偽名癌

坂露シロタ

小説

17,182文字

小説を書くことで人は自分には無意味で無害な偽名癌に侵されていく。

イクノは僕に向けて手を振っていた。

僕はその指先を見ていた。

突如として眠気が起こった。

2010年の五月初旬に僕は大学へ行かなくなった。校門の外側の桜が緑色だった。その根元には群生するタンポポの花が咲いていた。それは水気の多い空気にざらざらと揺れていた。通り過ぎ行く学生の何人かはその揺れに目をやった。彼らの髪や、スカートや、靴や、指が、揺れていた。彼らやタンポポの揺れる間に僕は立ち止まって瞼を閉じた。そうせざるを得なかった。唐突な眠気と、そして馴染み深い食欲が、僕の中にあった。僕の心の根源的な、それでいて生存にはまるで関係のない不明の部分から、彼らは現れ、そして共にまるで手心を加えることもなく、笑みと暴力を振りかざした。

僕はほとんど瞼を閉じたままで校門を抜けた。瞼の外側が黄色くきらきらと輝き始めていた。もはや瞼を開けていることは苦痛だった。瞼の裏側に存在する食欲と眠気に手を触れながら慎重に歩き、時にその輪郭をしっかりとなぞることさえもしながら、バスに乗り、僕はゆっくりと家路に付いた。

瞼の隙間から見える黄色の輝きの、その合間に、僕はイクノのことを考えた。彼の姿形を思い浮かべ、僕に向けて振った手の、指先の動きを思い返した。

マンションに帰り着き、小便を済ませ、手を洗い、鞄を置いた。それから僕は食べ始めた。これは当然のことなのよ、と囁きかけるようにして、それはごく冷静に行なわれた。

冷蔵庫の中にはポテトサラダと味噌汁が残っていた。その他には薄切りハムとベーコンがそれぞれ一袋、卵が四個、何種類かの野菜があった。冷蔵庫の内側には霞んだオレンジ色の明かりが灯り、生臭い冷ややかな空気がその色に滲んでいた。僕は味噌汁の鍋をコンロで温めながら、ボールから直接スプーンでポテトサラダを食べた。そうしつつ他の食べ物があるかどうかを考えた。六枚切りの食パンが四枚とシリアルがキッチンテーブルの上にあった。中ボールに半分ほど残っていたポテトサラダは数分で僕の身体の中へと収められた。いったいなぜ自分がこんな風に大量のポテトサラダを作っていたのか、全くの不明だった。僕はただ誠実に食欲に従った。空になったボールをシンクに投げ出し、ベーコンを生のままで食べながら、食パンを次々にトーストしていった。その一枚一枚の表面に大量のマーガリンを塗ると、てらてらと金色に輝き、まるで食べ物ではないように、それらはとても綺麗だった。温まった味噌汁に薄切りハムを入れて丼に注ぎ、トーストと共にテーブルに置いた。シリアルはほぼ新品のまま残っていたので、そのまま袋を破いてテーブルに置いた。牛乳が無いことが非常に悔やまれた。卵は電気ポットの中へ入れてゆで卵を作った。

僕はそれらを食べなければならなかった。

僕は唇を開いてそれらを食べた。

美味くは無かった。吐き気がした。

そしてそれは決して満腹感を伴わなかった。決して。食欲の暴力に屈服し、無抵抗に、僕は食べざるを得なかった。窓の外側に空は真っ白に晴れていた。そして黄色に輝いていた。それは揺れていた。僕はカーテンを閉めた。刃物じみて影が伸び、輝きは切断された。

次いで僕は眠気に従い長く眠った。

それこそが僕の使命だった。

眠気は食欲と同じ暴力を振るいながら、けれどその力の差は歴然としていた。唐突に存在し始めたこの眠気がいったい何を意味しているのか、僕には考える猶予さえも与えられなかった。

目覚めたのは二十時間後だった。小便をして、風呂に入り、少しだけ水を飲んだ。そうしてから僕は再び小説を書き始めた。僕がその行為を止めてから長く時間が経っていた。何故今になって再び書き始めるのか、自分自身でも全く分からなかった。揺れるイクノの手の動きや、突如として食欲に並んだこの眠気(再び、僕は眠りたかった)が、小説を書くという行為に何か関連しているのかもしれない。もちろん、そうではないのかもしれない。

とにかく僕は書き始めた。

やがて僕は食欲の暴力を忘れ始める。

次いでイクノの手の動きを忘れていく。

瞼の裏側で眠気だけが僕を支配し、僕はその合間に小説を書いた。僕の書く小説はタンポポの根に関するものだった。

 

医者と僕がいた。僕は患者だった。医者はとても綺麗に整った外見をしていた。困ったな、と言う風にボールペンを持ったままの右手でよろよろと後頭部を掻き毟り、彼は心底から困っているように見えた。最初僕は彼に対する申し訳なさを感じた。僕がその医者に訴えた症状はそれほど酷いものではなかった。ごくありふれた症状だった。僕と同じ症状のために通院する患者は、この世界には無数に、無限に存在するはずだった。摂食障害、うつ病、通俗でつまらない症状だった。自分が不相応に大げさに扱われているような気がして、申し訳なく、恐縮し、居心地の悪ささえ感じた。不安を感じ始めたのは少し後になってからだった。それは本来もっと早くに、例えばMRIレントゲンを撮る必要があるのでまずレントゲン室に行くようにと案内を受けた時にでも、感じて然るべきものだった。

