惚れっぽい子

坂露シロタ

小説

18,861文字

かたんと揺れると、しらすは音楽をとめた。

でもそれは一瞬のことで、すぐにまた音楽は流れ始めた。

かたんと揺れると、しらすは音楽をとめた。

音楽はすぐにまた流れ始めた。揺れる度にしらすは息苦しそうに音楽をとめた。呼吸器系の発作が繰り返されているみたいだった。アスファルトのひび割れや繋ぎ目の段差を乗り越える度に、しらすは揺れて、音楽をとめた。すぐにまた音楽は流れ始める。

しらすはくたばりぞこないだった。僕やしいの知らない道を十二万キロも走っていた。ふとした瞬間に走りながらばらばらに分解してしまっても何も不思議じゃなかった。それでも走り続けるしらすに、しいは恋をしていた。

しらすは音楽を止めた。しいは助手席で笑っていた。何が面白いのかと訊ねると、

「わかんない」

と言った。

かたんと揺れて、スピーカーから聞こえる音楽がとまる度に、しいは笑った。しいは引き笑いする子だった。しいの笑いは一度一度が長く続いた。それぞれの笑いの先端同士が繋がり合うこともしばしばだった。僕は笑うしいが好きだった。しいの笑いはとても自分勝手だった。それは誰にも分け与えようとしない笑いだった。とても個人的で、しいにだけ意味のある笑顔だった。しいだけが楽しんでいた。

白目をむいて、よだれをこぼして、明らかに呼吸困難の苦痛を感じながら、シートベルトにしがみついて、しいは笑っていた。小さな脚をばたつかせると、両足からりんこが脱げ落ちて転がった。しいはまるまる一分くらい息をせずに笑っていた。

しらすは音楽をとめながら走り続けた。時速五十キロ以下を保っていた。時々はスクーターさえもしらすを抜かしていった。しいはスクーターに向けて手を振った。スクーターもヘルメットもしいに手を振り返さなかった。

晴れているとは言えない日だった。窓を開けると水気の多い空気がなだれ込んだ。べたべたとしてしいの体温よりも暖かな空気だった。しいが窓越しにスクーターに話しかけることを止めると、僕はすぐに窓を閉じた。しょんぼりとして、しいは窓ガラスに額を押し付けていた。

かたんとゆれて、しいは笑った。

清洲のインターチェンジから名古屋高速に入った。道路は端正に続き、しらすは揺れず、時速七十キロを保って走り続けた。どうがんばってもそれ以上は出せなかった。

「あ」

三十分ほど走ったころ、しいが声を上げた。

しいは閉じた窓へうめこを向けた。

うめこは妙にアナログ的な電子音をたててシャッターを切った。

「みてみて」

差し出されたうめこの画面に目を向けた。

こうやってしいのために運転や目の前のことから意識がそがれた瞬間に、僕は事故を起こして、しらすばらばらに分解するのかもしれない。うめこの画面には青い車の後姿が写っていた。僕は車のことを良く知らないので、それがなんという車なのか分からなかった。なんとなく他所の国の車のように思えた。どうしたのと訊ねた。

「素敵でしょ。格好良くない? 素敵でしょ。かなり」

ハンドルを握る僕の腕をぺんぺんと叩きながら、しいは同意を求めた。僕はうなずいて、格好いい、と言った。

また惚れたの? そう訊ねると、並びの悪い小さな歯を見せて、しいはにっこりとした。

青い車はしらすの倍ほどの早さで走り去ってしまった。もう後姿も見えなかった。白く乾燥した道路には他の車ばかり走って、どれもみんな楽々としらすを追い抜いていった。しいは遠く彼方を見つめていた。

しらすは同じCDをくるくると回した。しいが持って来たCDだった。僕は音楽のことをよく知らなかった。平凡な声をした女の子が、コンドームをつけないこの私の勇気を分かってよと上手に歌っていた。

一宮のインターチェンジを京都方面へ折れた。それから何キロか走って、すぐに岐阜へ向かう東海北陸道へ入った。岐阜に入ってすぐのサービスエリアでしらすを止めた。駐車場には多くの車があった。名古屋ナンバーの車が多かった。いったいみんな、どこの誰なんだろう、僕はしいに聞こえるように呟いた。

「知り合いがいたりするかもね」

しいは言った。

しいはトイレやフードコートには向かわなかった。並んでいる車の一台一台を眺めながら、丁寧な足取りで駐車場を歩き始めた。あの車を探してるのかと僕は訊ねた。

「うん」

しいは大げさにうなずいた。

やっぱり、また惚れたんだね。

しいは何にでも惚れてしまう。彼女はすぐに恋に落ちる。

血の繋がった弟や、同性の由香にも恋をしていた。それを知った時も僕は別に驚かなかった。僕としいはあの青い車を探して駐車場を歩いた。一台一台を眺めながら、同じ丁寧な足取りで、僕はしいの隣を歩いた。もちろん見つかるはずは無かった。しいは涙を浮かべて、しばらくは喋ったり笑ったりしなかった。惚れっぽい分、しいの恋はいつも儚く終わる。

しいをフードコートの椅子に座らせて、僕はトイレに向かった。しいは両腕でテーブルにしがみ付いて、大人しくまぶたを閉じていた。僕が戻るとしいはもう泣いていなかった。テーブルの上には子供用のサンダルが片方だけのっていた。赤いビニールのサンダルだった。テーブルに肩肘をついて、しいは物憂げにそれを眺めていた。少し寂しそうだった。それは何かと訊ねた。

「きのと」

しいは言った。

しいはきのとをバッグに押し込んだ。僕は注意深くあたりを見回した。椅子に座ってコーヒーを飲みながら、視界の端の方で、子供が母親に怒られて泣いているのを見た。子供は泣きながらしいの方を見ていた。

しいは額にしわを寄せて、なんだか辛そうにしていた。炭酸のジュースを飲みながらうめこを弄っていた。きのとの入った鞄を膝の上にのせて、守るように抱え込んでいた。僕はうめこの画面を覗き込んだ。しいはツイッターかフェイスブックにさっきの車の後ろ姿をアップしていた。しいがジュースを飲み終えるのを待って僕らはしらすにもどった。子供も母親もきちんと視界から消えていた。

