ブック・オフ

坂露シロタ

小説

4,557文字

学校を早退した僕はブックオフをうろつく。

チョークが黒板を擦っていた。硬い音が崩れて、白い破片が黒板を滑り落ちていった。黒板には数式が並べられ、それらは僕の指先を伝ってノートへと落ちていった。教室は静かだった。風を受けて膨らんだカーテンが、窓際の生徒の顔を弄りながら、特に楽しくもなさそうに揺れていた。数式は並ぶ、連なる。

黒板の隅に書かれた日直の名前にまでその侵食は及んだ。僕は左隣の席に顔を向けた。そこには日直が座っていた。日直は長い足を組んで、無表情に少年ジャンプを読んでいた。足の組み方がとても素敵だった。そういう風に足を組むために日直は二本の足を持って生まれてきたのかもしれない。黒板は擦られて、数学の教師が喋る。日直がページを捲る音がする。音は他にない。どちらかが雑音というわけではなく、それらはどうやらそういう風に在る音のようだった。

日直は無表情を続けた。どれだけページを捲っても、唇の端が歪むことすらなかった。きっと銀魂を読んでもその表情は変わらないのだろう。稲中卓球部やマサルさんやギャグ漫画日和を読んでも、笑わないにちがいない。

時計の針が九時三十分に届いた。一時限目の授業が終わるのは九時四十分、ブックオフが開くのは十時だ。早退届を貰って、トイレを済ませて、それから自転車でブックオフまではきっかり十分かかる。僕は今日の残りの授業をさぼることに決めた。残りの五時限に楽しみな授業があるわけでもなかった。チャイムが鳴った。クラスメイトたちは立ち上がり、世界中が音を吐き出した。日直は少年ジャンプを読み続けていた。カーテンは相変わらず揺れていた。これほどの音がいったい今までどこに仕舞われていたのか、僕には見当もつかない。

「しんどい。帰る」

友だちにそう告げて、僕は教室を出た。嘘というわけではなかった。

職員室に入る前に、ワイシャツのボタンをきちんと上まで留めた。ドアを開け「失礼します」と言った。担任の教師を探した。担任の教師は小テストの採点のようなことをしていた。後姿の腕の動きから推測したので、違っているかもしれない。「先生」と声をかけた。担任はしばらく自分が呼ばれていることに気づかなかった。僕は彼女の名前を覚えていなかった。日直の名前ははるか昔から知っているけど。ふとそんなことを思った。

「……ああ、はい、何? 」

担任はやはり小テストの採点をしていた。6という点数と、マルとバツと、幾つかの英単語が見えた。教師の書くマルやバツは、世界で一番マルやバツらしい形をしていた。

「ちょっと気分が悪いので、早退させてください」

僕は言った。

「あれ、まだ一時間目終わったとこだけど、もう無理? 」

「無理です」

「あー、じゃあ、はい、ちょっと待って」

担任は机の中から用紙を取り出し「体調不良」と書き込んだ。時間と日付を書き、判を押した。僕はそれをポケットに入れて職員室を出た。ドアを開ける前に、「失礼しました」と言った。ワイシャツのボタンを上から順番に幾つか外してから学校を出た。

 

ブックオフはまだ開いていなかった。何人かが入り口の前で待っていた。僕は自転車を止めて彼らの傍に寄った。誰かが僕に目を向けることはなかった。朝の十時に、ブックオフが開くのを待っている。ただそれだけで、僕らは強く団結することができるような気がした。もちろんそれは気のせいだった。

自動ドアが開き、クーラーで冷えた空気が溢れ出た。

「いらっしゃいませ」

店員が大きな声で言った。

その店員は僕と同じくらいの歳だった。

彼は学校を辞めて、アルバイトをして過ごしているのだ。彼の顔は全体的に薄赤い突起に覆われ、脂が蛍光灯の光を弾いていた。くせの多い髪には、白髪が何本も混じっていた。彼が学校を辞めたのはイジメが原因で、イジメられたのはその酷いニキビが原因だった。もちろんそれらは全部僕の想像で、僕は彼のことを少しも知らなかった。