診察室には窓が二つあった。一つは空に、もう一つは待合室に面していた。その二つが二つとも、非常に丁寧に、あまりにも透明に磨きこまれていた。外を向いた窓からは白く晴れた空が見えた。雲は無く飛行機も無くただ真っ白の空だった。待合室へ向けられた窓のすぐ外には衝立が置かれ、通過してゆく光の大部分がさえぎられていた。その為にその窓は僕や医者の姿を映す曖昧な鏡になっていた。小ぢんまりとした空間は静かで清潔だった。柔らかな丸みを帯びているような、それを手にとって感じることが出来るような、そんな気さえした。

医者の唇にはヘルペスが赤く、ぷっくりと膨らんでいた。

ぼくは彼が唇を開くのを待った。

医者はとても綺麗な外見をしていた。唇のヘルペスの赤々とした膨らみの、それされも含めて、とても綺麗な人間だった。僕は綺麗な人間を恐ろしく思う種類の人間だった。深く深く。僕は綺麗な人間を恐れていた。

医者は長い息を吐いた。彼は二枚のMRIレントゲン写真のシートを見つめていた。机の上に立てられた黒いボードに挟まれて、白いライトに浮かび上がり、それはどこか宗教的に輝いていた。医者は問診表とカルテに何度も目を通し、そうしてから再び後頭部を掻いた。ペンを握り締める彼の指先が後頭部へ回される動きや、僅かに歪められた唇や、ヘルペスの赤い色などを、僕は眺めた。しばらくは飽きることも無いかもしれないと思った。

レントゲン写真は僕の頭部をそれぞれ縦、横に数度切断した断面を写していた。一枚のシートにはそれぞれ十二枚の小さな写真が並び、それぞれが僅かに位置をずらして撮影されたそれぞれの脳断面図を示していた。楕円形の頭蓋骨を外郭として、脳の断面はロールシャッハ試験のインク染みのように、黒いボードの透ける上に、白く浮かび上がっていた。妙な恥を感じて、僕はそっと俯いた。

腫瘍が在った。腫瘍はほぼ全ての写真に写っていた。それはどの断面図から見ても、明らかにタンポポの花の形をして見えた。細かに重なり合い広がり合う花びらの一枚一枚や、それらを束ねる総苞の小ぶりな乳房じみた丸い膨らみなど、はっきりと見ることができた。茎や葉はなかった。ただ花だけが僕の脳のほぼ中央に、視床や海馬を幾らか押しのけながら、確かに咲いていた。この花に根はあるのだろうか。あるとして、それは何処から来ているんだろう、僕はそれをとても不思議に思った。

 

 

男は雌犬を連れて二車線の道路を歩いていた。消えかかった白線の、その内側の狭い歩道を歩いていた。右手側にガードレールと細い溝川を挟んで、幾つもの田圃の連なるのが見えていた。そこには無数のタンポポが咲き並びざらざらと揺れていた。それらはまるで学生の髪や、スカートや、靴や、指のようだった。

男はとある少年のことを思った。

少年の名前を呟いた。

その名前と共に胃液が喉元までこみ上げた。

同時にそれとは別に、しかし深い関連を持ちながら、異物が食道を擦りながらせり上がって来るのを感じた。男は何とかそれを飲み下した。それを吐くわけにはいかなかった。

ガードレールの脚の一本一本に寄り添うようにしてタンポポが咲いていた。アスファルトに僅かでも隙間があれば、必ずと言っていいほどその位置をタンポポが埋めていた。狭い隙間に無理に生えたタンポポは、どれも皆茎や葉を歪めた不具な姿で黄色く咲いていた。雌犬はタンポポを食べた。リードの伸びる範囲で触れることの出来るタンポポを一つ一つ丁寧に引きちぎっては、ほとんど咀嚼もせずに飲み下した。やがて雌イヌは大量の胃液と共に食べた全部のタンポポを吐き出した。ひび割れたアスファルトの上に雌犬の吐瀉物が残された。

男は少年の家へ向かって歩いていた。日曜日の度にその少年の家を訪問するようになってすでに数カ月が経っていた。男は少年が好きだった。愛していると言えた。男が愛する少年は十七で、世界の何より醜い外見をしていた。極度の肥満体で、醜悪な顔をしていた。だからこそ男はその少年のことが好きだった。愛していた。

醜い少年ならば誰からも優しくされたことがないはずで、優しくしてあげれば自分のことを好きになって、自分にも優しくしてくれるに違いない、愛してくれるに違いない、男はそう思っていた。加えて、少年の傍にいれば相対的に自分をいくらか上等な人間に思うことができた。同情しつつ見下すことができた。そのようにして男は少年を愛していた。男は醜いもの以外の全部の人間を恐ろしく思っていた。

男には友達がいなかった。二十五年と少し生きてきたけれど、未だ童貞だった。自分より上等だと思われる人間、特に外見の綺麗な人間に対しては恐怖や嫉妬の感情を塗り隠して白々と接することしかできなかった。当然そうやって接している相手からは好きになってもらえず、優しくしてもらえなかった。男はいつも自分よりも下等な人間を探していた。自分以上に醜く、自分を好きになってくれるなら、相手は誰でもかまわなかった。そして醜く太った少年は、愛する相手として申し分なかった。