「富山まで後どのくらい? しらすちゃん、大丈夫?」

しいは訊ねた。演技的な心配そうな声だった。

しらすはそこらのガラクタとはわけが違うんだ、と言った。

しいは長く長く引き笑った。何がそんなに面白いのか分からなかったけど、しいが笑っているのを見ると僕も良い気分になった。

富山まで百九十キロ程度だった。しらすは走り始めた。

しらすのナビには新しい道路は登録されていなかった。ナビの画面上では富山へ向かう高速道路は白川郷で途切れていた。ナビは次の出口を降りるように指示していた。僕はしいを笑わせるようにナビの悪口を言って、出口を通り過ぎようとした。

「あ」

笑おうとしてあけた口から小さな音を吐いて、しいは僕の肩を強く揺さぶった。しらすのすぐ横を青い車が通り過ぎていった。その後姿はうめこの画面に写された車によく似ていた。しいが惚れてしまったあの車だった。でもそんなことは多分あり得ないはずだった。その車は随分前にしらすを抜かしていったし、僕らは岐阜に入ってすぐのサービスエリアで長く留まっていた。今更後ろから追い抜かれるようなことがあるとは思えなかった。

しらすを追い抜かしてすぐに、青い車は車線を変更した。白川郷と表示された出口へ向かって消えていった。

「追いかけて」

しいは言った。

僕はすぐにハンドルを切った。出口を通り過ぎる直前だった。どうにか車線を変更しようとした。でも間に合わなかった。分岐点の壁に衝突する直前で車線を戻した。サイドミラーが壁を擦って、聞きなれない衝撃音と共に煌びやかな火花が散った。しらすは音楽をとめた。しいは笑わなかった。大げさな慣性でしらすの中がぐねぐねと揺れた。胃の中に重い寒気を感じた。両方の手に汗が噴出して、信じられないくらい性器が小さくなった。心臓が変な拍子を打つのが聞こえた。

しいはシートの上でバランスを崩して倒れこんだ。うめこを床に落として、脱げたりんこが左右とも別々に転がっていた。しいは鞄を抱きしめて

「すごく不愉快なんだけど」

というような顔をして僕を見上げた。

僕はごめんなさいと言って謝った。身体を起しながらうめこやりんこを拾い上げ、何処にも異常が無いことを確認してから、しいは

「いいよ」

と言ってくれた。

「あーこわかった」

と言ってにこにこした。

せっかくまた会えたのに、ごめんなさい、僕は不必要にもう一度謝った。あの車が本当にしいの恋した車だったのかどうか確証はなかった。でも自己嫌悪が大きかった。次の出口ですぐに出て、白川郷へ向かおうかと訊ねた。

「いいよ。無理に追ったら良くない。また会えたら、そのとき追っかけよう」

僕はうなずいた。手の汗は引いていったし、心臓はもとのペースに落ち着いた。しいは僕のしでかしてしまう失敗を何でも許してくれた。次は逃さない、と僕は言った。しいは笑った。僕は色んなことをよく失敗した。

北陸自動車道に入って運転を続けた。県章と、「ようこそ富山へ」の標識が目に付いて、しいは僕とハイタッチして歓声を上げた。

「しらすちゃん、よくがんばったね。もうちょい」

身を乗り出してダッシュボードを撫でた。しらすは特に何も言わずに、僕はアクセルを踏み込んだ。道路の下には田圃と民家がぱらぱらと見えるだけだった。際限も無くどこまでも続いて見えた。

「すごい。めっちゃ田舎」

しいは言った。

僕はうなずいたけど、運転する僕には周囲の光景よりもむしろ、直線的な道路に正面から垂れかかる、空や雲の方が多く目に付いた。ほとんど凹凸のない白と黒の雲はただのっぺりとしていて、なんだか不健全だった。雨も降りそうにない空だった。単にどよどよとしているだけだった。

しいはうめこのシャッターを切った。

高速を降りると、しらすは国道41号線を真っ直ぐに走った。お昼を少し過ぎた頃だった。

「おなか減ったー! 」

唐突にしいが言った。甲高い、悲鳴みたいな声だった。歌うみたいにしいは

「おなか減ったー」

を続けた。そして長く長く引き笑った。涎をたらして、足をばたつかせて、白目をむいた。道の駅を見つけてしらすを駐車場にとめると、しいはすぐに飛び出してフードコートへ向かおうとした。道の駅に隣接してガソリンスタンドがあった。僕はキャッシュカードだけ取り出して財布をしいに渡した。先にしらすにガソリンを入れておくから、何か適当に買っておいて、と頼んだ。僕は富山の食べ物のことを良く知らなかった。

「うん! まかせろ! 」

本当の全力疾走でしいはフードコートへ向かって行った。長いスカートが波打つみたいに揺れていた。何かしらの理由でハイになっているみたいだった。何がしいの脳みその中に溢れているのか、僕に

は分からなかった。

僕は一人で駐車場を隅から隅まで歩いて、青い車が止まっていないことを確認した。もちろんあの車がこんなところに止まっているはずがなかった。しいの恋はいつも儚く終わってしまう。止まっている車はほとんど富山ナンバーだった。

しらすに乗ってガソリンスタンドへ向かった。給油中にぼんやりと道路を眺めた。何処にでもありそうな国道沿いの風景だった。吉野家とかユニクロとか、ツタヤとか、そういったものが目に付いた。ぼんやりと走り続けていれば小一時間で栄くらいまで帰れそうだった。でもここは名古屋から三百キロくらい離れていた。現実やそれに近い色んなものが、はっきりと形を持ち始めて、眼に見えて、なんだかくらくらした。明日は日曜日で、明後日には仕事に行かなくてはならなかった。

しらすをとめてフードコートへ向かうと、しいはむくれた顔をしてハンバーガーを食べていた。白い海老の搔き揚げを挟んだ、信じられないくらい大きなハンバーガーだった。僕は椅子に座りながら、ごめなさいと謝った。

