重い木の扉を開くと、そこは、先ほど外から見えた、シャンデリアと真っ赤な絨毯がそこにあった。喫茶店、モカブラウン――コーヒーの名前を冠する命名とは、経営者も大きく出たと見える。カフェモカに大きな自信があるに違いない。
扉にセンサーでもついていたのか、店員が肩甲骨で電波を拾った様子で、こちらに近づいてきた。
「いらっしゃいませ、何名様でいらっしゃいますか?」突然、実存を問い質されてしまった。
「えっ、何名――え、何名だろ……私って、何人いるのかな」
「あっ、ええと、お客様は、何名様でお越しいただいたのですか?」店員は不審な顔をして聞いた。しかし、なんて答えればいいのか分からないのだ。さすが、高級ホテルに付属している喫茶店である。
私は、思い切って言った。
「私がいったい何人なのか分からないんです!」
「あ、そういうことでしたら、一名様ですね」店員は澄ました顔で言った。きっとこういうことに慣れているに違いない。彼女は、「こちらです」と言って、スマートに私を席に案内した。窓側の、横浜の汚い雑踏が一面に見渡せる席である。
「ありがとうございます」私は心から感謝した。
「いえいえ、こちらがメニューになります。お決まりになりましたら、静かな声でお呼びください」
静かな声でお呼びください――喫茶店で初めて聞いたこの文言を、私は耳の穴に詰めた。静かな声でお呼びください――
私はメニューを開く。そこには、色とりどりの写真が――なかった。
「なによこれ……文字ばっかりで、何の料理か分からん……」
海老とマグロのマリネだの、カルパッチョだの、なにこれ、フィ――フィット――チ? なにこれ、謎すぎる。あれかな、全部魚かな。――諦めた。
私は、仕方がないので、先ほど店頭の看板に合った六百五十円のランチセットをメニューから探した。しかし――見当たらない。どういうことだ。確かに、店頭のメニューと、テーブル席のメニューが一致しないことはよくある。店員に聞くか――仕方ない。
――が、私は、さきほど耳の穴に詰めた、静かな声でお呼びください――という言葉の存在を思い出した。
「え――」
どういうことだ。静かな声でお呼びください――ってなんだ。静かな声?
元来、声とは音である。人間の喉にある声帯が筋肉によって小刻みに震えたものが、空気中を波となって伝わる現象のことである。つまり、声とは本来的にうるさいものと呼べるのだが、しかし「静かな声」とは何か――形容矛盾ではないか。
しかし、この世界に矛盾は存在しない。よしんば存在したとしても、特定の理法の上に構築された矛盾である。つまり、もしその矛盾が原因で、身体に制限がかかってしまうのであれば、その矛盾の前提となっている理法を批判して、覆せばいい。
例えば、何物も通さない盾を、何物も通す矛で突き刺したらどうなるか――いわゆる「矛盾」の語源となった古事などがあったが、あれもただ「何物も」、つまり「普遍性」という前提を疑えば済むことである。この世界に、完全に普遍的な事象など存在しないのだ! 弱い方が負ける。
さて――「静かな声」という形容矛盾、「静かだ」と「声」では、どちらが弱い? もちろん、形容動詞の「静かだ」の方だ。形容動詞と名詞では、その言葉の自立性は圧倒的に名詞の方が高い。そういうわけで、「静かだ」の解釈を変えればいい――というわけである。
しかし――どうやって変えればいいのか。店員は、どういう意図をもって「静かな声でお呼びください――」と言ったのかしら? 私は辺りを見回す。なるほど、ここの客は、あの角のおばちゃん連中を除いて、みな「静かに」ご飯を食べている。あの客に配慮せよということなのか――だが、「配慮」というこの言葉もまた、自立性が低い。客体によって、適切になる「配慮」が違ってくるからだ――ああもう! どうすればいいの! アアアアアア!
