飛翔への憧憬

TRAIL(第5話)

菊宮まひろ

小説

18,974文字

この世界はプラスチック製の水槽で出来ている。高校二年生の栗本莉奈には幽霊が見えた。

a

刺すような冷たい、潮の匂いがしない海風が、あたしをなぞる。それはあたまの渦巻きから、あるいは伸びかけの足の爪から、そっとあたしを侵食してくる。見上げた空、あたしを縛るこの巨大な空は、あたしに、地球の大きさに比べたら、あたしの身体なんてちっぽけなものだってことを容赦なく、そして包むように取り込むように突きつけてくる。

青いはずの空が赤い。いや、赤というよりはピンクなのかもしれない。そこに手を伸ばす。届かない。煙がゆっくりと立ち昇って見えないところに消えていく。人気のまるでない冬の屋上は空気が澄んでいて、それで空が近いように錯覚してしまう。ヤニクラ。あたしは手すりにしがみつき、コメカミからの回転をやり過ごそうとして、耐えきれずしゃがみこむ。空が反転して、あたしはピンク色の青に堕ちていく。水だ。まるで水みたいな感触だ。空気は水のようなものだ。

目眩から回復したあたしは、もう一度立ち上がり、今度は地上を見下ろした。ここからは、下の様子がよく分かる。上から見える、きっとみんながそれぞれに意志を持った動きをしているつもりになってるその、校庭でわらわらと動き回る様子はなんだか滑稽で、あたしは吸い込んだ煙を肺に擦り付け、ちょっとだけ咳き込みながら吐き出した。赤い風にヤニの匂いが溶ける。

ここは水槽だ。世界はプラスチック製の水槽で、みんなこの反転した空の下で生きる魚なんだ。何者かに飼育されている。あたしはずっとこの考えを持っていて、ひとつの真理みたいに捉えていて、そしてこのマンションの屋上から見える景色はそれを証明していると思ってる。

夕陽は綺麗だ。それが冬ならなおさら。オレンジ色の空気の中にそっと赤が混じって、でも決して混じり合わないで、それぞれが線を描いていて。あたしにはうまく表現出来ないけれど、本当に美しいと思う。そしてそれが、あたし一人で独り占め出来るのならなおさら。この屋上から眺める景色も、そこでの思いも、あたしひとりきりのもの。今にも落ちてきそうな空もあたしだけのもの。

空とこの屋上を仕切る手すりを掴んだまま、あたしは思いっきり煙を吸い込んで、むせそうになりながらコーヒーを流し込み、流れていく赤の光を思いっきり楽しんでいた。もうすぐ夜が来て、そしてあたしは、このひとりきりの美しい光の庭園から出て行かないといけない。それは口惜しいことだけれど、でも、仕方のないことだ。
「何してるの」

後ろから女の声がして慌ててタバコを捨て、ゆっくりと振り返る。このマンションの管理人かなにかかとおもったら、そこには制服を着た女がいた。
「ねえ、栗本さん」

生徒会長の椎名希望だった。夕陽に照らされて顔がよく見える。その表情は硬くて何を考えてるかわからない。一度も話したことがないけど、冷たい機械みたいな女。美しくて強い女。あたしは知っている。一瞬だけ目が合い、ふっ、と逸らされて隣に立たれる。身長百六十センチのあたしよりもほんの少しだけ高い。生徒会長の顔を見ないようにしながら手すりを掴み、どうしてこいつここにいるんだろうとぼんやりと考えた。
「タバコの匂いがする」
「そうやね」
「吸ってたでしょ」
「いいえ」
「嘘」
「チクる?」

ちょっと待ったけど返事がかえってこないので、そっと隣を見る。会長はこっちを見ないで、ただ黙って腕組みをしていた。顔からは何も読み取れない。雪解けの遠い氷みたい。あたしは単純にそう思った。
「……交換条件を呑んでくれたら」

へえ。そう来たか。あたしは返事をせずに、マイセンに火をつけた。
「四月に、劇をするじゃない」
「ああ、あの、さっむい」

伝統だか歴史だかなんだか知らないけど、あたし達の通う高校は、毎年四月になると、その年の三年生が新入生にむけて、歓迎の意味を込めて劇を演じる。もう半世紀ほどそういう催しをやっていて、そしてそれはこの冬が終わったら、あたし達にもその役目が降りかかってくる。
「寒いとか言わないでよ」
「事実じゃん」

まあ、そうだけどさ。生徒会長様はため息をつき、煙を払うように手を顔の前で降った。
「あれ、毎年ね、なにかの原作を翻案して劇にするらしいのよ」
「あたしらの時は山月記だった」
「そうね。それで、今年はね」

会長がまた、ため息をついた。今度はさっきよりも大きかった。あたしも真似して煙を吐き出す。会長のほうに行くように。
「オリジナルで脚本作るんだって」
「へえ」
「私がその話を作らないといけないの」

ふーん、そうなんだ、頑張ってね。そう他人事のように言って、そして傍の女のウェーブのかかった髪を見たとき、あたしは、あ、やられたって、そう思った。
「栗本さん」

左手に持ったマイセンから、切ってない灰が落ちた。潮風に乗って、六階から地上へと落ちていく。
「……ええと」
「私の代わりに、脚本書いて。そしたら見逃してあげる」

あたしはなにも返事ができなかった。あたしには選択権はたぶん、ない。
「ねえ、あたしさ、チクられたらどうなんのかな」
「普通は停学じゃない。でも」

会長が顔を上げてあたしの頭を見た。髪を見てる。
「その髪のこととかあるし、停学以上かもね」

成績良いからね、あなた。その声に出ない言葉が聴こえてきた気がして、染めてない、気づいたらこうなっただけ。って、言ってもしょうがないことなので、あたしは何も言わないで心に留め、ただ黙って目の前にみえる校庭の様子を見つめた。トラックに誰かが走っていく。あのフォームは誰だっけな、と考える一方で、頭のもう半分では、面倒くさいことになったなぁ、と、どうすればいいかを考えていた。
「どうする?」
「どうしようもないっしょ」