「遅いよ。かんのが何処かへ行っちゃった」

しいは言った。

僕はかんのが一体何なのか知らなかった。かんのが何処かへ行ったのは、どうやら僕のせいみたいだった。僕が駐車場をぶらぶらとして、しらすにガソリンを入れている間に、かんのは何処かへ行ってしまって、しいはむくれている。ぼくはもう一度謝った。かんのはきっと、しいにとって大切な存在だったのだ。

「反省してね。はい。いいよ。お食べ」

机の上に載っていたもう一つのハンバーガーを僕に差し出した。しいが食べていたのと同じ、大きなハンバーガーだった。触ると暖かみを感じた。包みを解くと暖かい油の匂いがした。ゴマののったパンがてらてらと輝いていた。しいはもう自分の分を食べて終えて、僕が食べるのをにこにことして眺めていた。美味しい、僕は一口食べてそう言った。むにゃむにゃと柔らかくて、口の中には塩気のきいた暖かい油ばかりが溢れた。油の中に淡く海老の味があった。微かにタマネギの香りが残った。僕は味が濃くて油気の多い食べ物が好きだった。分かりやすくて自分勝手だ。

「でしょ! 白海老バーガーって、有名なB級グルメなんだって! 」

しいは僕の感想に満足したみたいだった。僕は嬉しかった。周りを見渡せばみんな同じ物を食べていた。そういう光景はなんだか安心できた。僕はゆっくりとそれを食べた。しいの唇が油でてらてらと輝いていた。

「由香の病院まで、あと二十分くらいだって」

うめこを弄りながらしいが言った。

「先に病院いこっか」

僕はうなずいた。他に行きたい場所があるでもなかった。そもそも富山に何があるのかよく知らなかった。きっと何かはあるのだろうけど、それが何なのかよく分からなかった。時計を見ると一時半を少し過ぎた頃だった。時間はたっぷりあったし、つぶす必要もなかった。しいと僕は席を立ってしらすに乗った。

「しらすちゃん、がんばって! 」

気の抜けた平凡な音を立ててエンジンはかかった。サイドブレーキを外してアクセルを踏み込むと、エンジンは少しずつ回転数を上げていった。しらすは音楽を流した。昔テレビでよく聞いた歌が流れた。しいは甲高い声でその歌をなぞっていた。楽しそうにしていた。

国道41号線を真っ直ぐ走り続けた。ずっと彼方に青みがかった山脈が見えていた。山脈は視界の端から端までぐるり続いて見えた。先端を雲の中に溶け込ませて、周囲のあらかたを覆いつくしているみたいだった。僕がそう言うと、しいは

「そんな山見えないよ? 妄想じゃない? 」

穏やかな表情で言った。

国道を離れて細かな道路に入り込むと、山脈はすぐに見えなくなった。少しして高山市民病院に到着した。病院然とした建物だった。由香はそこに入院していた。

通用の玄関は閉じられていたので、標識に従って休館日用の出入り口へ向かった。出入り口は黄色い花の咲く花壇の奥にあった。屋根つきの回廊が花壇の中を伸びていた。黄色い花の上で白い羽の蝶々が無数に飛び散っていた。

「なんか、すごいねー」

僕はうなずいて、しいと同じ言葉を同じ調子で繰り返した。通路の途中で何人かの人間とすれ違った。とても綺麗に肥満した少女や、しらすみたいに息苦しそうに息を止める中年の男の人なんかが、僕らの側を通り過ぎた。その人たちはこの病院にとても良く似合っていた。そう思えた。なんとなく僕はしいの手を繋いだ。

「もう、恥ずかしい子だなぁ」

しいはとても迷惑そうに僕の手を握った。

病院の中は何処かから入る何かの白い光でいっぱいだった。蛍光灯は全部消されていた。薄緑の入院服を着た背の高い老人が、松葉杖に寄りかかりながら自動販売機の前に立っていた。老人は長い銀色の髪を三つあみにしていた。きれいだった。きれいな老人を見たのは産まれて初めてだった。僕は信じられない気持ちで老人の側を通り過ぎた。老人の髪やしわは何かの白い光できらきらと輝いていた。

車輪のついたベッドを運ぶ看護婦と目が合って、しいは笑顔で手を振った。看護婦はにっこりと微笑み返した。とても穏やかな笑顔だった。ぷにぷにと軟らかそうな、薄赤い頬をしていた。

入院病棟と書かれた標識を見つけて、僕としいはその通りに進んだ。エレベーターで七階へ上った。

「病院の匂いがする」

職員たちの事務室を通り過ぎながらしいが言った。僕はうなずいた。僕としいは手を繋いだままだった。眼鏡をかけた男の人がパソコンのキーボードを叩いているのが見えた。清潔なタイピング音が聞こえていた。

ドアについた名札を確認しながら由香の部屋を探した。開けっ放しにされている部屋が幾つかあった。中を覗き込んでみると、たいていの場合、一人か二人の入院患者が部屋にいた。静かに眠っているか、お見舞いに来た誰かと話していた。カーテンが揺れて透明な光が差していた。汚れの無いシーツがぴんと張り詰めていた。クリーム色の壁には点滴のパックが吊り下げられていた。入院患者たちが会話する声が聞こえた。輪郭のはっきりとした、静かな会話だった。その合間に大人しい笑いが混じっていた。何もかもがとても静かに整っていた。

「なんだか、わたし、ここで住みたい」

しいはごく真面目な顔をして言った。

僕はうなずいたけど、しいの手をいっそう強く握った。

廊下の一番奥に由香の名前の表示されたドアを見つけた。場違いにならないように気を使いながらノックをして、由香の名前を呼んだ。返事は何も無かった。僕はドアを開けた。

他の部屋と同じように白くて清潔だった。カーテンが揺れていた。ドアのすぐ側の洗面台が真っ白だった。もしも髪の毛の一本でも落ちていたら、それはきっとおぞましい穢れみたいに感じるんだろうなと思った。壁はクリーム色で、点滴が吊り下げられていた。

