(9章の5)
一部屋ずつ運ばず、そろって食事をさせるのは手間をかけたくないからだろう。みすぼらしい安宿のやりそうなことだ。
おかずがまた貧弱だった。肉類、刺身類はなし。揚げを焼いたものに、ほうれん草の和え物。そして漬け物にナスの煮浸し。ナスがまた小さい。味噌汁の具はキャベツだった。キャベツが嫌いというわけではないが、宿代には不釣合いだ。それでも頼んでしまったものはしかたがない、わたしはもそもそと食べ始めた。
まわりは年老いた客ばかりで、静かに食べている。よくこんな料理を文句も言わずに食べているものだと、感心する。
なんだかとんでもないところに迷い込んだような気分。しかしわたしが生まれた頃の鄙びた温泉街というのは、どこもこんなようなもので、大差はなかったことだろう。そう承知してはいるが、死ぬ直前の食事として、これは許せなかった。
ほとんど残してしまったわたしは部屋に戻り、窓を開けて夕日を見た。稜線が迫り、ひょいと手を伸ばせば届いてしまいそうだ。あらためて、あの稜線の向こうには何もないのだなぁと思う。なにしろここはわたしの頭の中だけの場所なのだから。だから存在するのは、わたしが見ている部分だけ。あとはなにもないはずだ。映画のセットのような張りぼての世界。わたしの見ているものだけが存在するという、なんだか哲学の一つの説のよう。
そう考えると侘しさと同時に、不思議な感覚になる。あのばあさんも、女中も、みんなわたしのためだけに存在しているというわけだ。ばあさんはわたしからうまいこと二千円を取ったとき、表情を緩ませた。その心の動く様までもが、わたしに向けた作り物ということだ。
ゴロンと、再び大の字になった。
目は瞑らず、天井だけをじっと見つめる。木目がところどころ、目玉のようになっている。子供の頃、この天井の木目が怖かった。鳥は丸い模様の服など着ていると、妙に落ち着きをなくす。目玉に見えるものに反応してしまうのだ。幼い子どももそれと同じ。天井の節目だけでなく、近所にあった木も怖かった。まん丸のうろが、一つ目の怪物に見えたからだ。
視線だけ、ぐるりと回す。侘しさ募る宿。壁はくすんだ肌色で、こすれば、おそらくボロボロとはがれてくることだろう。ところどころ、シミも浮き出ている。
平成の世では、ボロ宿マニアという奇妙なものも生まれている。そんな趣味を持つ者がこの世界に来たとしたら、涙して駆け回ることだろう。鉱泉宿、民宿、駅前旅館と、マニア垂涎のものがずらりと揃っている。
なんでもっと豪勢な宿を思い浮かべなかったのだろうと、ここでハタと気付いた。わたしはボロ宿マニアなどではないのだ。
この時代にも、それなりに立派な宿泊施設は多くあった。そういう宿を思い浮かべることなく、しばらく経ってから後悔する。わたしという人間の、質が分かろうというものだ。多額の金を残してしまったことだってそうだ。吝嗇家でもないのに貯蓄がそこそこあった。旅行も、高価な買い物も、美味いものも、なにも思い出にない。そういったことに金を使ったことがないのだ。
まったく、なんのための貯蓄だったのか。まだ歩き回れる間に、ホームレスでも集めて10万円ずつ配っていけばよかった。そんなばかげた考えも起きてくる。それくらい、無駄に金を貯めてしまったのだ。はい、皆さん列を作ってください、わたしに賛辞を送ってくれた人には10万円ずつ渡していきますよ。拡声器で伝えながら、きれいに使い切ってしまえばよかった。どんなに気持ちよかったことだろう。
しかしわたしは、そうでもないかもな、と思いなおす。むしろ虚しくなるだけだろう。きっと、愉快なのは最初の数人程度といったはずだ。なにしろ、わたしのことを何一つ知らない人間からの、金を貰うという打算だけがこもった賛辞なのだ。とてもじゃないが、数十人が限界だろう。これが世間に知られた人間であれば、的を射た賛辞も集まるだろう。ところがわたしときたら、無名で、秀でたところなどどこにもないときている。それだけならまだしも、今現在は、ホームレスの人々にすら憧れの心を持っている身なのだ。彼らは金も家もないが、命はあるんだよなぁ、と。そんな哀れな男に浴びせる賛辞など、あろうはずもない。
わたしはのっそりと上体を起こす。くだらない考えに、ずいぶん時間を取ってしまった。こんなこと考えて何になるというのだ。わたしは頭を切り替えるため、大あくびをした。
上体を起こしたときにズボンのポケットから小銭が落ち、何枚か散らばっていた。わたしは百円玉を1枚つまみ、テレビの側面に付く灰色の機械に投入した。こういった宿は、テレビの使用料が必要だった。
そしてスイッチを入れる。しかし、どういうわけかテレビは映らなかった。ザーッと、砂の嵐だけ。平成の世はどのチャンネルも24時間稼動していて、砂の嵐など滅多に観られなくなった。一瞬懐かしいと表情を緩めたが、すぐ眉間にしわを寄せた。
「まったく、なにもかもが!」
呟きながら、チャンネルをガチャッガチャッと回す。軽いタッチのボタンに慣れた人間からすれば、驚くような強い衝撃。1回転させてみたが、どこも映らない。テレビかアンテナが壊れているのだ。わたしはチェスの駒と見紛う大きなスイッチを、手の甲で乱暴にはたいて切った。
腹を立てたまま、のっそりと立ち上がった。まずい飯におシャカのテレビ。呑みにでも行かなければ腹の虫が収まらなかった。
"でぶでよろよろの太陽 (9章 の5)"へのコメント 0件