誰がためのポインセチア

植物奇譚(第3話)

望月鬼灯

小説

15,704文字

クリスマスは三年前に終わった。なぜならサンタクロースが死んだからだ。僕は彼の葬式に行った。ちゃんと紅白の靴下を履いて。

 

1

朝の四時。師走も中頃になった今日も、僕は仕事を始める。米の入った大きな釜と、カレーの入った巨大な鍋を数人がかりで運ぶ。酒やドブの臭気の中に炊きたてのお米やスパイスのいい匂いが溶けていく。僕らは群がる人々を並ばせ、プラスチックのペラペラした容器に、米をよそい、カレーを振りかけて順番に渡していく。

暗い空間に溶ける息が白くなるのを見ながら、先輩の整列を促す声が職安の古いコンクリートに反響していくのを聴き、僕も気合いを入れて、「食べ終わった容器はこちらにお願いします」と腹から声を出して叫ぶ。まるで戦時下の配給だ。かじかむ指先に感覚が宿るにつれ、目の前にいる労働者たちは数を減らしていき(その半分ほどの人数が髪をなびかせたスーツの男が手招きするワゴン車に乗った)、空が明るくなる頃には彼らもすっかりいなくなっていた。

鍋の底に残ったカレーを、遅くに起きてきたアブレを貰う酒くさいおっさんたちに分ける頃には今日の仕事は半分ほど終わっている気分になる。すっかり空になった大きな寸胴を抱えて、事務所に戻りホースで洗う。タワシで鍋を擦っていると、オッ、という声が聴こえてきた。

「アキラ、お疲れ」

ヨシさんだった。いつも通り少しの乱れもないオールバックに度入りのサングラスをかけていて、このクソ寒い中わざわざ着てるアロハシャツの胸元からは金ネックレスが覗いている。あ、お疲れ様です、と答えると、こっちの都合を無視したように話しかけてきた。
「暇してない?」
「仕事中っす」

アホ、そのあとや。ヨシさんは笑いながらタバコを取り出した。
「終わったあとなら」
「飲み行こうや」
「奢りすか?」

しゃーなしな、と言いながら彼は煙を吐き出した。こうして僕は仕事のあとに飲みに出ることになった。

 

僕の仕事は、NPO職員だ。炊き出しをしたり、生活保護の口をきいたり、自立の道を探したり、とにかく色々な仕事をしている。この街特有の仕事とも言える。ちなみに福祉住宅の斡旋などはしていないし、どうみても玉出あたりで100円で買った弁当を500円で売りつけたりはしていない。

くわえ煙草をして、ダウンジャケットの肩で風を切りながら歩き出す。冬の空気にドブと酒の臭いがそこらへんに漂っている。たとえばインターネットに撒き散らされたこの街に関する情報はほぼ全てが正解だ。事実、ここの半分は昭和という砂の城から溶け出した流砂で出来ていて、残り半分は入れ替わり始めた細胞のように新陳代謝を繰り返している。

年老いた日雇い労働者たちが昼からあぶれ手当を貰ったり福祉住宅に入ったりコンクリートに段ボールを敷いたりしながら昼から酒を飲み半死半生で束の間の幸福を、まるでスルメをしゃぶるように噛み締つつ、拾ったシケモクで流し込む、ここはそんな街だ。けたたましく強烈な文句を掲げるまるでゲームの邪教の施設のように見える教会も、朝からポリ署の前でアジテートを繰り返す拡声器を持った左翼活動家も、そしてNPOである僕らも、いくら炊き出しやらで支援を行おうとも、それは本質的には誰ひとりも彼らを助け出すことは出来ていない。勿論その誰もが、それぞれの思惑や使命に忠実に己の職務を務めていて、生半可にやっているわけではないのだが、それは本当に仕方ないのことなのだ。何故なら、この街の半分は死んでしまっているからだ。

では残り半分はどうなっているのか。僕は灰を切りながらアーケードに入っていく。一応商店街という名を冠し、それらしい外見を持ったそこでは、たとえば昼間からカラオケスナックが開店している。その中に一歩足を踏み入れればきっと、中国からきたそこそこ愛想のいいまあまあかわいい女の子がそれなりの笑顔で対応してくれるだろう。たとえばファストフードよりも安い値段のかけうどんを食べ、店を出て歩き出したら不意に腋臭の匂いがして振り返ると、大きな身体で白い肌と金色の髪に少しの髭をくっつけた青年が半袖シャツとバックパックを身につけて歩いているだろう。そう、この街にもグローバル化の波は確実に訪れていて、絶えず外の血が混ざっている。

アーケードを抜けて、僕は飛田新地に続く道を横に折れて、目的の路地に着く。正確には路地ではなくアーケードの切れ目で、僕がそこに行きたかったのは僕らの行きつけの店があるからだ。
「オウ、アキラ、こっちや」

ヨシさんが手招きしてくる。彼はいつの間にかスタジャンを着ていた。鉄板を囲むおっさんたちに、すんません、と断ってヨシさんの隣に陣取る。
「こいつ、ビールと、ハツひとつ」
「すいません、あとアブラミも」