入り口付近の漫画コーナーを抜け、一番奥の壁を覆う単行本コーナーへ向かった。五十音順の著者名別に並べられた本の背表紙を、あ行から、一冊一冊順番に視線で撫でていく。店内には知っている曲が流れていた。「青空」は、古本屋に似合っていた。赤川次郎、我孫子武丸、歌野晶午、乙一、恩田陸。知っている作家はそれだけだった。「インザプール」という小説は聞いたことがあった。ドラマ化されるはずだ。か行へと移る。梶尾真治、景山民夫、貴志祐介。

本を撫でる時、僕の意識は本に向いていなかった。曲は「1001のバイオリン」に変わった。

学校で、教室で、僕は、落ち込んで、いた。

丁寧に並べた。

それは昨日の夜に好きな女の子にフラれたからかもしれない。何ヶ月もかけて書き上げた小説が新人賞の一時審査で落ちたからかもしれない。模擬テストで志望校が全部E判定だったからかもしれない。理由はいくらでも後付できる。本当にいくらでもだ。望めば望むだけ理由は湧き出てくる。僕には何もかも親のせいにだってできるのだ。自分が平凡だと認めてしまうことさえ今ならできそうだった。

は行には、東野圭吾が殆ど全部じゃないかと思うくらいにあった。僕の知らない歌に変わった。知らない歌手の歌だった。特に気分のむらは無かった。ただ単に僕は落ち込んでいた。全ての本を撫で終えて、百円均一のコーナーに向かった。そこには時々、落書きされた本が売られていることがあった。セリフが色鉛筆で囲まれていたり、余白に感想が書き込んであったり、一部分を英訳していたり、そんな本が百円で売られていた。正確な価格は消費税を含めた百五円で、そう表示もされていた。僕には百円と百五円の違いが分からなかった。

僕は落書きをした本をブックオフに売る人が好きだった。そんな人たちを愛していた。彼らをとてつもなく身近な誰かに置き換え、そうして好きになっていった。その時の僕には、落書きされた本を見つける必要があった。

百円コーナーで、再びあ行からたどり始めた。本の数は多くなかった。てきとうに手を伸ばして、本を抜き出そうとした。さっきからもう何度も聞いている、「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。

僕は伸ばしていた手を空中で止めた。

本は取らなかった。

「やあ」

日直は僕の顔を見て、唇と舌を短く動かした。表情は少年ジャンプを読んでいる時と同じだった。「やあ」と僕は日直と同じ言葉を同じように返した。

「さぼり? 」

僕は訊ねた。

「まあね」

日直は応えた。日直は僕と同じように本棚をあ行からたどり始めた。目や顔が少しずつ動き、その次に足が僅かに移動した。極度に短いスカートが揺れた。カーテンのように、特に楽しくもなさそうな揺れ方だった。知らない人間が何人か、僕と日直の傍を通り過ぎた。

「……ねえ、知ってる? 」

日直は本に目を向けたまま言った。もしも僕がそれを無視してどこかへ行ってしまっても、日直はその言葉の続きを喋り始めるにちがいなかった。「なぁに?」と訊ねた。

「本は生き物なんだって」

僕は少しの間黙っていた。日直がそれをどんな意味で喋っているのか、僕にはよく分からなかった。もしも「ボールは友だち」というような意味で言っているのだとしたら、僕は傷つくかもしれない。