じゃあ決まりね。そう言って隣の女はふふっ、と少し楽しそうに、でも悪い顔で笑った。口の先が釣りあがっている。光が当たってるからかもしれないけど、腹立たしいことに、シンプルにかわいい顔だな、と思った。
「で、どうやったらいい?」
「あらすじでもプロットでも、なんでもいいから話を作って。設計段階でも完成品でも、どんな形でもいいから。流れがあって、オチがあって、それで大丈夫」

演劇部の子があとは適当にやってくれるから。ああ、助かった。会長はそう言って伸びをした。もうその顔からは表情が消えている。人形のように冷たい。
「いつまでに?」
「早めに」

嫌々そうだったのに結構乗り気じゃない?そう言うこの女は、笑うときに口の端を歪めて笑う癖があるみたいだ。
「後々の面倒ごとは避けたいんだよ」
「あなたに頼んで正解だった」
「どういう意味?」
「そんな見た目のふりして、いつも本読んでるでしょ、授業中」

会長が携帯を取り出す。アドレスを交換した。シンプルな携帯だった。出来たら連絡しろということらしい。
「じゃあ、私もう帰るね」
「ちょっと待った」

なに?と首を軽く傾げる。風で、緩い流れのある髪が揺れる。その立ち姿はどうしようもなく絵になっていて、それが少し悔しかった。
「なんで、ここに来た?」
「ああ」

彼女は目をきっかり二回瞬きさせて、それからゆっくりと口を開いた。
「このマンションね。うちのお父さんが大家だから」
「……マジで?」
「嘘」

会長はまた口の端を歪めて笑った。声を出して。
「私ここ、好きでたまに来るのよ」
「どこが?」

横の女は黙って下を指差した。
「ここ、すごく綺麗に校庭見えるじゃない。みんなが生きて、頑張ってっていう、その当たり前な普通の風景が、なんだか好きで」

そんなもんなのか。あたしは新しいタバコに火をつけた。
「栗本さんは?」
「このマンションの噂かな」
「幽霊なんて出るわけないじゃない」

幽霊マンションなんて馬鹿馬鹿しい。また会長は声を出して笑った。結構よく笑うんだな、とあたしは意外に思った。
「なあなあ」
「なに?」
「タバコ、吸う?」

彼女は最初みたいに冷たい顔をして、首を横に振った。
「嫌い」

b

『で、莉奈は馬鹿正直に引き受けたって訳か。アホだなー』
「んなこと言わないでよ、自分でも馬鹿だって思ってるから」

幽霊が爆笑して屋上のタイルに転がる。セットした金髪が乱れるのも御構い無しだ。
「汚い、男前が台無し」
『うるせえ』
「ねえ、どうしたらいいかな」

昨日の出来事を思い出しながらあたしは頭を抱えた。
「ねえ」
『好きなもん書いたらいいんじゃねえの?』
「そう?」

うん。そう言って幽霊はあたしの横に立ち、下を眺めている。つられてあたしも、校庭と、その向こう側に広がる街と、穏やかな海を眺めた。陽は傾いているけれど、まだ赤くない。街もまだ、オレンジ色ですらない。それでもあたしにとっては悪い空気ではなかった。呼吸が出来るから。空気が清潔で水分を感じられるから。
『しかし幽霊なんて出るわけないじゃない!だってさ』
「あんたはここに居るのにね」
『ああ、全くだ』

幽霊は肩を竦めた。ハードロッカーみたいな格好とその仕草が実に似合っててかっこいい。
『幽霊苦手なタイプかも』
「そうかもしれない」
『じゃあ祟ってやんないとな』

二人で声を出して笑う。
『まあでも、見えるやつにしか見えないし、声も聞こえない』
「うん」
『けどきっと、ガキの頃はみんなそうだったはずだぜ?』
「そうかな」
『お前はおかしくない、正常だ』

ゆっくりと屋上を歩き回る彼の声が慰めのように聞こえたので返事はせずに、あたしは幽霊に背を向けてタバコに火をつけた。
『匂いつかないようにな、またうるさく言われるぞ』
「わかってる」

あたしは時間をかけて一本を灰にして、次のタバコに火を移した。ちょっと寒い。マフラーを引っ込めて、コートのボタンを一番上まで留める。
『な。こんなところで辛気臭い顔してないでさ、散歩しようぜ。なんかほら、いい考え浮かぶかもしんねえじゃん?』
「ギャル男のくせにいいこと言う」
『うっせえバーカ』

あたしは黙って火を消して、鞄を持ち、ガタガタする古いエレベーターに乗り込んだ。整った色白の細面がニヤニヤしてるのがなんだか腹が立ってしょうがなかった。

地上六階から一気に下へ降りる。歩き出したあたしの後ろから、幽霊がついてきているのがわかる。カビくさい空気の箱を出たところで、外の空気は、街の空気は変わらない。冬の空気は澄んでると言うけど、いつだってこの地方都市の空気は海風でしけている。

古いビルの合間を歩く。幽霊マンションだけじゃなく、この辺りの建物は全部バブルの頃の遺産で、二十年以上経って最早死臭がするような気がする。気のせいだろうけど。高校の通学路を避けて街に出た。地方都市。県庁所在地。栄えてるようでちっとも栄えてない日本の端っこ。年寄りしかいない街。

商店街のアーケードを抜けて、綺麗なビルを横目に歩く。みんながあたしを見ている気がする。視線が怖い。視線が全てあたしの制服と髪を見ているような気がする。視線が完全にあたしの中を見透かしているような気がする。こんな田舎じゃきっとあたしの居場所なんてない。そう実感するのはこういう時だ。早く逃げ出したい。人から。人の群れから。息が苦しい。息がうまく出来ない。水の中に沈んでいくような気がする。淀んでる。さっきまで空気の中にいたはずなのに。純に潤った空気の中で満たされていたはずなのに。みんなどうやって生きてるの。こんなに苦しいのに。

そうこうしているうちに家の近くまで来ていた。少しずつ呼吸が楽になる。金網越し、線路を挟んだその先にある、あたしの家、あたしの家のマンションを見つめた。
『莉奈』
「なに」

