蝶葬された子

坂露シロタ

小説

10,165文字

「彼女」が自分の故郷であるIという町で行われている蝶葬の風習について語り始める。 「僕」はそれをただ聴いている。 「彼女」は七歳の時に初めて蝶葬を見た。近所に住んでいた「クギヌキ」という老人が死んだのだ。「クギヌキ」の死体は芋虫に食われ、その芋虫は紫色の蝶々の大群となって街を覆った。 「彼女」は「僕」との子供を堕胎してきたばかりだった。 私とあなたの子も蝶葬されたの、と「彼女」は言った。

病院から戻ってきた彼女は蝶葬について話し始めた。

彼女がなぜそんな話を始めたのか、僕には解らなかった。彼女が喋り始めたのは、僕らがベランダのガラステーブルに着き、幾つかの透き通った言葉、大丈夫だった? お疲れ様、ごめんね、等を交わした後だった。空は均一に青く、僕や彼女の輪郭はそこにくっきりと浮かび上がっていた。僕は彼女の輪郭を、彼女は僕の輪郭を、それぞれ眺めていた。広告塔、病院、マンション、僕らの周囲には様々な物の形が浮かんでいた。

「あなたは蝶葬についてあまり多く知らないでしょう」

彼女はとてもゆっくりと唇を動かした。

「NHKの番組で少し見たことがあるけど、詳しくは知らないな」

僕も彼女と同じ速度で喋った。

「私は何度か実際に見たことがある。

それは誇ってもいいことだと思うの。たとえば思春期以前に「エルマーと竜」とか「長靴下のピッピ」とかを読む機会のあった人が、それを誇れるのと同じで。人間の死体が芋虫によって分解されて蝶々になってゆく光景は、「ハリーポッター」シリーズよりも価値があるのよ」

僕は曖昧にうなずいた。

その時の僕らには、蝶葬や「ハリーポッター」シリーズ以上に語り合うべき事があるはずだった。けれど僕は積極的にそのことを口に出したいとは思わなかったし、彼女のゆっくりとした口調がいつまでも続けば、僕ら二人の間にある幾つかの問題が、やがて消えて無くなるのではないかと思っていた。

僕らはしばらく黙っていた。低空飛行の旅客機が僕らの真上を通り過ぎ、空を鳴らした。そうして僕らの外側はとても静かになった。

「80年代に生まれて、2001年を少し過ぎるまでの間、私はIという町で暮らしていたの。あなたが見たNHKの番組というのも、Iに関するものじゃないかしら。Iの住人は皆、生まれた時から蝶々の卵を体の中に持っているのよ。もちろん、私もそう。私たちが死ぬと体の中で卵が孵って、自然に蝶葬が起こるの。なんて言うか」

彼女は一旦言葉を止めた。

「死がスイッチになっているみたいに」

そしてそのまま首を傾げるような動作で、病院の方向に目を向けた。

「スイッチ?」

僕も彼女と同じ動きで首を傾げた。スイッチという言葉は妙に耳触りが悪かった。人間の死がスイッチに。それは少し冒涜的に聞こえた。

「詳しく話しましょうか」

彼女は言った。

「お願いするよ」

彼女は話し始め、僕は彼女が喋るのと同じ速度でそれを聴いた。

「七歳で初めて蝶葬を見たの。近所に住んでいたクギヌキというお爺さんが死んだのよ。どうしてそういう風に呼ばれていたのか知らない。たぶん渾名か何かだったのだと思うけど、本名だったという可能性もあるわ。名字だったのかもしれないし、名前だったのかも。とにかく、80年代の終わり頃にクギヌキは死んだの。

報せが来て、私はお母さんに手を引かれてクギヌキの家へ向かった。人間が死ぬとすぐに蝶葬が起こるから、遺族はそれを見に行かなければならないのよ。そうね、たぶんクギヌキは私の親戚だったのでしょうね。いや、でも、ただ単に近所だからという理由で呼ばれたのかもしれない。実際のところ、クギヌキに関して私はよく知らないのよ。