男は愛する少年の元へ向かい歩いていた。

足取りは快活で世界は順調だった。

けれど不意に男は嘔吐した。

飲み下すことに成功したはずのものが胃液と共に次々にアスファルトの表面へ落下した。それはタンポポの花だった。そのタンポポには茎や葉や根は無かった。黄色く花びらの重なり合う花だけを男は嘔吐し続けた。それは長く続き、そうして終わり、やがて男は再び歩き始めた。

 

 

やがて医者は言った。

「あなたは小説を書きますか?」

「……小説?」

「はい。小説です。書くんじゃないですか? それもかなり長く小説を書き続けてきたんじゃないですか。十年か、ひょっとすると、もっと」

「書きますけど」

僕は答えた。

「もう十年以上になります。書き始めたのは十一の頃でした」

「なるほど。ずいぶんと早いですね」

「ええ。はい」

診察室の大部分は空白だった。空白こそが重要なのよ、と囁くようだった。医師の机。その上のデストップ型のパソコン。幾つかの書類。MRIレントゲン写真のシート二枚を挟んだ黒いボード。ライト。僕の座る椅子。それで全部と言って差し支えなかった。

僕は自分の言葉を少し遠くで聞いていた。

医者の言葉はさらにもう少し遠くにあった。

ふと昔のことを思い出した。僕は小学六年生だった。クラスメイトの掌を鉛筆で刺した為に、放課後、教室に残されていた。暮れる日の光が窓の外側できらきらと輝いていた。それは濃縮された黄色だった。教室には僕と担任の教師だけがいて、僕らはとても近い位置でお互いに向かい合っていた。

「イクノ君を鉛筆で刺したわね?」

「うん。はい」

「どうしてそんなことをしたの?」

静かに僕を叱責する言葉も、罪を認める自分の言葉も、少しずつ遠くに存在していた。それは今の世界とあまりにも同じだった。瞼を閉じればそれらはふらりと捻れて、二つの時間の区別は無くなるのではないかと思った。半ば本気で僕はそう思った。ふいに頭痛がした。それはちらちらと黄色に瞬いてすぐに消えた。息を吐きながら背もたれに寄りかかった。椅子の金属部分が軋んで鳴った。心臓が胃の中に落ちて消化されているような気分だった。小規模な吐き気を感じた。

偽名癌。

「偽名癌です」

医者は言った。僕は頷いた。

「非常にはっきりとしています。この腫瘍です」

医者はボードを回転させてレントゲンのシートを僕に向けた。そうして僅かに身を乗り出し、タンポポの花を指で指した。彼は唇を舌先で舐めた。ヘルペスの赤色が唾液に濡れた。

「なるほど」

「偽名癌というのは俗称で、本来は自己投影脳腫と言います。肺癌とタバコの関係を引き合いに出すのが最も理解の易い道ですから、一般には癌と呼ばれますけど。タバコが肺癌の原因になるのと同じで、小説を書くことが、この腫瘍の原因になります」

「はい」

「肺癌と違うのは、肺癌の場合タバコはあくまでリスクを高めるもので、タバコを吸わなくても肺癌になる人はなりますが、この腫瘍は小説を書く人間にしか発症しないということです」

「ええ」

「それから、致死性も全く違います。偽名癌によって生命が脅かされることはまずありません。何らかの障害を負うこともありません。言ってしまえば、普通に生活する上で、この腫瘍はあなたには無害です。レントゲン写真上では明らかに幾つかの重要な脳の器官を圧迫しているにも関わらず」

「なるほど」

なるほど。

僕にはそういった曖昧な納得しかできなかった。医者の指先を見るまでもなくそこにタンポポの花の形をした腫瘍が存在していることは明らかだった。医者の言葉にはテレビ番組で得ることのできる程度の知識しか含まれていなかった。僕は偽名癌が無害であるということを知っていた。

それで、僕は結局のところどうするべきなんだ? この無害な脳腫瘍は何を意味していて、この花の根はいったい何処から来るんだ?

不安と恐怖は依然高まりつつあった。

僕にはその理由が分からなかった。

 

 

ある時。意味もなく理由もなく突如として、或いは何らかの外的な要因によって、男の腋下や太股を不安がずりずりと這いずり回り始めた。始めそれは非常に小さく、ゆっくりとした速度で皮膚の表面を撫でまわり、時に存在を消しながら、僅かな痒みを残す程度の存在に過ぎなかった。けれどやがてそれは加速し、無数の脚で皮膚を踏みにじり、走り、皮膚を食い破り、男の身体の奥深くへと潜り込んだ。

そしてそれは試行錯誤を繰り返しながら、ついに脳の奥深くで安住の場所を見つけた。それはそこで巨大に花開くようにして翅を広げた。そこにはもともと食欲が存在していた。それはいとも容易く食欲を支配した。以来食欲はそれの命じるままに男を犯し始めた。

食欲は空腹を伴わずに男の目の前に現れ、全てを捻じ伏せながら立ちはだかり、何よりも優雅に微笑みながら、暴力を振りかざして瞼の裏側に立った。男はそれに抵抗する術を持たず、むしろ両手を広げてそれを迎え入れた。食欲に従うときにだけ、男は不安を意識せずに呼吸をすることができた。そうして命じられるままにセブンイレブン。スーパーカネスエ。ファミリート。業務用スーパーへ向かった。それは利害の一致であると言えた。男は支配されること望んでいた。こうして一人の過食症患者が生まれた。