「知ってるよ」

僕は言った。

「じゃあ、何を食べているかは? 」

「何か食べるの? 」

「馬鹿じゃない? 断食したことある? 食べないと、脳みそが崩れていく音が聞こえるのよ」

日直は僕のすぐ隣まで来ていた。僕は本棚の前を譲った。日直は本を手に取り、しばらく悩むようにページを捲ってから、本棚に戻した。

「何を食べるの? 」

「埃。こぼれたコーヒーと、花瓶の中で腐りかけた花も、あれば食べるらしいわ」

僕は本がそれらの物を食べているところを想像してみた。上手く想像できなかった。けれどそれは僕の想像力の不足のせいで、日直の上げた食べ物に不自然な点はなかった。本の食べ物としてふさわしかった。空気中を舞いながら金色に光る埃ではなく、紫色に積もった分厚い埃が思い浮かんだ。

「ねえ、まさか人間が本を書いているなんて思ってないわよね」

ため息をつくように日直は僕の方を向いた。その顔を見ながら、僕は自分が落ち込んでいたことを忘れていった。無知を哀れむ目で、日直は僕を見ていた。それはとても綺麗だった。

「こんなものを、人間なんかが書けるわけないじゃない」

日直がそう言いながら本棚から取った小説を、僕は知らなかった。ただ村上春樹という著者の名前は最近テレビで聞いたことがあった。だいぶ前にノーベル文学賞候補に上がった人だ。日直は、呆れ果てたわ、という風な顔をしていた。

「でも、作者は人間っぽい名前をしてるけど」

「いい? この名前は墓碑銘なの。本はもともと細菌とかウイルスみたいな、小さくて弱い生き物なのよ。それが人間の体に進入して、その人の細胞とかを一つ一つを文字に変えながら、ゆっくりと殺していくの。この名前は、その本の最初の犠牲者の名前なのよ」

日直の声ははっきりと輪郭を持っていて、完璧にチューニングの合ったラジオのようだった。髪を短く切ったことを忘れ、肩に掛かった髪を払いのけるような仕草をした。空ぶった指の先を僕は見ていた。

「最初、っていうのは? 」

「まず一人が感染して、文字になって、その文字を読んだ人もまた、その本に感染するの。コーヒーを飲みながら読書なんて最悪よ。絶対に感染するわ。一度本に感染したら、致死率は百パーよ」

「ここは、じゃあ、とても危険だ」

「自殺よ。みんなみんな」

太った男性が、本を見るふりをして日直を見ていた。自殺、という言葉が耳に障ったらしい。日直のような女の子が言ったからだ。きっと彼は、日直が学校をさぼっている理由や、髪の毛やスカートが極端に短い理由や、靴の後ろを踏んでいる理由を、幾つか想像したにちがいない。彼が店を出て行くのが見えた。

「実は感染してるの」

何もかも、理由はそれだけよ。

日直はそんな風に喋った。僕は知っていた。

「知ってるよ」

日直は手にしていた本を本棚に戻した。「ねじまき鳥クロニクル」という題名が見えた。

「そう……。なんて言うか、私もやっぱり自殺なの。部屋をほとんど掃除しないし、花瓶の中で花はいつも腐ってる。コーヒーは知らないうちに勝手にこぼれているし」

僕は想像した。今度は完璧に、本がそれらの物を食べているところを思い浮かべることができた。そして、日直の体が少しずつ文字に変えられてゆくことを想った。最後に残る跡形も文字なのだ。酷くリアルな光景で、僕は少しの間息を止めた。僕はそこで日直と別れた。日直は財布の中の十円玉の数を数えながら慎重に百円コーナーを歩いていた。僕は漫画のコーナーへ向かった。デビルマンを全巻読んだ。

さっき歩いた単行本コーナーの中に、日直の名前があった。墓碑銘だ。手に取って開いてみた。落書きは無かった。帯がついたまま売られていて、そこには彼女を賛美する言葉が数式のように連なっていた。

僕はその本を買って帰った。彼女に感染した本や、彼女の細胞が文字へと変えられてゆく瞬間を想いながら、コーヒーを入れて、僕は読んだ。

2011年4月29日公開

© 2011 坂露シロタ

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