夜の道を歩いていた。柄にもなく来し方行く末などをつらつら考えながら歩いていると、だいたい歩道の段差に足を取られてすっ転ぶ。夜更けに玲瓏な下弦の月などしみじみ眺めながら歩いていると、十中八九、電柱や街灯の類に激突する。なので夜歩きの私は慎重である。その昔、地下足袋を履いて唐草模様の風呂敷を背負った泥棒のように、やや腰を落とした恰好でそろそろ、抜き足差し足で歩くことにしている。ところが、その夜の私は少々疲れていたらしく、長年の習慣がどこかにふっ飛んでいた。
ブガッ、ブフォッ、ベタン、ブショッ……
「ちっ、うるせえな」
耳障りな音がして足を止めたらぴたりと止んだ。自分の足音がやかましかったのだ。生まれついてのドタドタ歩きが復活して、その上、大足へ無理に履いた靴に穴が開いていて、歩くたびに空気が抜けて不愉快な音を立てていた。
こんな時、おのれの存在自体を呪いたくなる。地面にめり込みそうな体重に嫌気が差し、この不格好な皮と肉の塊を業務用焼却炉にぶち込んできれいさっぱり焼き払ってしまいたくなる。まったく、息を吸うのも吐くのもうっとうしい。
いつもの用心深い盗人歩きを再開したものの、三歩と歩かぬうちに生まれつきのドタドタ歩きに戻ってしまった。脳みそは半ば活動停止中であり、思考が半真空の中空で、あっちこっちへ行ったり来たりふわふわ彷徨って自制が利かない。利かないというより自制心そのものがない。昔々の下らない出来事や数々の良からぬ想念や不埒な願望などなどが、浮かんだり弾けたり暴走したり衝突して砕け散ったりしながら頭の周りをぐるぐる回っていた。
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夏の早朝、日光浴させようとミドリガメをプラスチックの水槽に入れて南側のバルコニーに置いた。それきり昼過ぎまで忘れていた。その日は35度を超える猛暑だった。思い出してバルコニーへ行ってみたら亀は茹で上がっていた。蛋白質が変性して目が白く濁っていた。水槽の壁には無数のひっかき傷が出来ており、茶色くなった血がついていた。水槽には蓋をしていなかったけれど、つるつる滑るプラスチックの壁から亀は抜け出せなかった。
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江里子を置き去りにして逃げた。他社に吸収合併される間際に私だけこっそり転職した。辛い仕事も文句を言わずに引き受ける性格だと知っていて仕事の引継に指名した。何も知らない江里子は、慌ただしすぎて送別会も開けないと文句を言っていた。
一年して江里子が死んだと聞いて喪服を着て告別式へ行った。何食わぬ顔で参列し焼香して両親に挨拶をして、香典返しをもらって帰ってきた。帰り道、幹線道路沿いの歩道を歩きながら、私以外に江里子を少しずつ死に追いやった者が、あの告別式の中に何人いたのだろうと考えていた。
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いつも餌をねだりに来るキジトラのノラがやって来たので窓を開けたら、口に妙なものを加えている。灰色のぐちゃぐちゃした塊を足元に下ろすと、猫は私の顔を見てナーオ、ナーオと鳴いた。餌をねだるいつもの可愛い声ではなくて、奇妙な切迫感のあるドスの効いた低い声だ。猫の足元をよくよく見たら、耳がついた小さい顔が幾つも幾つもくっついている。生まれたての赤ん坊猫が塊になって死んでいた。どこでどうなったのか、子猫の下半身は血と粘液塗れでひと塊になっている。三毛や白黒のブチや親と同じキジトラの模様が見えた。
母猫は私の目をじっと見ていた。人間なら何とかしてくれると思ったのか。ねだれば餌を出してくれる人間なら、死んだ子を蘇らせる神通力があると思ったのか。母猫はナーオ、ナーオと鳴く。私は途方に暮れて猫の足元を見つめる。
鮭の切り身を投げてやると、猫は子供を置いて取りに走った。その隙に、割箸で死骸の塊をつまんでコンビニのビニール袋へ入れた。ビニール袋はゴミ箱へ捨てた。
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死ねばいいと思う女がいる。無様に血や涙や鼻水を流し苦しみ悶えて死ねばいい。腹の中の子が生きたまま腐って、腐敗液が体中に回って全身の毛孔から臭い汗を吹き出すといい。口から血反吐を吐き、鼻や耳からはヘドロ色の膿を流し、子宮口から汚物の塊をひり出してスルメみたいに干からびてしまうといい。