無口な親父に硬貨を手渡し、僕はスーパードライを受け取り、冷える指先に息を吹きかけたらプルタブを開け、ヨシさんと乾杯する。まずは一口。そのままもう一本タバコに火をつける。煙が臓物を焼く香りと混じって空気に消える。昼から鉄板を囲む中高年たちにたちこめる、穏やかだが停滞した空気に乗っかってくるのは、爺たちの酒くさい呼気と、ホルモン屋台のタレの匂いだ。

しばらくヨシさんと僕は黙っていた。やがて肉が焼けて、親父がヘラでこっちによこしてくる。それをタレにつけて食べる。ニンニクと濃い醤油の味と臓物のプリプリとした感触が広がり、ビールで流し込む。うまい。
「ここほんとうまいっすよね」

せやなあ、と言いながら、ヨシさんはこっちを見ずに店の後ろを見ていた。僕もつられてそっちを見る。小便の臭いがたちこめていそうな猫の額ほどの大きさの公園を囲む金網の向こう側にあべのハルカスが聳え立っている。そういう光景を見ると、所詮ここは隔絶された見放された土地だと実感させられる。
「なんや、姉ちゃん、付き合っとんのか」

僕の隣のおっさんがヨシさんを指差しながら話しかけてくる。
「男っすよ、俺」

あれ、といっておっさんはメガネをクイっとあげて顔をしげしげと見てきたから、帽子を取ってやる。
「綺麗な顔しとるやんけ」
「髪長いから勘違いされるんすわ」
「へえ、こんな綺麗な兄ちゃん初めて見たわ」

どうも、と言ってまた帽子を被る。ヨシさんの視線を感じたのか、おっさんはもう僕の方を見ずに、黙って鉄板をつついていた。だから僕らも黙って鉄板をつついていた。

しばらくそうしていたら、ヨシさんが、オイ、二軒目行くぞ、と言ってきたので、僕はそのままほとんど飲み干したビール缶を持ち、彼についていった。アーケードを抜けて街の入り口まで歩く。途中で中東風の顔立ちをしたバックパッカーとすれ違った。旅行者にしては彼女は若すぎるような気がしたがどうでもよかった。僕には関係がないことだからだ。

ヨシさんがどの店に入るかはなんとなく分かっていたし、僕の財布にはもう硬貨しか入っていない。だが、ヨシさんが払ってくれるのも知っていたので何も問題はない。店に入り、手前の方のカウンターへ二人で腰掛ける。ヨシさんが肉豆腐とビールを二人分注文して会計してる間、僕は外を眺める。この疎外された土地では世の理が色濃く反映される。ここでは金を持っていてそれを配る者が一番尊いのだ。だからこの街の入り口には最も貴い人物の肖像画が空高く掲げられているし、たまに彼に対しての誹謗中傷がスプレーで壁に描かれているのを見ることもある。まるで独裁者に対しての政権批判のような趣きだが、それはきっと、JRの駅近くのコンビニのトイレに注射器の忘れものをしていったり、変なケミカルをやり過ぎてアルミホイルで殺人電波を防げると信じ込んでる連中の仕業だろうなと思う。

僕がぼんやりと連想ゲームをしているとビールと肉豆腐が運ばれてきた。今度は乾杯なんてせずに各々黙って飲む。なあ、アキラ、とヨシさんがなんの脈絡もなく話しかけてきた。
「仕事はどないなんや」
「まあまあっす」

あえてヨシさんにはどうなんですか、とは問わない。彼はオールバックにした髪をちょっとだけ避けて、こめかみを揉み始めた。
「ずっと気になっとったんやけどさ」
「ええ」
「お前なんでこんなとこで働いとんのや。親父から紹介されたらしいけど」
「いや、ここら辺に住んでて」
「出身ここなん?」
「姜さんから聞いてないんですか?」

ヨシさんは僕の方を見た。
「僕ね、大阪の北の方出身なんです。他に行くとこなくて」
「行くとこなくてってどういうことや」
「路上生活してたんです」

傍に座るアウトローはため息をついて、ビールをあおった。
「お前、幾つやったっけ」
「来月成人式っす」

若っ、といって彼はタバコに火をつけた。
「その歳で苦労しとんのやなあ」
「どうも」
「お前、学校は?」
「中卒っす、まあでも高認は取りました」
「ほーん」
「大学行きたくて、金貯めてるっていうか」

それを言った時、僕は、しまった、と思った。
「そうか。そんなら言ったらええやんけ」
「誰にすか」
「俺にや」

はあ、と言って僕は二人分のコップにビールを注ぐ。
「俺らの仕事とは関係なくな、お前はそれくらいのことをしてくれたんや。だから、頼れ。これは商売の話やない。人としての話や。俺や兄貴もな、お前に頼って欲しいんや」
「はあ」
「親父のことだけじゃなくて、まあ、その、俺も兄貴も、お前のこと好きやからな、人として」