男は便器の前に跪いていた。

陶磁器の洋式便器は曲線に日光を受けて白く白く輝いていた。TOTOの便器はどこか宗教じみて白く美しかった。男はいつも便器を汚した。けれど彼には便器の美しさを冒涜する気なんて全く無かった。むしろその便器はタニタの体脂肪計付きヘルスメーターやDHCの無数のサプリメント等と共に彼の神様だった。

男は便座を上げた便器の上に身を乗り出した。右手の人差指と中指を口の奥へ挿入した。その二本の指の付け根にちょうど前歯が当たった。何度も何度も同じことを繰り返していた。その部分にはすでに硬いタコが残っていた。舌の根元を押さえつけると食道がぐるんと蠢いた。涙が絞り出され、次に胃がぐねぐねと悶えた。唾液が溢れ出て鼻が詰まった。そうして男は嘔吐を始めた。カントリーマアム。チョコチップメロンパン。厚切りバーム。練乳入り苺大福。チロルチョコ。からあげ君。ムースポッキー。エンゼルパイ。六枚切りの食パン。それらを吐き出す瞬間に男の頭に浮かんだものは、雌犬が嘔吐を誘発するために好んで食べる、タンポポの花の形だった。

嘔吐は長く続いた。男は何度も右手の二本の指を喉の奥へ挿入した。時に窒息しながらも、男は嘔吐を続けた。嘔吐せずにはいられなかった。太るわけにはいかなかった。体重を54キログラム以下に保つことが彼の重大な使命であり、BMIが18以上になった自分には生きる価値が無いと考えていた。痩せているということが、彼にとって他人を見下す唯一の手段だった。他人との関係を上手く築けない以上、傷つかずにいるには他人を見下すしかなかった。もはや男の胃も脳も食べ物を欲してはおらず、現実や将来を締め出して、唯々便器やヘルスメータやサプリメントや醜い少年を神様として崇めるためだけに、男の食欲は存在していた。

げっぷが出て口の中に胃液の味が広がった。次いで屁が出た。トイレの中には胃や腸の裏側の匂いが溢れた。やがて男は水を流して立ち上がったが、その瞬間にふと再び吐き気が起こり、身をかがめた。その時に男が吐き出したものは無数のタンポポの花だった。それは次々に男の唇の隙間から零れ落ち、ひらひらと重なり音を立てて便器の水面に落ちた。

「なんだろうこれ」

何故そんなものを自分が吐き出したのか男には訳が分からなかった。嘔吐は止まらなかった。男は再び便器に跪き、手をつき、次々にタンポポを吐き出していった。便器には真っ黄色の花が無数に積み重なった。男の吐き出すタンポポに葉や茎は無かった。ただ黄色い花だけが胃液に濡れて小さく開いていた。それが最初だった。根はないのだろうか? もしあったとして、それはどこから来るんだ? 男はそのことを不思議に思った。

 

「それで」

それで。

その瞬間に僕は突発的な食欲を感じた。

それは常に突如として現れた。それは純然たる食欲だった。それは空間を捻じ伏せるようにして僕の目の前に立ち、それは優雅に暴力を振りかざして瞼の奥で揺れ、それは僕を支配した。「お腹が減った」という一言でそれを理解することはとうてい不可能だった。実際僕は空腹ではなかった。決して。身体は食べ物を求めていなかった。何も。けれど非常に確固とした輪郭でもって食欲は存在し、そのしなやかな揺れが他の全てを世界の端へ押しやり、そうして食欲は僕の全部となった。僕の身体の始まりから終わりまで、その全部だった。

「僕はどうすればいいんですか? これはどういう意味なんですか?」

僕は医者に訊ねた。

けれどそれら一般的な思考や、困惑や、もはや不安でさえ、見事に詐術的な言い訳じみて、意識の氷山の極々表層部分を覆うだけだった。食欲が根源にあり、その輪郭が見えた瞬間、他の感情や思考や感動は、自分自身や自分の思考を遠くから覗いているかもしれない誰か(なぜか僕は常にその存在を意識していた。存在していないとは知りつつ、無意味であるということも知りつつ)に対する防御壁として、薄く張り巡らされるだけのものとなっていた。僕はただ食欲が遠ざかるのを待った。そうしつつも実はその輪郭をしっかりとなぞり握り締めた。もはや本当の意味での不安や恐怖を僕は感じていなかった。ただその食欲自体に対する漠然とした、そして明らかに意識的に甘やかし楽観視した、温い不安のあるだけだった。セブンイレブン、スーパーカネスエ、ファミリート、業務用スーパー。それはもはや避けようのないことだった。

「意味。この腫瘍の意味ですか」

「はい」

「それと、あなたがこの腫瘍に侵されているという事実に対して、あなたがするべきこと」

「はい」

医者は長く瞼を閉じた。

「さて」

「……さて?」

「私にはなんとも言えないんです」

医者は言った。

僕は医者の言葉を意外に思った。

担任の教師は言った。

「もうこんなことをしちゃだめよ? 分かったの?」

「……はい」

窓の外は暮れていた。けれど僕は再びイクノを鉛筆で刺すことになる。止めることなどできないのだ。イクノは醜く太っていて、そして、だから、僕や僕らは彼を鉛筆で刺してもよかったのだ。実際それは世界の何者からも許された行為だった。イクノは醜く太っていた。明らかに。僕よりも。僕らよりも。そして僕は十年後に大学でイクノと再び出会うことになり、変態したイクノの身体に白い脂肪のまるで見当たらないことやその外見のあまりに綺麗なことに言葉を全部失って、卑屈に笑って友達になり恐怖に縮こまることになるのだ。その時のイクノの唇にもヘルペスがあった。赤いヘルペスがぷっくりと膨らみ、それはてらてらと唾液に濡れ、一層赤々と、それは輝いているように、それは揺れているようにさえ見えた。そうしてふと何の脈絡も無しに、訳の分からない食欲を僕は瞼の裏側に見つけることになり、それが食欲の支配の初まりとなるのだ。