ただ、彼が「気違い」と呼ばれていたことだけは確かよ。それはよく覚えているの。

Iは清潔感のある、さっぱりとした住宅都市なの。閑静な、というやつよ。そんな町に蝶葬なんていう独特な風習が残っていたから、NHKも番組を作ったのでしょうしね。

でもクギヌキの家には鶏がいたわ。

「クギヌキの家は気違いだ」とI中の人が言っていた。クギヌキの家は腐りかけた木造住宅で、庭は妙に広いのだけれど、それは手入れのされていない分厚いだけのサワラの生垣に囲まれていて、鶏はその庭の隅で、木箱のような小屋に押し込められていたの。一つの面に金網を張っただけの、一メートル四方の木箱。そこに四匹も詰められて、鶏たちは大声で一日中鳴き続けるのよ。クギヌキの家からは鶏の糞と人間のおしっこの臭いがしたわ。そう言えば、なぜか分からないけれど、鶏小屋のすぐそばに男性用の小便器があったわね。大便器は見当たらなかったけど。

私はそういう物の側を通り過ぎて、お母さんと一緒に家の中へ入っていったの。家の中もひどい臭いがしたけれど、少なくとも鶏小屋の近くみたいにメタンが目に沁みるというようなことはなくて、代わりに、酷く生臭い草みたいな、そうね、今から考えるとあれは精液の匂いね、それが家中に染みついていたわ。

お母さんは畳の間まで迷わずに歩いた。前に来たことがあったのかも。六畳の畳の間に死体が寝かされていて、その周りにクギヌキの家族が座っていたの。どういう構成なのか分からないけど、男の人が三人と、女の子が一人だったわ。私はその時初めてクギヌキの姿を見たのよ。それまでは見たことがなかったの。大人が話すのを聞いたり、鶏の鳴き声や臭いから推測していただけだった。もちろん、ブリタニカ百科事典に載せても構わないような、典型的な気違いを想像していたわよ。

でも、死んでいたのは綺麗な顔をしたおじいさんだったわ。

私やお母さんを含めて、そこではみんながとても静かだった。

泣いていたのは女の子一人だけで、三人の男の人は、正座をしたまま身を乗り出して、じっとクギヌキの死体を見つめていたの。女の子の泣き声がとてもくっきりと浮かび上がっていて、その子は肥満体で、妙なデザインのワンピースを着ていて、涎や涙がすごく汚らしかったけれど、静かにしくしく泣いていて、なんだかちょっと印象的だった。

畳の間は縁側に面していたから、戸を全部開けられたそこからは庭の小便器が見えていて、鶏たちの、まるで抑圧された性欲という風な鳴き声もよく聞こえていたわ。髪も髭も、指の毛も生えていない白い死体が、透明の管で空の点滴に繋がれていたの。人工呼吸器は外されていて、鼻から痰を吸引する機械と一緒に、ビニールのケースに片付けられていたわ。たぶんついさっきまで医者がいて、遺族だけで蝶葬を見られるように、気を使って外へ出たのでしょうね。

「クギヌキの家は気違いだ」って、私のおばあちゃんやお母さんもよく言っていたけれど、白くてさっぱりとしたその死体は、どうも気違いには見えなかったわ。どちらかと言えば、ヨウコの姿の方が気違いのイメージに近かった。ヨウコというのは泣いていた女の子の名前よ。私はその女の子の名前を知っていたの。女の子といっても、私よりも七つ上で、当時の私の目からは十分に大人に見えたけれど。

「クギヌキの家は気違いで、ヨウコは雌畜生」。80年代のIでは、それは一つの慣用語だったの。大人たちはお天気の話をして、面白そうなテレビ番組や子供や孫たちについて話し合って、退屈すると、「クギヌキの家は気違いで、ヨウコは雌畜生と同じね」と言うのよ。

だから私はクギヌキの家にいる女性がヨウコという名前だと知っていたの。畜生の意味は分からなかったけれど。そうね、おばあちゃんやお母さんもそんな風に言っていたのだから、私の家は、やっぱりクギヌキとは血縁関係がなかったのかもしれない。でも気違いの親戚をそんな風に言うのは自然なことだし……。まあ、どちらでもいいけれどね」