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それにしても私はたびたび猫の集会に闖入する。よく聞く話だけど、猫にもゆるやかな社会があるらしくて、夜中のある時間、家猫や野良猫たちが集会を開いている。道ばたのブロック塀やアパートの外階段や駐車場の車のボンネットやタイヤの下などに適当に陣取って、何をするわけでもなくただそこにいるだけ。ぼけっと歩いているとかなりの確率でそこへ入り込んでいて、気がついたらちょっとした緊張感のただ中にいる。あたりを見渡すと、キラキラした目が幾対も幾対も私を見つめている。
「失礼しました、さようなら」
這う這うの体で逃げ出した私を見て猫たちは緊張を緩める。
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もしも神様が本当にいるなら、どうにかして助けてほしい。救ってほしい。私はそんなに悪い人間ではないと思う。ただのケチくさい奴。罪を犯したことがあるけれど、それは怠惰と無頓着と傲慢で作ったしょぼい罪。それをくよくよ悩むほどのしみったれ。でも、でも、このまま歩いていたら狂ってしまう。
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歩いていたら猫がついて来た。
背後でチリンチリンと鈴が鳴った。振り返っても誰もいない。でも歩き始めると、またチリンチリンと鈴が鳴る。と、何か小さな物がサッと足元を駆け抜けて、一メートルほど先でピタリと止まった。街灯の真下でこっちを見ている猫と目が合った。赤い首輪についた鈴がまたチリンと鳴った。
私は構わずそのまま歩いた。猫は私を凝視したまま身動きもしない。でも猫のそばを通り抜けるとまた背後で鈴が鳴った。足を速めてみたら猫も速足になった。チリンチリン鳴っていた鈴がチリチリいっている。足を止めると鈴の音も止まる。
猫はまたもや一メートルほど離れたところで私を見ている。子猫ではないが、まだ若い小柄な猫だった。赤い首輪にはよく見ると小さいリボンがついてるからメスなのかもしれない。濃い灰色の毛色で足先だけが足袋を履いたように白い。まん丸い顔をしているけれど、日本産の猫でもなさそうで、大きな緑色の目をしていて灰色の顔の周りの毛がふんわりと広がっていた。前足を心持ち踏ん張っているのは、いつでも私に合わせて走り出せるように構えているのだろう。
「何か用?」
当たり前だが猫は返事をしない。でも言葉はちゃんと聞こえていて、両方の耳がレーダーのように右に左に廻っていた。
相手をするのはそこまでにして私は家路を急いだ。たちまち足が惰性を取り戻し、頭は真空になり、数々の不埒な考えがあぶくの気泡を膨らませ始めた。
また足元でチリチリ、チリチリと鈴が鳴った。後になり先になりつかず離れず猫がついてくる。家までついて来られると厄介だなと考えた。どこかの飼猫が道に迷って家に戻れなくなったのかもしれない。それでとりあえず害のなさそうな人間を選んでついて行くことにしたのだろう。動物に好かれるのは結構なことだけど、ついて来られるのは困る。足を止めて振り返ったら、猫もピタリと足を止め窺うように私を見上げる。ついて来たって無駄だよと言ってみたって何の甲斐もない。かと言って邪険に追い払うのも可哀相だ。何か他のことに気を逸らせて、その隙に逃げられないものだろうかと思案した。
背後に別の気配がした。猫がピクリと体を震わせ私の足元に擦り寄った。夜目にも分かるキラキラした別の一対の目が数メートル後ろで光っていた。目を凝らしてよく見ると大きな黒猫だった。気がつかなかったがやっぱり後をついて来ていたらしい。黒猫は私に見られるのを嫌うように、サッと道の向こう側へ走ると身軽にブロック塀の上へ飛び乗った。そこへ腰を落ち着けると睥睨するかのようにビー玉みたいな二つの目を私に向けた。小さい猫は私の足元から動かない。
大きい黒猫は小さい猫に近づきたがっているし、小さい猫は黒猫を嫌がっている。黒猫は小さい猫の倍もある。喧嘩をしにきたのか、求愛しに来たのか知らないが、どう見ても体格的に敵う相手ではない。それで小さい猫は私のそばにいるのだ。
どうしていいのか分からないまま、私はまた歩き始めた。小さい猫は私の足首にくっつかんばかりにしてついて来る。よほど注意しないと踏んづけてしまいそうだ。黒猫は塀の上を走ったり、路上駐車の車のボンネットの上に飛び移ったりしながら、遠からぬ距離を置いてついて来る。遠からぬと言っても、追い払うには遠すぎる距離で、黒猫はそのあたりもちゃんと計算している。