頭痛がした。酷い頭痛だった。それは脳の中でタンポポの花びらの形に添うようにして広がり、けれど、瞬きの間に消えていった。

僕の食欲は呻りを上げた。

「なんとも言えないって、でも」

言いながら、僕は長く黙った。

「すいません。しかし、手術を受けましょうと勧めることも、処方箋を書かせてもらうことも、私にはできません。腫瘍は全くの無害であり、放っておいてもかまわないのです。つまりこの腫瘍はあなたの摂食障害やうつ病とは無関係です」

「そうですか」

「はい」

「放っておいてもいいんですね」

「はい」

医者は頷いた。

「しかし、意味に関してなんですが」

「意味?」

「さっきあなたの訊ねたことですよ。この腫瘍に害はありません。しかし意味は、おそらく、あります。それを断言することはできませんが、小説を書く人間が全て偽名癌にかかるわけではない、ということから推して、おそらくは、とは言ってもよいと思います」

「それはどのような意味ですか?」

「私に聴かれましても」

医者は首を小さくかしげた。

僕は息を吐いた。

「あの、もしよければ、あなたの書いた小説を読ませてもらえませんか」

「今、ですか?」

「もしも今お持ちなら。はい、できればすぐにでも」

「それは、偽名癌に対して何か意味のあることですか? つまり、医学的な」

「さあ?」

「……さあ?」

「どうでしょうか」

僕は自分の書いた小説のことを考えた。それはタンポポの花や根に関する小説だった。僕はつい昨日にそれを書き上げUSBメモリに保存していた。そしてそれは未だ僕のパソコンに接続されているはずだった。それは確かで明らかなことだった。そのはずだった。けれどなぜかそのUSBメモリは僕の鞄のポケットの中にしっかりとした形を保って存在していた。まるで落下の夢を見た瞬間の覚醒のように、はっきりと明瞭に、それは在った。

僕はそれを医者に手渡した。

パソコンの画面上に僕の書いた小説が表示され、医者は静かにそれを読んだ。医者が読み終えるまでには長く時間が掛かった。まるで呼吸と読書を別々に行っていると言う風に、あまりにも長く時間が掛かった。僕はその間にただ食欲を撫でた。偽名癌に関して不安を感じることも、今や自分や他人に対する単なる演技になっていた。

そうして、或いは一億回の瞬きの後で、やがて医者は言った。

 

 

食欲が空腹を伴わず現れるように、空腹も食欲を伴わなかった。腹の中に小ぶりな空間を納めるような空腹のまま男は歩いていた。空腹は心地よかった。空腹こそが男にとって唯一確実の清潔だった。それ以外の清潔さを自分や自分の人生の中に見出すことは、男にはもはや不可能だった。

雌イヌを連れて男は歩いていた。目指す少年の家は目の前だった。

黄色のタンポポの生えた庭を、石畳を踏みながら通り抜けた。緑色に整えられた芝生には僅かに、しかし非常に鮮やかに、タンポポが生えていた。それらは揺れていた。喉の奥に再び感じた異物感を飲み下した。吐き気がした。タンポポの花びらの感触を咽頭の窪みの中に感じた。再びタンポポの嘔吐の始まろうとしていることが分かった。庭からは二階の少年の部屋の窓を見ることができた。そこにはいつも通りに、ピンク色のカーテンが老いた怠惰な瞼じみて、遮断、切断、という風に閉じていた。

男は玄関の前に立った。

呼び鈴に手を伸ばす一秒前、男はいつも、あり得ないはずの不安に襲われた。それはつまり、この一週間の間に少年が何らかの変態を遂げ、白い脂肪を脱ぎ捨て、何か鮮やかで綺麗な物へと変貌を遂げているのではないか、ということだった。愛する少年が綺麗になることを男は何より恐れていた。美しい少年は愛されて優しくされるだろう、自分以外の人間からも、そうすればもう、きっと、少年は自分には優しくはしてくれないだろう、決して愛してはくれないだろう、そうすればもう、自分も少年を愛することが出来ないだろう。

それがあり得ないということは分かっていた。肥満や外見の醜悪さは少年の身体にあまりにぴったりと馴染み、それが離れてなおも彼の心臓が動き続けるということを、男は信じることが出来なかった。しかし、けれど、或いは。止めようもなく美しく変貌した少年の姿が思い浮かび(なぜかその少年の唇には赤いヘルペスがぷっくりと膨らんでいた)、それを現実でもって否定するため、男はいつものように呼び鈴を押した。男は更に醜くなった少年の姿を想った。そうであれば良いと心の底から願っていた。タンポポは揺れていた。男が便器に吐き出す花と同じに、それは黄色に輝いていた。雌犬がひどく人間じみた声で吠えた。玄関が開けられ、少年の母親(もしくは祖母、姉)が顔を出した。