そう言うとヨシさんはちょっと照れたのか、ビールをグイッと飲み干した。
「そういや、ほら、もうすぐクリスマスやろ」
「そうっすねえ」
「娘がなあ、ゲーム欲しいってうるさいんやわ」

そう言うヨシさんの顔は少し綻んでる。頬も心持ち赤い気がする。僕は常々、どんな強面も子供には敵わないと思う。きっと彼も来週にはサンタクロースになるんだろう。
「お前、女とかおらんのか」
「いませんよ」
「なんやお前男のほうがええんか」
「まあいいじゃないですか、そういうのは」

ふふっ、と彼は笑ってタバコの煙を吐き出した。

僕にとってのクリスマスはもうこないんだ。クリスマスはもう終わってしまったんだ。それはなぜかというと、サンタクロースが死んでしまったからだ。三年も前のことで、僕は17歳だった。葬式にも行った。ちゃんと紅白の靴下を履いて行った。サンタクロースのいないクリスマスなんて、それは形骸化した流行語大賞やこじつけの一体感を表現しようとする紅白歌合戦のように無意味なものだから、最早存在する価値など微塵もない。つまりはクリスマスはもう、僕にとっては終わりなんだ。

2

その二日後、仕事が休みの僕はちゃんとした綺麗な服を着て、年相応の青年を演じつつ、繁華街にいた。クリスマスは僕にとっては終わりなのだが、世間にとってはそうではない。街を彩るふざけたモミの木や、けばけばしいイルミネーションを見ると本当に実感するし、それは僕が、いま、不愉快な気持ちを抱えながらもここにいる理由としっかり結びついていた。

職場でクリスマスプレゼントを交換することになった。今年から働き出した大学を出たかわいい元気のいい女の子の後輩が発案者だ。そういう行事に縁がなかった僕としては、どうしたらいいのかさっぱり分からないので、とりあえずこうして街に出ている。僕が生きる、僕が住み、暮らし、働く街には、お上品なものを除けばなんだって売ってある。なんたら工業と胸に刺繍の入った作業着から、片足だけのナイキのスニーカーまでなんでも、だ。ただ、お上品なものだけは手に入らないので、こうして祝賀ムードに包まれた美しい空間にわざわざ出向いている。

クリスマスの時期になると、思い出すことがある。それは、僕がクリスマスを嫌いになって、早く終わってしまってこの世界からなくなればいいと思う理由でもある。お祭り騒ぎが嫌いだとか、カップルがどうたらとかは思わないんだけれど、それがあるからか、なんとなくだけど、四条河原町でええじゃないかと叫び出す人々の気持ちもわかるし、イブに別れる男女を見て世界中が大笑いしてしまえばいいのにと歌う人の気持ちもわかってしまうのだ。

街を歩くのにも疲れてしまった。平日とは言っても人は多い。だから嫌いなんだよな、この時期は。用もないのにみんな外に出てきてさ。そう心の中で歌いながらうんざりする。そしてなにより、寒い。けたたましく凱歌のように鳴り響くクリスマスソングから逃げ出すため、僕は目の前にあった適当な商業施設に潜り込んだ。何も考えずに店頭を眺める。手頃な雑貨屋があったので中に入った。

店はクリスマスギフトをセールしていて、品定めする人々はみんな、外行きの綺麗な服を着ている。ごった返している店内はまさに戦場だった。気後れしそうになりながら、僕も彼らのように外行きの顔をして、私はここで誰かに贈り物をする人間に相応しい人物ですよ、と誰に対してでもなく演じる。笑顔の店員さんにラッピングをお願いして、僕は店を出た。すごく疲れた。焼夷弾みたいに削りにくる恐ろしい聖歌を頭から追い出すためにイヤフォンを耳に突っ込む。そのまま電車を乗り継いで、最寄りの一つ前まで来て、窓ガラスに映る自分の姿を見た瞬間、僕は自分の中の何かが切れてしまった感じがした。

転がりこむように部屋に戻る。タバコに火をつけて買い置きの発泡酒を飲み、しばらくじっとしていると段々落ち着いてきた。

実は、この街には年寄りだけじゃなくて移住してきた若い人間が結構住んでいる。その多くは芸術家の卵で、家賃も物価も安いここにアジトを作り、日々スプレーで壁に絵を描いてみたり、安酒屋でジャズセッションをしてたりしている。そして僕も彼らと同じように、天井の鉄骨が剥き出しになった、元は旅館だかラブホテルだか素性のよくわからない、外に繋がる階段のある非常口が設置された部屋に住んでいる。

ベッドに横になって天井を見る。外は雨が降り始めていて、ガラスを叩く音が聴こえてきた。少し酔いの回ってきた僕は、うつらうつらと、昔のことを思い出していた。

 