このままでは本当に家まで来られてしまう、どうしようと考えていたら、小さい猫は突然全力疾走を始めた。チリチリと鈴が鳴って、猫はそこにあったブロック塀をするすると登った。そうして塀の上から私をチラと見ると(あるいは黒猫を見たのかもしれない)、ひょいと身をくねらせて家の中へ消えた。高窓が薄めに開いていた。相手を捕まえそこなった黒猫は音も立てずに消えていた。そうして私は一人その場に取り残されたのだった。
なんだか笑い出したくなった。
近所の家の猫だったようだが、他人の家の猫なんか知るはずがない。でも猫の方は毎日通る私を覚えていたのだ。それで身に危険が迫った時とっさの盾に使ったのだろう。賢いものだと感心するより、そういうことかと妙に納得をした。
で、また夜道を歩き始めた。
波野發作 投稿者 | 2019-07-26 13:40
元同僚の過労死という衝撃的な出来事を脳裏から引き剥がして棚上げにするために、あるいは上からペンキで塗り固めて想起しなくてすむように、猫らを利用するが、油断するとまた思い出してしまう。帰還兵の物語にもそのような生存者の後ろめたさを描いたモノが多い。人は利用して利用されて、すり減ったものからレースを抜ける。淡々とした語り口が虚無感を醸し出していて良い。
多宇加世 投稿者 | 2019-07-27 01:52
本当に夜を歩いたことがある人だけが書ける小説。漠とした道以外、外界を忘れ、歩き続ける目の前には過去が去来する。そして思考と「引っかき傷」。そこへかけひきのする猫が登場するのがいいなあ、と思いました。私事ですがここ数年夕刻より就寝する生活リズムのため夜歩けないので、夜道が懐かしくなりました。
中野真 投稿者 | 2019-07-27 14:42
内容と語りがとてもマッチしていて、短編の名手だなと思いました。短い話の中に好きな描写が多かった。亀が茹で上がっている場面と、死骸を割り箸でつまむ場面がお気に入りです。ピロウズのストレンジカメレオンの「いつか懐いていた猫はお腹をすかしていただけで」という歌詞を思い出しました。荒んだ夜に読み返したいと思い出す良い小説に出会わせてくださりありがとうございます、またひとつ救いが増えました。
牧野楠葉 投稿者 | 2019-07-27 15:43
茹で上がった亀、人間よりはるかに賢しい猫と「私」の対比が心にくる。それにしても茹で上がった亀の描写がとても気に入りました。
諏訪靖彦 投稿者 | 2019-07-27 17:03
アイキャッチ画像のような愛にあふれた優しい話なのだろうと思って読み進めてびっくり。長く生きていれば色々なことがあります。記憶域の端っこで神経細胞の結び付きを引きはがしたつもりでいても、気付けば足元から自分を見上げている。逃げても逃げても追いかけてくるから酒を飲んだり葉っぱを吸ったりポンプを打ったりするわけです。
※念のため……私は違法薬物はやってません笑
Blur Matsuo 編集者 | 2019-07-28 16:13
亀や子猫、そして元同僚の死が淡々と語られる中、最後に猫に利用されている主人公を通し人間の愚かさを効果的にあぶり出しているなと感じました。個人的にはその乖離が大きすぎて少し物語に入りにくかったので、もう少し長い物語として読んでみたいと思いました。
佐々木崇 投稿者 | 2019-07-28 22:06
人よりも猫が偉い世界の中で大猫を名乗り、更に今回のテーママスターということを念頭に置いて読みました。
正直もの足りない。
Juan.B 編集者 | 2019-07-29 16:28
ネコを見て色々思い出せるくらいの繊細さがあるならまだ捨てたものではない、と思いたいが、やはりネコにはそんな事情関係ないか。俺も夜の方が色々雑念が湧き出る人間なので、嫌な親近感が湧く。
沖灘貴 投稿者 | 2019-07-29 17:20
読ませる文章でした。
夜歩きのタイトル通りの雰囲気が作中に散らばっていて、とても面白く読めました。亀の記述ですが、リアルすぎて体験したのではないかと思うくらい。
Fujiki 投稿者 | 2019-07-29 19:53
最初に読んだとき、語り手の性別がわからなく、ちょっと混乱した。最初の文章の感じや、江里子を置き去りにして逃げたくだりから、クズな男の話かと思ったら、「死ねばいいと思う女がいる」というあたりでは女性っぽいねっとりした息苦しさを感じさせる。私はジェンダー的な混乱にうまく乗れなかった。