「あぁ先生。どうもすいません、いつもご迷惑をお掛けします」

彼女はドアの隙間から小さく頭を下げた。彼女の背後には薄暗い敲きと、そこに散乱して転がるブーツの踵が見えた。男はにっこりと、丁寧に微笑んだ。

「いいえ。僕も好きで来てるんですから。こちらこそ、ご迷惑でなければいいんですが」

「まあ、そんな」

「いえいえ」

「どうぞ、上がってください」

「はい、それじゃ、失礼します」

玄関先に雌犬を繋ぎ、男は少年の家に上がった。まるで微塵に砕けた何かの残骸じみて散らばる靴の合間に、男は自分の靴を脱いだ。少年の母親はその瞬間に記号的に消えていた。それが比喩的表現上での消滅なのか、実際的な消滅なのか、もはや男には関係が無かった。男は突如に明らかな吐き気を感じた。胃ではない、どこか、身体の空白の一部分が、タンポポの花で埋め尽くされているのを感じた。嘔吐するわけにはいかなかった。タンポポを吐くわけにはいかなかった。

「大丈夫ですか?」

「……何がですか?」

「ちょっと顔色悪いみたいですけど」

「そうですか? いえ、平気ですよ」

廊下を歩き、階段を上った。少年の母親は台所へ消えていった。消えるために便宜的に台所へ向かったと言えた。

突如として現れたその吐き気はもはや何者をも超えていた。空腹の清潔感も、少年の外見に対する不安や優越や愛や、母親の存在や、この場に存在していたとして、おそらくは食欲さえも。タンポポの嘔吐感は暴力ではなく、瞼の裏に納まることも無く、何らかの意味を持って、明らかに男を苛んだ。男は数日前にこのタンポポの嘔吐について医者の診察を受けていた。医者は男を偽名癌と診断した。そのことに特に驚きは無かった。男はすでに十年以上も小説を書き続けていたし、何より、偽名癌には自分に対する害も意味も無いことを知っていた。

「胃にできる癌でね。腫瘍がタンポポの形になって吐き出されるんです。じきに治まりますよ」

「つまり、放っておいてもいいてことですか?」

「まあね」

「……まあね?」

「まあ、大丈夫ですよ」

医者は言った。そうして鮮やかに微笑んだ。医者は綺麗な外見をしていた。その医者に対して、自分が偽名癌などと言う奇妙な病気を持ち込んでしまったことを、男は自身の恥のように感じた。

けれど嘔吐は決して治まらなかった。

いったい、何が何に対して無害なのだろう?

そしてタンポポの根はいったい何処から来るのだろう?

男は今すぐにでもトイレに向かいたかった。けれど出来なかった。トイレは男にとって特殊な意味を持つ場所だった。道路に嘔吐することはできた。けれど自分の家以外のトイレで嘔吐することは絶対に出来なかった。綺麗な外見の人間を恐れるように、男は他人の家のトイレを恐れていた。

少年の部屋のドアが目の前に在った。自分はまず間違いなくこのドアを開けると同時にタンポポの花を嘔吐するだろう。男は確信を持った。男はドアノブに手をかけた。それは金属の音を立てた。部屋には鍵が掛けられていた。男がノックをするとドアが開いた。

愛する少年がいた。

カーテンはやはり閉め切られ、そこは薄暗く、生臭く、そして男の愛する少年は醜いままだった。瞼も、唇も、髪も、指も、全部が予めそうであれと定められたように醜かった。

「久しぶり」

男はにっこりと微笑んだ。

少年は瞬きをした。

瞼には殆ど睫が生えておらず、過剰な脂肪で膨れ上がったそれは重力に屈服するように垂れ下がっていた。少年は名前をイクノと言い、男のクラスの生徒だった。

「……うん」

醜く、肥え太っていた。

少年は唇をおずおずと歪めながら、男を部屋へ招き入れた。男は嘔吐をしなかった。けれどタンポポの花びらの、どこからか空白的な場所から湧き出る嘔吐の感覚は依然として消えず、それはむしろ瞬きの一度一度の度に酷くなっていった。男は唾を飲下し、転がり続けるように吐き気に抗った。嘔吐するわけにはいかなかった。タンポポを吐くわけにはいかなかった。少年の姿を目にする度に感じるはずの歓喜も、世界の全部に対する優越さえ、このタンポポの嘔吐感の前では無力にも砕けていくだけだった。

かつて食欲だけが男の全部を支配するものだった。それだけが歓喜と愉悦だった。それは巨大な翅を脳に広げ、ただその影に隠れるだけで男は全部に対して瞼を下ろすことができた。けれどやがて男は醜い少年イクノに出会い、新たな歓喜と、優越を見つける。それは、それだけが、食欲にさえ打ち勝つものだった。男はそれを愛と呼んでも良いのだと思った。見下すことで、ようやく自分は愛することが出来たのだと感じた。しかし、偽名癌のタンポポが、今、それら全てを破壊しようとしていた。男は耐えた。吐くわけには行かなかった。タンポポの根がどこからやって来るにせよ、今それに屈服するわけにはいかなかった。

偽名癌が本当に自分に対して無害なのだとすれば、この苦しみは何の為なんだろう?