「きちゃったよー」

しいは駆けるようにベッドへ向かった。僕はただしいの後に従った。

由香は静かに眠っていた。僕やしいの声で目を覚ますようなことはなかった。パジャマ姿の由香は、白いタオルケットを腰までかけて、仰向けに眠っていた。大きな胸が呼吸に合わせて上下に揺れていた。それ以外の動きはなくて、本当にとても静かだった。

由香は動かなかった。パジャマのボタンが上から幾つか外されていて、重力に潰された大きな胸の膨らみが見えた。胸元には濃い産毛が生えていた。髪の毛は短く刈り込まれていて、窓から差す白い光の中に、あまり形の良くない頭の形がくっきりと透けて見えた。顔を近づけると微かにすえた肌の匂いがした。

壁に提げられた点滴のパックから長いチューブが伸びていた。透明の滴が由香の身体の中へ落ちていった。点滴の下には籐編みのかごが置いてあった。中には大人用オムツが入っていた。壁に作り付けられた棚に写真立てと花瓶が置いてあった。花瓶には病院の花壇で見たのと同じ、黄色の花が生けてあった。花は少しだけ古びていた。日の光の入る窓ガラスに、白い翅の蝶々が二匹くらい張り付いていた。

僕としいはベッドの側に添えられた折りたたみ椅子に座った。

「あー疲れた。遠いよー。もう。

名古屋から三時間くらいかかったんだから。もっと近くに住んでくれたらいいのに。

学生の頃は毎週会ってたのにねー。懐かしいなぁ。ゼミのこと覚えてる? 私はほとんど覚えてないんだけどね。まー色々ありましたからねー。ゼミ旅行だけはちゃんと覚えてるよー。どこ行ったっけ? 覚えてないじゃんっていう。あれ、どっかタワーに上ったよねー」

しいはけらけらと笑っていた。僕はしいが笑うのを見ていた。しいの笑い方はとても素敵だった。しいにだけ意味のある、自分勝手な笑いだった。言葉も全部そうだった。笑いながらしいは由香の手や足を撫でていた。指の一本一本の輪郭を確かめるような、とても丁寧な動作だった。僕は由香とはあまり親しくなかったから、しいがそうするのをただ見ていた。

「あ、神戸だ。神戸! また行きたいなー。て言うか行こ! いやむしろ住みたい。いやまって、京都も捨てがたい。どっちか! どっちも!

あ、そだそだ、前に借りてたアニメのDVDなんだけど、色々あって壊れちゃった。あのね、気付いたら完璧に真っ二つになってたの。ぱーんって。ぱーん。ごめんね。でも由香も前に私の貸した本を色々ぐちゃーってしたじゃない。しつこく覚えてるよー。ぐちゃーって。だからおあいこ。やー、おあいこってことにしようよー」

全部の指を撫で終わると、しいは由香の右手に自分の両手を絡めた。そのまま持ちあげて、空中で前後左右に揺り動かした。しいの手の中でだけ由香の手は柔らかに動いていた。

「あのね、ちょっと見て欲しいんだけど、富山に来る道ですっごい素敵なの見たんだ。これ、どう、ね。凄く好き。由香は多分好きじゃないと思うけど。ピンクとかのほうが好きだっけ?」

差し出したうめこの画面に何が写っているのか僕には見えなかった。あの青い車かもしれない。きのとかもしれないし、かんのかもしれない。しいはうめこを由香の顔の真上にかざしていた。息をする由香の胸が上下に揺れていた。しいはにこにことして歯を見せていた。

「そういえばパジャマ、ピンクだね」

それから急に表情を取り落として黙りこくった。しいは静かに由香の手を握っていた。由香と同じくらい静かだった。由香の胸が上下するのと同じタイミングでしいも呼吸をしていた。由香は息をしていて、しいは瞬きをしていた。しいはずっとそうしていた。僕は由香にもしいにも話しかけずに黙っていた。そのままずっと手を繋いでいれば、しいもこの病院で暮らすことが出来きそうだった。由香としいは確かに恋人同士のように見えた。清潔に整っていた。

かなり時間が経ってから僕は席を立った。かたんと折りたたみ椅子が揺れた。

「よし、じゃあ帰るね」

ぱんと由香の手を離してしいは立ち上がった。空中から落下した由香の手は布団の上で少しだけ跳ねて、ベッドの淵から垂れ下がった。しいは僕よりも先に部屋を出た。廊下に出て僕はまたしいの手を握った。じっとりと湿っていた。何となく、という風にしいは片手でうめこを弄っていた。ツイッターかグリーのゲームでもやっているみたいだった。しばらくして手を離した。僕の手にも由香の匂いがついていた。

ホテルは富山駅のすぐ近くに予約してあった。富山に行くことが決まったのは昨日の夕方だったけど、ネットで探せば空いているホテルは幾らでも見つけることが出来た。よく聞く名前の平凡なビジネスホテルだった。少し離れた立体駐車場にしらすをとめた。

「お疲れ様」

しいはしゃがみ込んでしらすのナンバープレートを撫でた。水っぽい薄暗さの中をしいの声はよく響いた。駐車場にはしらすによく似た車が無数に並べ詰められていた。

ホテルの受付には目つきの悪い美人がいた。長い髪がくねくねとネジくれるみたいに編みこまれていた。僕が自分の名前を告げると女性はにこにことしながら

「お待ちしておりました」

と言た。とてもきれいな声だった。僕がチェックインの手続きを済ませていると、しいが浴衣のことを聞いた。

「浴衣とか、パジャマってありますか」

「はい、お部屋に全サイズ用意してございます」

「一番小さいサイズで、どのくらいですか」

目つきの悪い美人は少しの間黙っていた。しいはきのとの入った鞄を抱きしめて女性を見上げていた。特別表情という表情は無かった。女性は活舌悪く何かを言った。女性がしいの体型を明確に理解するには少し時間がかかった。理解しようと努め始めるまでに時間がかかった。最終的には理解できたみたいだったけど、だからと言って彼女には上手い対応はできなかった。「とりあえず何処かへ何かを確認してきます」風な笑みを浮かべた。

