入学

鎖骨のレイピア(第1話)

小雪

小説

3,323文字

人間ってどこまでも難儀な生き物である。言語の不自由さに生きづらさを感じながらも、言語に依存しながら身体を作っていかなければならないのだ。そして、気づいたときには、取り返しもつかないくらいに、いびつな身体になっている――ということも少なくない。

目を覚ますと、黒板の前で、先生が数学の話をしていた。

腕がじんじんとする。感覚がない。長い間、右腕を枕にして寝ていたせいか。私の中を通る血の道の一つが、せき止められていたんだと思う。右腕一帯の神経は、うんともすんとも言わなくなっていた。もう一方の腕で――左腕は奇跡的に助かっていたから――機能停止した腕を持ち上げる。ぶらぶらと振ってみた。なんだか人形みたいだ。

突然、ずきんと右肩全体が痛む。圧迫からやっとのことで逃れた管が、伸縮作用を取り戻したようだ。じわりじわりと、腕全体に温かい体液が広がっていくのを感じた。――アア、いい。この感覚、少し痛いけど、なんとなく快感を感じてしまう。

「ああああああああ……」

私は、ついうめいた。喉ってのは、本当に自分勝手な器官だ。どこからともなくやってくる声を拾ってきて、それを口の中に送り込んで押し込み、吐き出させようとしてくる。ああ、あ、ああああ、誰の声よ。カエルみたいな汚い声。でも、それもなんだか気持ちいい。――が、そのとき、

「小諸! 貴様、また寝てたな! 授業を何だと思ってるんだ!」声を聞き取ったのか、先生が怒号を飛ばしてきた。質問の意味が分からない。

「先生、もう少し答えやすい質問を――」

「また口答えか! いつもいつもいつも……」

「またって……まだ、今日は一回目ですよ」

私が言うと、先生の怒りは頂点に達した。顔が般若のように歪み、大きな足音を――ドタン、バタン、ドタン――鳴らしてこちらに近づいてくる。私の席は、一番後ろの窓側の席だ。

「そんなに口答えするんならな、学校なんか辞めてしまえ」

「口答えすることと、学校を辞めることと何の関係が――って、これも口答えか。まったく、やんなっちゃうな」

「……」

先生は、黙って回れ右をした。彼のブラウンの背広の裾の部分に、三センチばかりのチョークの跡ができている。あの人も――授業中に黒板に寄りかかっていたに違いない。疲れているんだ。――そう考えた途端、私は一種の愉悦が込み上げてくるのを感じた。ふは、なによ、先生だって、授業のために怒っているんじゃない。自分のために怒っているんだ。自分が疲れてるからって! 先生も寝ればいいのに――でも、私は、先生がそれをできないことを既に知っていた。私の母が教師なのだ。疲れ果てて帰ってくる母が、フローリングに寝そべって、こう漏らしているのを聞いたことがある。

「先生も、聖人じゃないのにね……」

そのときは確か、昼休みにコンビニ食を食べているところを生徒に見つかって、その母親からクレームを入れられたと愚痴っていたときのことだった。愚痴の内容が良く分からなかったから質問をしたら、どうやら、その生徒の母が、わざわざ労力を払って学校に電話をかけてきて、「先生がコンビニ食なんて、生徒が真似したらどうするんですか!」と言ってきたらしい。そんなこと言う暇があるんなら、自分の子供に「あなたはコンビニ食を食べちゃダメよ」って説教すればいいのにね――って母に言ったら、母は「そんな合理的な話じゃないのよ……」と言ってため息を漏らした。なるほど、先生というのは、合理的な法則性を外れて、職務に当たっているらしいのだった。つまり、聖人なのだ。だから、自分の足が、長い時間立っていた弊害で、じんじんと痛んできていたって、「痛い」ということすら許されない。かわいそうな肩書きだ――私は同情した。だからあの先生も、気持ちよさそうにすやすやと寝ている私を見て、ほんのささやかな憂さ晴らしがしたかったに違いない。そういうことなら、この退屈な授業を少し辛抱して、聞いてやってもいいという気がしなくもない。

「まったく――それにしても、数学ってつまんないわね……」

私は誰に話しかけるでもなく呟いた。先生は、少しムッとした表情でこちらを見たが、私がちゃんと授業を受けているのを見ると、すぐに視線をそらした。

 