「どうしたの?」

少年は男の顔を覗きこんだ。

少年の部屋には物が殆ど置かれていなかった。巨大なベッド。窓を塞ぐピンク色のカーテン。そして机と、その上のデスクトップ型のパソコン。それで全部だった。多大な空白が一つ、それら全部の輪郭を覆い包めていた。少年はベッドの淵に腰を下ろした。細かな埃が舞い上がって揺れた。その先端のきらきらと輝くのさえ、今の男の目には障った。もはや少年に対して瞼を開くことさえ苦痛になりつつあった。男は少年の脚の指のすぐ先に、床の上に、胡坐をかいて座った。男は少年の球体じみて突き出た腹を見上げた。シャツはその輪郭にそってぴんと張り詰め、何故かそこには黒く縮れた陰毛が張り付いていた。

「……何が?」

「顔色が悪いよ」

「そうか? 別に、なんとも無いけど」

男は少年の顔を眺めた。男は少年に対して勃起することさえできた。それなのに、もはや、今は吐き気だけしか感じなかった。

「この前の小説、読んだよ」

少年は言った。男の目の前で分厚い両脚を組み、その膝の上で、太い、けれど嫌に長い両手の指を組み合わせた。男にはそれらが酷く揺れているように見えた。

「どうだった? 今回の」

男はタンポポの花や根のことを考えた。先週の日曜日に少年に渡した小説はそれらに関するものだった。

「自己投影してるよね。先生」

「……そうかな?」

ふと男は自分の吐き気に対する抗争が今や無意味になりつつあるのに気付いた。それは結局、早いか遅いかというだけの問題なのだ。自分は必ず、吐いてしまう、そう確信した。正確に、間違いもなく、いくらか予言的に。かつて食欲に服従を始めたのと同じように利害の一致では決してないものの、男は敗北を受け入れた。

その瞬間に偽名癌の苦痛が世界の全部となった。

「ねえ、どうして名乗らないの? 」

少年は言った。

「いつも、思ってたんだ。先生は、名乗ってない。名乗らずに、登場人物に自分を投影して、登場人物として架空の人物になりきって、そうして自分の言いたいことを話して、あの男の人が苦しむのは先生が自分は苦しいって言いたいからでしょ? あの男の人の思うことは先生の思うことで、先生はそれを人に知ってもらいたくて、でも自分の口では言えないから、名前を名乗らずに他人のふりをして。その男の人の隠したい心を暴いて文字にしてしまうことで、自分の言いたくて言えないこと言ってるんだ」

白い足の指先が揺れていた。唇が唾に濡れて開き、閉じ、舌先が見え、再び開いた。揺れていた。少年は瞼を痙攣的に動かした。瞬きのようだった。

「ペンネームは良くないかな。そういうこと?」

男は笑って見せた。

もはや男は少年の言葉を実際に聞いてはいなかった。ただ時間稼ぎ程度の意味しかない、浅い呼吸を繰り返した。そしてそれは嘔吐のタイミングを見計らうだけのことだった。

「もしも先生があの男の立場だったらどう?」

少年は言った。

けれど男はそのことにもはや興味は無かった。タンポポの花はもはや決壊寸前だった。黄色の花びらの自分の唇の隙間から飛び出だし落ちる瞬間が、絶対の予知として比喩表現ではなしに目に見ることができた。……その花びらの、その根はいったいどこから来るのだろう。男は世界を端から眺めるようにしてそう思った。

「先生、名前は?」

少年の訊ねる言葉を聴いた。

どうしていまそんなことをたずねられるのだろう? 男は不思議に思った。偽名癌のタンポポが喉元をせりあがり胃液が鼻の粘膜を刺激した。目には涙が溢れ視界が揺れた。

「小説に自己投影するのなら、先生は、小説の中で名乗るべきだよ」

少年は言った。

タンポポのその根だ。それはいったい何処から来るのだろう? そして、自分の偽名癌が自分にとって無害で無意味だとすると、この苦しみは、いったい誰の偽名癌の為だろう?

「※※※※」

男は言った。

男は嘔吐した。

黄色い花びらはとめどもなく次々に落下した。胃液が飛び散り少年の脚の指先がそれに濡れた。少年の部屋やその外側の世界を埋め尽くすのではないかと思うほど、男の嘔吐は長く続いた。

 

 

「あなたは、名乗るべきだと思います」

「なのる? 」

僕にはその言葉の意味が分からなかった。それは僕の普段使う言語ではないようにさえ聞こえた。医者は僕の脳に花びらを広げている腫瘍の、その意味を説明するような言葉を言うはずだった。名乗る。もちろんそれは偽名癌を予防する上では効果がありそうな事のように思えた。けれど今、僕の脳の中にはすでにタンポポの花の腫瘍ができていていた。そしてそれは全くの無害なのだ。今更名乗ることに意味があるとは思えなかった。

パソコンの画面には再び一ページ目が表示されていた。デスクトップパソコンは限りなく無音に近づきながらファンを回転させ、それだけが世界の中の音だった。パソコンの画面には小説の題名と僕のペンネームが表示されていた。

「あなたは名乗るべきなのです」

医者は再び同じことを言った。

どうしていまそんなことをたずねられるのだろう? 僕は思った。僕の意識は食欲だけを受け入れていた。それ以外に瞼を開けたくはなかった。自分の書く小説やその小説の中で自分が何をしようとしているのかなんて考えたくは無かった。頭痛がした。今度の頭痛は長く続いた。僕はその痛みを明確に感じた。

「ペンネームじゃなくて、※※※※って本名で書くべきだってことですか?」

僕は訊ねてみた。

「さあ?」

「……さあ?」

「まあ、今回はこの辺りまでですね。ルボックスの25mg処方しておきます。抗うつ剤です。また来週の日曜日にいらしてください」

「はい」

僕は長く息を吐いた。

窓の外に目をやり、空の白く輝く只中に黄色の細かな粒子がちらちらと輝くのが見え、それが嫌に目に障った。その輝きはタンポポの花びらとまるで同じ色をしていた。その黄色の瞬きは少しずつ数を増し揺れるように見えた。それを眺めていると再び頭痛が起こった。痛みは僕の偽名癌の腫瘍のその花びらの淵にぴったりと沿うようにして僕に在り続けた。僕はその痛みの輪郭をたどることでタンポポの花の形に触れることさえ出来た。食欲や、醜い人間に対する欲望に、その感触はよく似ていた。

その根はいったい何処から?