「あ……あ……」私は、声にならない声を発した。店員は、うなじのあたりで波長をキャッチしたらしい。こちらに気が付いて、近づいてきた。
「どうしましたか?」目を丸くして、店員が言った。
「あの――私、静かな声をあげられていたかしら……」
「え!?」店員は、驚いてのけぞった。「あ、あの、そういう意味で言ったのではなくて――申し訳ございません」
「いえ、ではどういう意味で……?」
「どういう意味……」店員は、難しそうに考え込んでしまった。「考えたこともなかった……」
「確かに――妙なことを聞きました。こちらこそすみません。それで、ランチセットの内容をお聞きしてもよろしいですか?」
「え、ええ! ええと、今日のランチは、鮭のムニエル定食となっていますが――いかがでしょうか?」
店員の顔が、笑顔になった。マニュアル通りの対応がようやくできてうれしかったに違いない。私も、気分が良くなった。
「ではそれで――お願いします」
私は一礼をすると、店員はメニューを私から取り上げ、カウンターにそそくさと引き下がった。私は、つい癖で、スマートフォンを取り出してツイッターを見る。喫茶店「モカブラウン」にて、ランチセットを頼みました――っと。リア充アピールは完璧ね。
ふと――私は窓の外を見る。横浜は相変わらず汚い街だ。アスファルトには、所狭しと、吐き捨てられたガムがこびりついている。向こうのデパートには、きっと工場の排ガスがびっしりと表面をコーティングしているんだろう。ここから見える空は、雲もないのに心なしか白い。道路を走りゆく車は、ボディーのどこかが必ずへこんでいる。心なしか、少し気分がふさぎ込んでしまう。
これから――どうやって生きていけばいいのだろう。なんだか、正直しんどい。楽しいだろうと思って入った学校も、図書館暮らしを除けば、ただのアリのフンだし。先生はバカ。理事長はアホ。友達は、見えない軍帽を被っている気がする。嫌になってしまう――
私は、メニューを再び見ようとテーブルを見やった。しかし、メニューは先ほど、店員に取り下げられてしまった。きっと、食べるときはテーブルを広く使ってくださいと言うメッセージなのかもしれない。ませた喫茶店ほど、よくそうする。しかし、手持無沙汰だった。なんとなく、居心地が悪い気がする。私は再びスマートフォンを見た。画面には、通知が一見ついていた。私のつぶやきに、誰かが“いいね”したのだろう。誰だろう――野原? 誰だ、野原って。もしかして、クレヨンしんちゃんかな。まあ、いいか。誰かもわからない人のアカウントなんて、詮索しても無駄だ。どうせボットに違いない。
ハァ――私はため息をついた。やってらんない。私は天井を仰ぐ。シャンデリアがキラキラと鬱陶しく輝いている。
と、そこに、ガランと空間に音が閃いた。入口の扉が開いたのだ。なるほど、さっきの店員も、この音に気が付いて、私の元にやってきていたのだ。私は思わず、自分の肩甲骨を触ってしまう。
「いらっしゃいませ――何名様でしょうか?」
「何名――このお店では、いちいち人の実存を問い質すんだね!」どこかで聞いたことのある声だ。あれは確か――
「フッ――」店員は鼻で笑った。「あ、今日はあちらに変わったお客様がいらっしゃいますよ、良ければお通ししましょうか?」
店員は、わざとらしげな敬語をふるった。
「知ってるよ! 小諸桃子でしょ。さっきツイッター見たんだよね」
え!? 何、え? は?
私は、慌てて扉の方を向いた。そこには、さっきの店員と――あの制服は……
「へぇ――じゃあなに、あの人、野原さんの知り合いなの」店員の口調は、今度は砕けている。なんだ? 友達なのか?
「う~ん、他人以上、知り合い未満?」大雑把な厳密性で、野原さんと呼ばれたその女の子は、私との関係を規定した。
「なるほどね――」店員は何かを理解したらしい。「じゃあ、あっちにいるから、話しかけておいでよ」
「もちろんそのつもりだよ!」そう言って、女はこっちに近づいてきた。間違いない、さっき昇降口で気安く話しかけてきた、あの女だ。
「やあやあ」女は笑顔で私に話しかけて、「学校サボって喫茶店だなんて、相変わらずの高等遊民だねえ」
「なによ、冷やかしに来たの?」
「冷やすものは何もないよ」と、女は至極当然なことを言った。なるほど、野原。こういうやつだったのか。そしてあの店員――私はカウンターを見ると、店員は薄気味悪くこちらを見て笑っていた。どうやら私を「客」ではなく、一人の「人間」として見始めた――そう言う笑いなんだろう。
「さっ、何を食べようかな――あれ? メニューは?」野原はキョロキョロとテーブルを見渡した。
「あなたは、テーブルの広さの上に、犠牲になったのよ」憎しみをいっぱいに込めて、私はいってやった。
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