スイッチを押さない時

ケミカル本多

小説

4,964文字

私は就職をせず大学を卒業してしまいました。当たり前ですが周りの知人はみんな就職していったため、顔を合わせる人は父と母と外の猫とコンビ二の店員とだけになりました。家ではゲームと読書とインターネットしかしておらず、よく巷でいう干物女とかうんぬん以前に人間の尊厳のある生活から遠ざかっていることを感じました。仕事を探そう、と思ったきっかけはあまり覚えていません。多分仕事を探さなかったときと同じように、特に理由はないように感じます。不景気不景気と聞いていたので私は、二十社ぐらいは面接を受けるものと思っていましたが、一社目で採用が決定しました。といっても私はなにか特別美人であるとか愛想がいいとか優れた能力等は持ち合わせていなかったため自分でもなぜ採用されたか不思議でしょうがありませんでした。それ以上に会社の面接は摩訶不思議なものでした。

指定された会場のドアには赤いボタンが備え付けられており、御用の方は赤いボタンを押してください。と張り紙がありました。会社勤務経験がなかったので、会社っていうのはこうゆうものなのだろうか、と思いながら赤いボタンを押すと、2、3秒後にドアがゆっくりと開きました。変わった自動ドアだな、と思って中を覗き込むと、スーツを着た五十代ぐらいのおっさんがドアが閉まらないように抑えていました。まさか自動ドアだと思っていたものが、おっさんによる手動自動ドアだとは夢にも想いませんでした。おっさんは160センチ程度で小柄、髪は薄く猫背でずっと下に向けられていてまるで召使いのような印象でした。私がおっさんに気を取られていると、奥から「どうぞ」という男性の声が聞こえたので、私は失礼します、となるべくはきはきと発音して会場へ入っていきました。中にはスーツ姿のいかにも面接官という人間が2人こちらをむいて座っていました。私は軽く自己紹介をしていると、途中から自動ドアのおっさんも面接官の空席に座って私のほうをまっすぐ見据えてきました。私はおっさんのまなざしに意味もなくおかしさがこみ上げてきましたが我慢しました。紹介を済ませると真ん中の面接官の方がおもむろに赤い何かを机の上に置きました。「これを押してみて」といったので私は机に近づいていくと、それはドアに取り付けてあったような赤いスイッチでした。まったく意味が分かりませんでしたが、今までに会社の面接の経験がなかったので、どこの会社でも赤いスイッチを押させるものなのだろうと思い、私は赤いスイッチを押しましたが、特ににこれといった変化はありませんでした。すると面接の方は「最近いつボタンを押した?」と理解不能な質問を投げかけてきたので、昨日ゲームをしたので、そのときに押したことを伝えると、面接官の方は表情を変え近くのメモ用紙に何かを書き記し、自動ドアのおっさんはというと満足げに頷いていました。じゃあ、と面接官は話を変えて赤いボタンを自動ドアのおっさんの頭頂部に貼り付け、これは押せるかな?といかにもあなたを試しています、といった口調で言ってきました。当然のごとく何を試されているのか全くわかりませんでしたが、このボタンを押して、おっさんの何らかの変化があった場合、私は笑いをこらえる自信がありませんでした。そもそも、はたして見ず知らずの他人の頭頂部のスイッチを押していいのかどうかという抵抗を感じました。さらに自動おっさんは私をまっすぐと見据えていたため近づくきづらい空気でした。スイッチを押すことを躊躇していると、わかりました、と面接官はつぶやき、結果は追って連絡ます、と言いました。そして今日会社から採用通知の連絡があり、私は晴れて社会人となりました。母に何の会社か聞かれ私は「赤いスイッチのある会社」と伝えましたが母は首をかしげていました。母の気持ちは十分に理解できましたが、それ以上の言葉は見当たりませんでした。

