Adan #44

Adan(第44話)

e.s.

小説

3,532文字

チェリーボーイハンターの摩子〈3〉

摩子はそう言うと煙草を咥えて〈嫌いな本を燃やすためのブックマッチ〉で火を点けた。どうして僕がそのブックマッチのことをそう呼ぶのかというと、それはそのブックマッチに大きくそう印字されていたからさ。摩子はそのブックマッチの他にも〈嫌いな本を切り刻むためのシザー〉や〈嫌いなページを突き刺すためのナイフ型ブックマーク〉や〈嫌いな本を圧死させるためのブックエンド〉なるものも持っているとこのとき僕に話してくれた。

 

僕の黒目をハート型に変形させることなんて彼女には造作もないことなんだ。脚を組んで煙草を吸っている摩子に僕は見とれていた。彼女はその日ボーイッシュな格好をしていた。トランスヒューマニズムのシンボル[注1]がプリントされた白いTシャツに黒のコットンベスト、真っ赤なスキニーパンツに黒のパンプスという姿だった。空港に迎えに行ったとき荷物がハンドバッグしかないことにも驚いたけど、それよりも僕は摩子の脚の長さにまず驚かされた。

 

煙草を吸い終えると、摩子は僕の手を握って立ち上がった。このときの僕の顔は彼女のスキニーパンツより赤くなっていたかもしれない。女子と手を繋いで歩くのは学校行事以外で初めてだったし、僕は彼女にこのまま公衆トイレに連れ込まれて行為を強要されるのではないかと思ったからだ。がしかし、そんな官能小説的展開が待ち受けているわけではなかった。僕はほんの一瞬でも摩子に「痴女ちじょになって欲しい!」と願った自分を恥じた。

 

摩子に手を引かれて連れて来られたのは園内にある三角屋根のビニールハウス二棟からなる施設だった。その施設の出入り口のところにはバッターボックスくらいの大きさの汚いアルミフレームの壁面看板があって、その看板には横書きの赤い文字で〈ちょうちょガーデン〉と書かれてあった(その看板には笑っているチョウのイラストも描かれてあった。僕は汚い空を笑顔で飛んでいるそのイラストのチョウに尊敬の念を抱いた)。僕はこの施設のことを知らなかった。高校の三年間僕はママと二人で那覇に住んでいたから漫湖公園の存在は知っていたし、それに何度か日向ぼっこしに来たことだってあったさ。だけどちょうちょガーデンは遊歩道からやや奥まった場所にあり、しかも大きなガジュマルの木に施設は遮られていたからその存在に気がつかなかったんだ。

 

僕は摩子に誘われるがままに、あたかも花に吸い寄せられるチョウのようにちょうちょガーデンの中に入った。摩子はちょうちょガーデンの中に入ってすぐに慣れた手つきで小汚い机の上にある受付簿にサインしていた(入場無料だった)。意外と言ったら失礼だけれど、摩子は達筆だった。いつもはその机の椅子に管理人のおじさんが座っているとのことだったけど、なぜかその日はいなかった。そして日暮れどきだったからなのか、中には僕と摩子以外だれもいなかった。そうそう、施設のそばにテニスコートがあってね。ちょうちょガーデンの広さはちょうどそれと同じくらい。中の場景は、そうだなあ、亜熱帯植物園を想像していただきたい。ちょうちょガーデンにはシダ植物とかそういった類いの背の高い植物やら色とりどりの吸蜜植物やらが所狭しと群生していた。で、それら植物の上をたくさんのチョウが飛行していた。「もれなくニアミスしてるな」というのがその光景を見た僕のファーストインプレッションだ。このガーデンにいるチョウの大半はオオゴマダラというチョウなのと摩子は僕に教えてくれた。そのオオゴマダラってチョウは羽を広げると十五センチもありそうな奴らで、模様に関しては「新聞チョウ」って異名があるらしく、なるほど確かに、びりびりに破いた新聞紙の切れ端が舞っているかのようだった。つまりハッピーなニュースを読んだ君が怒りにまかせて破いた新聞紙の切屑みたいだったってことさ。

 

「それはベニヒモノキ」と言ったのは摩子。「見てのとおり紅色の紐のような花を咲かせるからそんな名前なの」

 

長いもので五十センチはありそうな紅色の紐が数え切れないほど垂れ下がっている植物に僕は目を奪われていた。その紐のようなものが花だと言われてもにわかには信じがたかった。

 