「おっさん、名前は?」

ん、と呻き声みたいな返事をして、赤ら顔のヒゲ親父は、サンタ、と言った。
「サンタ?」
「三田や」

誰がサンタクロースやアホ、そう言っておっさんは欠伸をした。おっさんはサンタクロースによく似ていた。ハゲ頭に真っ白なヒゲ、赤ら顔にギョロっとした大きな目。突き出たお腹に短い足、という特徴も付け加えれば、それは見紛うことなきサンタクロースだ。彼は赤い服は着ていないし、今は夏だが。
「横座ってもいい?」

ん、と返事をして、おっさんは少し横にズレてくれた。そのスペースに座って、僕もサンタのおっさんと一緒にタバコを吸う。
「お前、えらい若いなあ。いくつや?」
「17」

へえ。そう言ってサンタはまた欠伸をした。僕は目をつついてくる朝日の眩しさに顔をしかめる。
「ここ住んでんの?」
「うん」
「地元なんか?」
「いや、うーん……。家は北の方だった」
「だったってどういうことや」
「解散した」

解散ってお前。サンタはため息をついた。
「そうか」
「うん」

とりあえず飲めよ、サンタはまだ空いてない缶チューハイを差し出してきた。僕らはそれからしばらく何も言わず、カラスがゴミ袋を破いて中の残飯を貪る姿を見ていた。その様子を見ているのは路上に座り込む僕ら二人だけで、僕ら二人のこともカラスのことも、道行く人は誰一人として気にしていないようだった。
「面倒みたるわ」

僕は隣の彼の方を見た。サンタクロースはカラスを見つめていた。
「俺が面倒みたるわ」

まるで独り言のようにおっさんは呟いた。僕はなんと返事をしたらいいのかさっぱりわからなくて、とりあえず、どうも、といい、傍らのヒゲ親父がしているようにカラスの朝食を見ることにした。カラスがもう一羽増えていた。
「困ったことがあったら、助け合うのが人間やろ」

誰に言うわけでもなく、彼は、タバコの煙と一緒に言葉を吐き出した。

 

それから僕はサンタのおっさんに面倒を見てもらうことになった。養ってもらうという意味ではない。どこで仕事を探せばいいとか、どこで炊き出しがあるかとか、どこの店が良心的な値段かとか、どこのドヤが清潔とか、そういうことだった。つまりは路上生活のイロハを仕込んでもらったのだった。

僕はまず彼の勧めに従って、夜間に高速道路の修理の仕事をすることになった。現場では経験のない僕は専ら交通整理をしていた。二週間のあいだ、寮という名のおんぼろ旅館で生活し、衣食住が保障され、賃金が出る。ありがたいことだった。ついでに言うと僕らと同じように路上生活をするおっさんたちとも知り合えた。

それから街に帰ってきて僕は働いたり働かなかったりして生活した。サンタさんは昼間から酒を飲んでいつもゴロゴロしていた。彼はいつだって羽振りが良くて、みんなから慕われていたし、路上生活者だけじゃなく街にいる人の多くが彼を好いているようだった。僕らはよく一緒に過ごしていたが、僕の相棒のヒゲ親父にはたまに客が来た。運転手付きの真っ白な高級車で乗り付けてきたその男は、ツヤツヤのスーツと革靴を身につけていて、サンタさんのことを親父と呼んでいた。白髪の日焼けした初老の彼が来たら僕は誰に言われたわけでもないけれど離れるようにしていた。サンタのおっさんの指が八本しかないことに気づくのにそう時間はかからなかった。

僕はサンタのおじさんと色んな話をした。おっさんはいつもフゴフゴと喋っていて酔っ払ってもいたし聞き取り難い時もあったが。彼は七十歳で、大学を出て、仕事をしたあとに、三年ほど路上生活をしていた。大学を出てからなんの仕事をしていたかは聞かなかったし話してくれなかった。勿論想像はつくのだが、それでも彼は僕に優しかったし、とても面白かったし、すごく賢い人だった。だから僕は彼のことが大好きだったし、それは今でも変わらない。それだけに僕はクリスマスが大嫌いで、クリスマスが近づくと本当に気分が滅入ってしまう。

3

職場でささやかなクリスマスパーティーとプレゼント交換をした翌日、天皇陛下の誕生日に僕は月に二回やる炊き出しの今月二度目をして、昼過ぎには仕事を終えていつもみたいに酒を飲むため事務所を出た。こういう時、この街はいい。昼からやってる飲み屋がたくさんあるからだ。まあ、いつも幾つかのお気に入りの店をローテーションしてるからあまり意味がないのだが。

街の入り口のお気に入りの店に向かう途中、要塞みたいな警察署の前に真っ黒な高級車が停まっていた。だからか知らないが、こういう日の丸の旗をみんなが掲げたくなる時に限ってよく扇動している活動家の姿がどこにもなく、なんとなく納得してしまった。ついでに言うと、いつもゴロゴロしてる老ぼれたちが今日は少ない気がする。何か面倒があるのかもしれない。僕にはあまり関係のないことだが。

いつもの入り口に近い席に座る。ボーナスが出たので懐は暖かい。ヨシさんは居ないが今日の僕はケチケチせずに酒を飲める。瓶ビールと肉豆腐とタコスを注文して、その間にタバコに火をつける。ほどなくしてビールが運ばれてくる。これだけ頼んでも野口英世ひとりで片がつく。物価が安いというのはいいことだ。