「いや、もういいです」

しいは言った。

僕はちょうどチェックインの手続きを終えた。

「もうしわけございません」

女性は言った。彼女の目つきは悪いままだった。無抵抗な彼女のことを、しいは愛おしそうに見つめていた。

「美人だったね。名前聞いとけば良かった」

エレベーターの中でしいは言った。僕はうなずいた。目つきの悪い女性は胸に名札をつけていた。僕はそこに印字された名前を覚えていた。意味があるようには思えなかったので言わなかった。エレベーターはうねうねとした音を立てて五階で止まった。

廊下を歩きながらしいは受付の女性のことを話した。彼女の髪やおっぱいの大きさや指の形や、予想できる年齢や、発音から推測する出身地について話し続けた。どうも惚れてしまったみたいだった。いつの間にか隠し撮ったらしい写真を見せてくれた。うめこの画面に映る彼女は実物よりもきれいに見えた。複雑に編みこまれた髪の毛が蛍光灯の光に触れていた。好きになったのかと訊ねてみた。しいはにこにことしていた。

それぞれの部屋に荷物を置いて少しだけ休憩した。名古屋から運転を続けたせいで、僕自身はかなり疲れていた。布団に触れればそのまま眠ってしまいそうだった。眠らずにただ椅子に座ってぼんやりとしていた。高岡市病院や由香の姿が思い浮かんだ。白いカーテンや、落下する点滴のしずくがとても病院然としていた。全部が静かに整っていて、誰も大げさな声を上げなかった。誰もしいに話しかけなかったし、向けられるものも看護婦の看護婦らしい笑顔だけだった。

「晩御飯!」

部屋のドアをべんべんと叩いて、しいが廊下から大声を上げた。

一階へ下へ降りると、目つきの悪いきれいな女性はいなくなっていた。しいの恋はいつも儚く終わる。しいは特に何に言わずにうめこを弄っていた。

歩いていける範囲で美味しい回転寿司を探してくれたので、晩御飯はそこで食べた。

帰り道にしいは

「今更だけど」

と言った。

その後の言葉がなかなか出てこなかった。僕はしいの歩幅にあわせてゆっくりと歩きながらしいの言葉を待った。時々しいは言葉を失ってしまう。僕は待ち続けた。言葉を続けるか、黙ってしまうか、つながりの無い別の話を始めるか、全部はしいの自由だ。

深いドブに沿った明るい道路だった。うめこの指示に従って僕らは歩いていた。ガードレールの向こうで細かな翅虫が群れていて、黒い水の表面にはセブンイレブンやミスタードーナッツの灯りが揺れもせずにくっきりと写りこんでいた。黒いけど鮮やかな輝きだった。しいが話し始めるまでの間、僕はそれを眺めて歩いた。

「二人でこんな所まできちゃったね。まさか本当に富山まで行くなんて、実は思ってなかった」

しいは言葉を繋げた。

僕はそうだねと言った。

「ありがとうね」

しいは言った。

「お礼に、きみがどんなクズになっても、仕事とかお金とか無くなって人殺しとかそういうことしても、どうなっても、何も言わずにずっと好きでいてあげるから」

僕はどうもありがとうと言った。

冗談めかして笑った。嬉しかった。

僕らはうめこの言う通りにホテルまで歩いて戻った。お風呂に入って、布団に転がると、すぐに眠っていた。目覚めると後はもう名古屋に帰るだけだった。まぶたを開けるとカーテンを締め切った部屋に半端な光がさしていた。落ちた光がきらきらと床に揺れていた。

朝ごはんを食べてからチェックアウトの時間まで、何もせずにぼんやりとしていた。しいは完璧な躁状態で山ほど朝ごはんを食べていたけど、部屋に戻ると電話やメールにも反応しなかった。るるぶとかまっぷるとかは買っていたけど、僕には行きたい場所や見たいものは無かった。お土産を買うような相手もいなかった。時間はあったけど限りなくというほどでもなかった。だから僕はぼんやりとして、時々しいのことを考えながら、物みたいに、チェックアウトの時間を待った。

チェックアウトの時間の少し前に僕の部屋へやって来たしいは、りんこではなくホテルの備え付けの白いスリッパを履いていた。僕の部屋のスリッパも手に取ると、少し眺めてから鞄へ入れた。りんこも鞄の中へ入っている様子だった。軟らかな合成繊維のスリッパは、しいの小さな足によく似合っていた。廊下を歩くしいの歩調にぴったりと合わさって、ぱたぱたと軽やかに鳴っていた。

もちろん目つきの悪い女性は受付にいなかった。しいは少し寂しそうにしていた。他の従業員はしいを見ていたし、しいの履いているスリッパのことも見ていたけど、何も言わなかった。きれいに微笑みながら部屋の鍵を受け取り、

「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」

と言った。とてもきれいな声だった。少しだけ肥満した背の高い女性だった。しいはその女性を見つめていた。また何か話しかけて惚れてしまいそうだった。どうもしいはホテルの受付の女性に弱いみたいだった。一人二人持って帰ることが出来ればいいのにと思った。

僕としいはホテルを出て駐車場へ向かった。

「もう一回、由香の所へ行こう」

薄暗いしらすの中でしいは言った。

僕らは高岡市民病院へ向かった。昨日と同じように黄色い花の咲く花壇の中を通り抜けた。昨日と同じような蝶々が群れて飛んでいた。昨日と同じような人々とすれ違った。病院の中には何かの光が何処からか入り込んでいた。

受付の椅子には髪の長い女の子が座っていた。女の子はだんまりと本を読んでいた。驚くほど肌が白くて、指や足はとても小さかった。何かの映画かアニメの登場人物にとてもよく似ていた。でも思い出せなかった。待合の椅子には入院中の患者たちがぽつぽつと座っていた。それぞれの肌に何かの光が触れていた。女の子の肌は透けてしまいそうだった。