初出社の日がやってきました。私は当たり前のことを当たり前にこなせるように頑張ろうと思いました。会社の方とエレベータの前で落ち合い、お互いに挨拶をかわしてエレベーターに乗り込みました。スーツの男性が閉まるボタンを押すのを見て私は赤いスイッチのことを思い出しました。採用の知らせを受けた後この会社のことを調べたのですがホームページは存在せず、情報といったら面接の詳細に書かれていた業種:アウトソーシングという記載みだったため、私は会社のことを全く知らない状態でした。オフィスは16階にありました。学校の教室3個程度あり、既にスーツ姿の人々が忙しく働いていました。スーツ姿の男性に連れられ、おそらく職場の責任者や監督者であろう2,3人に挨拶を済ましたあと、最後に私に仕事を教えてくれる人を紹介されました。その男性は、よろしくお願いします、と一言いって椅子に座りました。案内してくれた人が私の椅子を用意してくれて私は男性の正面に座りました。案内してくれたスーツの人は、それではよろしく、といってどこかへいってしまいました。私はそれから、私がこれから行う仕事の説明を男性から説明されました。仕事の内容は、1時間20分おきに15階のある部屋にある赤いボタンを押すこと。私は反射的に「それだけですか?」という質問をしてしまいました。すると彼は「はい」と返事をしました。「ほかに何もやることはないのですか?」と聞くと「はい、ないです」と言いました。ただひたすらスイッチを押す時間を待ち、時がきたらその赤いスイッチを押す。そんなことが仕事としてまかり通っていいものだろうかと思いましたが、まかり通っているのだからあるのだろうし、私にはあまり関係のないことだと思いました。それから男性は15階の赤いボタンの部屋に案内されました。一畳ほどの部屋の壁に赤いボタンがあるだけで、他には何もない不思議な部屋でした。私は「スイッチを押すとどうなるんですか」と質問すると彼は「わかりません」と答えました。私はそのとき不意に面接の時に赤いスイッチを頭頂部に貼り付けていた50代のおっさんのことを思い出したが、イメージはすぐに消えていきました。私は会社勤務経験がないのでわからないのですが、だいたいどこの会社にも赤いボタンが備え付けられてあり、そのボタンを押す人を2、3人雇うのだろう、と結論ずけました。明日から私は赤いボタンを押すことになりました。

2日目から私は男性の人の付き添いのもと、スイッチを押しました。初めてボタンを押すときは少し緊張しましたが、回数を重ねるごとにその緊張もなくなっていきました。気がつけばもう夜の8時になり、ちらほらと夜勤のスタッフが出社していました。よく考えたらオフィスにいる40人ぐらいの社員の方々はどういう業務をしているのか私は知りません。まさか全員ボタンを押しているわけではないとは思います。とにかく2日目はボタンを数回押しただけなのにあっとゆうまに一日が過ぎ去ってしまいました。

次の日は彼と仕事を分担して、交互にボタンを押しました。分担するほどの仕事ではないことはわかっていますが、どちらか一方に仕事の量が偏らないためにもとりあえず分担しました。仕事を分担すると、待ち時間がやたら長くなりました、1時間20分ごとだから次のボタンを押すまで2時間40分ということになります。仕事をしたいわけではないですが、他に仕事はないか尋ねました。どうやらないらしいです。その代わり仮眠室があることを教えてくれました。仮眠室にはベッドが5つぐらいありました。待つことに疲れていた私はさっそく仮眠をとることにしました。2時間後にタイマーをセットして私は眠りに入りました。眠っている間、水のないプールの真ん中でおじさんが蝶々を追っている夢を観ました。プールの外の人に水をかけられ、嬉しいのか嫌がっているのかわかりませんでした。放水の勢いがなくなってきたところで目が覚めました。パイプベッドで温度設定もおかしいためとても寝苦しかったです。携帯電話を見るとタイマーをセットした時間まで1時間10分ありました。余った時間は何をしようか、それとももう一度寝ようか考えながら周りを見ると隣のベッドでは教育係の男性が寝ていました。外の明りがカーテンの隙間から入ってホコリの動きがよくわかりました。なんとなくもう一度携帯電話を見てちょうど男性がボタンを押す時間だということに気がつきました。となりのベッドにはボタンを押すべき男性が寝ています。私はもう一度時計を確認しました。ボタンを押す時間はとうにすぎています。私は思いを巡らせました。ボタンを押さなくていい明確な理由があり彼は寝ている。となりの男性は別人であり、彼はもうすでにボタンを押している。彼はただ寝過ごしている。の三つが考えられました。私は寝過ごしている、と判断しました。なぜなら男性には「寝過ごす」というイメージが一番ぴったりだったからです。私は彼の肩を小さく揺らしました。彼は薄目を開けてこちらを観ました。私はボタンを押す時間がすぎていることを伝えましたが、彼はピンときていませんでした。たとえ自分のミスでなくても、ボタンを押すだけの仕事ができなかったことがショックでした。わたしたちはふたりで席に戻りましたが、他の方々にはなにも言われませんでした。どちらかが忘れていたら気づいたほうが押すという決まりを作りました。明日は忘れないように頑張ろうと思いました。