肉豆腐をつまみにしてちまちまと酒を飲んでいると、なんだか視線を感じて振り返った。目が合った。中東系の若い女の子だった。外国人のバックパッカーにしては幼すぎる感じがした。どちらともなく目を逸らす。どこかで見たことがあるような気がしたけれど思い出せなかった。しばらくそのまま考えていたけれど分からなくて、そしてタコスが運ばれてきた瞬間、僕はもうすっかり彼女のことを忘れてしまった。

 

その翌日。キリストの生誕前夜祭という日にも、このスラム街は相も変わらず陰鬱な顔をして酒とゲロの臭い空気が漂っていた。別に京都の四条河原町のアーケードでええじゃないかなんて叫びたいわけではないけど、もう少し華やかな雰囲気になってもいいと思う。救霊教会も折角なんだからもう少し気張ったイルミネーションをしてもいいんじゃないだろうか。

それにしてもなんだかずっと視線を感じるが気にしないことにする。僕は何事もないような顔をして仕事をして、何にも動じないような態度で勤務後にスーパーで食材を買った。

家に帰ってきて部屋に入り扉を閉める前、僕は振り返りながら声をかけた。
「なんの御用ですか?」

息を飲む音が聞こえた、気がした。そして、そっと、階段の陰から人が現れた。僕は思わず、あっ、と呟きを漏らしてしまった。

そこに居たのは、女だった。バツの悪そうな表情の若い女だった。緩くウェーブのかかった髪をした女だった。中東系の顔をした、いつか見たバックパッカーみたいな女だった。
「あの」

彼女は僕がそうする前に声をかけてきた。
「ごめんなさい」

頭を下げるその女に僕はなんと言ったらいいのかわからなくなった。
「お姉さん、お願いです。一晩でいいから、泊めてもらえませんか」

こういう時、どうしたらいいんだろうか。いきなり素性の分からない外国人が、家に泊めろと。断る理由を考えてると、女が近づいてきた。
「ほんと、お願いします」

女は僕の目をしっかりと見てそう言った。それから頭を下げてきた。えらい日本語が流暢だなあ、と感心したけれど、それ以上に、薄緑色の瞳が伝えてきたものが僕の心にしっかりと残った。
「ええと。あのさ、まず頭を上げてくれるかな」

彼女は明らかに困っている。
「……汚い部屋だけど、とりあえず入ってよ」

困ってる人には手を差し伸べろと教えてくれた男が、僕の身の回りにはかつていた。
「あとさ、僕、お姉さんじゃなくて、お兄さんだから。それでもいいなら」

彼女を部屋に入れて鍵とチェーンを閉める。縋るような、でも媚びない目。きっと僕もこんな目をしていたんだろうか。彼のかつての心情を思って、そして、謎の女を招き入れたことに関して、僕は見えないようにため息を吐き出した。

 

女は僕の部屋で所在なく、隅の方に立っていた。とりあえずベッドにでも座ってくれ、と伝えて、お腹は空いてないかを聞こうとしたら、とてもいい感じの音がなった。顔を少し赤くした女は、ごめんなさい、と言った。
「そのまま座っててよ」

僕は手早く米を一合と半分ほど洗って炊飯器に叩き込み、ニンジンとタマネギを切って、その間にフライパンに油を入れてニンニクを炒めた。キツネ色に変わったニンニクを避けて、今度はニンジンとタマネギを炒める。十分に火が通ったのを確認したあと、牛肉を投下する。
「ねえ、名前は」

ぼんやりとしていた女は、えっ、と言って僕の方を見て答えた。
「アイシャ…」
「そう、僕はアキラ。歳は?見た感じ僕とあんまり変わらないかなって思ったんだけど」
「……17」

僕は鍋に水を入れて、そこに炒めた具材を流し込む。
「へえ、若いね。言いたくなかったら別にいいんだけど、どうしたの?家出?」

返事がない。振り向くと、アイシャは顔を手で覆っていた。
「ごめんね、大丈夫?」
「あ、いや、こちらこそ……」

彼女はため息をついた。僕も同じ気持ちだった。そのまま二人で黙る。鉄骨のむき出しになった部屋には、沸騰する鍋の音だけが響いた。
「とりあえず、これあと20分くらいかかるし、シャワー浴びてきたら?」

適当な服とタオルを渡す。彼女は、すいません、と言ってふらふらと立ち上がった。

煮え立つ鍋の中を覗きながら、浴槽を叩くお湯の音を聴く。しかし。どうしてこんなことになったのか。僕は煙草に火をつけてこめかみを揉む。

17歳の今日初めて話した外国人の女の子を部屋に泊まらせて。しかもその子がどうも訳ありで。どう考えても厄介ごとの臭いしかしないのに、どうしたって僕はこんなことをしているのか。
「困ったことがあったら、助け合うのが人間やろ」