「亜男くんがその紐状の花を鼻から入れて口から出せればチェリーボーイハンターの道を諦めてあげてもよかったんだけど、残念。この施設内の植物を傷つけるようなことがあってはいけないから」

 

僕は摩子に肩をすくめて見せた。そのあとも摩子は僕のことを横切っていくチョウの名前と僕に横切られる植物の名前をちくいち教えてくれた。でもごめん。それら脇役たちの名前を僕はすっかり忘れてしまったから紹介できないんだ。

 

「君ってナチュラリストなんだね」と僕は摩子に言った。すると彼女は首を横に振ってこう言ったのさ。

 

「ジュール・ルナールって人の言葉で『嫌いなものが嫌いなほど好きなものが好きではない』って言葉があるんだけど、チョウや植物に対しての好意なんてその程度。もちろんルナールのこの言葉に対しての好意もね。嫌いなものが嫌いなほど好きな言葉じゃない」

 

それから摩子は某植物の葉の裏にぶら下がっている大きさは五センチくらいで金色の電飾みたいな物体を指差した。そして言った。

 

「これがオオゴマダラのさなぎ。でね、蛹がくっついてるこの植物はホウライカガミっていうの。この植物じつは毒草なんだけど、オオゴマダラの幼虫はこの毒草であるホウライカガミしか食べないの。毒を摂取している甲斐あって、オオゴマダラは野鳥などに襲われても食べられることはないみたい。ホウライカガミの毒が体内にずっと残ってるから、捕食者はオオゴマダラの幼虫とか成虫を飲み込もうとしてもすぐ吐き出しちゃうらしいの」

 

摩子はそう言うとしばらく無言で僕を見つめていた。おそらく彼女はそのホウライカガミの毒について聞いた僕がどんなコメントをするのか待っていたと思う。けど、僕は何も言えなかった。毒の話を吐き出さず飲み込めたのに……。

 

摩子が態度を一変させてハンドバッグから乱暴にヘアワックスを取り出したのはそのときさ。摩子がハンドバッグから取り出したそのヘアワックス(容器はカップアイスみたいな、そういった形状のものだったっけ)は公園に来る前に立ち寄ったドラッグストアで彼女が購入したものであり、彼女がそのような荒々しい態度をとったのは何もコメントしない僕に立腹したものと思われる。

 

「研究の結果、この整髪料が一番だと分かったの」

 

摩子はそう言ってヘアワックスの蓋を開けると人差し指でその中身をうんと掬った。そしてヘアワックス本体をハンドバッグにしまったあと、彼女は指に取ったそれをハンドクリームを塗り込むみたいに両手に伸ばして、あろうことか、その両手でハートマークをつくり自身の下腹部にあてがった。もちろんボトムスの上から、さ。でもね、僕が本当に毒気を抜かれたのはそのあとなんだ。摩子が下腹部に両手をあてがってしばらくすると――ああ! 何ということだろう! オオゴマダラが摩子の下腹部、いや、ハートマークをつくった手に集まって来るではないか! 摩子はじっとしていた。彼女は両足を肩幅ほどに開いて立ち、両手にとまったオオゴマダラに穏やかな眼差しを送っていた。

 

「寄ってくるのはみんなオス」と摩子。「どうしてこんなことが起こるのかと言うと、整髪料に含まれるパラベンの匂いがメスのフェロモンの匂いに似てるらしいの」

 

僕は口を開けたまま固まっていた自分に気がついた。その光景は神秘的といえば神秘的だったのだけど、滑稽といえば滑稽そのものだった。神秘と滑稽は紙一重ってこと、あるいは同一ってことなんだろうね(いま思うとそれは彼女なりに考えた神聖な儀式、ひょっとすると前戯のつもりだったのかもしれない。前衛劇のつもりではなかったと思う)。

 

僕は摩子の前から走り去って彼女を公園に残したまま車で逃げ帰った。その理由は、そのとき摩子が呟いた言葉に恐怖を覚えたからなんだ。彼女のことを嫌いになったわけじゃない。その言葉を(というかその単語を!)聞いたら誰だって逃げ出すはずさ。摩子はハートマークをつくって下腹部にあてがった手にオオゴマダラを招集しながら天を見上げてそれから目を閉じ、こう呟いたんだ。

 

「おお、神よ」

 

つづく

 

[脚注]

1.トランスヒューマニズムのシンボル

 

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2020年6月2日公開

作品集『Adan』第44話 (全46話)

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