「慣れ」というものがあります。ただ私にはその行動のメカニズムを説明することができません。私には「学」がないからです。ただ説明することができないことでも自分がそれをやっていることが多々あります。多々というかほとんどそうだと思います。私について何一つ説明することなんてできません。私が慣れていってしまったのは、ミスです。仕事を始めた頃はあんなにも私を自己嫌悪に陥らせたボタンの押し忘れも、今では日常のありふれたひとコマとなりました。その大きな理由の一つが仮眠室です。学校の保健室を思わせる白いシーツのベッドは(いまどきあんなベッドどこで購入するのでしょうか)私を安らかな眠りに誘います。そして時間まであと15分であったら二度寝をぶちかますぐらい慣れていったのです。もう一つは、誰からもミスを咎められなかったことです。忘れても、しっかりとボタンを押したとしても、誰からも何も言われずただ淡々と日々がすぎていくのです。そしてボタンを押して何が起こっているのかもわかりません。それは突然でした、デスクでこれといってすることもなく本を読んでいると、観たこともないスーツを着た男性が青ざめた表情で話しかけてきたのです。

「君、もしかして昨日押し忘れたか?」
私は一瞬この人は何を言っているのだろう、と呆然としてしまいましたが、自分の仕事をすぐに思い出しました。ただいつものことなので、「押し忘れたかもしれません」と返すと何もいわずその場を去っていきました。男性の様子があまりに不審だったためなにか悪い予感を感じ、それは見事にあたりました。私は広い会議室に連れていかれ、そこにはスーツを着た男性が机を囲んでいて、まるで御通夜のような雰囲気の中、損害賠償請求や説明責任や謝罪記者会見など物々しい単語が会議室の天井を飛び交っていて、私の耳には言葉の発音だけが入ってきて、それ以外は身体が自ら自己保持のためにシャットアウトしたように何も入ってこず、結局私は雇用契約違反ということで解雇とあと賠償責任が付与されてしまったようでした。私は近くにいたスーツの男性に「私何かしたんですか」ときくと、「押し忘れたじゃないか」といいました。私は、ボタンの重要性を事前に教えて欲しかったと思いました。なんで今回に限ってこんなに責められなければならないのだろう、いつも忘れているじゃないか、と子供のような言い訳を反芻していました。しいていえば、あのボタンを押して何が起こって、ボタンを押さないとどうなっていたのか知りたいと思いました。私はただ自分がやったことの結果も教えられず、もくもくと与えられたことをこなしていかなけらばいけないのかと思うとやりきれない気持ちになりました。

2012年5月25日公開

© 2012 ケミカル本多

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"スイッチを押さない時"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2012-05-25 21:29

     スイッチを押さないと解雇されて、責任までとらされてしまうのは恐ろしいですね。

    会社での描写は無機質な感じがしました。主人公と他人との繋がりがほとんど無い点が

    きっとそう見せているんですね。

    この「スイッチを押さない」経験が、今後どんな風に主人公に人生に影響を与えるのか、

    興味がわきました。

    面白かったです。

  • 投稿者 | 2012-05-27 07:04

    感想誠に有難う御座います!
    感想いただけるとは思いもしませんでした…
    この続きを考えたこともなかった。
    この人この後どうなるんでしょうね。

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