幽霊が顎をしゃくって錆びかけの線路を指す。あたしは頷いて、そしてその次の瞬間には、線路の上に寝転んでいた。

冷たい鉄の感触が背中越しに伝わってくる。それはあたしにまだ、あたしがまだちゃんと生きてるということを突きつけてきた。こんなにも苦しいのにまだ生きているということを刻み込んできた。いつの間にか陽は完全に落ちてしまって、オレンジもピンクも純粋も淀みも全て消えて、ただ黒くなっていた。

そっと煙草に火をつける。心配しなくても大丈夫、夜はあたしのものではないけれど、全てをごまかしてくれるから。そのまま空いた方の手でそっと手首に触れる。数日前にカッターナイフでつけたバーコード状の傷をなぞり、少し抓った。
「このまま轢かれて死ねれば楽なのに」

刃傷は痛くもなんともないし、幽霊はなにも答えなかった。今日はもう話してくれないらしい。その証拠にどこにもいなかった。だからあたしはそっと金網から手を離して、もう線路を見ないように歩き出した。呼吸の中に気泡を込めるように。心を殺して何も考えないように。

 

c

昼休みは長いからきつい。あたしのような協調性の無い人間には特に。部活を辞めて以降、そしてこの髪になってからはずっと、誰もが遠巻きにあたしを見ている気がする。そういう視線とかが耐えられないから、あたしはいつも、空き教室で菓子パンを齧り、残った時間は本を読んでいた。

今日もそうやって、紙パックのカフェオレを飲みながら本を読んで一人、煙草吸いたいなあと思いつつだらだら時間をつぶしていたら、急に人の気配がして顔を上げた。
「なにしてんの?」

雅だった。なんの断りもなくあたしの前の席に座る。冬なのに彼はいつだって石鹸系の制汗剤かなにかの匂いがする。
「本読んでんだけど」
「なに読んでんの」

表紙を見せる。雅は首を振った。ストレートパーマでぴんとなった前髪が揺れる。
「知らん」
「走ってばっかだからでしょ」
「有名なん?」

全然、と答えてからあたしは窓の外を見た。桜の木の枝に鳥がとまっていた。知らない鳥だった。
「じゃあ、あの鳥は知ってる?」
「わからん。知ってんの?」
「あたしも知らん」

なんだよそれ。そう言って雅はため息をついた。

あたしと永岡雅は腐れ縁だ。幼馴染と言い換えることも出来る。ずっと小さい時から知り合いで、幼稚園と小学校が一緒で、中学だけあたしが引っ越したから別で、高校でまた一緒になった。だから十年以上の付き合いになる。
「お前さ、痩せすぎじゃね?」
「あんたも痩せてんじゃん」
「俺は走ってるからいいの」

お前、部活辞めてからどんどん細くなってるよな。そう言って雅はあたしの上から下までゆっくりと見つめた。
「どこ見てんの」
「なにも見てない」
「あっそ。もう本読みたいから行ってくれない?」

いつもみたいに、しっしっ、として追い払おうとしたら、振った手首を掴まれた。
「なに」
「また傷が増えてる」

彼はため息をついて手を離した。くっきりとした二重まぶたが下がる。
「お前マジで大丈夫か?」
「なにが?」
「色々、その」
「関係ないじゃん」

いや、たしかに関係ないかも、でもやっぱ関係ないことはないだろ。そうブツブツ言う幼馴染を無視して、あたしは小説に集中しようとするけど、目が滑って活字を全く辿れない。きっと寒いのがいけないのに違いないので、ベージュ色のカーディガンの袖を手首まで伸ばす。
「みんな心配してんぜ?」
「みんなって誰」
「部活の連中とか」
「関係ない」
「関係ないことなくね?」
「知らない」
「また走ろうぜ、気も紛れる」
「連れ戻しに来たわけ?部長だから?」

いや、俺はそうじゃなくて。雅はまたため息をついた。
「髪とか。あと、その」
「明るい茶髪の高校生とかどこにでもいるでしょ」
「……まあでも、田舎じゃ目立つ。都会じゃないし」
「ここがスーパー進学校だから?」
「……あのさ」
「聞きたくない」

次の授業なんだっけ。そう言って立ち上がると、雅は、やれやれ、といった感じで、日本史。教室移動な。と返してくれた。

携帯を見ると、そろそろいい時間だからあたしはしぶしぶ立ち上がり、空き教室を出て歩きだした。チェーンとか鍵がぶつかって、ちゃりちゃりと鳴る音が後ろから付いてくる。その合間合間に、廊下ですれ違う誰も彼もの視線がいったりきたりしてあたしの頭を見て、なにか話しあってる。きっとそれはあたしのことだ。水槽の中の逸れもの。眉を潜めさざめきあう魚たち。飼育された回遊魚。どいつもこいつもきっと敵だ。あたしが違うからって、いろんなことを有る事無い事言ってるんだ。あたしはお前らとは違う。違う。

コンビニの袋に入ったゴミを捨てて教材を抱えて教室に向かう。雅がまだついてくる。別に後ろに目がついてるわけじゃないけど、何か言いたそうな顔をしてるのがわかった。だから振り返って聞き出そうとしたら、目の横をウェーブのある髪が通り過ぎて、慌ててそっちの方を見た。生徒会長の椎名希望だった。一瞬こっちをみて口の端だけを歪めて笑った気がするけど、それが確信に変わる前に彼女はトイレに入っていった。
「どうした?」

雅が首を傾げている。頭ひとつ高い(けど昔は逆だった)彼の顔を見たとき、制服のポケットに入れた携帯が震えた。誰から来たかすぐわかった。
「ごめん、ちょっとトイレ」

拒否させる間もなく教材を預け、個室に入る。
会長からのメールにはただ一言、『出来た?』と書いてあったから、あたしも『あらすじだけ』と返事をした。秘密の取引。なんだか心臓がどきどきしてたまらなかった。

 

 

d

「まさか、ファンタジーとは思わなかった」

給水塔に腰掛けた希望が楽しそうに笑うのを、手すりにもたれながらあたしは見上げていた。真っ黒なタイツで包まれた形の良い脚がぶらぶらと揺れる。
「他に思いつかなかった」
「意外よ」
「そんなに?」

