エッセンシャルなジェリーの

伊藤卍ノ輔

小説

5,634文字

合評会応募規定枚数を五枚ほどオーバーしたので普通に投稿します。どちらかというと金とイグジステンス。さらばろくでなし、といったところです。俺だって冒険譚が書きたいもの。

 白茶けて毛羽立った畳に、四角く切り取られた強い日差しが落ちていた。空気中に舞う無数の埃がその日差しの中でのみ白く光る。窓は小さく、光は部屋の隅まで届かない。そこには煤の様な暗がりが蟠っていた。
 四畳一間の部屋の中はがらんどうでなにもない。ただ小汚く骨ばった初老の女が日差しを避けるようにして隅の暗がりで縮こまっていた。
 女が突然首を伸ばす。その目玉が鋭く光る。反対側の暗がりで、白い塊が微かに動くのを見たのである。女は勢いよく立ち上がろうとした。しかし栄養の欠乏した筋肉は思うように動かず、その動きは緩慢にならざるを得なかった。息を喘がせながらようやく塊のところまで歩いていくと、踵をその上に衝き下ろした。鈍い畳の音と共に、埃の匂いがむっとする。皮と骨だけの脚にはそれしきの衝撃が堪えたのか、女は眉を顰めた。足の裏に伝った感触はあまりにも他愛なく、目的を達せられなかったことを女は知った。足を上げる。使用済みの縮れたティッシュが潰れているだけだった。窓の外から豆腐移動販売の間の抜けたラッパの音が侵入してくる。女は忌々しさに舌打ちをしようとした。しかし乾ききった口の中からは、小さい掠れた音が抜けた歯の間から漏れてくるのみであった。
 そのまま玄関脇の台所に向かう。水垢で白く汚れたシンクの中から二リットルペットボトルを掴み上げると、ごぼごぼ音を立てながら水を胃の中に流し込んだ。女はエッセンシャルを殺したいと強く思った。
 エッセンシャル、というのはねずみである。十年前に息子が失踪してすぐからこの部屋に出没し始めた。それからの十年間、殊に職を失ってからというもの、女はエッセンシャル殺しに全力を傾けてきた。あたかも醜いトムと生々しいジェリーの追いかけっこであった。
 女は思うさま水を飲むと、そのままペットボトルをシンクに落としてその場にへたり込んだ。乾いたシンクに水の流れる音が低く響く。水、といったところが公園の蛇口から汲んできたものなので惜しくもない。水道電気等のライフラインはとっくに途絶えている。しかし貯金も尽きた今となっては、女にとってそれは些細なことだった。この一週間まともな食べ物を口にしていないのである。
 女はそのまま仰臥した。ひんやりした玄関のコンクリートの固い感触が背中に触れる。全身の筋肉をくすぐったいような、それでいて重たい倦怠感が満たす。もうぴくりとも動くことが出来ないような気分だった。瞼を閉じる。眠るときいつもそうするように、在りし日のあれこれを脳裏に想い描く。そうしながら無意識に、己の過去を貫くバックボーンを探っているのである。なにが自分をここまで運んできたのか、その必然性を見出そうと躍起になっている。
 女の追想はいつも3DKのアパートから始まる。息子が生まれたのを機会に夫と共に移り住んだ初めての練馬区。幸せな家庭を築こうと、夫と幾度も話した。息子の寝顔を見るたびに、正しい人間に育てようと決意が漲った。息子は元気で素直に育っていった。夫も優しかった。女は不足なく、幸せな家庭を築きつつあった。
 息子が小学校に上がって少し経つと、女が息子に喚き散らす頻度が増えた。ときには傍にあった箒やフライパンで息子を殴ることもあった。見かねた夫がたしなめることもあったが、女に言わせればそれは夫が育児に対して無責任なだけだった。息子を正しい人間に育てることが自分の使命だと、女は固く信じた。
 息子が中学校に上がる直前、夫が虚血性心疾患で急死した。女は悲しんだ。それ以上に焦った。悪いことに、夫は生命保険に入っていなかった。貯金も、親子二人で何年も暮らせるほどにはなかった。女は商業施設の清掃に働きに出た。アパートも引き払い、より家賃の安い今の場所に引っ越して来た。その時期から息子の素行が悪化した。門限は平気で破り、友人と喧嘩したときなどは相手の肩に鉛筆を突き刺して学校に呼び出されたこともあった。女に対しても反抗的になり、激しく言い争うことも増えた。
 息子が初めて女に危害を加えたのは中学校三年生のときであった。女は押入れの奥に「ふたりエッチ」なるいかがわしい漫画を見つけた。息子が学校から帰ると漫画を並べて詰め寄った。剰え汚いと詰った。息子は激怒し、机の上の「ふたりエッチ」を女に投げつけた。角が鼻に当たって鼻血が止まらなくなった。女はショックだった。青天の霹靂だった。小さい頃はあんなに素直だったのに、と思った。