もうどこにもいない彼の真似をして僕も呟く。ユニットバスの扉が開く音がして、すぐに閉まる。タオルでも取ったんだろう。僕は鍋へ、そっと固形ルーを滑り込ませた。

 

二人でカレーを食べて、それからお皿を洗おうとしたら、2杯食べたアイシャが洗うと言い張ったので、彼女に任せて僕はその間に入浴をした。アイシャ。17歳。訳あり。お湯を頭から浴びながらゆっくりと考える。三年前のことと、今のことを。全身を洗い終える頃には気持ちが固まっていた。

ジャージに着替えて浴室の換気扇を回す。安物の花瓶に入れたポインセチアの花束は枯れずに満開のままだった。職場のプレゼント交換で僕が手にしたものだけれど、まさかポインセチアもこんな辛気臭い奴のところに渡されると思ってなかっただろうし、まさか僕もこんな忌々しいものが自分のところに来るだなんて思ってなかった。だけど、お互い様、ということで、枯れるまでは甲斐甲斐しく世話を焼いてやろうとは考えている。
「寝よう、僕、明日も仕事だし」

ぼんやりと体操座りをしていたアイシャに声をかける。ベッドを指差し、僕はソファに横になった。
「でもその前に、話を聞いてくれないかな」
「話、ですか?」

壁にぴたっと身体を寄せて、毛布にくるまったまま膝を抱えて座るアイシャは首を傾げた。
「うん。僕、今日、君を泊めるわけだし。その宿泊費代わりに」

ああ、別に説教するとかじゃないから。そう付け加えると彼女は、はあ、と返事をした。
「僕はね、17歳の時にこの街に来たんだ。君と同じ歳の時にね。親が事業やってたんだけど、こかしちゃってね。で、学校も辞めないといけなくなって、気付いたらここにたどり着いて」

アイシャの方を見るのも照れくさくて、視線を部屋の隅に、必然的に非常扉の方に向ける。内側から施錠した戸は沈黙したまま話を聞いてるんだか聞いてないんだかわからない。
「夏のことだった。日差しの照り返しがひどい日で、僕は彼に出会ったんだ。三田さんっていうおじいちゃんで、彼もこの街の住人だったんだ」

煙草に火をつける。一吸いして煙を吐き出す。そのまましばらく何も言わないで吸い続けた。
「三田さんは、僕の恩人で、親友で、救いの神だった」

アイシャが僕をじっと見つめているのを感じる。居た堪れなくて立ち上がり、火を消して、シンクで歯を磨く。その間二人とも無言だった。
「彼には色んなことを教わったんだ。この街でどうやって生きていけばいいか。この先の人生をどうしたら良いものにすることができるか。そして、なにを生きていく上で大切にしないといけないのか」

全てを言葉にすることは出来なかった。こみ上げるものを押し込んで、そっと目を閉じる。網膜に彼との日々が過ぎていく。
「彼に言われたんだ。思いやりの気持ちを忘れるなって。困ったことがあったら助け合うのが人間だって。自分が受けた恩は誰かに返さないとダメだって。アイシャ、君は、僕からみると、すごく困っているように見えた。正直厄介事の匂いしかしないから迷ったんだけど、僕が手を出さないとダメだって思ったんだ」

僕自身、どうしてそうしたのかまるでわからなかった。けれど、彼ならそうしただろうし、彼はきっと僕をそんな風に見たんだろうな、というのが感想だった。話はそれだけ、じゃあおやすみ。そう言って僕は部屋の明かりを消して、硬いソファへ横になった。
「……私、追われてるんです」

唐突にアイシャが言った。それは誰かに聞かせるというよりもむしろ、呟くように、そっと静かに。身体を動かさず、僕は少女の方を見る。月明かりに照らされていたその姿は毅然としていた。
「追われてるの?」
「梅田の方に、マンションがあって。そこにいて。そこには私みたいな子が何人もいて。ヤンキーみたいな男たちが見張ってて」
「うん」

アイシャは黙って下を、床の一点を見つめている。
「マンションにいく前は?」
「その前は、お父さんと生活してて」
「その前は?」
「その前は……」

少女は深呼吸した。その音が聞こえてきた。テーブルを挟んで、手を伸ばせば届く距離。
「戦争があって。私とお父さんは、イラン人のパスポートで日本に来たんです。八年前に。難民じゃなくて、移民として」

彼女はバックパックからパスポートを見せてくれた。
「うん。それで?」
「お父さんはトルコ料理屋さんで働いてました。私も小学校に行って。中学生の時にお父さんはお店を出しました。最初は上手くいってたんです、でも」

目の前のアイシャは、もう謎めいた秘密を抱えた女じゃなく、震える一人の少女だった。
「病気しちゃって。お店も駄目になって。そしたらお父さんに金貸したって人が来て。私とお父さんは別々に連れて行かれて。それからは梅田のマンションに……」
「もういいよ、言わないで。分かったから」