彼女は一度口を閉じて、ゆっくりと唇を舐めた。舌先が丁寧に唇をなぞった。再び彼女が口を開くと、一瞬だけ口に唾液の膜が張った。

「クギヌキの蝶葬はヨウコの鼻水が畳の上に落ちた頃に始まったわ。そうね、それもある種のスイッチのようだったわ。

蝶葬はまず目から始まるのよ。私たちは目玉の裏側に蝶々の卵を持っているから。もしもIの住人以外の人が蝶葬されたいと思ったら、生きているうちに蝶々を目蓋にのせることが必要ね。NHKでやっていたでしょう? 蝶々は睫の間を縫って目蓋の隙間に腹を押し当てて、数千か数万の卵を植えつけるのよ。

最初に目蓋が細かく動き始めるの。数千、数万の卵が孵って、黒い芋虫が裏側から目玉を食べているのよ。芋虫はやがて目玉を食べつくして、次は目蓋に取り掛かるの。その頃には緑色の整った形になっているわ。目蓋がやっつけられると、そこから芋虫は好き勝手に、内側からも外側からも体中を這いずり回って、白い骨だけを残して死体を食べつくすの。空っぽの眼窩から芋虫が溢れ出す瞬間に、現実的な死というものが空気の中に混じって、ヨウコは鶏と同じ声で泣いたわ。Iの人間にとって、つまり、生きているIの人間にとってという意味よ。死んだ人間には関係がないじゃない。死ぬということは芋虫に覆われるということなの。有無を言わさないほど視覚的で、はっきりとしたイメージでしょう。

肉を食べる芋虫の動きはとても早いのよ。テレビ番組で、植物の成長を早回しで放送するのがあるでしょう。NHKの番組にあるわね。蝶葬の芋虫の部分は、それによく似ているの。血を零すこともないまま、さらさらと死体が芋虫に喰われて、すとんと自然落下するみたいに、私たちの目の前には、パジャマを着た、芋虫にびっしりと覆い尽くされた人間の形のものが残されるの。

芋虫は太く、丸くなっているわ。あなたの親指くらい。ほとんど身動きをしなくなっていて、時々腰を振るような動きをするだけよ。

それから、変体が起こるの。頭蓋骨の上にいる芋虫たちが糸を出し始めると、男の人の一人が布団をめくって、クギヌキのパジャマを脱がし始めたわ。最初に上着のボタンを外してから、ズボンは鋏で丁寧に切って開いていった。パジャマや布団で隠れていた箇所も隙間なく芋虫で覆い尽くされていて、その芋虫たちも糸を出していて、全く隙間の無いそんな状態なのに、上手く自分の腹を骨の上に固定し始めていたわ。それから一分もかけずに全ての芋虫が脱皮をして、前後のとがった楕円形の、身を縮めて蹲っている蝶々の形の蛹になるの。

蝶葬の開始からここまで、三分と少し。

とても早いのよ。

蛹にひびが入った後は、ほとんど瞬きの間よ。

萎えた透明の翅がとろどろの液体みたいに蛹から零れ出て、黒くて大きな眼の先で触角が伸びきると、紫色の体液が翅に廻らされて、固い勃起みたいに、それは凛と張るの。六本の足が抜け殻を蹴って、そうして、ねえ、あなたは蝶々の翅音を聞いたことがある? 数千か数万の蝶々がクギヌキの白い骨を残して同時に翅撃たいた瞬間、彼らの翅は音を立てたの。鱗粉の混ざった風が起こって、ヨウコの髪の毛がほんの少し浮かんだわ。蝶々は一匹も部屋の中に留まらずに縁側から外へ出て、小便器や鶏小屋の上を飛んで、空へ昇って行った。その日は一日中、降るような蝶々とその紫の鱗粉が空に在ったわ。蝶葬のあった日は、いつだってそうなの」