かなりね。そう言う希望はあたしの方じゃなくてどこかを見ていた。釣られてそっちに目をこらす。いつも通りの美しい空だった。でも今日は桃色が薄くて赤色が強かった。遠くで紅蓮色に波が揺れている。
「ここ、山の途中にあるから、六階建てでもよく下が見える」
「うん」
「でもちょっとこの季節はコート着てても寒い。私は前も言ったけれど、ここ好きよ。莉奈は?」
「好き」
「なんで?」
「考えを補完してくれる」

ふうん、と言ったきり希望は黙ってしまったからあたしも黙ってタバコに火をつけた。
「そのタバコどうしてるの?」
「父親の」
「持ち出してバレない?」
「あんまり帰ってこないから。カートン……箱でたくさん置いてあって」
「大変ね」
「そうでもないよ」

希望がするすると梯子を降りてきて、あたしの横に立つ。タバコの煙が潮風に吹かれて彼女の髪につきそうだったから、あたしは立ち位置を変えた。

取引をして一週間が経った。あたしたちは奇妙な共犯関係から一歩進んでお互いをお互いの下の名前で呼び合うようになった。そして、少しずつ色んな話をするようになった。
「莉奈は、世界をファンタジーみたいに捉えてるのかもしれない」
「なんでそう思うの?」
「なんとなくよ」

希望が口の端を歪めて笑う。この一週間で分かったのは、彼女は玲瓏でただ冷たいだけじゃなくて、頭が良くて、皮肉屋で、クールだけど楽しそうによく笑うということだった。
「恋愛観も、きっと、ファンタジー」
「なに言ってるの」
「好きな人は」
「はあ?」

ふふっ。そう言って希望はあたしの額を弾いてきた。ぱちり、と爪が皮膚を叩く。
「じゃ、希望は」
「まあいいじゃない」
「自分から話し振っといて?」

彼女は返事をせずに黙って手すりにもたれかかった。海はまだ赤い。赤というよりも紅だ。
「動物の中には」
「うん」
「淫らな個体が存在して、生殖行為を頻繁に行うことで種の個体数を増やすらしいのよ、それが繁栄のために効率がいいんだって」
「へえ、そうなんだ」

あたしは努めて平静を装いながら、足元の街並みを眺める。屋根が、ビルが、紅蓮色の光を反射している。赤い泡。泡立つ時間。

希望は唐突に講義を始めることが多い。物知りで、どこから知ったのか聞いてみると、本で読んだと答えてくる。そしてそれは性的な事柄が多くて、たまに辟易とする。
「ねえ、希望」
「なに」
「じゃあ、淫乱の子は淫乱だと思う?」

希望が黙ってこっちを見てるのがわかる。あたしはそっちを見ない。ただ目の前の景色だけを見続けた。
「どうなのかな」
「うん」

海から伝ってくる風があたしたちの髪を舞わせる。潮の匂いのしない海風。陽に溶かされて乖離した水の湿り気。あたしたちはしばらく黙ってどこかを見つめていた。
「あたしね」
「うん」
「世界はプラスチック製の水槽だと思ってるの」

隣に立つ希望が首を傾げた。なんとなく恥ずかしくなってキャスターに火をつける。
「空は青いじゃない。あたしたちはその下で生きていて、それがあたしには水槽のように感じるっていうか。管理されて、支配されて、抑圧されて、息苦しくて」
「じゃあ、空気は水?」
「そうそう」
「なるほど」
「まだ部活やってた頃に、走ってて。朝ね。それで、校庭から上を見上げたら、空がすごい青くて。なんだか色んなことが馬鹿らしくなった。色んな成績や肩書きだけで評価してくる全てが。あたしの中身なんて一切見ずにあれこれ批評してくる存在が。結局自分の意思を貫いているようでいて管理されてて。そして、他じゃない自分を自分で縛ってて。んで、結局そこから、どこにも出ていけないんじゃないかって」
「なんだかわかる気がする。面白いね、その考え方」

あたしは希望が理解を示してくれたことに嬉しくなった。バニラの香りが潤いに溶けていく。
「ありがとう」

ううん、と希望が首を振って笑った。昔からの気の置けない友人と話をしているような気がして、なんだかとても楽しかった。水槽は息苦しくても、あたしはずっとこうしていたかった。

 

 

e

「幽霊マンションってあるだろ」
「うん」
「あそこなんでそう呼ばれてるか知ってっか?」

雅は頬杖をつきながらいきなりそんなことを言い出した。

あたしはいつもと変わらず、昼休みは空き教室で菓子パンを齧り、カフェオレを啜り、タバコを吸いたいと考えながら本を読んでいた。だけどそんな毎日にひとつだけ変化があった。雅だ。幼馴染の男子で、同じマンションに住んでて、ちょっと前まで同じ部活で一緒だった、永岡雅が、毎日とは言わないでも時たま、あたしと一緒に、話をしながら昼ごはんを食べるようになった。最初は面倒くさかったけど、話し相手も欲しかったし、よく知ってる人間だったから、いまはこうして一緒に話をしている。
「知らない」
「あそこさ、住んでる人全然いなくて廃ビルみたいじゃん。でも結構さ、外から見たら作りはしっかりしてんじゃん。手入れ微妙だけど」
「うん」
「バブルの頃に出来てさ、そんで、一家心中があったんだって。バブル弾けたのに耐えられなくて、借金で。それから出るようになって、みんなどんどん退去して行って、値段下げて物好きが住んでる、みたいな」
「そんで?心中ってどんなんだったの?」
「精神病んだ母親が、旦那殺して、そのあと子供を殺して。そんでそのお母さんが自殺したっていう話。姉と弟なんだって。しかも、姉と父親は近親相姦してたとかなんとか」

あっ、と小さく呟いて、雅はごめんと謝ってきた。あたしは口だけ笑って首を横に振った。大丈夫。
「ごめんな。俺、デリカシーなかった」
「いいよ、昔からじゃん」
「ああ、もう本当にごめんな」

両手を合わせて頭をさげる、本気で凹んだような雅の様子がなんだか嫌いになれなくて、あたしは許してあげることにした。
「いいって。てかよく知ってんね」
「ああ、うん。お前、たまにあそこいるだろ」
「なんで知ってんの」
「やっぱりあれお前か。いや、なんか、近くにコンビニあるだろ?そこ行った時に上見上げたら、なんかちょっと格好が似てて」
「黙っててね。なんか怒られそうだし」