 女はそんな中でも少ない稼ぎで息子を高校にあげた。しかしそんな苦労を裏切るように、息子の暴力は日常化していった。女が叱る、息子が殴る。叱る、また殴る。それを繰り返すうちに叱らなくても殴られるようになった。最初女はやめさせようとした。しかし暴力は次第に悪化して、直に女は息子に対してなにも言わなくなった。それでも暴力は治まらなかった。ここにきて女は、育て方を間違えたことを決定的に悟った。しかしなにが間違っていたのかはわからなかった。
 息子は高校を卒業してしばらく経つと不意に姿を消した。女は安堵と、それに伴う罪悪感を強く味わったが、直に虚無感にすべて呑み込まれた。いままでどうやって生きてきたのかわからなくなった。虚しさよりもさらに何も無い、空っぽ。
 そんなときに女はねずみと出会った。
 当時女は花王のエッセンシャルシャンプーを使っていた。甘いガムのようないい匂いのするそれを使い切って捨てた、その空き箱の上にそいつは居た。臭いゴミ箱の中で小さい目玉が漆を塗ったように非生物的に光り、黒ずんだ薄い耳には細い血管がじゅるじゅるしている。てかった消し炭色の体から、剥き出しの筋肉の様なコリコリした尻尾が長く伸びて、先を腐れ汁に浸していた。
 ねずみを見るや否や女の筋肉がひとりでに躍動した。「エッセンシャル!」と叫ぶと拳をゴミ箱の中に叩き込んだ。ねずみは逃げた。女の胸中を謎の喜びがいっぱいに満たした。生きる希望が満たした。それから女はねずみにエッセンシャルという名を授け、それを殺すことを生き甲斐とした。
 直に会社の変革に伴って女は自主退職を余儀なくされた。次の仕事を探して方々面接を受けたがことごとく落ちた。直に女は就職することを忘れて、エッセンシャルを追うことだけに執着するようになった。
 ある夜のことだった。汚い蛍光灯がちりちりと音を立てていた。女はシンクにむかってうがいをする。ガラガラしながら天井を見ると、黒ずんだ蜘蛛の糸がその隅にだらしなくへばりついていた。水垢だらけの乾いたシンクに勢いよく吐き出して正面を見た。思わず悲鳴をあげそうになった。壁に作られた段差に置かれた手鏡の中から、汚い山姥こちらを睨みつけて、暗い玄関にぼうと浮かんでいた。しかし一瞬の後それが自分であることに気が付き、女は怒り狂って手鏡を捨てた。
 それから少しして貯金が底を尽きた。食料も無くなった。しかし生活保護やゴミ漁りなど思いもよらなかった。空腹を紛らすために畳を齧ったこともあったが、井草が喉に刺さってやめた。
 ふと、女は目を覚ました。辺りはすっかり暗くなっている。夜の奥に、天井の横木が微かに光って見える。冷たい玄関のコンクリートが女の体を骨の髄まで冷やしていた。乾いた砂の匂いがする。窓の外を車が通る音がした。不意に横で微かな音がした。頭を横に倒してそちらを見詰める。窓から射し込む青白い月明かりの中、夜の暗さをぎゅっと凝縮したような小さい黒い塊がある。女は目を凝らした。するとその塊が、ちゅう、と鳴いた。
 エッセンシャルだった。女は腕をそちらに伸ばそうとした。しかし体が動かない。ぐっと力を籠めようとしたが、そのエネルギーが抜け殻の様な体からすうすう抜けていくようなこそばゆい感覚だけ微かに感じた。もう動けないのだ、自分は死ぬのだ、と女は無感覚に悟った。しかしエッセンシャルを殺さなければならないという想いだけが膨らむ。女は力を振り絞って、殺してやる、と言おうとした。しかしそれすら言葉にならず、掠れた音だけ微かに喉から洩れて出た。また塊がちゅうと鳴いた。窓の外の遠くで誰かが陽気に歌う声がやけにくっきりと響いてきて、やがて遠ざかっていった。
 女はふと疑問に思った。暗闇の中でひくひくしているそのねずみ、普通のねずみの十倍も長生きしているエッセンシャルが、生きている意味はなんであろうか。女自身、ここまでエッセンシャルを追い続けてきた理由はなんであろうか。何故こんなにも汚い、哀れなねずみを殺さなくてはならないのか。
 すると突然女の胸中に、ある感情が爆発的に拡がった。それは女が生まれて初めて味わった、淋しさというものだった。それは静かに心を満たすような、場合によっては心地いいような淋しさではない。つむじが破れて体液がどくどく流れ出すような、身が捩切れて熱い内臓が弾け散るような、しかしそれは苦しさでも悲しさでもなく、確かに淋しさだったのである。
 女は声を上げて泣こうとした。しかし涙腺に貧乏のカスでも詰まっているのか涙の一滴すら出てこない。ただ低く乾いた張り付くような音だけが、女の喉から漏れ続けていた。
 ア、ヴ、ヴ、ヴ、ヴ、ヴ
 エ、イ、ヴ、ヴ、ヴ、ヴ
 隣の部屋から微かに笑い声が漏れてくる。夜が霞んで窓も畳もエッセンシャルもなにもかもが見えなくなる。また微かにちゅうと鳴く。全てがその存在を滲ませる。女は自分の体が輪郭を失っていく感覚に捕らわれた。夜に溶ける。しかしその中で妙に頭の中だけが冴え渡っていく。