僕は三つあみの老人を思い返した。この病院ではそんな人たちばかりが目に付いた。僕としいが通り過ぎていく横で、白い肌の女の子は物憂げにページをめくっていた。少女とも少年ともつかない顔をした子供がどこからか現れて女の子に話しかけた。女の子は突如本を閉じて、あたかもそうであれと望まれるような笑顔で子供に微笑みかけた。

エレベータに乗っている間、しいは何処を見るとも無く淡い目をしていた。

「帰りたくないなー」

しいは言った。きっと、そうなんだろうなと思った。置いて帰ってもいいよと僕が言うと、しいは

「由香が代わってくれたらいいのに」

と言った。

ぴったりとサイズのあった白いスリッパを履いて、ぱたぱたと七階の廊下を歩いた。途中で誰かが泣いている声を聞いた。どこから聞こえるのか分からなかった。深刻な風ではなかった。でも聞き方によれば、それは世界のあらかたの事柄よりも意味があるように聞こえた。白い服の看護師が廊下で何か小さなものを抱きしめていた。誰が何処で泣いているのか分からなかった。

由香の部屋に入ると植物の匂いがした。香水や芳香剤じゃない本物の花の匂いだった。甘いとは言えない現実の花粉の匂いだった。花瓶の中の黄色い花が新しいものに変えられていた。

部屋のドアをあけた瞬間、淡いだけだった表情が突如今朝のような切っ先するどい躁状態に上り詰めて、しいはぴょこぴょこと飛び跳ねた。

「由香ー! また来たー! 」

しいは由香の手をとって空中で振り回した。僕は昨日と同じ折りたたみ椅子に座った。しいは立ったまま由香の手を触っていた。昨日みたいに多く話したり笑ったりはしなかった。それでもしいの躁は長く続いていた。瞳孔は大きく開いて、昨日の夜に見た水面みたいに輝いていた。

「わたし由香が好き」

しいは言った。由香は静かなままだった。タオルケットの下で胸が上下に揺れていた。しいはゆっくりとした動作で椅子に座った。由香の手を握り締めたままだった。妙な握り方をしていて二人の手の境目が良くわからなかった。しいは幸せそうだった。由香はとても静かなままだった。

少ししてドアの開く音が聞こえた。

部屋に入ってきたのは色の黒い男性だった。

男性はアシックスの白いスニーカーをはいていた。短パンを履いて、わけのわからない言葉で何かを書いた白いシャツを着ていた。汗で濡れた綿のシャツに乳首が浮き出ていた。首から提げた青いタオルには中日ドラゴンズのロゴマークが染め抜かれていた。由香の父親ということはすぐに分かった。一目で分かるほどよく似た姿形はしていなかったけど、それでも普通の人間として、それはすぐに分かった。四角い顔に汗の粒が無数に浮かんでいた。首にかけたタオルで汗をぬぐうと、戸惑いながらも男性は小さな目に社交的な笑みを浮かべた。黄色い花の匂いが鼻についた。

かたんと揺れるみたいに、しいはあらかたの表情を取り落とした。

「あ、この娘の、友達? 」

目に続いて、半開きの口でゆっくりと笑みをつくった。肌や鼻や肩がその後に続いた。一つ一つが丁寧な動作だった。男性は何度もタオルで汗をぬぐった。僕は椅子から立ち上がって挨拶をした。何の連絡も無しに本人の病室を訪ねてしまったことを侘び、自分やしいと由香の関係を説明した。いくらか嘘をついた。しいは何も言わずに座っていた。表情を落とした顔に、信じられない程うそ臭い笑みを浮かべた。身動きを殆どしなかった。いつの間にか由香の手を離していた。由香の手がベッドの淵から垂れていた。その時になって僕は初めて由香の手の形をはっきりと見た。小さすぎるしいの手よりも、ずっときれいに整っていた。爪はきれいに整えられていた。ぷっくりと膨らんだの手の平は、触ればとても暖かそうだった。

「名古屋から来た? まあ本当? それはそれは、遠路はるばるご苦労様でございました。

まぁ、いやぁ、大変だったでしょう。うちの娘のために。どうもありがとうございます、いや、本当にありがとうございます」

男性はおどけるような口調で言った。深々と頭を下げた。汗がぽたぽたと落ちていた。僕は同じように頭を下げた。しいは変わらない笑顔で笑っていた。りんこやきのとやホテルのスリッパの入った鞄を握り締めていた。

男性はベッドの下から折りたたみ椅子を取り出して、僕の側に座った。それからふと気付いて、由香の手首をタオルケットの中へ戻した。不器用なその動作がこの病院の全部に似つかわしくなかった。しいの手が離れてから男性が拾い上げるまでの間、由香の手首はベッドの淵からしなだれ落ちて、意味のあるものを大切に握るみたいに、やわらかに閉じていた。そういう様子の由香の手首はこの病院にとても似つかわしかった。由香の手をタオルケットへ戻す時に男性の手は僕の手にも少しだけ触れた。男性の体はとても暖かかった。

僕と男性が言葉を交わしている間、しいはずっとうめこを弄ってた。男性が言葉や視線を向けると、単純な作りの笑みを浮かべた。

時々男性は由香の足や手に触れた。その動作のぎこちなさの為に、いつか由香は目を覚ますんじゃないかと思った。由香が目を覚ます時にしいはそばにいてはいけなかった。早くこの病室から出なくてはならなかった。しいがそれを望んでいた。

そろそろ、と言って僕は椅子から立ち上がった。男性は僕よりも早く立ち上がって深々と頭を下げた。髪の毛の隙間から頭皮がはっきりと見えた。僕も頭を下げた。しいに手を差し伸べて立ち上がらせた。男性は少しの間視線を動かしてから、タオルで顔を拭いた。もう汗は乾いていた。髪の毛を撫で付けながら、しいに目を向けた。

「わざわざこの娘のお見舞いに来てくれて、今日は、どうもありがとうございました。遠いところから、本当に」

しいがその言葉をちゃんと聞いていたのかどうか分からなかった。折りたたみ椅子を片付けながら男性はちらりと僕に目を向けた。でもまたしいに目を向けた。かたんと音が鳴って椅子はベッドの下にしまいこまれた。