そう言うと雅は何も返事をせずに無言で手首を掴んできた。
「まだ切ってんのかお前」
「触んな」
「ていうか日に日に細くなってる。すぐ折れそうなくらい」

力を入れてがっちりとした指を払い退ける。目の前の幼馴染は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「なあ、なんで莉奈ってさ、切るの?」
「は?どういう意味?」
「いや、別にすんなってことじゃねえよ。ただ、なんでかなって。どうして手首とか、腕とか、切るのかなって」

あたしは教室の天井を見上げた。何を言えばいいのか言葉を探していた。色んな気持ちや考えが現れて消えていく。それと同時に、大小様々な色彩の泡があたしの周りに浮かんでいた。
「生きてるって実感できるから」
「え?」
「生きてる実感があるんだよ。切ってると。腹立つとか、ムカつくとか、ふざけんなとか、殺してやるとか。色んなことに対するそういう気持ち全部こめて、切ってる」

ふーん、と言って雅はため息をついた。呼気が泡に変わり、教室の空気にうっすらと溶けていく。小さな灰色。
「身体はね、パソコンでいうなら、ハードっていうか、外側だってあたし思ってる。んで、心がソフトウェアで、内側」

雅がなにも答えないから、あたしは話を続ける。
「中と外が、同じだって思えるんだ。切ってると。言えないこととか思ってること全て誰かに伝えることはできないじゃん。だから、そこにぶつけて、そうやってはじめて、生きてるってあたし思えるんだ」
「なるほど。難しいな」

雅はそう言って唸り始めた。
「けどな、俺はちょっとなんかこう、うまく言えないけど、考え方がちょっと違う?」
「なにが?」

心臓が跳ねる。お前も違うのか。お前も結局否定するっていうのか。お前もあたしのことわかったフリして裏切るのか。視野が狭くなってるのがわかる。戦闘モード。叩き潰す。あたしはあたしを守らないと。あたしだけは自分を正当化しないと。
「俺はね、なんだろう。身体が外側で、心が内側っていうよりかはね、心が内側で、世界が外側、そんで身体は中と外を繋いでるっていうか」

雅がうんうんと唸っている。違う。なんか違う。雅はあたしのやってることを否定しにきているわけじゃない。少しずつ頭が冷えていく。
「俺はさ、いいと思うよ。お前が身体切ろうが。髪染めようがさ。莉奈がそれで世界と接点っていうか、関わりもてるんだったらさ。俺と莉奈って、ずっとちっちゃい頃から知ってんじゃん。それでいま莉奈んちと莉奈がすげえ大変ってのも、他のやつと違って俺は知ってんじゃん。だから俺はさ、お前がそういう風にして、やっていけてるんだったらいいと思うよ。でもさ」

そこで雅は言葉を区切り、じっとあたしの目を見た。
「お前もうちょっと、本当にちゃんと食えよ。うちに飯食いに来いよ。俺の父親も母親も、いつでも来ていいっつってる。昔みたいにさ、うちに飯食いに来いよ」
できたらあいつも、翼も一緒にさ。そう言って雅は優しく笑った。あたしはもうとっくに視野が普通に戻っていて、そして、なにも考えられなくて、言えなかった。
「ねえ」
「ん?」
「なんでそういうこと言ってくれんの?」
「……心配だから」

ありがとう。そう言いたくて、言えなくて、あたしは息を吸い込んで吐き出して、そうやってようやく、ありがとう、と口に出した。雅はただ黙って頷いてくれた。

 

 

f

「ねえ」
『ん?』

あたしは空き部屋のペントハウスの壁にもたれかかり、並んで日向ぼっこをしている幽霊に話しかけた。
「あたしどうなるんだろう」
『急にどうした』
「なんか、うん。いつまでもこういう時間は続くわけじゃないよなぁって」

土曜日だから授業が午前中で終わってしまって、家にも帰れない、予備校にも行けないあたしは、こうやって幽霊とのんびり、優しい午後の陽射しが照り返す、屋上のタイルの上にいた。淡い空気の中にぼんやりとした水玉が浮いたり沈んだりしてる。三寒四温とはいうけど、今日は春にかなり近い感じで、だからとても穏やかな時間だった。
「いつまでもこうしていたいような、でもどこか違うところに行きたいような」
『現状に満足してるんじゃ?』
「うーん」

あたしはポケットからカッターナイフを取り出して、昨日つけたばかりの手首の横線をそっと刃の腹で傷つけないようになぞった。
「満足なんて、してないよ」

嫌なことばかり。肌に縦線を引いていく。憎しみを込めて。力一杯。
「なんであたしばっか」

父親の後ろ姿。発狂する母親の声。生気のない弟の瞳。壊れてしまえ。
「むかつく。むかつく。むかつく」

あたしは悪くない。あたしは悪いのかもしれない。不良。淫売の子。貞操なし。失敗作。聴こえてくる声をかき消すようにナイフを振り回す。両の手首からちょうど関節のところまでを何度も何度も切り裂いたあたしは、段々と息が苦しくなり、滴り落ちる血が風に飛ばされる様を見て、ようやく手を止めた。

荒い呼吸を整え、甘ったるい缶コーヒーを一気飲みしてタイルへ投げ捨て、ペントハウスの外壁に背中を預ける。ふわふわした水玉が暗く赤く染まっていて、空気が澱んでいた。
「いつか全部変わって、私の周りからはきっとみんないなくなる」

魚の目であたしを見つめる奴らがいなくなればそれはきっとスッキリするだろう。
「でも、それはなんだかとても悲しいことのような」
『悲しい?』
「いつかこんな時間も戻りたいと思う時が来るのかな」

幽霊は何も言わなかった。何も言わずにペントハウスの扉にもたれかかって、どこか遠くを見ていた。彼はいつだってあたしが手首を切ったり弱音を吐いた時は黙ってあたしに余計なことを言わずに見守ってくれる。その距離感が好きだった。
「あんたもいなくなるの?」

幽霊は何も言わないで、ため息をついた。言葉を探しているように見えた。待ってる間にあたしはキャスターに火をつける。
『……莉奈、いいかよく聞け。俺たちは、同じ場所をぐるぐる回り続けてるだけに過ぎない』
「それってどういう意味?」
『いつも言ってるよな。この世界は水槽だって』
「うん」

