(3章の1)
ずっと夕暮れだった。
夕日が西の空に大きく浮かび、稜線に沈みかけている。ここは、いつまでたっても夕暮れだけが続く世界だった。
夕暮れは一向に、闇へと突き進まない。日は沈まず、夜が訪れることはなく、だから朝を迎えることもない。
夕暮れが果たして、どれくらいの時間続くのか分からない。夕暮れだけなので、時の進行がないのだ。
しかし時刻はある。わたしは時計など身に付けていないが、時間の確認は手近な家をひょいと覗き込めばこと足りる。この世界は平屋が多く、また家の造りも粗末で、さらには夏でどこも開け放してある。置き時計なり掛け時計なりで時間を確認するのは、容易なことだった。
時計を見れば、針が夕暮れ時に相応しい時間を指している。もちろん秒針は規則正しく進んでいる。チッチッチッと……。
秒針が一周すれば長針が少し進み、それに合わせて短針もかすかに動く。時間は滞りなくすぎているのだ。実際わたしは何度も見た。針の進む様子を。
しかし、時は進まない。わたしに現実感を持たせる、ということのためにのみ、時計が動いているにすぎない。たとえばここから歩いて山を一つ越え、辿り着いた村で時計を見ても、指し示しているのは夕刻だ。
それでは、時計をじっと見続けていたらどうなるか。
目を離さなければ、針の指し示す時間が、夕暮れ時をすぎていくことになる。夕暮れ時とは合致しない時間になってしまう。でも目を離せばすぐに元へと戻る。わたしは試しに1時間以上、じっと見つめていた。時刻は8時をすぎた。夏至の時期だろうと、本州で午後八時に陽が残っているというのは不自然だ。なんだこの矛盾はと、わたしは山の向こうのうすぼんやりとした赤い空を見つめた。しかし目を離したほんのちょっとの隙に、時計は7時少し前に戻っていた。
まるでバネのように、戻ってしまう。わたしは今度、2時間見つめていようかと思った。しかしばからしくなってやめた。そんなことをしてなんになるというのだろう。せっかく自らが望んだ「夕暮れだけの世界」にいるというのに。粗を探すためだけに時間を使うなど、もったいないもいいところだ。この世界ですごせる期間は限られているのだから、つまらないことに時間を使うべきではない。
いいじゃないか、時間なんてものがなくたって。この世界にあるのは夕暮れ時だけ。それで充分だ。
わたしはのんびりと歩く。もちろん早歩きだろうが構わない。へとへとに疲れきるまで全速力で走ったって、それで汗だくになったって、どうということもない。夏の夕刻のこと、はげしく動けば当然ながら汗がとめどなく流れてくるだろう。不快な汗で全身がベトつき、シャツやズボンが体にへばりつくことになるだろう。
でもそうなったところで、なんら問題はない。「汗よ、乾け」と、ひとつ頭で念じれば、すぐ元の状態に戻れるからだ。念じた次の瞬間に汗が乾き、走る前の状態に戻ってしまう。
汗だけではない。走って疲れた体力もそう。「疲れよ、取れろ」と頭で念じればいいだけのはなし。疲れが体から抜け、体が軽くなる。
どうしてそんなことができるのか。それは、ここが作られた世界だからだ。
ここはわたしの夢の中の世界だった。
だから勝手が利くのだ。思うとおりになるのだ。
そしてまた、夢と大きく違う点がひとつあった。それは、現実感がある、ということ。いつも見る夢の世界のような、曖昧でつじつまの合わない世界ではない。現実の世界と何ひとつ変わらない、すべての感覚が明確な世界だ。そこが通常の夢とまったく違っていた。
わたしはこうやって理路整然と考えられ、見られ、聞け、触れられる。それでも、現実のわたしは、わたしの体は、ベッドで眠っていて、この世界は夢の中なのだ。
わたしはこの夕暮れの世界で、自分の体を触る。右手で左の手首を、ぎゅっと掴む。掴んだ右の手のひらにも、掴まれた左手首にも、感触がある。抓っても叩いても痛みを感じる。肌を切れば血が出てくる。わたしはさっき山道で転び、すり傷から血が滲み出た。
おそらく首を掻き切れば、大量の血が噴き出すことだろう。現実世界で体験したこともなければ目撃したこともなく、テレビや映画でしか知らない。でも、おそらくはあんな感じでシューッと鮮血が飛び散るのだろう。そんなものまでという気はするが、身体に影響するものが現実となんら違いがない、ということがこの夢の特徴なのだ。
それでも夢の中のことゆえ、現実と同じというわけではない。そのように血を噴き出させたって、死ぬわけではない。元に戻るよう念じればすぐに戻れるし、またあまりにひどい状態なら、念じずとも勝手に快復してしまう。ようは、首を掻っ切るときの手ごたえや痛み、血が吹き出る感覚などは現実感たっぷりに味わえるが、そこ止まりで、あとは望まざるともリセットされるということだ。
それほど便利であるならひとつやってみようかという気に、正直ならないではなかった。しかし死ぬほどの痛みを体験するということでもある。いくら快復できるとあっても、これは尻込みしてしまうというものだ。
歩き通しのわたしは幾筋も汗が伝い、シャツは絞れるほどだった。しかし、なんということもない。「汗よ、引け」、あるいは「服よ、乾け」と念じれば、沁み込んだ汗は取り除かれて不快感は一掃される。人間、すぐにできてしまうものは放っておくものだ。急いでやっつける必要はない。わたしはせっかくなので、不快感を楽しんでいた。暑い時期に体を動かして汗びっしょり。この感触は、年齢を重ねてから味わうことがなくなっていた。わたしはまとわり付くランニングシャツを懐かしみながら、歩いていた。
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