アイシャは泣いていた。そっと。声を立てないように。
「ごめんなさい」
「気にしないで」

落ち着くまで待ってから、僕は訊ねた。
「ここを出て行って、どうするの?」
「……アメリカに。明日の飛行機で。英語話せるし、向こうに従姉がいて、連絡ついたから」
「お金はどうしたの?」
「……マンションから盗んだのと、お客さんからこっそりお小遣い貰ってて」

僕は聞こえないようにそっとため息をついた。理解が追いつかない。
「分かった。もう寝なさい。明日の朝、タクシーで空港まで行こう」
「でも、お金が…」
「僕がなんとかする。君はとりあえず、今日だけはゆっくり寝て。変なこと聞いてごめんね。誰か来ても、シラ切り通すし」

はい、というと、アイシャはそのままおとなしく布団を被った。おやすみなさい、という声が聴こえてきて、それからすぐに彼女は寝息を立て始めた。

マンションにいた、未成年の不法入国外国人。そこでどんなことをさせられていたかは想像するのに難しくない。何年も前に、渋谷でもそういう似たような事件があった。きっと知らないだけでそういう話はどこにでも転がっているんだろう。

しかし。とんだクリスマスプレゼントだな。不寝番をしないといけないじゃないか。僕は天井のシミを見つめながら、クリスマスイブの夜が明けるのを待った。

 

4

「アキラ」
「なに」
「もうすぐクリスマスやし、なんかプレゼント交換せんか」

僕は、はあ?と間の抜けた返事をした。
「おっさん、サンタなんだから交換とかせずにパッとプレゼントくれたらいいじゃん」

誰がサンタクロースやアホ。そう言ってサンタのおっさんはタバコの煙をぶわーっと吐き出した。
「ええやんけ。面白いやん」

まあ、いいけど。僕もなんとなく、確かに面倒ではあるけど、なんだか面白いかもしれないな、なんて考えたりした。
「なんでクリスマスにプレゼント贈り合うか、わかるか、アキラ」
「わからない」
「それは愛やねん。親愛や。あと、相手のことを思ってすることに意味がある」

17歳の僕はなるほど、と素直に思った。

 

次の日から僕は色々考えていた。おっさんに紹介してもらったNPO法人での仕事はまだ不慣れどころか見習い同然で、先輩の後ろをついて色々勉強していた。その合間合間にどうするか知恵を絞っていた。準備のための時間は一週間しかなくて、クリスマスイブの夜に僕らはプレゼントを交換する約束をしていた。時間はすぐに過ぎていった。悩みに悩んだ僕は、花束を花屋で買った。赤、白、ピンクの、ポインセチアの花束だった。

履き潰しかけのティンバーで夜のアスファルトを蹴り歩く。吐く息が白い。花束をジャケットで見えないように後ろに隠して。ニヤニヤしながら。おっさんはいつもと同じ路上にいた。今日は立っていた。
「おう、アキラ。メリークリスマス」

おっさんは紙袋を差し出してきた。それを受け取り、僕もプレゼントを渡した。
「……メリークリスマス」

なんや、花束かい。ポインセチアの。そう言っておっさんは笑うと、ウッ、と言って膝から路上に崩れ落ちた。

 

それからはあっという間に時間が過ぎていった。買ったばかりの携帯で電話をして、朝までそこでぼんやりとしてたら、他の路上生活者のおっさんに家に帰るように言われて、契約したばかりの部屋に戻って、そこで寝たり起きたりの中間の状態になって、お腹が空いて仕方なく外に出たら、僕の目の前に車が停まった。真っ白の高級車から、いつもおっさんに会いに来てた初老の白髪の男が出てきて、僕に今すぐ入浴して服を着替えてこいと命じてきた。どこで買ったのか、スーツを手渡してきた。僕は指示におとなしく従って、おっさんから貰った紙袋の中の紅白の靴下を履いて、それからちょっとして、強襲してきた男と高級車の後部座席に座っていた。車の中で、運転手も助手席に座る男も、隣に座る男も、僕も、みんな無言だった。途中で白髪の男がネクタイを締めてくれた。

着いたのは葬儀場だった。そこはとても大きくて、沢山の人がいた。スーツをビシッと着た中高年の怖い顔をした男たちが何かを囁きあいながら僕の方を見ていた。白髪の男に連れられて僕は焼香をした。サンタのおっさんはお棺の中で横になっていて、色んなものも一緒に入れられていた。僕が渡したポインセチアの花束もあった。

おっさんの葬儀は粛々と終わって、僕は白い高級車に乗せられてどこか知らない家に連れて行かれた。とても大きな家だった。そこの一室で待っているように言われて、しばらくしたら目を真っ赤にした白髪の男が来て、同じくらいに料理が出てきた。白髪の男の名前は、姜といった。

それから色々話をしたけれど僕は何ひとつ聞いてはいなかった。何があったのか。なんで自分はここにいるのか。そればかりを考えていた。
「……顔を上げてください」

僕はぼんやりとした頭のまま、姜を見た。それから彼は、サンタのおっさんの話をしだした。だからだろう、僕はだから、そのことを憶えているのだろう。
「親父は、心筋梗塞でした。元々血圧なんかが問題のある人でね」