あのつらい気分になった朝のことを思い出す。高校の運動場とその上に乗りかかる青い空。手懐けられ、走り続けるあたし。それはとても従順に管理されていて、あたしはあたしを飼い殺している。そう、今、あたしの目の前にある空の青の中に、あたしたちは支配されている。
「自由はない」
『親父が飼っていた熱帯魚の内の一匹は』

幽霊は一度言葉を切ると、右手の人差し指で空に円をぐるぐる描き始めた。
『ある日、時計回りに水槽の中を泳ぎだした。ぐるりぐるり、ってな』
「そうだっけ?」
『傍から見てもおかしかった。毎日毎日そいつは水槽を、同じコースで泳ぐんだ。なんかもう、他の魚も避けてるみたいでさ。そいつが泳いでる周りを、群れが泳いでるんだ。もしかしたら、そいつ、狂ったのかもしれない』

強い風が吹いた。あたしは無意識に髪を押さえる。さっき飲み捨てた缶コーヒーが攫われて手すりの下から落ちていった。結構な高さから落ちていったのに風に紛れて音一つしなかった。
「んで、そいつどうなったっけ?」
『死んだ』

幽霊はゆっくりと息を吸いこむと、同じくらいゆっくりと呼吸を吐き出した。大きな動作につられて、形良く盛られた金髪が揺れる。
「自殺かな?」
『多分な』
「どうして死んだんだと思う?」
『終わらせたかったんだろう、色々』
「色々、かぁ」
『ああ』

あたしは幽霊の顔を見た。全くの無表情だったけど、そこに風貌ほどの尖った感じは無かった。けれど代わりに落ち着きのようなものがあってそれが少し怖かった。
「ねえ」
『え?』
「……死ぬの?」

幽霊は答えなかった。長い沈黙。この時間が永遠に終わらないような感覚と、なにか漠然とした不安があたしの頭の中をぐるぐる走り回っていた。赤の水泡が弾けていく音が聴こえる。心臓が気管支を圧迫して潰れそうだった。
『幽霊は生きてねえんだ』

あたしはなんだかわけがわからなくなって、手に持っていたキャスターを投げ捨てた。弱い穏やかな風がスカートの裾を揺らし、吸い殻を足元まで攫う。
『終わりがなければ始まりもない。喫煙だけじゃない、生きるってのは緩慢な自殺だよ。みんな生きながらに腐っていくんだ』

哲学者みたいな顔をしたギャル男はそんなキザな台詞を吐くと、背を預けていた扉から身を離し、後ろからあたしに近づいて頭を撫でてきた。
『そんな寂しそうな顔するなよ』

あたしの茶色い髪に触れるたびに不安そうな顔をするから、寂しいのはあんたじゃないの、と言いそうになったので、吸い殻を拾い上げてみた。フィルターギリギリまで短くなっていた。

 

 

g

「あたしさ、時々ね。世界の中でたった一人だけ取り残されてるような気がするんだ」

傍らで海を見ている希望はなにも言わなかった。オレンジ色の空気。心地よい水の感触を吹き飛ばす辻風。長いふわふわと程よくパーマのかかった髪が揺れる。あたしの茶色い髪と一緒に。
「どうしてそう思うの?」
「なんか……こう、うまく言えないんだけど」
「問題があるとか?」

うん。返事をせずに缶コーヒーのプルタブを開ける。買ったばかりの時とは違い、胴体は少しだけぬるくなっていた。
「色々、問題が、ある」

希望があたしの瞳をとらえた。大きな目だった。グレーにくすんだ瞳。
「話してよ」
「いいの?」
「聴く」

あたしは喉を湿らすために一口だけ甘ったるい茶色の液体を飲んだ。
「家族のこと、とか」
「家庭環境みたいな」
「うん」
「そうなの」
「父親、家に帰ってこないんだ。仕事忙しくて。海外出張しまくってるとかで。で、部屋に免税店で買ったタバコのカートンを箱積みしてて。まるで貯めてるみたいに」
「コレクションみたい」
「そんな感じ。なんか、守るための、正当化するための防壁みたいな」
「なにを守ってるのかな」
「……仕事が忙しいフリして、余所に愛人作ってることの正当化」
「愛人?」
「前、家に電話かかってきた。あたしのこと、淫売の娘だって。ヤリマンの娘だって。本当か知らないけど」

隣に立つ希望がため息をついて下を向いた。
「……それで?」
「母親はちょっとおかしくて。なんか、精神病っぽいっていうか。更年期っていうの?急にキレて、もの投げたり。あたしなにもしてないんだけどね。めちゃめちゃ罵ってきて、なんか不良とか失敗作とか水商売みたいな格好とか、産まなきゃよかったとか、色々言って、そのあとこっちが謝って全面降伏するまで発狂し続けて、んでたまに泣いて謝ってくる。縋ってくるみたいに。本当に無理。翼がダメになってからは特にひどくて。全部あたしに矛先向けてきて」
「翼って誰?」
「弟」

あたしはタバコに火をつけた。キャスターの甘い香りが空気に溶けて、水がクリーム色に変わる。
「弟いたんだ。どうしたの?」
「弟、いま中学二年なんだけど、一年くらい引きこもってる。中学受験で上手くいって寮のある、すごい頭いいところに行ってたんだけど、そこでひどくいじめられたみたいで。優しい穏やかな頭のいい子だったから、父親とか母親のこととかもあって、ぶっ壊れたみたいでさ。たまに部屋から出てくるんだけど、なんかね、もうすごいの。綺麗な格好してさ。普通引きこもりってすごい汚いイメージあるっしょ?そうじゃなくて、なんか、本当に、綺麗でいなければならないみたいな強迫っぽい感覚の塊みたいな。でも目が死んでて、話しかけても答えてくれなくて」
「……辛いね」
「母親は、そんな弟のこともなじるんだ。男のくせに。男のくせにふにゃふにゃして。男のくせに男が好きで。汚らしい。恥ずかしい。女みたいな格好で髪を伸ばしてって。ひどいよね。関係ないじゃん。翼がそうでも、それは全然悪いことじゃないのに」