「この娘のことをそれだけ考えてくれてるっていうのは、まあ、本当にありがたいことです、がね、いや、嬉しくて本当に泣きそうなんですが、まあ、なんていうか、女の子ですからね、この娘もね、一応、まあ、一言私にも連絡が欲しかったです。こういうのは、まあ、なんていうか、良くないですからね、なんていうか」

男性は言った。冗談めかして少し笑っていた。

どうしてわざわざしいに話しかけたのか僕には分からなかった。しいの体は特別に何も反応していないように見えた。にこにこと対外的に笑っていた。僕は頭を下げてもう一度謝った。

今度来る時は、かならず事前に連絡します、と言った。でも多分しいは由香の連絡先も実家の住所も知らないはずだった。

男性は僕の手を取って、両手で強く握り締めた。暖かくて、硬くてざらざらしていて、気持ちが良かった。

僕らは病院を出た。そのまま何処へも寄らずに真っ直ぐに北陸自動車道へ入った。お昼ごはんは食べていなかったけど、おなかが減っているわけでもなかった。しいは何も言わずに窓の外を見ていた。バックミラーには辺りを取り囲む壁のような山脈が見えていた。僕の妄想かもしれない山を背にして、僕としいはしらすに乗って富山を出た。雲は一つも無く、空は完璧に晴れ上がっていた。自分の姿が移りこみそうなほどだった。気味の悪い白と黒の雲はもう消えてしまっていた。しいは表情の無い顔をしていた。

病院を出てから長く時間が経ってから、しいは

「むかつくね。せっかく、お見舞いにきたのに。理不尽だ」

と言った。

僕はうなずいて、理不尽だね、と言った。世の中はしいにとってそういう風にできていた。それは間違いのないことだった。しいがそう思っていた。

しいは思い出したようにダッシュボードからCDを取り出して、プレーヤーに入れた。少し昔にNHKのみんなのうたで聞いたことのある、バンプ・オブ・チキンの歌が流れ始めた。

「なんで、あそこまで言われなきゃならないのかな。何か、そんなに悪いことしたのかな。あんなこと、言わなくてもいいのに」

何も悪いことなんかしていないよ、と僕は言った。

「ああ、嫌だなぁ。迷惑だったのか。ひどいな」

うん、嫌だね。しいは目に涙を浮かべていた。驚いたりしなかった。声が潤んでいた。すぐにぽろぽろと涙をこぼし始めた。僕はしらすを運転し続けた。しいの笑う理由が分からないのと同じように、どうして彼女がそこまで傷ついてしまうのか分からなかった。しらすは時速七十キロ以下で走り続けた。

白川郷のインターチェンジ付近でしらすのカーナビは高速を降りることを指示した。僕は昨日とまったく同じふうにしらすのカーナビを馬鹿にして、しいが笑えばいいのにと思った。

「あ」

不意にしいは声を吐いた。窓の外へ顔を向けた。しらすのそばを青い車が走り抜けた。その車は白川郷の出口へ向かってすぐに消えていった。信じられない速度だった。僕はすぐに車線を変更して高速を降りた。しいは

「追いかけて」

と言った。

料金所を出てすぐにかたんと揺れて、しらすは音楽をとめた。でもまたすぐに再開した。しいは笑わなかった。泣いてもいなかった。僕はしらすを走らせながら何度もしいに目を向けた。他の車は一台も走っていなかった。通り過ぎた道の駅には何台かの車が止まっていたけど、それほど多くはなかった。目に付くのは気色の悪いほど分厚い森や、古びた民家ばかりだった。それらの合間に温泉や合掌造り集落へと誘導する標識が立ち並んでいた。無視して先へ進むほど道路は細くなっていった。高速道路は僕らのはるか頭上をまっすぐに伸びていた。青い車は見えなくなっていた。

「私は、あの車に惚れたんだ。好きなんだよ」

しいは言った。

絶対に追いつくから、と僕は言った。

真っ直ぐに長く道路が続いた。僕はしらすを時速七十キロ以上で走らせた。二車線の道路で、右手側には壁みたいに黒い森が続いていた。左手側には土のむき出しになった古い工事現場が細長く続いて、その向うは崖になっていた。工事現場には半分方さび付いた重機が幾つも放置されていた。遥か昔に建てられたらしいプレハブ小屋を何戸も通り過ぎた。割れた窓ガラスをガムテープで張り合わせていたり、そもそも窓ガラス自体がなくなっていたりした。何のためにそれがそこにあるのか、たぶんもう、あらかたの人間は忘れているに違いなかった。

しいは窓の外を見つめていた。錆びたユンボの歯の形に心奪われているのかもしれなかった。それらは目に留まる間も無く、すぐに後ろへと消えていった。

工事現場は唐突に終わった。しらすは崖の淵を走っていた。いつの間にか道は上り坂になっていて、しらすは時速七十キロを維持することが出来なくなっていた。かまわずに僕はアクセルを踏んだ。何かが磨り減っていくような音が聞こえた。それは意外に澄んだ音色だった。しらすの内側が崩壊していくのが分かった。崖の下には川が流れていた。ガードレールの遥か下で白い光がきらきらと跳ねていた。川にそって何本もの鉄塔が立ち並んでいた。そのずっと先に発電施設みたいなものが見えた。ぜんぶが古びて静かに見えた。誰も何も僕らの側にはいなかった。しらすのナビには僕らの走る道路以外には何も表示されていなかった。灰色の空間に白い道路だけが続いていた。

発電施設の向うにはダムがあった。実際には視界の先に巨大なコンクリートの壁が見えているだけだったけど、しらすのナビには御母衣ダムと表示されていた。しらすの走る道路は山道を上へ上へと登りながら、御母衣ダムのすぐ側を迂回するようにしてその先へ伸びていた。

シラスはナビの指示の通りに、澄んだ音で何かしらをすり減らしながら走り続けた。名古屋までの距離と時間が表示されていた。でも僕にはしらすのナビが正しいとは思えなかった。この道路が名古屋に通じているとは信じられなかった。しらすはしいの為に、ただ青い車を追うためだけの道を表示していた。僕はそれを正しく思った。