姜の目は赤かった。僕が目を合わせようとすると目を逸らしてきた。
「会いに行ってもいつも、親父は君の話をしていました。元々義侠心の塊みたいな男です、何か惹かれるものがあったんでしょう。自分の生まれた街で、かつての自分のように路上で生きてた少年が……」

失礼。そう言って、顔を背けて姜は鼻をかんだ。
「親父は変わり者でね。最後くらいは自分の故郷で昔みたいに生活したいって言って、組織から抜けて。でも、みんな親父のことが大好きで、慕っていた」

姜が僕を見た。今度はしっかりと目を見つめてきた。
「病室で、親父は一度、意識が戻ったんですよ。そこで、切れ切れではあったんですが、少し話をしました」

場面が変わって、僕はまた高級車に乗せられて家に帰されることになった。その去り際、姜は南国の海みたいな色の青い名刺と、ピンクのポインセチアを一輪手渡してきた。三田興行代表取締役社長、姜白水。細い黒のインクで、恐らくこの家と思える住所が書き足されていた。
「何か困ったことがあったら、この家に、この名刺を持ってから、来なさい。これは親父からの言いつけです。出来る限りのことは損得なしにやらせてもらいます」

約束です。姜はそう言って僕の手を力強く握った。その眼と言葉に嘘は一切ないようだった。

 

少し眠ってしまったようだった。よりにもよって昔の夢を見るなんて。感慨に耽る暇もなく、携帯で時間を見る。朝の六時。
「アイシャ、朝だよ。起きて」

あ、はい、といって布団が捲られる。どうやら起きていたようだ。
「ちょっと聞きたいんだけど、君を追いかけてるのはヤクザ?」
「違うと思います。チンピラかなって……」
「そっか。なら、考えが……」

そこで僕は言葉を止めた。アイシャが首を傾げる。扉の向こう、共用廊下から話し声が聞こえてきた気がした。唇に指を立てて声を出さないように言いつけて、僕は足音を立てないようにして、そっと覗き穴から外の様子を伺う。二人組のコートを着た男たちがいた。何かをそっと話し合っている。そこまで若くはないが、チンピラにしか見えなかった。片方は手にバールを持っていた。
僕はアイシャの元に戻り、彼女に小声で話しかける。
「落ち着いて聞いて。追っ手がたぶん来てる」

アイシャは息を呑んだ。薄緑の瞳が小さくなる。
「大丈夫だから。落ち着いて、静かに、服を着替えて、部屋を出る準備をして」

僕は銀行の預金通帳や印鑑なんかを入れてる小袋を箪笥からそっと取り出し、その中のケースに入れた名刺を引っ張ってきて、薄いブルーのその紙の裏側に、二海堂旭、とボールペンで自分の名前を書き付け、花瓶の花束を掻き毟り、ピンクのポインセチアを一輪手に取った。着替え終わり、バックパックを背負ったアイシャに手渡した。
「いい?タクシーに乗って、この住所にある家へ行くんだ。ニカイドウアキラからの頼みでここに来たって。それから姜さんって男の人に、事情を話して。そうしたら彼がなんとかしてくれるはずだから」
「ええ、でも、飛行機……」
「君のパスポートは、期限が切れてる」

あっ、とアイシャは呟いて、目をパチパチさせた。
「外のチンピラは、僕がなんとかして時間を稼ぐから。君はこの非常扉から階段を伝ってまっすぐ走って、大通りに出たら、地下鉄の駅を目指して、途中でタクシーが来たら拾うんだ。わかった?」

福沢諭吉を一枚財布から抜き取って渡す。
「あの、どうして、そこまで……」
「さあ、どうしてだろうね。僕にもわからないや」

非常扉を音を立てないように開ける。朝の冷たい空気が入り込んできた。
「ムスリムかもしれないけど、メリークリスマス」

ありがとうございます。そう言ってアイシャは僕の脇を抜けてそっと階段を降りていく。電線にカラスが二羽とまっているのが見えた。その下をアイシャが通り抜ける。扉を閉め、窓から路地裏を一直線に彼女が走っていくと同時にカラスが鳴きながら飛んでいき、そこに新しいカラスが現れた。次第に遠くなる少女の姿を見つめていたらインターホンが鳴った。

さあ、一世一代の大演技だ。とりあえず一度目を無視する。今から僕は寝起きの若い男のフリをして、不機嫌に、でも刺激しないようにして、シラを切る。二度目が鳴る。扉が叩かれる。半殺しで済む程度ならありがたいが。相手が、アウトローの親玉と懇意だと知っていたらいいんだけれど。三回目が鳴った。金属音が響く。気の抜けた返事をして、いかにも寝起き、という顔を作る。全く、とんだクリスマステロルだよ。僕は、そっと玄関のロックを外し、ゆっくりと扉を開けた。

2016年12月19日公開

作品集『植物奇譚』最新話 (全3話)

© 2016 望月鬼灯

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