彼女は息を吐いて口を閉じた。

「空へ昇って行った」

僕は小さな声で彼女の言葉を繰り返した。

「死んだ人間が数千か数万の紫色の蝶々になって空へ昇る」。悪くないと思った。人を死なせてしまっても、キレイな記憶が残るのではないかと思った。

「耽美な感じがするね」

僕がそう言うと、彼女は溜息を吐くように首を横に振った。彼女と僕の意見は違うようだ。それは当然のことなのかもしれない。僕は誰かの死を身近に見たことが無くて、もちろん人を死なせてしまったこともなかった。

「もう少し話してもいいかしら。実はクギヌキが蝶葬されたその日に、私はもう一つ別の蝶葬を見たの。それはクギヌキの蝶葬と全く無関係というわけでもないのよ」

彼女は唇を舐めて、さっきと同じ方向の空に目を向けた。僕はうなずいて、彼女と同じ方向を向いた。

「話しておくれ」

僕は言った。病院の窓が日の光を受けて白く光っていた。視界が焼けた。僕は眼を細めて片手で庇の形を作った。

「車のボンネットとか、住宅の瓦屋根とか、すぐに融ける粉の雪が薄く積もるような場所には、蝶々の鱗粉が溜まっていたわ。蝶々の翅は空のかなりの部分を削り取っていて、ひらひらとした影が足元で踊っていた。

男の人たちは抜け殻や白骨の処理をし始めて、お母さんと私はもうクギヌキの家にいる必要は無かったから、畳の間を出て庭へ向かったの。ヨウコは汚い顔で泣き続けていたわ。蝶葬が終わってから部屋を出るまでの間、私は彼女のことを見ていたの。なんだか彼女のことがとても良い人のように思えたの。たぶん、クギヌキが奇麗だったからだと思う。そして彼女は酷く汚らしかったし。私は生れて初めて蝶葬を見た直後だったし。

本当はすぐに家へ帰るつもりだったのだけれど、私は鶏小屋の側で足を止めて空を見上げたの。お母さんは私を置いてすぐに帰ってしまったわ。相手をするのが面倒臭かったのね。

私は息を止めて蝶々の群れを見上げていたの。とてもどきどきしていて、飲み下した唾が喉の奥でくるぐると鳴ったのも聞こえたわ。あなたは流星群を見たことがある? 田舎で田植の時期に空を見上げて、ツバメの大群を見たことは? それが流星でもツバメでも蝶々でも、空に何かが溢れると、どきどきして息が詰まるのよ。少なくとも七歳の私はそうだった。

ふと気づいたら、隣にヨウコがいたわ。

彼女は私ににっこりと笑いかけていたの。

その時に気づいたのだけれど、ヨウコはとても気違いじみた格好をしていたのよ。少なくともブラジャーはつけていなかったわ。脂肪で膨らんだ胸の先に乳首が透けていたから。着ていたのはワンピースじゃなかったの。サイズの大きすぎるTシャツで、それを一枚着ていただけだった。アディダスのロゴ入りだったわ。丸いお腹が不格好に突き出ていた」

「その子? 君が見た別の蝶葬というのは」

僕は気違いじみた十四歳の少女を思い浮かべてみた。

ほとんど確信を持ってそう訊ねたのだけれど、彼女は首を横に振った。

「違うわ。ヨウコは死んでいない」

僕はそれを少し意外に思った。

僕の頭の中には、気違いじみた十四歳の少女の姿がとても鮮明に浮かんでいた。その子は死んでしまって当然という風な醜い顔をしていて、涙や鼻水のこびり付いた笑顔で、七歳の彼女に微笑みかけていた。

自分よりも醜い人間を思い浮かべることは僕の特技だった。それは趣味でもあった。問題や面倒事が僕を掴んでいる時、僕はよく醜い人間を思い浮かべた。前にそのことを彼女に話したことがあった。現実逃避だよ、と僕がおどけた笑いを浮かべながら言うと、脱出スイッチね、と彼女は酷く真面目な顔で言った。