それを言ってあたしは、あっ、しまった、と思った。
「弟、ホモかオカマなの?」
「ごめん、今のなし」
「いいよ、気にしてない。私もバイセクシュアルみたいなところあるから」
「……そうなんだ」

希望がじっとあたしの方を見つめてきたので、あたしはなんだか緊張してしまって彼女の目をみれなくて、耳の後ろを見ていた。
「私の勘だけど、莉奈もたぶんバイでしょ」

あたしは答えずに、煙を吐き出した。希望は時々空気を読まない。読めないんじゃなくて、わざと空気を読んでない。
「色々大変なのね、本当に」
「内緒にしといてね?」
「わかってる」

そうしてあたしたちはしばらく夕日を照り返しながら揺れる海を見つめたいた。セピアとピンクの混じった空がそこに溶けていき、世界は徐々にクリームとセピアとピンク色の水に満たされていく。
「そういうことがあるから、なんだかあたしさ、本当に水槽から出られずこのままなんじゃないかって。逃げても逃げても結局、どこにも心理的には行けないままで、檻の中に囚われ続けてるんじゃないかって」
「うん」
「理想の自分で、理想の自分になってしまえば、力を持つことができたら、逃げ出せるんじゃないかなって。どうしようもない管理された世界から逃げられるんじゃないかって。水槽から飛び立てるんじゃないかって。光と餌が上から降ってきて、人工的に水が循環する世界から抜け出せるんじゃないかって」

希望はなにも答えてくれなかった。長い睫毛が一直線に伸びていて、その付け根の下にある瞳は閉じられていた。
「……混沌の中にも一定の規律と秩序は存在している」

泣いているようにも見える彼女がなにを言ってるのかわからなかった。
「混沌の中からは完璧な秩序は生まれてこない」
「どういうこと?」
「そういうことを思い出しただけよ。深い意味はないから」

希望はため息をつき、あたしは残りが短くなったキャスターの香りを吐き出した。
「……みんな、自分の戦場を戦ってるのね」
「え?」
「私も、色々ある。言えないけど」

手すりに置いた腕に突っ伏す彼女の頭が目の前にあって、だからあたしは、つい手を伸ばして撫でてしまった。希望は頭を振って、でも拒まなかった。
「ありがとう」
「いや……こちらこそ」
「私も飛びたい。羽を持って、鳥みたいに、飛んで逃げていきたい」
あたしはなにも返事ができなくて、そっと希望の頭を抱いてあげた。嗚咽の音がゆっくりと波紋になって消えていった。

 

 

h

なにも考えない。考えたくない。昨日の夜中、家に電話がかかってきた。母は睡眠薬を飲むと絶対に目を覚まさない。誰かは分かっている。出なければ一晩中鳴る。昔、翼が電話を取って、ひどく怖がらせたことがある。だからあたしが出た。案の定、父の女からだった。罵声が耳に張り付いてる。女と、母の。夜中の二時にあたしを蔑む若い気の強そうな女と、翌朝、父が帰らないことに癇癪を爆発させた母の声が。みんな狂ってる。あたしは何もしてないのに。なんであたしにみんな背負わせるの。

メールが届いていた。雅からだった。あたしはちまちまマイセンを吸いながらどうするか考えて、そして、晩御飯をご馳走になることにした。

風がない日だからか、遠くに見える海は凪いでいるようだった。空気もただ水が充満して肌の表面に揺蕩っている。あたしの内面は静かで、そして落ち着いていた。
「あたしは世界で一人だけ取り残されてる気がする」

横に立つ幽霊は黙ったまま動かない。
「あたしは結局どこにもいけない。みんなきっと自分の戦場で勝負をしていて。本当は分かってた。自分だけじゃないって」

捕まっている手すりに頭を載せる。額に冷たい鉄の感触。凍えた冬の金属。
「ここしか居場所がない。昼と夜の間、その一瞬しかやっぱり居場所がない。オレンジ、ピンク、セピア。その中だけ。白にも黒にもなれない。どっちにもいけない、中途半端」
『それは悪いことなのか?』
「悪いことだよ。逃げらんないから」
『逃げないといけないのか』
「そう、逃げないといけない。水槽から出ないといけない。こんなん耐えられない。あたしはこんなところで生きていけない」
『……耐えるために身体を切り刻み』
「……逃げ出すための理想的な自分を考えた」

幽霊がこっちを見ている。逆立った長い金髪。白く中性的な美しい顔。細い腰と長い手足。そんな悲しい顔しないで。あたしを蔑まないで。あたしを哀れまないで。
「どうしたらいいと思う? あたしが水槽から出るためには。解放されるためには。どうしたらいいのかな。こんなに苦しくてもあたしは生きてかないといけないのかな。なにが苦しいのかすらも、もう明確に分からなくなってきてて」

あたしの理想の幽霊はなにも答えない。
「なんとか言ってよ」

あたしの理想のあたしはなにも言ってくれない。水が沸騰する。イライラして、手に持ってた空き缶を地面に叩きつけた。タイルにぶつかり転がっていく。
「あんたはあたしなんでしょ、言ってよ。答えを示して」
『……理想は理想であって、お前はお前で。お前が生きて感じたことや経験したことだけがお前になるし、お前を救う』
「そんなことわかってる、そんなことを聞きたいんじゃない」

あたしは缶コーヒーのロゴの正面を捉えながら思いきり蹴り飛ばす。爪先にアルミの感触。手すりの下を抜けて落ちていった。泣きたかった。
『生きろ、莉奈』

俺が代わりに引き受けて死んでやる。そう言わんばかりに幽霊は姿を消した。あたしは街の中を探し回った。いない。夕方を通り越して夜になった。いない。どこにも。

酸欠寸前で目の前の金網にしがみつく。もうボロボロできつくてしょうがなかった。潤んだ視界の先にあった線路を見つめた時、コートのポケットが揺れた。携帯に着信。あたしは迷って、わずかな時間だけど本当に迷って、雅に電話をかけ直した。

 

 

i

春が近い。この港町にも春が来る。陽が長くなった。空気も柔らかい色のオレンジで、あたしは少しそわそわする。四季が巡っても、春が始まっても、何も変わらないだろうって予感がして、むしろそれは終わりに近いなにかなんじゃないかっていう気さえしてた。
「気持ちのいい日ね」