僕の偽名癌は、僕に対しいて無害で無意味なはずだった。

僕はUSBメモリを医者から受け取り、それを鞄のポケットに戻した。そうしてドアを開けて診察室を出た。待合室で薄ピンクの長ソファに座っている間、頭痛はずっと僕の中に在った。窓からはやはり白い空と黄色の輝きが見えた。やがて僕は料金を払い、薬局で抗うつ剤を受け取り、病院を出た。

五月の初旬で暖かだった。緑色の桜の根元に群生するタンポポの花が咲いていた。それは水気の多い空気にざらざらと揺れていた。通り過ぎ行く学生の何人かはその揺れに目をやった。彼らの髪や、スカートや、靴や、指が、揺れていた。彼らやタンポポの揺れる間に僕は立ち止まって瞼を閉じた。そうせざるを得なかった。頭痛が僕の中にあった。それは笑みと暴力を振りかざした。そうして僕の頭の中にあった。

僕は幼いイクノのことを考えた。かつて鉛筆で刺しても構わなかった頃のイクノの姿を思い浮かべタンポポの花の形の頭痛に抗った。僕は普段の生活の中でよくイクノの幼い姿を思い浮かべた。時にそれは食欲の支配に打ち勝つことの出来る最後の手段とさえなった。

けれど頭痛は食欲やイクノの姿さえ破壊した。

瞼の外側が黄色くきらきらと輝き始めていた。もはや瞼を開けていることは苦痛だった。僕はずっと瞼を閉じていた。脳の中に偽名癌のタンポポがはっきりと感じられた。それは一個の純然たる苦痛だった。

やがて僕は食欲の暴力を忘れ始める。

ついで醜いイクノの姿を忘れていく。

タンポポの、長い長いその根はいったいどこから来ているんだろう、僕は不思議に思った。

 

 

僕は小説を書き終えた。酷く眠かった。

もはやそれは純然たる苦痛だった。

シンクには未だポテトサラダのボールが残っていた。僕にはそれを洗い片付けるという気はなかった。やがて虫が湧き黴が生えるということは理解しながら、味噌汁の鍋も、丼も、卵の殻も、それらは全てはキッチンテーブルの上で静止を続けていた。それはかつて僕の中で暴力を振った食欲の死骸だった。もはや僕はそれを失っていた。かつて僕はそれの奴隷だった。それは死んだ。睡眠がそれを殺してしまった。

僕は眠る。目覚め小説を書く。

僕はそれを繰り返し生きていた。

なぜ書くのかは分からなかった。

「※※は小説の中でだけ言いたいこと言うな」

少し前に、或いは何億時間もの睡眠の以前に、イクノは言った。冗談を言っているように聞こえた。

「偽名使うからね。悪いか?」

僕は言った。それが僕らの交わした言葉の最後だったのかもしれないし、そうではなかったかもしれない。

僕はペンネームで小説を書いた。

本当の名前は※※※※だった。

イクノは僕の隣の席に着いて分厚く白い脚を組んでいた。腹は丸く突き出し瞼は重く垂れ下がっていた。そうして何故か嫌な顔をして僕を見た。或いはペンネームのことを言っているのではなかったのかもしれない。やがて教室に講師が入り授業が始まった。講師は美しい外見をしていた。その唇には赤いヘルペスがぷっくりと膨らんでいた。

とにかく僕は一つの小説を書き終えた。

それはタンポポの花や根や僕やイクノに関するもので、そして僕はもう、それ以上何かを書くつもりはなかった。偽名も本名も使うつもりは無かった。もう何も書きたくなかった。僕は眠りたかった。十六時間から二十時間、まるで冷凍された巨大な魚みたいに僕は眠り続ける。僕の身体は衰弱を続けた。食事や排泄以上に僕は睡眠を優先した。風呂は一度も入っていなかった。筋肉は明らかに衰え胃は縮み殆どの固形物を受け入れなかった。瞼を開けている間は常に貧血気味だった。一度寝小便をしたけれどその時に布団に染み込んでいった少量の尿は、赤に近いほど濃い色をして酷く臭った。血液の循環は滞り、脳はとても緩やかに世界を眺めた。

僕は眠った。僕が眠っている間にも世界は黄色く輝き、ゆらゆらと揺れていた。目覚めると携帯電話に何件かの不在着信とメールが入っていることがあった。イクノからの連絡ばかりだった。僕はそれを嬉しいと、そして悲しいと、決して思わずに、瞼を閉じるだけだった。空は白くその合間に黄色の光のきらきらと輝くのが見えた。僕は目蓋を閉じたまま一定のリズムを保って静かに息をしていた。僕の呼吸に合わせるようにして時間は過ぎ、そしてどこかへ消えていった。

僕はいつもタンポポの夢を見た。

それは緑色の桜の根元に群生して花を咲かせ、黄色く揺れて輝いていた。僕は目を覚まし、その根がいったい何処から来るのかを疑問に思った。

2010年11月13日公開

© 2010 坂露シロタ

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