スイッチ。僕は小さく呟いた。

「ヨウコは急に私の手を掴んで歩き始めたの。

ふよふよの柔らかい手が妙に暖かくて、なんだか、嫌だなぁって思ったわ。私は空を見上げながらヨウコに手を引かれるまま歩いて、知らない中学校へ連れて行かれたの」

「君はその時抵抗しなかったの? 」

「抵抗? しなかったわ」

「全く?」

「ええ。ちっとも抵抗しなかった。さっきも言ったように、彼女のことを良い人のように感じていたし、雌畜生が悪い意味だとは分かっていたけれど、皆から気違いだと言われていたクギヌキも、実は白くて綺麗な死体に過ぎなかったから。暖かい手を、嫌だなぁって思っただけよ。

心細くなって怖くなったのは、中学校に着いてからだったわ。それはたぶんヨウコの通っていた学校だったんだと思う。それまではごく自然に、私は片手をヨウコに明渡していたの。首を反り返らせて、蝶々でいっぱいの空だけを見ながら歩いた。そういう風にしていると、自分の体が地面よりも空に近い位置にあるような気がするのよ。横断歩道を渡る時も、クラクションがすぐ側で鳴った瞬間も、誰かがヨウコにぶつかった時も、ずっと蝶々だらけの空を見ていた。

だから私はヨウコがどこを見ながら歩いていたのか知らないのだけれど、たぶん彼女も私と同じものを見ていたのだと思う。何度も誰かや何かにぶつかっていたから。クギヌキの死体から生まれた蝶々が覆っている、ちょうど今日みたいな空よ。たぶんヨウコにとってそれは、私が感じていたよりも大きな意味を持っていたのでしょうね。蝶葬の間彼女はずっと泣いていたけれど、蝶々の群れの影の下を歩いている間は、一度も泣かなかった。

そう言えば、私はヨウコと喋ったことがないわ。蝶葬の間も、手をひかれている間も、中学校についてからも、その後も。彼女は口を開かなかった。喋れない子だったのかもね。よく知らないわ。ヨウコのこと。

歩いていたのは二十分くらいだったと思う。ヨウコが足を止めて、私も首を元の角度に戻したの。そこは中学校の裏門だったわ」

彼女は唇を舐めた。

それは今までよりも少し雑な動作だった。

僕は醜い少女が彼女を連れて歩いている場面を想像した。少女は死のうとしていたのだ。それは間違いのないことのように思えた。ヨウコという人間が今も生きているのだとしても、その時の醜い十四歳の少女は、七歳の女の子の手を引いて、そのまま死のうとしていたのだ。

「私たちは校舎に入り込んだ。裏門の鍵が開いていたのよ。少し廊下を歩いて、それからひたすら階段を上った。どこか近くでロケット花火が鳴っていたわ。階段の踊り場で足を止めると、窓から小ぶりな爆発が見えたの。灰色の煙が空気に溶けていくのが見えたの」

「ロケット花火? それは、どうして?」

僕は尋ねた。

「解らないわ。……いや、たぶん、ある種のスイッチだったんじゃないかしら。切っ掛けとなるスイッチというよりも、何かを選択するスイッチよ。ええ、そう、脱出スイッチ。そうね。それが一番的確な答えだと思うわ」

彼女は一人で何度もゆっくりと頷いた。僕には彼女の言っていることがわからなかった。ロケット花火を打ち上げることがどうして脱出スイッチになるのか、見当もつかなかった。彼女の口にした脱出スイッチという言葉が、嫌に耳に障った。

彼女は言葉を続けた。

「少なくとも、それは蝶葬という風習の一部じゃないのだけれど、でも、そういうことをする人間がいるのは事実なの。彼らはとにかく空に向けてロケット花火を打つのよ。それ以外は何もしない。黙々とロケット花火に火をつけて、空の中で灰色に爆発させるの。NHKの番組じゃ、そういうことは放送していなかったかもしれないわね。蝶葬が起こると彼らは必ず現れて、それを行うの。ロケット花火を空へ打ち上げて、灰色の爆発でもって紫の蝶々をばららに撃ち落とすのよ。どうしてだか、私には解らないわ。

彼らがそれを始めたのは、私たちが中学校に着いたのとほとんど同時だったと思う。私はヨウコに手を引かれて階段を昇っていった」

ロケット花火という言葉から、彼女の口調が少しだけ速度を上げていた。それは取り立ててどうこう言うほどの速度ではなかったけれど、それでも、彼女のゆっくりとした口調は終わったのだ。