 ああ淋しい、淋しい、堪らなく淋しい、あの子に会いたい、会いたくて会いたくて仕方ないというのは、今までどうしてこんなにもあの子のことを考えずに生きてこられたのだろうと思うほどで、要するに私は殴られたくなかったし、間違った方向にどんどん逸れていくあの子を見ているのが苦痛だったからで、でも今は無性に会いたい、会って全肯定して甘やかし尽くしたい、もう間違ってたってなんだっていい、というこの気持ちの正体はなにさ、私らしくない、でも、そうなんだ。
大体私は何が間違っていたのか、マチがっていたのか、あの子の小さかった頃のあどけない顔を今になって思い出して、それから私を殴るようになってからの怖い顔を思い出して、今までマトモに思い出さなかった薄情な母親は私で、それでも今はただあの子が愛おしい、恋しい、せめてどこかで幸せになってくれていたらと思うといって、今更遅すぎる私は馬鹿だ。
 また隣から笑い声が聞こえてきて、ぶひゃひゃひゃひゃだって変な笑い声、一人で下らないバラエティ番組でも見てるんだろう、お向かいの綺麗な一軒家に住む家族はすやすや眠りながらアンパンマンとピクニックする夢でも見てるんだろう、いつも通るぽーぷーうるさい豆腐屋は明日の仕込みでもしてるんだろう、起きてる人も寝てる人も生きてる人も死んでる人もいるんだろう、でもみんながそうやって生活してたって関係なく草木はもじゃもじゃして海はざぱざぱいって雲は空をくるくる泳いでるんだろう、ところで私はそんな真っただ中にあって今死のうとしてるんだ。なんだこのアナーキー、混沌、これは最早混乱で、そんな中で私はなんだ、どうやって生きてきてどうやってあの子と接してきたのかと考えてみて、なにが間違ってたのか、正しいことがひとつでもあったか、それとも全部間違ってたのか、まちがってたのか、マチがって――?
 そのとき、私の思考の一か所に小さい、ミジンコくらい小さい穴がぷつんと開いて、そうしてその穴がどんどんどんどん拡がっていって、穴が開いた場所はなんにもなくて、ただ黒々と闇が――いや黒でもない、闇でもない、本当にそこにはなんにもなんにもなくて、そのなんにもないが拡がって拡がって、私の外側まで流出して、ついに私はその中に呑み込まれてしまった。
 ふわふわと私が、そうして横を見ると息も絶え絶えのエッセンシャルが浮かんでいる、と思ったらエッセンシャルはすぐに消えたというのは当然のことで、エッセンシャルはこの世界では存在できないからで、私のぐるりにはなにもないが果てしなく拡がっていて、宇宙だろうか、それにしては星もなければ空間もなくて、じゃあこれがあの世? 常世? いわゆる彼岸? と一瞬考えたりもしたけどそれは違う、もう私はわかってるんだからこの期に及んでの誤魔化しは止そう、あの子に誓って今こそ認めよう、私は意を決して、心の中で叫んだ、叫んだ、猛烈に叫んだ。
 ――これこそ、この世だ。

 練馬警察署○○駅前交番巡査部長の樋口は、新任の巡査に先日見た初老の女の餓死の現場について語っていた。交番の前を通る人並みは相変わらずうるさい。二人の座っている椅子がしきりにぎしぎし鳴る。喋りながら樋口は、ときどき中指の腹を髭の剃り跡に滑らせる。その度に蜜柑の皮の様な肌が、細い皺を無数に作りながらだらしなく凹んだ。
 「そりゃ、臭いよ。腐ってんだもん。でぶの腐敗よりはましだけどよ」
 「うわあ」
 「でもやっぱ、人間として間違ってるよな、ああいう死に方は」
 「いや、本当にそうですよ」
 「まぁでもあの女の場合はさ、子供に虐待まがいのことして愛想尽かされて、それでじり貧になっても生活保護の申請してねーっつーんだから、まぁ自業自得なんだろうけどな」
 「しかし、社会が悪いんですよ。人間が人間として生きて、人間として死ねるような世の中にしないと……」
 「マァ、ナァ。公共の福祉ってやつだな。誰だって腹ペコで死んだ上に腐りたくはないってことだ」
 「あはは、そういうことですね」
 「いやぁ、しかし全く、間違ってるよ、あの女ときたら……」
 樋口は不意に女の腐臭が鼻の奥に蘇ったように感じて、すんと鼻を啜った。それからまた髭の剃り跡をなぞる。
 ふと外を見た。やけに薄暗くなっている。湿気が肌に纏わりつき始めた。
 「おい、そろそろ雨降るぞ」
 「あ、本当すね。あー、パトロールやだなぁ」
 間もなく、雨が降った。

2019年5月20日公開

© 2019 伊藤卍ノ輔

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