四限終了のチャイムが鳴った。午後十二時半。窓の外を見れば、花びらがすっかり散って、鮮やかな緑の葉が桜の木を覆っている。もう初夏か――そういえば、この高校に入って、一か月になるのか。早いんだか早くないんだか――私は、教室を見回した。クラスメートが、束になって、机をくっつけ始めていた。彼らは、この昼休みには、一緒にご飯を食べる習性があるらしいということを、最近の観察から分かっていた。私は――静かに立ち上がった。リュックサックをもって、教室を出る。向かうは、屋上の前の踊り場――私の食堂だ。

廊下をつき当たったところの階段を登ると、その場所は現れる。窓はなく、廊下を満たす日の光も、ここにはほとんど入ってこないために、薄暗い。私は、ボーっとしながら、リュックサックを探る。今日のランチは、ゆでたまごが三つ。塩味と、マヨネーズ味と、ケチャップ味。私は、包みを開けて、ケチャップ味から取り出した。

まずはケチャップ味――ケチャップは、酸味が強く、味の癖が独特なので、けだるい昼休みに風穴を開けるのには、好都合なのだ。私はそれを勢いよく頬張ると、ゆでたまごのなまったるい感触と、トマトの酸味が口の中に広がって、もちゃもちゃと音を立てて溶ける。

二口でそれを食べ終わると、今度はマヨネーズ味を齧る。すると、先ほどのトマトの酸味が全て、マヨネーズの独特の酸味にすり替わる。マヨネーズが独特なのは――なんなのか。え、マヨネーズって何? 昔作ったときは、マスタードと塩と酢と――あと生卵と使った気がする。待って、マヨネーズってもしや卵? 卵だとしたら変な話だ。卵に卵をかけていることになる。でも――そんな変な話じゃないか。トマトにケチャップをかけたって美味しいわけだし。そういえば、トマトが嫌いな人も、ケチャップは食べられるなんて話を聞いたことがある。混ぜた時点でもう、その素材の質なんて消えてしまうのかもしれない。――私は、二口目も頬張り、マヨネーズ味のゆでたまごを飲み込んだ。

だけど――塩味のゆでたまごを取り出して、私は考えた。そもそも、「たまご」って何味だろう。トマトは、なんとなく形容できる。果物系の酸味とか、シャリシャリとした食感とか、その奥にあるほのかな甘みとか――でも、「たまご」はなんか形容しがたい。さっきの想像では、「なまったるい」とかって言葉でごまかしてしまったけれど、なまったるいって全然味じゃないもんね。じゃあ何かって言われても困るけど――卵味としか言いようがない。私は、ゆでたまごを齧る。卵黄と卵白では、確かに味が違う。でも、どう味が違うのかと聞かれたら、やっぱりわからない。強いて言えば触感は違う。白身は、少しゼラチン質で、噛んだときに少し抵抗を感じるけど、黄身は細かい粒子の集まりだからなのか、齧ったらその分だけ、無抵抗に掘れてしまう。でも、この味の違いは、食感だけで形容するには、あまりに不十分な気がする。食感による形容では、あまりに貧弱だ。しかし、それ以外の言葉が、どうしたって見つからない。インターネットで検索するか。――私はスマートフォンを取り出した。

ない。

いや、あるにはある。あるけど、なんだこれ。案の定、見た目の話しかない。満月のような――は定石らしい。この人たち、満月を食べたことあるのかな。満月ってそんなにおいしそうかしら? 謎だ。後は、食感。私がさっき、いろいろと思考を巡らせたようなことが書いてある。うーん、やっぱり、「たまご」の味って分からないのね……。あまりに、基本的だからかな。――私は、二口目も頬張ると、さっさとそれを飲み込んだ。

「帰るか――」

私は立ち上がった。授業はあと二コマあるけど……まあ、いいよね。帰ろ。

 

そのまま、階段を一番下まで降りて、昇降口に向かった。靴箱からローファーを取り出して、床に投げつける。左の靴は、うまく直立で制止したが、右の靴の方は当たり所が悪く、校舎の外まで転げてしまった。

「うわ……あり得ない」

私は左足だけ履いて、けんけんぱで校舎の外まで出た。その瞬間、誰かの笑い声が右方向から飛び込んできた。私は、反射的にその方に首を向ける。すると、女の子が私を指さして、クスクスと笑っていた。

2020年5月3日公開

作品集『鎖骨のレイピア』第1話 (全3話)

© 2020 小雪

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