僕は居心地の悪さを感じた。不安、だった。

僕はこんな話を聴いているべきではない。そんな気がした。けれど僕は彼女の言葉を同じ速度で聴き続けた。問題を先へ延ばし、醜い気違いの少女を思い浮かべ続けた。

「ロケット花火は着々と蝶々を砕いたわ。翅の千切られた蝶々が歪な弧を描きながら地面へ落ちていくのが、踊り場の窓からよく見えた。ロケット花火は何度も何度も爆発して、その度にクギヌキの死体から生まれた蝶々が砕かれていったわ。ヨウコは何も言わずに階段を昇った。私は窓の側で足を止めようとしたのだけれど、ヨウコは無理やり私を引きずって昇った。怖くなったのはその辺りからね。

私たちは屋上へ出たの。ロケット花火はとても近くで鳴っていたわ。でも、それがどこから打ち上げられているのかはちっとも分らなかった。

私とヨウコは屋上の淵に立ったの。緑色のフェンスに囲われていたけれど、ヨウコはそれをよじ登って超えた。野球のベースを並べた小さな運動場が見えていたわ。私は柵の内側よ。爆破された蝶々の翅がひらひらと落ちていって、紫の鱗粉が降って、空を見上げると、ロケット花火が爆発した箇所には穴が開いていたの。乾いた灰色の爆発のたびに、蝶々の群れに穴が開くの。

とてもどきどきして、つばを飲み込む音が聞こえたわ。飲み込んだつばがなかなか胃の中へ落ちなかった。喉の奥でそれが百倍にも膨らんだような圧迫感が私の息を止めて、目の奥の、ちょうど蝶々の卵のあるあたりがとても熱くなって。

そんな風に私が空を見上げている間に、ヨウコは落ちていたわ。

聞いたことの無い音だった。やわらかい物の内側でそれよりも少しだけ硬い物が砕ける音よ。あなたも聞いたことないでしょう。

怖かったわ。私はしばらくその場に立っていて、下を見ないようにしていたの。身動きすると酷いことが起きるような気がしたから。もちろん泣き叫ぶのも駄目で、何かが通り過ぎるのを待っていた。その何かというのはたぶん、視界の中でくるぐると渦を巻くような感覚とか、喉の奥から直接脳髄へ発射された冷たい圧迫感とか、おしっこの我慢の仕方が分らなく程の心臓より下の不安定さとか、そういったものがぐちゃぐちゃと混ぜ合わさって、その場で出来上がった怪物のことよ。もちろんその間もロケット花火は爆発しつづけていたわ。蝶々が落ちて、死骸や鱗粉が降るの。

身を潜めている間に五、六分が経ったと思う。

蝶葬が起こったの。翅音と鱗粉の風がフェンスの向こう側でひらひらと舞い上がり始めて、その翅の数はどんどん増えていって、どんどんどんどん紫色の風は強くなって、信じられないほどの数の蝶々が、鱗粉を撒き散らしながら空へ昇っていったの。

もちろんその時の私は、芋虫に覆い尽くされたヨウコの姿を思い浮かべたわ。その瞬間にやっと怪物は通り過ぎて、私は大急ぎで階段を駆け下った。おしっこを漏らしていたから股の辺りがとても痒かったけれど、でもそれってしょうがないことでしょ。

通り過ぎていく踊り場の窓から、舞い上がる蝶々が見えていたの。その頃にはロケット花火も止んでいて、昇っていく蝶々の群れは、空の真ん中でクギヌキの死体から生まれた蝶々と合流して、ロケット花火の爆発に開けられた穴を埋めていったわ。

ヨウコは校舎の真下のコンクリートの地面に落ちていたわ。

校舎を出るとすぐに目に付いた。

さっき言ったとおり、彼女は死んでいなかった。

そこら中が曲がっていて、目は白く裏返っていたし、歯はほとんど全部砕けていたけれどね。顎か頬の骨が妙な具合になっていたみたいで、歯の無い口が歪に歪んで、何だか笑っているみたいだった。血溜まりの中でぴちゃぴちゃと腰を振るみたいに痙攣していたけれど、それでも彼女は気絶していただけだったの。