隣に立つ希望の声がゆっくりと鼓膜を震わせ、そしてそれをゆっくりと脳が認識する。タイムラグ。
「ねえ、莉奈」
「なに」
「春が近いのかも」
「そうかも」
「寒くなくなる」
「あたしは冬の方が好き」
「……頼みがあるの」
「聞けることなら」
「それ、一回だけ試してみたい」

希望が指差してるのは、あたしが今火をつけたばかりのマイセンだ。キャスターを切らしたから代わりに持ってきた。黙って渡すと彼女は意外に上手に吸ってみせた。
「悪くないわねこれ」
「……吸ったことあるでしょ?」
「ない」

嘘だろう。その証拠に、希望は首を傾げて、そのあといつもみたいになって口の端を歪めて笑っていた。そのまま黙って二人で一服して、床に押し付けて潰す。
「ずっと聞きたかったんだけど」
「うん」
「水槽の外にはなにがあるの?」

なんだろう。いつも出たい出たいと言ってるのに、あたしはそれについて考えたことがなかった。
「海、とか。いや違うな。たぶん、だけど」

希望が黙ってこっちを見ているのが分かる。あたしはオレンジの光を照り返す海を見つめながら言葉をつなげる。
「別の世界だよ、きっと」
「別の世界」
「そう、別の世界。水槽の外には、別の世界が広がってる」
「その別の世界は」

そこで希望は言葉を切って溜めた。だからあたしは傍の女の子を見た。楽しそうだけど悲しそうで、そして今にも消えていきそうだった。
「私たちのことを許してくれるのかな」
「急にどうしたの」
「世界はきっと幾つも折り重なって存在してる。地球上のあらゆる地域大陸で、文化や風習なんかが違うように、きっとどこかでは許されないことも別のどこかでは許されてて。そしてそこには未開とか野蛮とかそういう括りなんか存在してなくて」

震える希望にどうしたらいいのかわからないで、あたしはそっと肩を抱いてあげて落ち着くのを待った。
「ねえ、莉奈」

希望の細い指があたしの頬に触れる。顔が近い。美しい凹凸がはっきり分かる。意志の強い眉。官能的に潤んだ瞳。浮き上がった鼻梁。蒸気した頬。息がかかる。
「雌の喜びって知ってる?」

そっと触れてきた希望の唇から舌が差し込まれ、それはあたしの唇をなぞったあと的確に唾液を送り込んでくる。いきなりすぎてあたしはもう何が何だかわからなかった。
「ごめんね」

しばらくして、希望はそう言って身体を離した。それは本当は一瞬のことだったのかもしれない。風に髪が舞う。あたしはびっくりして身体の力が抜けて、返事をすることも出来ずしゃがみこんだ。
「私ね、実は秘密がある」

黙ったまま聞いてると彼女はそっと笑った。
「お父さんとセックスしてる。お父さんのことが好き。それで、妊娠しちゃって。もう嫌になった、なにもかも」

笑顔でそう告白する彼女の口の端は、歪んでいない。突然の出来事の連続に混乱してしまって、あたしはどうしたらいいのかわからなかった。
「今なら飛べそうな気がしてきた」

形の良い脚が手すりを越え、向こう側に立つ。満面の笑み。待ってよ。置いていかないで。一人にしないで。あたしはなにも言えない。声が出ない。
「じゃあ、先に水槽から、出るね」

まるで明日また会うような気楽さで彼女はそう言って、向こう側に飛翔した。きっと逃げだせたはず。鳥になって飛べたはず。だからあたしは下を見たくなくて、でももう耐えられなくて、その場から逃げ出した。

 

 

j

夜は黒い。全てを覆い隠す。何もかもを包んで許してくれる。忘れさせてくれる。私の時間ではないとしても。

自分の家のマンションの屋上から、あたしは光を放つ街並みを見ている。海に面した港湾都市。日本の端っこの地方都市。名前だけの県庁所在地。あたしの居場所がない街。閉鎖的で地獄のような街。田舎の街。あたしが生まれた街。あたしが育った街。あたしが生きてる街。プラスチックで出来た水槽のような街。

春が近づいてきてるといってもまだ夜は寒い。あたしは指先に息を吹きかけて暖める。ケリをつけよう。
「おい、莉奈」

後ろから雅の声がした。呼び出したのはあたしだ。
「なあ、なんだよ、話って」

あたしは答えなかった。雅が隣に立つ。頭一つ分くらい背が高い。なにも考えない。あたしはマイセンを一本取って火をつけた。
「おまっ、嘘だろ」
「いいじゃん別に」
「……まあ、いいけど」
「このタバコ、マイルドセブンっていうの。日本で一番売れてるタバコ」
「ああ、名前聞いたことある」
「吸う?」

雅はあたしからマイセンを受け取り、吸い込み、そして咳き込んだ。
「なんだこりゃ」
「はじめて?」

ああ、うん。雅は困ったような顔をした。幽霊も希望ももういない。あたしにはもう雅だけだ。
「ねえ、雅」
「ん?」
「生きてる喜びって、知ってる?」

あたしは背伸びして、そっと彼にキスした。希望がしてたように唇の表面をそっと舌でなぞって。歯茎に触れて。雅があたしを突き飛ばす。
「お前、なにしてんだよ」

あたしは彼を無視して、下に広がる街を眺めた。あとは手すりを越えて、飛んでいくだけ。恐れることはない。飛んでここから逃げるんだ。でも、本当に高いな。そうぼんやり思った瞬間、あたしには絶対出来ない、そう理解して、そして身体に力が入らなくなってその場に座り込んでしまった。
「莉奈、おい、どうした」

雅がそっと肩を抱いてくる。あたしはもう、声に出来る叫びも、出来ない叫びも、もうその全ての思いを叫んで泣いた。あたしはダメだ。絶対に水槽から出られない。絶対に飛べない。ここから飛び立てない。ここは居場所ではないけど、あたしはここに留まらないといけない。あたしは決して水槽から抜け出せない。もうどこにも行けないんだ。

2017年2月16日公開

作品集『TRAIL』最新話 (全5話)

© 2017 菊宮まひろ

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