道路の左右には葉の少ない広葉樹が生え並んでいた。灰色の枝がごつごつと低く重なり合って、それは時々しらすの車体を引っかいた。僕は植物のことを良く知らなかった。しいは

「きれい」

と言った。植物や空や僕の姿を写真に撮ろうとして、しいはうめこのバッテリーが切れていることに気付いた。

「お疲れ様」

しいは言った。

うめこは画面を黒くしたまま黙っていた。うめこはしいの為に数々のものを写真にしてきた。しいが惚れたあらゆるものの写真がその中に保温されているはずだった。お疲れ様、と僕も言った。しいはうめこを鞄にしまった。それからスリッパを脱いで、代わりに鞄から取り出したりんこを両足にはいた。りんこはしいの足に合うようには作られていなかったけど、しっかりとしい両足を包んで守った。

しらすは時速五十キロくらいで曲がりくねった急勾配を上っていった。潜り抜けていく植物の影がちらちらと揺れていた。道路は不必要に思えるほど大きく曲がりくねって、上へ上へと上っていった。僕はしらすの窓を開けた。しらすの内側と窓の外側が繋がった。驚くほど水気の多い空気が流れ込んだ。濡れた空気に晒されて大きく揺れ動くしいの髪の毛は、なんだか白い虫の翅みたいだった。

アクセルを踏み込んだけど、しらすはそれ以上速度を上げなかった。少しずつ、しらすは速度を落としていた。美しい音で何かが磨り減っていった。

「だいじょうぶ」

しいは言った。にっこりとしていた。自分勝手な笑みだった。僕はアクセルを床まで踏みつけた。しらすはきっと壊れてばらばらに分解してしまうんだろうと思った。その時にしらすはどんな気分なのだろう。しらすは内側から崩れていった。しらすはしっかりとしいを運んだ。磨り減ってゆく音はどこまでも澄んでいた。僕はしらすをうらやましく思った。僕はただ、しいの言う通りにしらすのアクセルを踏むだけだった。

坂道がなだらかになり始めた。ダムに近づくにつれて道路は広くなっていった。気付けばしらすは平地を走っていた。疎らに生えた灰色の木々の隙間に、ダムの水面が光るのが見えた。

「とめて」

しいは言った。

道路の左手側に端の見えない水面が銀色に輝いていた。しいが言うよりも先にしらすは動きを止め始めていた。路肩にしらすを止めて僕らは外へ出た。

少し歩くと、数台分の駐車場と、ダムの管理室へ向かって細長く伸びる、殺風景なコンクリートの連絡通路が見えた。通路の入り口には錆びた鎖がかけられて、「関係者以外立ち入り禁止」の札がぶら下げられていた。駐車場から通路にかけて灰色の砂利がびっしりときれいに敷き詰められていた。そして駐車場の隅には家電や大型の家具なんかの粗大ゴミが、小さめの丘みたいにうず高く積み重ねられていた。青い車はゴミの丘に接するようにとめられていた。ボンネットに触れてみると、焼け付くくらいに熱を持っていた。ぴかぴかに光る青の表面に僕の指紋がくっきりと残った。

しいは僕の方を見た。僕はしいを見つめた。何も言わないのは分かり合っているからじゃなくて、ただ何を言えばいいのか分からないからだった。しいは

「すてき」

と言った。もう僕の方は見ていなかった。りんこをはいた小さな足は、ゴミの丘へ向けて歩き出していた。分解された車や、古い型のテレビや、巨大な本棚や、錆びて崩れたラジカセや、それ以外のものが、もうすでにこの世界にはほとんど何の関わりも無く、ただ積み重ねられて静かだった。ダムの水面が揺れもせず平面に伸びていた。静かだった。誰も何もしいに話しかけなかった。何も向けられなかった。

「ありがとうね」

しいはよたよたとゴミの丘を登っていった。由香の手を握るみたいに、しいはゴミの上を歩き、佇んだ。ゴミの中には尖った針金やガラス片が混じっていた。でもそれらは鋭く光るだけで、決してしいに傷をつけなかった。スリッパやうめこやきのとや、もしかすると戻って来たかもしれないかんの入った鞄を抱きしめて、濡れた空気の中にしいの髪の毛が揺れていた。

僕はさっきのしいの言葉を何度も反芻しながら、青い車の側に立っていた。ありがとうね。嬉しかった。しいの儚い恋を邪魔したくなかった。ここなら大丈夫かもしれないと思った。今までしいが好きになった色んなものが、ここに埋まっていて、静かにしているかもしれない。そうであったらいいなと思った。

しばらくして僕は一人でしらすに戻った。

もう二度と動かないかもしれないと思っていたけど、意外なくらいすんなりとエンジンはかかった。試しにサイドブレーキをかけたままアクセルを踏み込んでみると、ごくスムーズにエンジンの回転数は上がっていった。あと何百キロかは走れそうだった。ナビの画面には名古屋までの距離と時間が表示されていた。帰るのは夜になりそうだった。

しらすが動くことを確認して、僕はしいの元へ戻った。いつまでも待っているつもりだった。

「空気読んでよ」

しいはゴミの丘から降りて来ていた。ため息を吐いて、とても不機嫌に僕と手を繋いだ。僕は頭を下げて謝った。しらすの具合を確認するのはもっと後でも良かった。自己嫌悪を大きく感じた。僕はまた失敗してしまった。

「まあいいよ。しらすちゃんだし。おなか減った。早く帰ろう」

しいは言った。僕はうんとうなずいた。

僕らはしらすに乗りこんだ。しいは音楽をかけた。しいの好きな歌が流れ始めた。僕はサイドブレーキを解除してアクセルを踏んだ。

かたんとゆれて、音楽はとまった。でもまたすぐにそれは再開された。

 

 

2012年8月19日公開

© 2012 坂露シロタ

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"惚れっぽい子"へのコメント 1

  • ゲスト | 2012-08-23 19:06

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