手が笑顔になるのは承知で、私はその為に笑顔で答えられないのだ。
「会ってないよ。俺達が今更会っても話せる事はもうごく僅かしかないからね」
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