死んでいないってすぐに分かったわ。

彼女が蝶葬されていなかったからよ。

その代わり、アディダスのTシャツがめくれ上がっていて、陰毛もまだ生えそろっていない膣口から、蝶々が次々に翅を伸ばして零れ出ていたの。数千か数万の蝶々を空に飛ばして、それでもまだまだ蝶々の数は増えていった。彼女、やっぱりパンツも履いていなかった。落ちるまでは気味悪いほど膨らんでいた腹が、ほんの少しだけ凹んでいたわ」

唇を閉じ、彼女は言葉を終えた。

僕は十四歳の醜い少女の姿を思い浮かべ続けた。毛の生えそろわない膣口や、そこから翅を伸ばす蝶々の群れを思い浮かべた。汗が出た。刃物のようだった。痛みが生まれる一瞬前の切り傷のように、無感覚で無抵抗だった。

彼女は空を見ていた。

病院の窓が白く光っていた。

「……ヨウコという女の子も、妊娠していたんだね」

僕は病院や彼女の輪郭から目をそむけた。

「母親が蝶々の卵を持っていると、その子供は産まれる前から卵を持つことになるの。だから、Iの人間は生まれつき卵を持っているのよ。つまり」

彼女はとてもゆっくりと喋った。

「私たちの子もさっき蝶葬されたの」

そうして丁寧に唇を舐めた。

「だから、そうね、分るでしょう、あなたにも」

彼女の言うとおり、僕にはこれから何が起こるのか分っていた。

白く光る病院の窓が開いて、そこから数千か数万の紫の翅が吹き上がるのだ。それは空の大部分を削り取って、鱗粉を撒きながら町を覆うのだろう。

僕は彼女の膣口から蝶々が生まれ出る瞬間を思い浮かべようとした。けれどできなかった。浮かぶのは酷く醜い十四歳の少女の姿だけだった。それは彼女の姿に重なり、剥がれなくなった。汚らしい雌畜生の少女。僕は思い浮かべる。そういった僕の現実逃避を彼女は脱出スイッチと言った。

やがて蝶々は僕と彼女の元にも訪れる。

彼女が指先を差し出すと、蝶々はそこに止まって翅を閉じる。蝶々は僕らの側に密集し、空の代わりに僕と彼女の輪郭を浮かべるのだ。

「それで、あなたはどうするの? 瞼を差し出してくれるか、それとも、脱出スイッチ、ロケット花火?」

彼女は言った。彼女は僕に選択を迫った。

指先の蝶々は長い触覚の下から僕を見るだろう。

僕は息を止めるようにして彼女に目を向けた。青い色の空がただ単に彼女の周囲に在るだけだった。輪郭はそこに浮かび、眩しい白の光が病院の窓に跳ねていた。

「ロケット花火」

僕はただそう呟いた。

それは確かに脱出のスイッチだった。

彼女はとてもゆっくりと瞼を閉じた。

その瞼の奥の目玉の裏側に、卵がある。

そうして僕らの外側はとても静かだった。

病院の白い窓が開き、彼女は瞼を開けた。瞼は蝶々の翅音をたてた。そんな気がした。僕らは病院の方向を向いた。

2010年8月8日公開

© 2010 坂露シロタ

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"蝶葬された子"へのコメント 3

  • ゲスト | 2010-08-17 02:21

    クオリティの高さにただただ敬服するばかり。

  • ゲスト | 2016-09-06 16:45

    退会したユーザーのコメントは表示されません。
    ※管理者と投稿者には表示されます。

    • 投稿者 | 2021-09-06 23:59

      返信が大変おくれてしまいました。
      もうしわけございません。

      僕の小説を読んでいただき、本当にありがとうございます。

      この6,7年、なにも書けなくなっています。このサイトに来たのも、本当に久々です。
      何年かかるかはわかりませんが、どうにかまた書いてみたいと思います。
      どうかその時は、また読んでいただけたら幸いです。

      著者
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